41 2016年5月1日のこと
僕らが身支度を整えたのを見計らったかのように、午前七時過ぎ、志歩理から電話がかかって来た。
隣の志歩理の部屋に二人で来て欲しいとの事。
何だろう?と思って向かう。
ゆうべとは打って変わって満面の笑みを湛えた志歩理に迎えられ、これはこれで少し恐怖を感じた。
「ゆうべはよく眠れた?」
「え?うん。志歩理は?」
「元啓に訊いてない。美和ちゃんはどう?」
「はい。よく眠れました。」
僕と同じ答えの美和に、志歩理は少し困ったように笑い、
「あら、訊き方を間違えたわ。美和ちゃん、しあわせ?」と、美和の左手の薬指を見ながら言った。
それに気付いた美和は、胸の前で左手を右手で包みながら
「はい。一生分の運を使い果たしてしまったかもしれないって思う位、しあわせです。」と答えた。
今になって、僕の耳も熱くなる。
改めて、美和に『しあわせです』と言われる事が、こんなにも嬉しいとは。
「あら、そう。聞いてた?元啓。良かったわね。いい伴侶が見つかって。」
いつも通り、にやけた笑みを浮かべて、嬉しそうな志歩理。悪意は無いから性質が悪い。
「もうその位でやめろよ、志歩理。」
「あーらら、真っ赤。見て見て美和ちゃん、元啓の耳、すっごく赤い。」
「しつこいと本当に怒るぞ、志歩理。」
「元。」
「あらら怖い。いいじゃないの。二人が結ばれたのは私の協力あってこそでしょう?」
志歩理の協力というか、まあきっかけにはなったけれど、どちらかと言えば泰道の方がプロポーズの協力をしてくれたような……
「お待たせしました。朝食です。」
テーブルセットのある部屋から現れた泰道は、あちらへどうぞと手で促した。
一度志歩理を振り返ると、「この方が落ち着いて話が出来るでしょう?」と頷いた。
四人で狭いテーブルを囲むと、何だか本当の家族のようだった。
二人は夫婦、二人はまだ他人。
だけど僕らの縁は、ずっと続いてしまう気がして居る。
不思議なものだと思う。
志歩理が離婚し、僕と会社を興したいと言い、その会社で泰道と出逢って結ばれ、その結婚式で僕に一目惚れしたと言う美和と僕がまさかこうなるとは、誰にも分からなかった。
その道を自分で選んで居るようで、だけどどこかで運命に導かれても居るようで、それを縁と言うのなら、やはり縁とは不思議なものとしか思えない。
色々な縁がある。
一人一人違う。
この縁をずっと大切にしたいと願う人も居れば、一旦結んだ縁を切りたいと願う人も居るだろう。
縁とは目に見えない、例えば小指に赤い糸が繋がって居るとして、その先は運命の相手と結ばれて居ると聞いた事がある。
僕の運命の赤い糸はわーさんと結ばれて居る筈だった。今もそうであって欲しいと思う。
しかし、美和は僕の運命の相手はもっと沢山、他にも居るのだと言った。
例えば美和の言うように、沢山の運命の相手、仮に100人くらいが存在して、だけどお互いを見つけられるのは本当に少ない確率で、出逢えなければ縁も結べない。
だけど、出逢っただけでも駄目で、美和のようにある日突然、山奥の一軒家を訪ねて来るくらいの事をしなければ、僕らの縁を結ぶ事は出来なかっただろう。
改めて、美和はすごいなと思って、その横顔を見て居ると、
「何?口に何か付いてる?」と唇の端を指で拭いつつ、僕に訊いた。
「いや、逞しいなと思って。」
「逞しい?」
「そう。僕の世界を動かすくらいの力を持ってる。」柄にもない事を言ったなと思う。今朝の僕の口は何故か緩い。
つい笑ってしまうし、つい思った事を口にしてしまう。
すると志歩理も僕につられたように笑い出し、
「いいわね、二人。羨ましいわ。」と溜め息を吐く。
そんな風に言ったら、志歩理に尽くし続けて居る泰道が可哀相だと、ちらと見る。
泰道はまるで気にして居ないようで、朝食もそこそこに席を立って、みんなの為にとティーポットから並べた人数分のカップに紅茶を注いで居た。
僕は溜め息を吐き返し、
「志歩理の方こそ羨ましいよ。素敵な旦那さまが居て。」と健気な泰道をフォローしたくて言った。
「元啓、あなたまさか……」
「元?」
志歩理と美和は僕の顔をじっと見た後、二人で顔を見合わせた。
「え?何?」
「いくら素敵だからって、泰道を変な目で見ないで!ヤスは私のものよ!」
「変な目って……」あれ?フォローの仕方を間違えて居たかな?
「元、まさかそうなの?」美和は僕に恐る恐る訊いた。
「"まさかそう"って何が?」
「だから、ヤスに惚れたのかって事!」痺れを切らした志歩理が声を張り上げ、ようやく僕らの会話が耳に入ったらしい泰道が顔を上げた。
「え?志歩理、今何て?」
泰道は、ドキドキして居ると言わんばかりに、手で胸を押さえて訊いた。
「だから、元啓がヤスの事好きになっちゃったみたいって言ったの!」
「志歩理……」
泰道は僕の事は気にせず、志歩理の顔を見つめた。
「何よ、その顔。ヤス、嬉しいの?」
「ああ、嬉しいよ。すごく嬉しい。この日を待ってた。」
「え?」
嘘でしょ?と志歩理も僕も、そして美和も驚いた。
泰道が僕に好きと言われて嬉しいとはどういう事だ?
僕の言った言葉を、志歩理が間違って捉えた事にようやく気付いたが、もう遅い。
僕が泰道を好きだなんて、泰道に変な誤解を与えてしまった。どうしよう。
過去ゲイだった、いや今もと言うべきなのか、しかし僕には美和という婚約者が出来たばかりで……違うと言いたい。
「嬉しいって何よ!そんなに元啓が好きなら、一緒に暮らせば?」
「は?何?俺が好きなのは志歩理だけだよ。一緒に暮らしたいのも志歩理だけ。」
頬を赤らめた志歩理は、戸惑いながらも泰道に言い返した。
「えっ?そ、そんな事、今訊いてないわ。ヤス、今さっき元啓に好きって言われて嬉しいって言ったでしょう?」
「木村さん、そんな事言ってませんよね?」
僕を振り返った泰道に、うんうんと頷いた。
すると美和が「そうです。元は"素敵な旦那さまが居て羨ましい"と言っただけで……」と僕のフォローをしてくれた。
美和に誤解されなくて良かったと胸を撫で下ろした僕に、志歩理は「元啓は紛らわしいのよ!」と顔を真っ赤にして言った。
ああ、恥ずかしそうだなと分かった僕は、
「ごめんごめん。」と謝った。
「……私こそ、ごめんなさい。もうあなたは違うのにね。」
志歩理がぽつりと吐き出した言葉が、僕が"もうゲイではない"という意味に聞こえて、つまりそれは、僕がわーさんとの過去を忘れて、美和とこれからを生きようとして居ると見られて居るようで、それも何だか寂しかった。
僕は美和と生きるのに、周囲にゲイであった事を忘れなければ、隠さなければならないのだろうか。
45年間ずっと女性しか愛せない男だった振りをして、これからを生きるのは、僕にとって楽な事だろう。
けれど、それをしたら、僕を想ったまま亡くなったわーさんを裏切る事になる。わーさんとの想い出を消してしまう事になる。
僕はずっとゲイだった。美和を愛した今も、わーさんを愛し続けて居るなら僕はまだゲイとも言える。
「お茶、淹れ直しますね。」気を遣う泰道の横で、僕は志歩理を真っ直ぐ見つめ、
「僕はまだゲイだよ。勿論美和の事も愛してる。」と告げた。
志歩理は一瞬目を瞠った後、ふっと頬を緩めて言った。
「あなたそれは"ゲイ"じゃなくて"バイ"と言うのよ。でしょ?美和ちゃんは女性だもの。」
志歩理と顔を見合わせた美和も「そうですね。」と言い、ふふふと笑った。
「それより、泰、虎越さんの嬉しい事って何ですか?」
話題を変えたいのもあったけれど、第一に泰道の"嬉しい"事を知りたかった。
「それは……」今更、という風に言い淀む泰道を、今度は志歩理がせっついた。
「そうよ、嬉しいって何よ!勿体ぶらないで!」
「志歩理が"ヤス"って呼んだ事だよ。最近全然呼んでくれなかったから。」
「あら、そんな事無いじゃない。呼んでるわよ?私。"ヤス"って。」
「うん。何か命令する時にはね。それ以外で。」
「それ以外で?何、それ。」
志歩理は口をへの字にして、不満を表した。
美和は泰道を援護するかのように
「それ、少し分かります。名前の呼び方って大事ですよね。」と言った。
「そうかしら?んー、それじゃあ、美和ちゃんはどうして"元啓"ではなく"元"と呼んで居るの?」
「あ、それは……」美和は俯き、上目遣いに僕の表情を窺った。
ふうと鼻で息を吐いた僕は「わーさんがそう呼んでたから。」と志歩理に明かした。
「だからどうして?わーさんが呼んでたからって同じ呼び方にしなくても良かったんじゃないの?」
その通りだ。どうして僕が美和からも"元"と呼ばれるようになったかと言うと、
昨年の夏、美和があの家に住み着いて半月も経たない内に、呼び名を決めようと言い出した。
僕は嫌だったが、美和に懇願され、そこまで言うならと"元"になった。
『わーさんと同じ呼び方がいい。お願い!』
まあ、"木村さん"も"元啓さん"も何だか違うと思ったから、『じゃあそれで』と今に至る。
確かに、呼び名というか、名前を呼ぶ時の気持ちは大事なのかもしれない。
初めて呼んだ『美和』より、
今の『美和』と呼ぶ方が、より一層親しみが籠もって居る。
単なる呼び名に過ぎなかった名前が今は、大切な人に気付いて貰う為の愛の言葉になって居る。
「元は、やっぱり元って呼ぶのが一番似合ってます。ね?元?」
そうやって、僕の名を呼ぶ所もわーさんと同じだ。
誰にでも呼べる訳じゃない。そして気付くものじゃない。
「美和。」
「なあに?」
「何でもない。」
呼びたかっただけ。名前を呼んで、僕が君を愛しいと思って居る事を確認したかっただけ。
美和は、ふふっと笑った。僕の想いに気付いたのかもしれない。
泰道が喜んだのも分かる気がする。
人は、誰かに愛されて居る、忘れず気に掛けて貰って居ると分かるだけで嬉しい気持ちになるから。
ただ名前を呼ぶだけ。愛を籠めて。
それだけでも、人はしあわせになれる。
泰道と志歩理に教えて貰った。僕らも二人のような夫婦になれたらいい。
同じ呼び名────だけど僕と美和、僕とわーさんとはまた違う愛を作って行くだろう。
呼ぶ度に深まる愛は絆に変わり、日を追う毎に穏やかになるそれは、強く太くなって、切っても切れないものになるのだろう。
共に年老いて、愛を語らなくなる頃には多分、僕と美和の間には、愛よりもっと先に進んだ何かで繋がれて居る。
だから、志歩理と泰道の事は心配しなくても平気だ。僕らより先を歩いて居る二人には、僕らの今感じて居る愛はもうとっくに知って居て、この先の二人の答えは、二人にしか出せないものだから、僕らがしてあげられる事は何も無い。
それがいい事なんだ。
二人の仲をどうにかしてあげたいと考えるのは間違って居たんだ。
例えば離婚の危機に直面してしまったとしても、二人で出す答えなら、何でも正しい。
僕と美和もそうなんだろう。周囲に言われて決めた答えが、僕らの正解にはならない。
二人で決めて行くんだ。世界中に反対されても、僕らの事は僕らで決めなくてはならない。
後悔するなら、二人でしよう。
たとえ憎み合う日が訪れても、二人で同じ方を向いて居るならまだ救われる筈だ。
しかし、そんな日が訪れない事を願いつつ……「元、どうしたの?ぼんやりして。」
「ああ、うん。何でもない。」
「美和ちゃん、お茶、もういいかしら?元啓も。」
「はい、私はもう。ごちそうさまでした。」
「僕ももう……お手洗い借りるね。」
席を立ち、戻った時にはもう、テーブルの上は綺麗に片付けられて居た。
代わりに美和の前に広げられた書類がある。何だろうと思いながら椅子に腰掛けた。
すると、待って居たと言わんばかりに、志歩理が「はい、これ記入して。」と志歩理が僕にボールペンを差し出した。
反射的に受け取って、書類に視線を落とすと、
「え?」と僕は思わず声を上げた。
【証人】及び【妻になる人】記入済みの婚姻届だった。
「いきなり何?」とボールペンを持つ僕の手は固まったまま。
「いきなりって、元啓こそ何よ。そんな大きな声出して。ほら、驚いてないでさっさと書いて。」
「いや、驚くだろ、普通。」
「早く書きなさいよ。」
「そんな事言ったって、まだ美和のご両親にご挨拶にも行ってないし……」
「ご挨拶に行って、もしも反対されたら、結婚しないつもり?」
「え?あ、いや……」僕は隣に座る美和の顔をちらと見た。
美和も僕を見て、その表情は少し困ったような、複雑な表情を浮かべて居る。
美和のご家族に反対されると思って居た。僕だけではなく、おそらく美和も。
だけど志歩理に言われて気付く。反対されたって僕は美和と結婚したいと思って居ると。
もし仮に反対されたとして、そうしたら入籍を諦めて事実婚のままで行くのか……いや、それは嫌だ。
わーさんとは望んでも成し得なかった""結婚"が美和となら出来るんだ。諦められる訳がない。
僕は婚姻届に向かい、名前を記入した。
【夫になる人】木村元啓─────ああ、僕の名前はこの欄に納める為にもあったんだと思った。
わーさんと結婚出来なかったのは、この運命があったからこそなのか、とも。
記入を終えた僕は、顔を上げて隣で黙って居る美和を見た。
さっきよりは少し頬を緩め、その目は潤んで居るようにも見えた。
「これでいい?」と僕は婚姻届を持ち上げ、誰にでもなく言うと、志歩理が僕の手から記入済の婚姻届を取って眺めた。
「あとは捺印して提出ね。式場は都内で良ければ空きが出て、押さえてあるけど。」
「えっ?!」僕と美和が同時に叫んだ。
「な、な、何?式場って?」僕の聞き間違いだよね?
「結婚式場。6月で少し先なんだけどね、キャンセルが出て困ってるんですって。取引先の社長さんから聞いたの。人助けにもなるし、いい話でしょう?」
「キャンセルって……けど、都内の式場ならすぐ埋まるよ。」
人気の式場は空くのを待って居る人が居ると聞いた。
「そうだけど、後ひと月ちょっとだから、難しいみたい。招待客に連絡とか大変でしょう?」
「まあ……でも、それくらいの事は、結婚が決まって居る人なら特に問題はないんじゃないかな。」
「あら、あなたもそう思う?良かったわ。決まりね。準備は手伝うから、そこの式場で挙げなさいよ。」
「ちょ、ちょっと待って。僕らはまだ式を挙げるとは……」
本来、挙式と披露宴は別物だが、ここで志歩理の言う"式"とは"披露宴"も合わせたものだろう。
「挙式はするでしょう?ついでに披露宴するだけよ。」
やっぱり。
「ついでにって、何それ。他人事だからって酷いよ。」
「そうは言っても、この窮地を救ってあげられるのは元啓と美和ちゃんしか居ないと思うのよ。」
「窮地?」
「キャンセルされた披露宴、招待客200人規模のものだったのよ。」
「200人?!」
僕と美和と泰道の声まで揃った事に、また驚いた。
「それって……かなり人数多いよね。」
新郎新婦の親族、招待客を合わせて200人とは、一般家庭からしたら大規模な結婚式と言える。
「そう?だったら150人くらいまで減らしてもいいそうよ?」
「いや、それでも多いよ。」
僕の方の親戚を呼んでも20人前後、呼べる友人は10人にも満たない。そしてその全員が出席してくれるとも限らない。
美和の親戚、友人を沢山呼ぶと言っても、100人にはならないと思う。
二人合わせても150人を呼ぶなんて難しい。
「多いかしら?」
「志歩理の時は社員や会社関係者を呼んだから足りないくらいだっただろうけれど、僕らが式、披露宴をするとしたら、それ程多くは無いから。それに、式は都内じゃなくてこっちで挙げると思うから。」
"都内じゃなくて"は、半分は口実、だけど半分は、美和の地元がこっちだからその方がいいかなと思った。
僕の方は家族を呼ぶくらいだから、招待客は美和の方が多いだろう。
結婚式、披露宴は女性の為のもの……と言う訳では無いが、男性よりは女性の方が式に対する思い入れは強いと僕は思う。
特に45年もゲイをしていた僕からしたら、女性と結婚とか結婚式とか、考えた事が無かったから。
わーさんと入籍出来たらいいのにな、とは思って居ても、式などを挙げたいとは考えなかった。
二人共タキシード?男二人だから、どちらかがウエディングドレスを着るなんて考えられない。
わーさんのタキシード姿は見てみたかったけれど、多分嫌がっただろうな。
仕事でスーツを着るのも嫌がって居た程だから。
『俺程スーツの似合わない人間も居ないだろ?』なんて言ってた。
『元はスーツが似合っていいな。元のスーツ姿は365日見てても飽きない』なんて変な事も言ってたな。
じゃあ、僕が結婚式でタキシードを着たら、わーさんは喜んでくれるかな。
それで美和に嫉妬して出て来てくれるかな。
『しあわせになれよ』
少しは妬いてくれてもいいんだよ?
「元啓、どうしたの?にやけて。あー、分かった。美和ちゃんのドレス姿想像してたんでしょう?」
違うとは言えなくて、
「そう。」と誤魔化した。
ちらと美和を見ると、美和も僕を見て恥ずかしそうに笑った。
ああ、僕はこの人と結婚するんだなあと思った。
うん、これで良かったな、とも思った。
「ヤス、私の電話持って来て。」
「はい。」
"ヤス"と呼ばれて、顎で使われる泰道は、嬉しそうに志歩理のスマートフォンを持って来た。
夫婦と言うより奥様と執事、或いは女王様と奴隷、大魔王と下僕?
いや、飼い主と犬……ニコニコ笑顔の泰道に尻尾が見えて来そうだ。
酷い扱いだが、泰道が喜んで居るのならいいのだろう。
ははは……夫婦と言うのは奥が深い。
「ええと、Hホテルの支配人はと……あった!」
えっ?
もしや志歩理は────と思った僕は、志歩理のスマートフォンを取り上げた。
「ちょっと、何するのよ、元啓!」
『もしもし?志歩理社長?』
スマートフォンの画面を見ると、【通話中】になって居る。
しまった、と思った僕は、仕事の時の冷静な声で「申し訳ございません。間違えました。失礼致します。」と電話を切った。
「あー、何するのよー!」志歩理は拗ねた声を出し、「電話返して!」と広げた手のひらを突き出した。
「何するのはこっちの台詞。志歩理、今、式場の予約しようとしただろ?」
「そーよ?善は急げでしょ?」
「急がないし、都内では挙げないって言っただろ?」
僕がこんな生意気な口の利き方出来るのは志歩理にだけだな、なんて思った。
両親にも家族にも男友達にも、まあ唯一、妹には出来そうだけど。
「生意気!」思って居た事を志歩理に言われてビクリとした。
「そっちこそ、いきなりやって来て大規模な結婚式しろだなんて、酷いじゃないか。」
「何よ!私は元啓と美和ちゃんの為を思って言ってるのよ?大規模って言うけどね、いいじゃない、地味にやるよりは。」
「それは志歩理の場合だろ。僕らは会社との付き合いもないし、家族や友人を呼んでこじんまりとやりたいと思ってる。」
「美和ちゃんの意見は聞いたの?」
僕は美和を振り返る。美和だって同じ意見だろう。
「うーん、と……」顎に手を当て、意外にも美和は悩んで居る様子。
「美和?美和は派手に式を挙げたいの?」
「ううん……そうじゃないけれど……」
さっきとは打って変わって、表情を曇らせた美和。
「何か嫌だったりする?」
まさか、これが噂の"マリッジブルー"というものか?
「美和ちゃん、都内で大規模なお式は嫌?こちらでお身内だけのお式がいいの?」
さすがに志歩理も心配になったのか、さっきまでの勢いを失くして訊いた。
「どちらも……無理かもしれません。」
「無理って、何故────」
すでに僕との結婚が嫌になってしまったとか?
「美和ちゃん、どうしたの?思って居る事があるなら話して。」
「志歩理が結婚式の話を進めようとするから嫌だったとか……」泰道まで気を遣い始めた。
「何よ、ヤス!私だけが強引に話を進めてるみたいな言い方しないでよ!」
「いや、だってそうでしょう?結婚式は木村さんと美和ちゃんが決める事で、俺達が口を挟む事じゃ────」
「違うんです!」美和が大きな声を出した。胸の前に握った右手が少し震えて居た。だから僕は美和のその手を解いてしっかり握って言った。
「言い難いのかもしれないけど、ちゃんと聞くから。」
美和は黙って頷いた後、ゆっくり口を開いた。
「まだ、もう少し先だと思うんですけど、もしも結婚式を挙げるとしたら、多分、近くの神社で神前式と、私の実家で集まって披露宴になるのではないかと……」
僕はその様子を想像してみた。
白無垢姿の美和。綺麗だろう。
その隣に並ぶ僕の姿を想像出来ずに頭を振った。
「そうだったの。それで、美和ちゃんは一体何を心配して、沈んで居るのかしら?元啓が美和ちゃんのご両親に結婚のご挨拶に行って、反対されるかもって思って居るのね?」
言い終えると、志歩理は僕を鋭い目で見た。
しっかりしてよ、と言いたそうな目だ。
いや、まあ、しっかりするけれども、美和のご両親に結婚のお許しを貰えるかどうかは分からない。僕次第だと言いたいのだろうが、美和のご両親に気に入って貰える自信は無い。
「反対されても結婚します。だけどその時は、お式は出来ないと思います。」
「まあ、そうねぇ。その時は、申し訳ないけれど、東京で披露宴だけしたらいいんじゃない?」
「志歩理、それはレストランウエディングみたいなもの?」
「まあ、そうねぇ。両家揃わないんじゃ、大規模なお式は難しいわね。」
「あの、その時って、私達の服装ってどのような感じのものが良いですか?」
「そうねぇ。美和ちゃんはドレス、元啓はスーツかしらねぇ?紋付袴着る?」
冗談交えて笑う志歩理に対し、美和は真剣に訊き返した。
「タキシードは着られないですか?」
「タキシード?元啓が?別に着てもいいけれど……ああ、そうなのね。美和ちゃんは白無垢では無く、ウエディングドレスを着てみたいのね?」
「えっと、その……私はそういう願望というのはなかったのですけれど、志歩理さんの結婚式を見て、ドレス素敵だなって思いました。」
「元啓にも出逢えたし、って?」
「はい……」
恥ずかしそうに返事をした美和と視線が合うと、僕も恥ずかしくなった。
「そうよね、女の子なら一生に一度はウエディングドレス着たいものね。うんうん、着なさい着なさい。」
「そうは言うけど志歩理、着るってどこで?」
「どこでだっていいじゃない。」
「フォトウエディングってのもありますしね。」泰道が言った。
婚礼衣装を着て、写真だけ撮るというものか。悪くは無い。
「そんなの駄目よ。お式はしないと!」
「そうですよね。元のご両親に元の晴れ姿見て頂かないと。」
僕の晴れ姿だって?そんなの別に見たいとは思って居ないだろう。
可笑しくなって吹き出すと、
「どうして笑うの?」と訊かれた。
「だって、僕の両親は僕のタキシードなんて見ても見なくてもいいんだよ。それより美和のドレス姿を見る方が喜ぶと思うな。」
僕には来ないと思って居た嫁が来てくれるだけで、両親は喜ぶだろう。
「僕はともかく、美和はドレスを着たらいい。」
「そんな!私は元の……っ!」美和は両手で口を覆った。
「僕の、何?」気になるじゃないか。
「ううん、何でもない。」
「隠すな。美和だって僕が黙って居る事があったら嫌だろう?」
「それは、うん……」
「何?言わないと分からないから。」
「えっと、私、元の写真が欲しいの!」
「僕の写真?え?何を言ってるの?美和。」
「何でもない!忘れて!」
美和は俯き、今度は顔全体を両手で覆った。
耳まで真っ赤。僕の写真が欲しいと言って、どうしてそこまで恥ずかしがる?
何の事か分からず首を傾げる僕に向かって、にやつく志歩理が口を開いた。
「元啓の可愛いお姫様は、オジサン王子様の写真が欲しいんですって。」
「オジサンオウジサマ、って何?」
「決まってるでしょ?タキシードを着た木村元啓よ。」
「キムラ……えっ?何?オジサンオウジサマって僕の事?」
「他に誰が居るのよ。あなた以外居ないじゃない。」
「オジサンなのにオウジって変な言葉。」
「そうねぇ……あっ!思い出した。あなたみたいな人を"イケオジ"って言うんですって。」
「いけおじ?」どういう意味だ?
イジけるオヤジ?
イケないオヤジ?
行け!おじさん?
とにかく良い意味ではなさそう。
「あなた外見だけはいいから。中身はともかく。」志歩理は相変わらず僕を弄る。
「そんな事ありません!元は最高の人です!とっても素敵なんです!」美和が志歩理に噛みついた。
驚いたのと同時に、嬉しかった。
美和は僕より志歩理の味方なんじゃないかとずっと思って居たから。
志歩理より僕を選んでくれたみたいで、それだけでもう、悪口なんてどうでもよくなった。
ああ、そうか。
"イケオジ"と言うのはつまり、
「イジられオヤジって意味なんだろ?志歩理。好きなだけ弄ればいいよ。」
僕が上機嫌で言うと、
「はぁ?何言ってんの?そんな訳ないでしょう?"イケオジ"知らないのね。無自覚な男ってほんと恐ろしいわよ。」
美和に反論された志歩理が悔し紛れに言った。
「じゃあ美和、知ってる?"イケオジ"って何?僕の事?」
頷いたけれど視線を合わせようとしない美和から、僕は泰道に視線を移した。
すると泰道は見兼ねたように口を開いた。
「"イケオジ"ってのは多分、"イケてるオジサン"って意味だと思います。」
"イケオジ"="イケてるオジサン"?
そうだったのか……何て事だ。泰道も知って居ただなんて。
「何でそんなに落ち込むの?イケてるって言われて。ああ、"オジサン"って言われたから?いつまでも若いつもりな訳ね。」
いやに毒を利かせる志歩理に、僕はもう抗う気は無かった。
「オジサンは否定しないよ。イケてない方だけど。」
「あー、ほら、そういう所ムカつくのよ、ほんと。もうね、盛大に結婚披露宴やって、タキシード着て王子様みたいになって、若い女の子達にキャーキャー言われてなさいよ。」
あー、これは、美和が僕の肩を持った事に気を悪くしたんだな。困ったものだ。
「王子様……だめ……」小さな声でブツブツ言って居た美和が顔を上げて僕を見た。
「私、結婚式はやっぱりしません。それでもいいですか?」
美和は向き合った僕の両腕を掴んで、いつもとは違う様子でそう訴えて来た。
「えっと……それは困る。」
「どうして?」
「僕が美和の晴れ姿をみんなに見せたいから。」
「えっ?!」
「その為なら僕は、タキシードでも紋付でも王子でも乞食でも何にでもなるから。」
「乞食ですって?」
志歩理が食いつき、高らかに笑った。
その様子に、張り詰めていた場の空気が和やかになった。
僕はホッとして、「まあ、実際乞食の貸衣装を見つけるのは大変だろうけれど。」と言うと、
「ごめんなさい。我が儘言って……だって、他の人にカッコいい元を見せるの怖いから……」と美和は涙ぐんだ。
それを見て、志歩理はまた僕をからかう。
「あー、元啓が泣かせたー。ほんと罪な男ねー。そうよね、美和ちゃんは、私の結婚式で見た元に一目惚れしちゃってここまでしたんだから、そりゃあ怖いわよねー。他の女が家に押し掛けて来たら。」
志歩理の言い方では、暗に美和の方が怖いと女だと言って居るように聞こえたが、まあ、もうこれ以上志歩理を刺激しないようにしよう。
「こんな時間だ。そろそろ行くよ。これ(婚姻届)ありがとう。」
僕がそう言って美和の肩を抱いて促すと、美和が志歩理と泰道に向かって深々とお辞儀した。
「志歩理さん、本当にありがとうございました。私が今ここに居られるのは、志歩理さんのおかげです。本当にこんなにしあわせにして貰って、とても感謝しています。ありがとうございました。」
すると志歩理は、ふっとやさしい笑みを浮かべた。
「良かったわね、美和ちゃん。でもこれからよ。しあわせになるのは。夫婦になったからと言って、それがあなたの目指して居たゴールではない事を忘れないでね。」
「はい、忘れません。私と元も、志歩理さんと泰道さんのような素敵な夫婦になれるよう頑張ります。」
「いやね、私とヤスは素敵な夫婦なんかじゃないわよ。目標にしないで。」
「色々ありがとう、志歩理。」急な訪問に引っ掻き回されたけれど、今回の事が無ければきっと、僕らの結論はまだ出ていなかったに違いない。
「やめてよ、畏まって。それより、これから行くの?美和ちゃんのご実家。」
「うん……だけど今日の今日は無理だと思う。」
「まあそうね。急ぐ事無いわよ。ここまで来たらなるようにしかならないんだし。」
突然突き放すのも志歩理らしくて、笑ってしまう。
「何よ、何かおかしい?」
「いや。」
「これだから"イケオジ"は嫌よねー。ねー?美和ちゃん。」志歩理の機嫌は、美和の感謝ですっかり直ったようだ。
「それ、いい意味じゃなかったの?悪い意味みたいに聞こえるけど。」
くすくす、美和も笑って居る。
泰道は鞄から何やら取り出して来て
「これ、よければスーツにアイロン使います?」と掲げ、僕の事も笑わせてくれた。
志歩理と友達で良かった。
泰道が志歩理を支えてくれて良かった。
そして美和と出逢えて良かった。
僕を愛してくれる人は、
この世にまだこんなに居たんだ。
わーさん、見てる?
僕はまだしあわせだよ。
孤独に堪え兼ねてそっちへ行くんじゃなく、
しあわせなまま行くから、もう少し待っててね。
いつもありがとう、見守って居てくれて。
愛して居るよ。
志歩理と泰道に別れを告げ、僕らは部屋に戻った。
婚姻届の入った封筒をどこに仕舞おうか迷って居ると、美和が「私が預かろうか?」と手を差し出した。
「うん、じゃあお願い。」僕は鞄を持って居なかったから、美和に頼んだ。
美和はそれをバッグに仕舞い、僕を振り返る。
その笑顔がぎこちなく見えて、僕は吹き出しそうになる。
嬉しくてにやける頬を、僕も隠し切れない。
「何だか、夢見てるみたい。」窓辺に立った美和は、カーテンを捲って外の景色を眺めた。
高層階のこの部屋からの圧巻の眺望は、夜だけでは無かった。昼間も街を一望出来て、世界の大きさを計り知れる。
人間って、ちっぽけな存在だなと思う。
それなのに、自分の更に小さな世界の殻の中がすべて、と思い込んで絶望したりする。
まったく愚かで滑稽だ。
「この部屋気に入ったなら、また来ればいいよ。」
「え?部屋?」
「違うの?夢みたいって言うから、この部屋の事だと……」
志歩理を含め、女性はホテルのスイートルームに弱いとか、テレビの情報番組で聞いた事がある。
「違うよ。お部屋もすごくて感動したけど、それより────」
「それより、何?」
「ううん。お部屋、また泊まろうね。」
笑って誤魔化す美和の真意を知りたい僕は、
「よいしょっ、と!」と美和を両手で抱き上げた。
きゃっ、と小さく悲鳴を上げた美和は、両手で僕の肩を掴んだ。
僕の腕力では軽々とは行かないけれど、何とか運べる、と美和をベッドの上に降ろした。
僕もベッドに腰掛けたが、何だか気まずくて黙ったまま、バタンと後ろに倒れた。
すると、美和も隣で横になり、僕の肩にこつんと頭を寄せて言った。
「夢って思うのは、元と一緒に暮らし始めてからずっと。」
「え?」
「ずっと、夢見てるみたいで、いつか醒めてしまうんじゃないかって、ちょっとだけ怖かった。」
「何言ってるの。夢じゃないよ、現実。」
僕は寝返りを打ち、右肩に当たる美和の頭を左手で包んだ。
美和は僕の胸に顔を埋め、
「結婚も、本当に出来るなんて思ってなかったから……何だか違う世界に来てしまったみたい。」その声を僕の体に響かせた。
"違う世界"か─────そうだよ、僕も思い出した。
わーさんが亡くなったあの日、
僕の世界は崩れ落ちた。
あの日、僕も死んだと思う。しばらく生きて居る実感も無かったし。
でも、今は"生きて居る"と感じる。
それは、僕を想う人が居てくれる事に気付けたから。
「元。」美和は僕を呼び、僕の背中に腕を回してぎゅっと力を籠めた。
僕は安心する。こうして、美和がこの世で僕の命を抱き締めて居てくれる限り、僕はまだ向こうへ行きたいと思わなくなれるから。
「美和。」と僕も呼び、この華奢だけど、大きな存在になった体を抱き締める。
温かくて、やわらかくて、僕だけのものにしたくて、
この手を離さなければならない日の事を考えると竦んでしまう。
死にたくない、死なせたくない、まだ一緒に居たい。
美和はまだ知らない。最愛の人を喪う酷い痛みを。
僕が先に死んだら、美和も身を以て知る事になる。
美和が先に死んだら、僕も再び……嫌だ、嫌だ嫌だ!
この夢のような日々を終えるのに怯えて居るのは僕の方だ。
「美和、僕が死んだらどうする?」
「どうするって、何を?」
「何をって、寂しい?」
「寂しい。」
「死にたくなる?」
「死んだら寂しくなくなるよ。」
「えっ?」
「天国でわーさんに会えるでしょう?」
「ああ、そうだね……」
「寂しさって、意識をそちらに向けるから寂しいんだよ。一人でも寂しくないって言う人は、寂しいって気持ちを持つスペースを空けてないんだって。きっとね、心の中を想い出でいっぱいにしてあるんだよ。」
「想い出かあ……でも、それくらいじゃ、乗り越えられないよ。最愛の人を喪うのって。」
「元は乗り越えられたでしょう?」
「それは────美和に出逢えたからだよ。」
「ふふ、ありがと。でもね、元。それは私じゃなくても乗り越えられたと思うよ。」
こういう時、"私じゃなくても"と言う美和の気持ちが分からない。
普通なら、"私が居たから"と言うものじゃないだろうか。
「美和じゃないと無理だよ。だからもう、僕より先に死なないでよ?」
ふっと笑って美和が僕の手を強く握った。
「安心して。私が元より先に死ぬ事は、そうそうない!」
「……"絶対"ないって言ってよ。」
それは無理な事だって言うんだろ?僕だって分かって居るよ。絶対死なないという事はあり得ないって。
「だーいじょうぶ!」
また先生の顔をして、僕の頬を両手で挟む。
嫌だよ。
好きになればなる程、あの絶望の日を再び迎える恐怖が膨れ上がるから。
「そうそうない!」
やっぱり絶対とは言ってくれない美和。
でも、それが本当の事だって分かるから、
僕は"絶対"と言わない美和と生きて行きたいと思えるのだろう。
時々、美和の中にわーさんの魂が入り込んでしまって居るのではないかと思う時がある。
それは、美和とわーさんの言う事が似て居るから。
多分、僕を愛して居るからなのだろう。二人共僕に対して同じ気持ちで接してくれるから、わーさんの魂が美和に入り込んで居るなんて思えてしまうんだ。
わーさんのように僕を愛してくれる人が、まだこの世に居たなんて知らなかった。
美和に出逢えて居なかったら僕は、わーさんから貰い続けた愛まで忘れて、今もただ早く死にたいと考えてばかり居たかもしれない。
もしも僕が先に死んで、美和が僕と同じ苦しみを知る事になったら嫌だなと思った。
ただ、僕も美和も、生き物であるから"絶対"に死は免れない。
この命は限りある、いつか尽き果てる。
願わくは、僕の死後も、美和にはしあわせであって欲しい。
僕ではない誰かと出逢ってそうなれるなら、それでもいいと思った。
美和の言った、"運命の人が一人ではない"なら、きっと美和にもまた別の愛のある世界で生きられる。
その時、僕は邪魔をしたくない。
だから────
「僕が死んだら、忘れていいから」
今は僕だけを想ってくれて居る美和に、それでも今、どうしても言いたくなった。
いつかこの先、一人になったら寂しいから。
堪え切れないその中で一人足掻くより、誰か、その苦しみを和らげてくれる人と出逢えたなら、僕の事は忘れてしあわせになって欲しいと思った。
言った後で、わーさんの気持ちが初めて分かった気がした。
【俺が死んだら、俺の事は忘れていいから】
愛して居るから願ったんだ。自分を忘れてでもどうしてでも、残される者がしあわせであって欲しいと。
「愛してる、だから僕が死んだ後、美和が僕を忘れてしまっても悲しくないよ」
「元……それは、わーさんの……」美和は憶えて居た。以前話したわーさんの言葉を。
僕がやっと今、わーさんの気持ちが分かった事を美和は知った。
「でも、生きて居る内に忘れられるのは嫌だけど。」
美和はくすっと笑い、
「元が生きて居るのに忘れる訳ないでしょう?記憶喪失にでもならない限り。」と言った。
以前より少し長くなった美和の髪に触れながら、「髪、伸ばすの?」と訊くと、
「考え中。」と言って笑った瞳に、吸い込まれそうになりながら、僕は顔を近付けた。
「愛してる、元。」
くちづける寸前に美和から発せられた言葉は、僕の動きを止めた。
「どうしたの、急に。」
「元が言ってくれたから、私も言おうと思って。」
「律儀だね。だけど─────」
「だけど、何?」美和が恐々(こわごわ)訊いたので、僕は込み上げる笑いを堪えながら、
「そんな事言うと、今夜もまた寝かせられなくなるけれど、いいの?」からかい半分で吹っ掛けた。
「の……望む、所、です。」
たどたどしく答えて、耳まで赤くした美和を、どう扱って良いのか、本当に分からなくなってしまった。
「ええと、あの……」何が正解なのだろう。自分の中に芽生える衝動をどこにやればいいのか────
「私は、あの、どちらでも構いませんので、元の好きなようにして下さい。」
「何故、急に丁寧な言葉になったの?」可笑しくなって笑うと、
「だって緊張するとこういう風になっちゃうの!」美和もふふっと笑った。
怖くないよ。
どんな未来が明日やって来ようとも。
受け止める。君を愛して生きる為。
僕の痛みを半分、君の痛みを半分、分かち合い続けて、結局楽にはならないのが愛だけど、だから、それを知って居るから、大変な毎日を共に生きられるんだなと思う。
愛する人の苦しみや痛みを知らないで生きるのと、分かち合って生きるのとどちらがいいのかは分からない。
でも僕は、二人で、しあわせも痛みも分かち合って生きたいと願うんだ。
それが家族の証になる。
お互いに付いた傷を癒し合って、懸命に生きよう。
死を忘れず、別離を恐れず、繋いだこの手の熱が永遠になる日まで。
こうやって手を取り合って、離れ離れになるその日まで、同じ気持ちで居られたら、それが"しあわせ"って事なのだろうな。
微笑みながら見つめ合う君の気持ちと僕の気持ちはきっと今、同じなのだと信じよう。
疑いは持たない。いつか欺かれる日が来ても、騙されたとも感じずに生きればいいだけ。
今日のように激しい気持ちが穏やかになっても、今日の事はいつでも思い出せるようにしておこう。
この愛に誓う。僕が死ぬまで抱いて居ると。
わーさんがそうしてくれたように、僕もそうする。多分、美和もそうしてくれるだろうから。
愛は消えずに、僕らの心の中でずっとずっと遠くの未来まで繋がって行くものなのだろう。
彼の愛は僕の心に受け継がれ、僕の愛は美和へ、美和の愛も、その先を生きる誰かの心へ受け継がれる。
愛は永遠と言うのは、嘘ではないのかもしれない。本当に永遠に受け継がれ続けて行くものなのかもしれない。
僕が死んでも美和が死んでも、愛は、愛だけは残る。
それが分かってホッとした。死と愛の終わりは同時ではないって事が。
わーさんへの愛は、まだ僕のここにある。
そして美和への愛もここにある。
二つは別のものだから、一つを半分にした50%のものではない。
どちらも100%の完全なもの。欠けたりして居ない。
今しかないんだなぁ、と思う。
こうして君をギュッと抱き締めて居られる贅沢な時は、ずっと続く気がして、だけど僕の人生の中からすれば一時の事で、だけどしあわせだから、もうあとどのくらいの事なのかって、考えたくなくなる。
僕は自分がこんなに欲張りだったなんて気付かなかった。
死んでも、生まれ変わっても、永遠に、
それぐらい君を独り占めして居たいし、君に独り占めされて居たいんだって、改めて感じた。
「ね、元?そろそろ支度して行かないと……」
「うん。」
分かって居るけれど、まだこのベッドの上から動きたくない。
「元?」
「うん?」
「行きたくないの?私の実家。それなら無理に行かなくてもいいよ?」
「行きたいよ?だけど────」
なあに?と見上げる君が愛おしいんだ。
次の言葉を発しようとする唇を塞いで、深くまで求め、腕に力が籠もってしまう。
しばらくして離すと、美和はプハッと息を吐いた。
「元、苦しいよ。」苦笑いする君もやっぱり可愛らしくて、
もう一度、意地悪してしまう僕を許して欲しい。
何度も求めてしまうのは、その度に君が僕に与えてくれる愛が心地良いから。
君の中に溺れたまま、他の事を何も考えられなくなる時間は病みつきになりそう。
あとどれくらい?
愛を交換して生きられるのは。
君と一緒なら、永遠に退屈を感じないし、寂しくなりもしないだろう。
ああ、でも、死んであの世で君にわーさんを引き合わせたい気持ちもあるけれど。
つまり、そう。
僕の明日は君と生きられると分かった事で、とても安心してとても楽しみで、しあわせな事しか思い浮かべられなくなってしまって居る。
子どもの頃に感じた、うきうきわくわくわくした気持ちを今更また味わえるなんて驚いた。
いくつになっても、僕は僕のままなのかもしれない。
君と幾つ離れて居ても、僕は君の傍に居られるだけ居たいと願う。
「支度して行こうか。美和の実家に。」
「えっ?行くの?」
「行くよ。」
反対されるかもしれない。怖くないと言ったら嘘になる。
それでも明日の僕らの為に、今、出来る事をする。
君と生きる為に、僕はもっと頑張るから。
君は僕を見守って、時々僕を抱き締めて、なるべく愛を囁いて欲しい。
僕も同じに出来るか分からないけれど、君を愛して行く事は変わらないから。
忘れないで居てね。
ホテルをチェックアウトした僕らは、その足で美和の実家へ向かった。
手土産は昨夜の菓子折り。
これでいいと言って美和が聞かなかった為、そのまま。
「多分、居ると思う。」と美和は助手席で左手薬指の指輪を眺めながら、ご両親に電話してくれたのか、くれて居ないのか……
突然行くというのは、僕としては嫌なのだが。
「やっぱり今日は、やめておく?」
「やめるって、どうして?このまま行こう?」
「さっき行くと決めたし、早くご挨拶したい気持ちもあるけれど、美和が乗り気ではないなら日を改めた方が─────」
「乗り気じゃないのは元の方でしょう?」
あ、何だかこのままだと良くない展開になると、僕の勘が働く。
亀の甲より年の功。僕が喧嘩になるのを回避しなければ。
ええとええと……!
僕は親指を立てて、グッドを表した。そして、
「ノ、ノリノリだぜっ!」と精一杯の笑顔で言った。引き攣ったけれど。
「……」
美和は黙って居る。
しまった、とすぐの赤信号で停まると、恐る恐る美和の方を見た。
すると美和は両手で鼻と口を覆い、耳を真っ赤にし、肩を震わせて────笑いを堪えて居た。
「ぷ、ぷぷぷぷっ!」
どう反応したら正解なのか分からなくなってしまった僕は、ハンドルを強く握り、再び前を向いてアクセルを踏み込むしかなかった。
「可笑しかった?」
「可笑しいよー。」
「そう……それなら良かった。」
「そんなに気を遣わないでいいよ、元。」
「何?気を遣うって。」
「怒りたい時は怒っていいからね?」
「何それ。別に気なんか遣ってないよ。」
「そう?」
うん、と返事を出来ないで居る自分に気付いた。
気を遣って居たのかな?それを美和は感じ取ったのかな?
僕ら二人で歩む旅路は始まったばかり。
これから意見の合わない事もあるだろうし、時には喧嘩もするだろう。
それが酷いもので"別離"に繋がる人も居る。
僕らがそうならないという保証は何もない。
いつだってその危険に晒されて居る。
愛と憎しみは紙一重と言う。天国と地獄、一寸先は闇、まるで崖っ淵に立たされて居るくらいの緊張感を時々思い出そう。
でも、どんな時もどんな事も二人で乗り越えると決めたのだから、今日、君のご両親にご挨拶するくらいの事で怯えて居ては、話にならない。
逃げない。時は進む。僕も君も進む。
年を重ね、共に同じ世界で生きる為、君と繋ぐ手に力を籠めて。
美和の実家には、お昼前に着いた。
以前送って行ったバス停のある通りから脇道に入り、両側に田んぼの広がる坂道を上って行く。
見渡す限り田んぼ。まだ小さい稲は、これからぐんぐん伸びて、秋には黄金色が一面に広がる様は圧巻だろう。
「あ、そこに車停めていいから。」
美和が指差したのは、広い空き地。他に数台の軽自動車が停まって居る。
「ここ、駐車場なの?」
下は土と草。ロープも白線もない。
「そう。」
「どの辺に停める?」
「どこでも、停め易い所で。」
そうは言っても、と考えた僕は、入り口から遠くなく、周りに車の無い場所を選んで停めた。
「ここでいい?」
「うん。」
車から降り、二人並んで歩き出す。僕の右手は菓子折りの入った紙袋を持ち、左手は、歩く美和の右手が触れるか触れないかの位置にあった。
何でもないただの散歩なら、手を繋いで歩いても良かったかもしれない。けれど今はそのような事をして居る場合ではない。
なのに─────「緊張してる?」と言いながら、僕の左手を握った。
僕と同じ位の体温で、ただ触れる感触に意識が向いてしまう。
「これは、よくないのでは?」
「何が?」
「いや、これからご挨拶に行く所なのに誰かに見られでもしたら……」手を繋いだままお邪魔するなんて。
「誰も居ないよ?平気。」
「だけど見られてなくてもこれは……」言い淀む僕の顔を覗き込んで、
「恥ずかしい?」と美和が僕の代わりに言った。
「まあ……」
すると美和は小さく笑い、手を離した。
僕の左手の中からやわらかな感触は無くなり、寂しくなる。
『手を繋ぎたくない訳ではないんだ』
誤解されると嫌だから言おうとした時、
「ここ、うちの実家。」と美和が、駐車場から続いた塀の切れ間から、奥まった所にある大きな家の玄関を指差した。
「えっ?ここ?!」
思わず大きな声が出た。
うん、と頷いた美和は、立ち止まった僕の手を引いて、その大きな邸の敷地へと足を踏み入れた。
【岩澤】と書かれた重厚な木の表札。
大きな玄関。広い前庭には、池まである。
僕の心拍数は、今一体いくつに跳ね上がっただろう?
このまま、繋がれた美和の手をぎゅっと握りたくなった時、美和はするりと僕の手を離し、
後付けされたような、比較的新しいガラスの風除室に入り、その奥にある玄関の引き戸を開いた。
「ただいまー、お母さーん?」
ここが実家だと表して居る美和の無邪気な声を聞いたら、僕の緊張は何故か、余計に増してしまった。
先に玄関の中に入った美和は僕を振り返り、
「元、入って。」と手招きを繰り返しながら言った。
そんな事言ったって……震え出しそうになる膝を叩きたいのを堪え、僕は玄関の中へ一歩進んだ。
「誰も出て来ない。お母さんにメールしたのにな……」美和の呟きを拾った僕は、
"やっぱり電話してなかったんだ"と気付かれないように溜め息を吐いた。
「お父さんもお母さんも居ると思うんだけど。」
大型連休中の日曜日のお昼前、
玄関の鍵が開いて居る点からも、在宅中である可能性は高いが……誰も出て来ない、という事は、歓迎はされて居ない。
当然だ。美和のご両親からしたら、納得行かないだろう。
突然、娘が結婚したい相手というのを連れて行くから会ってと言われては……
何か前触れでもあったのならともかく、僕らが付き合って居る事も、お父さんに至っては僕と美和が一緒に暮らして居るのも知らないのではないかと、僕は考えてしまう。
お母さんと妹さんには話したらしいけれど、美和の口からお父さんの話は一切出て来なかった。
察するに、お父さんとはあまり仲良くない、若しくは厳格過ぎて上手く話せないとか……だろうか。
うちの父でさえ、妹の旦那との初顔合わせの時は、あまり機嫌がよろしくなかった。
それを考えると、20歳も年上の男が相手だなんて、僕が美和の父親なら、娘は騙されて居るのではないかと、相手の男を信用出来ないだろう。
そうでなくても大事な娘を嫁に行かせるという事は一大事。
僕には娘が居ないから、例えば姪の日葵で考えてみる。
ある日突然、『私、この人と結婚します』と連れて来た男が、20歳年上だったら……僕は反対すると思う。
日葵20歳で相手40歳、初婚だったらこれまで独りだった理由が気になる。
日葵30歳で相手50歳、健康面が気になる。
日葵40歳で相手60歳、その内介護が必要になるんじゃないかとか……ああ、駄目だ。美和のお父さんの気持ちになろうとすればする程、胃も頭も痛くなる。
「元?大丈夫。そんなに緊張しないで。」
僕の丸まる背中を美和が叩いた。
「してないよ。」虚勢を張らせて欲しい。
結婚って、大変なんだなと思う。
もしも、わーさんが女性で、僕との結婚に反対されて居たら、僕はどんな顔でわーさんの実家に乗り込んだのだろう。
いや、今はわーさんではなく美和の実家だ。
僕らは齢こそ離れて居るものの、男女であるから、男同士の結婚よりは理解が得られると思い込むしかない。
僕は体の横でぎゅっと拳を握り、
「ごめんください!」と廊下の奥に向かって叫んだ。
しかし、返事はない。
「もーっ!ちょっと待ってて。」
痺れを切らしたように言って、美和は靴を脱いで上がると、トタトタトタと少し早足で廊下を進んだ。
これから結婚しようという相手の実家玄関に、ぽつんと一人取り残された僕は成す術も無く、ただ立ち尽くすのみ。
ガサッ、
体の前で握り締める紙袋が音を立てた。
結婚のお許しを貰えるだろうか。
仮に反対され、娘との結婚は認めないと言われた場合、僕はどうする?
お互い成人なのだから、親の許可が無くても結婚は出来る。だからと言って、美和のご両親の許しも無く、婚姻届を提出してしまうのは如何なものか。
そんな状況になったとして、美和が反対されたままでも入籍しようと言ったら、僕は流されてしまうかもしれない。
わーさんとの時は男同士だから結婚出来なかった。
美和との時は齢が離れ過ぎて居るから結婚出来ないかもしれない。
"結婚"────僕には一生出来ないものなのかもしれない。そういう運命なのかもしれない。
そう思ってしまえば、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、なるようになれと考えられるようになった。
トタトタトタ、軽い足音が近付いて来る。
ハッとした僕の前に現れたのは美和だった。
「元、上がって。」
美和は、早く早くと言いたげな手招きを繰り返した。僕は、えっ?と思いながらも
「うん。」と返事をして、脱いだ靴を揃えた。
「こっち。」
廊下を奥へと進む美和に付いて行き、通されたのは南向きの広い和室。
部屋の中央には低い長方形のテーブルがあり、囲むように座布団がテーブルの東側と西側にそれぞれ二枚ずつ敷かれて居た。
「ここ、座って居て。今お茶持って来るから。」
美和に促された席は東側の窓際。
座布団の上に正座した僕は、部屋を出て行く美和の背中を目で追った。
大きな家、広い庭に、よく手入れされた樹木。知らなかった。美和はいい所のお嬢さんだったんだな。
そう言えば以前、あの沢山の田んぼも美和の家のものだって言ってたし、そうだ、本家とも言って居た。
美和は本家の長女─────大丈夫なのだろうか。僕のような者が嫁に来て欲しいと言っても……
ドクドクドク、小さくて速くなる鼓動を感じ、手で胸を押さえた。その時、
「お待たせしてすみません。」
美和とは違う声に反応した僕の肩が揺れた。
丸盆を抱えた、僕より上の年代と思しき女性、おそらく美和のお母さんだろう女性が僕の隣で膝を折り、テーブルの上に茶托に載せた湯呑みを置いた。
「ありがとうございます。」
再び襲われる緊張の中、軽くお辞儀をすると、僕を見ながらお母さんはにこりと微笑んだ。
その顔が美和に似て居て、僕は少しほっとした。
その丸盆にで運ばれたお茶は二つだけだった。
僕と、誰の分?
お母さんではなさそう。
僕の前に一つ、もう一つは僕の隣に置かれた。美和のだろうか。
すると、お母さん、そしてお父さんの分のお茶は無い。
もしかするとお父さんは……と考えた時、美和が和室に戻って来て、
「駄目、お母さん。」と言って首を横に振った。
何が駄目なんだろう?そう思って見て居ると、
「本当にお父さん、どこに行ったか分からないの?」と美和がお母さんに訊いた。
「さあ……分からないのよ。美和がお相手連れて来るって伝えたら、その後、急にふらっと出て行ったみたい。」
「お母さん、気付かなかったの?」
「洗い物して台所に居たから。」
「もー、お父さんの馬鹿!」
美和が悪口を言うのを初めて聞いた。
家族だから言える遠慮のない言葉。
思わずふっと笑いそうになる。
「それ、いつ頃?」
「うーんと、一時間くらい前かしら?」
「携帯電話、持って行ったかなあ?」
「多分お父さん、出ないわよ?」
緊張で固まる僕の前で、普段通りの母娘の会話が繰り広げられて居る。
僕はここに居てもいいのだろうかと居た堪れなくなった時、
「あらあら、ごめんなさい。」とお母さんが僕に向かって言った。
そして「折角、ご挨拶にいらして下さったのに、お父さんがこんな風でごめんなさいね。多分ね、まだ気持ちの整理がついて居ないのよ。」とお母さんは続けた。
「はい。」分かります、と言おうかどうか迷ったけれど言わなかった。娘の居ない僕に父親の気持ちが"分かる"なんて言ってしまっては失礼に当たる。
「よろしければ、お昼ごはん食べて行って下さいね。」
「お昼ごはんって何?」美和がお母さんに訊いた。
「お蕎麦取ろうかしらと思って。」
「あー、あそこの出前?」
「そう。お父さん来ないと思うから、三人前。」
「分かった。お母さん電話する?」
「あなた電話してくれる?」
「いいけど。」と返事をしてから美和は僕に「元、お蕎麦冷たいのでもいい?」と訊いた。
「うん。」と僕は返事をして、美和が和室を出て行くと、
僕の顔をじっと見つめる視線に気が付いた。
じーっという音が聞こえそうな位、お母さんに見つめられた僕はたじろいだ。
堪え切れず、「あのう……僕の顔に何か付いてますでしょうか?」と訊ねると、
「あら、ごめんなさい。」と謝られた。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔してすみません。」
「それはいいのよ。だけど、うちの人がごめんなさいね。結婚に反対なんじゃないのよ。そうじゃなくて、なんて言ったらいいのかしら。」
言い淀むお母さんの顔は笑って居るが、胸中複雑であるのは間違いなさそうだ。
「はい。」としか、僕は言いようがなく、黙って居ると美和が戻って来て、僕の隣に腰を下ろした。
「三十分位だって。」
「あら、そんなに掛かる?」
「お昼時だから。」
「それなら食べに行った方が早かったわね。」
「でも、いつお父さん帰って来るか分からないでしょう?」
「そうだけど……」
お母さんのその様子から、僕はお父さんは僕がこの家に居る内は帰って来ない気がした。
お母さんにはともかく、お父さんには歓迎されて居ない。僕に会いたくない、その気持ちが伝わって来た。
「木村さん、普段お仕事は何をされていらっしゃるの?」
「今現在は友人の会社を手伝って居ます。」
「それは東京の?」
「はい。」
「では、この子と結婚したら東京に行くのかしら?」
お母さんが"結婚"という言葉を口にした。僕が美和と結婚するかもしれない事に抵抗がなさそうだ。
「東京には行きません。友人の会社も手伝い程度ですので、もう少ししたらこちらに戻って来ます。」
「そう……それで、こちらでお仕事は何をするおつもりですか?」
「会社勤めはして居ませんが、月々収入はあります。」
黙って僕の話を聞いて居た美和が、驚いた表情を浮かべた。リタイア生活を送る僕に収入があったなんて知らなかったという顔だ。
言おうかと思った事はあったが、美和から訊かれず、言う機会も無かった。
「月々の収入って、どういうものですか?」
突っ込んで訊いて来るお母さんに、僕は、母親として純粋に娘の結婚相手の収入を気にして居るだけと、嫌な気はせず、寧ろ美和への愛を感じて嬉しかった。
「東京にいくつか不動産を所有して居まして、その収入です。会社員であった頃の給料より多いです。」
そうなの?という表情を隠せない美和は、一見無職の僕の収入がゼロなのではと心配してくれて居たのかもしれないと、今までの生活を振り返って思い当たると、もっと早くにお金はあると明かすべきだったなと思った。
「そうなのね。じゃあ、これから働かなくても食べて行けるという事なのね?」
「はい。家と貯金もありますし、お金の面で美和さんに苦労を掛ける事はしません。」
例えば結婚後すぐに僕が死んでしまって、美和が女性の平均寿命まで生きるとして、それまでの生活費は美和が働かなくても十分足りる額はある。
何は無くても、お金はある。
そんな言い方、あまり好くは思わないが、実際僕が一般男性より多く持って居る物はお金くらいだろう。
だから、あの家に来た美和の目的がお金であったのなら、僕ももう少し美和の気持ちに対して疑いを持たなかったかもしれない。僕自身が好きなのではなく、僕の持つお金が好きなのだと。
そうだったんだ、と僕の隣で気の抜けた顔をして居る美和を見てしまった僕は、思わず微笑んでしまった。
僕に所得がないだろう事を心配し、自身もずっと仕事を続けて僕を支えて行くつもり────だったのだろうか。それが実はそうでは無かったという、美和は今、安堵とも違う何と言うかこう複雑な気持ちなのではと、美和の胸中が手に取るように分かった。
心配させてごめんね、と美和を見ると、
それならそうと言って欲しかったと言いたげな微笑み。
それを見て、僕はまた君と結婚しようという想いを強めた。
ちらと時計を見る。午後一時過ぎ。
お父さんはまだ帰って来ない。
今日会ってお話しするのは難しいのかなと諦めたその時、玄関の引き戸がカラカラと開く音が響いた。
お父さんが帰って来た!
膝の上で握る拳の中の湿度は一気に100%。胸を打つ緊張感は最大で、痛い位。
ああ、なんて切り出せばいいのか。
考えて来た言葉が、どんどん消えて行ってしまう。僕の頭の中は真っ白になってしまった。
「お父さん?」美和がお母さんに訊いた。
こんにちはー、と男性の明るい声が小さく聞こえた。
「違う。お蕎麦屋さん。」
「まだ三十分経ってないけど。」
「あそこの蕎麦屋さん、出前の時長めに言うのよ。いつもすぐ持って来るわ。」
「そうなの?」
「お店で出て来るより早い時あるもの。」
お母さんは「はーい」と叫びながら和室を出て行った。
「元、お腹空いたでしょう?」
僕の胃はキリキリと痛い。空腹感と言うより、ゆうべ飲み過ぎたせいと言うより、緊張によるストレスによる可能性が一番高い。
答えられない僕は、にこりとし、黙って頷いた。
「出前で頼んだお店のお蕎麦ね、蕎麦の味が濃くて美味しいの。おつゆもね────」
美和の話をうんうん、と頷きながら聞く僕の耳に、その内容はちっとも入って来ない。
「元、聞いてた?」
「え?うん。」
「じゃあ、いいのね?」
「何が?」
「ほら聞いてない。」
「もう一度言って。」何がいいって?
美和は和室の入口を気にしてから、僕の耳に手を当て、声を潜めて言った。
「帰ったら、いっぱいキスしてね?って言ったの。」
「えっ?」
「元さっき、うんって言ったからね。」
美和が子どもみたいな事をするなんて、今までなかったかもと可笑しくなって笑った僕は
「うん。」と返事をした。
すると美和は途端に頬と耳を赤くして俯き、僕のスーツの袖口を軽く抓んで「嫌なら別にいいから……」とさっき言ったという言葉を取り消そうとした。
「嫌じゃないから、別にいいよ。」了承した旨を伝えると、
「もー、イジワル。」僕の膝をペシッと叩いた。
意地悪?何故だろうと首を傾げると、
「美和、ちょっと手伝って。」とお母さんが両手で抱える角盆には、蒸篭が載せられて居た。
「はい。」と立ち上がった美和に、
「玄関におつゆのがあるから。」とお母さんは言って、抱えていた角盆を畳の上にそっと置いた。
それからお母さんは、一つ取った蒸篭を僕の前に置き、隣に美和の蒸篭を並べ、僕の向かいにもう一つ並べた。
そして「お父さん、やっぱり来ないみたい。」と申し訳なさそうに僕に告げた。続けて「足、崩して楽にして。」と言ってくれた。
「はい。」と僕はお言葉に甘え、痺れの出て居た足を崩し、胡坐を掻いた。
そこへ美和が戻って来て、薬味、蕎麦猪口、蕎麦徳利をそれぞれの蒸篭の横に並べた。
「じゃあ、お蕎麦が伸びない内に食べましょう。」とお母さんに促され、美和も僕の隣に座った。
「あれっ?元……」と美和は何かに気付いた様子。僕の脚を見て居る。
「足、崩したから?」と訊くと、軽く頷いた。
「お行儀悪い?」
「ううん違うの。元が胡坐掻くの好きだから。」
僕が胡坐を掻くのが好き?どういう意味なのだろう。
「はいはい、あなた達、そういうのは帰ってからにして、食べましょう。」
お母さんには面白くないやり取りだったのか、とにかく不安にさせてしまったのならと、僕はせめてと背筋を伸ばし、目の前の蒸篭と向き合った。
「いただきます。」と言ってから、
店名の入った割り箸袋から取り出した箸を割り、持ち上げた蕎麦の下の方1/3を蕎麦猪口の中のつゆに浸け、ずずっと音を立てて啜った。
まずは薬味なしで、蕎麦と出汁を味わう。
五月初旬、室内でのスーツは、東京より涼しいこの地域でも少し汗ばむ。
その中で、口に含んだ冷たい蕎麦の舌触り、噛み応え、香り、喉ごし、出汁の味は、僕の脳天に響いた。
「どう?美味しい?」
美和の問い掛けに、僕は次の蕎麦に箸を伸ばし、咀嚼しながら二度頷いた。
ずるっ、ずるるるっ……
ふはーっ!
もぐもぐ、ごくん。
「上着、脱いだら?」
中腰になって促す美和に僕は甘え、一度箸を置くと、脱いだ上着をその手に預けた。
美和は「ハンガーに掛けておくね。」と和室を出て行き、少しして戻って来た。
美和が戻って来るまでの間、箸を置いたままの僕に、お母さんは「薬味もどうぞ。」と勧めてくれた。
はい、と返事をする僕の前で「お茶淹れ直して来ましょうね。」とお母さんが立ち上がろうとしたので、
「いえ、食べ終わってからで結構です。」と言うと、お母さんはにこりと笑って頷いた。
戻って来た美和が「二人共食べないの?」と訊くと、「食べましょう。」とお母さんが言い、三人揃って箸を持った。
ずる、ずるる、ずるるっ。
会話もせず、ただ蕎麦を一緒に食べた。それだけなのに、さっきまで母娘二人だけしか入れなかった空間はなくなり、僕も含めた三人で共有出来るようになって居た。
美味しい蕎麦を堪能した後、お母さんが淹れてくれたお茶を飲んで、訊かれるまま、僕らの日常を美和が上手に話してくれた。
お母さんは微笑んだまま、ただうん、うんと相槌を打って聞いてくれた。
やさしそうな雰囲気。それが美和と似て居て、思わず僕も目を細める。
それから二時間待って居たけれど、結局お父さんは戻らず、
「もういいよ、元。帰ろう。」と言う美和に促され、「今日はこれで失礼致します。」とまた来る旨をお母さんに伝え、帰る事にした。
今日の目標を達成させる事は出来なかった。
美和のお母さんとは会って話せたけれど、お父さんにはまだ結婚のお許しを貰えて居ない。
最後にお母さんは、『私は反対しないから。美和がいいならいいのよ』と言ってくれた。
しかし、胸中は複雑に違いない。正確な年齢は訊いてないが、お父さんと同じ位なら、僕と十歳も違わないだろう。
自分の娘が二十歳も年上の男と結婚するなんて、考えた事もないかもしれない。いや、普通なら考えない。
それなのに僕を温かく迎えてくれた事に僕は感謝して居た。
お父さんに会えなかったのは残念だったけれど、お母さんに会えて良かった。
お父さんに反対されると思うけれど、お母さんに反対されなくて良かった。
人生に於けるすべての事が上手く行くとは思って居ない。
でも、上手く行かないからと言って、すぐに諦める事はない。
美和も僕も、例えお父さんに許して貰えないとしても、諦めない。
何年掛かっても許して貰い、結婚する。
今まで、結婚という制度を利用出来ないからと諦めてしまって居た僕だけど、可能性がある今は諦めたくない。
今の僕なら、相手が誰であろうとどんな問題が出て来ようと、怯まず前へ進もうと思える。
それは、一人では無いから。
「今日はありがとう。ごめんね。」
自宅に戻り、着替えた僕の背中に美和が寄り添う。
「また今度お邪魔しよう。」と言うと、美和は首を振り、
「もういいよ。お父さん、多分わざとだよ……じゃなかったら、元が来るって分かってるのに出掛けたりしないでしょう?そんな意地悪な人に会う必要なんてないから。」と捲し立てた。
僕は振り返り、俯く美和と向かい合った。
「意地悪したくてしたのではないと思うよ?急だったからどうすればいいか分からなかったんだよ。勿論、僕の事を認めたくないって気持ちがあるんだと思う。だけどお父さんが最初から反対するつもりなら、家を空けたりしなかったと思わない?きっと僕らの結婚について考えてくれて居たんだよ。」
前向き過ぎる言葉を放ったのは、美和を悩ませない為。僕同様、結婚を反対される事に不安を覚えて居る、いや、実の父だから、僕以上に不安になってしまうのだろう。
分かるよ。
僕だってわーさんとの事を両親に反対されて居ると思って居た間は苦しくて、顔も合わせられなかった。
美和は僕との結婚を反対され、家族に絶縁なんてされたくない、誰だってそうだ。
家族に祝福されない結婚は、それだけで不幸な気分になってしまう。
僕はそんな思いだけは美和にさせたくない。僕と居る事で家族と上手く行かないなんて事だけは避けたい。
「美和、聞いて。僕は美和と結婚したい。だけど急がない。美和のご両親にきちんと認めて貰ってからにしよう。」
「ううん、もういいの。お父さんの事は気にしなくていいから、さっき書いた婚姻届出そう?」
僕は首を横に振った。
「まだ東京での仕事があるし、それが終わって戻って来てから────」
とすん。
美和が僕の胸に額を寄せ、両腕を僕の背中に回した。
反射的に、僕の手は美和の頭を撫でた。
「早く結婚したいのに。」洟を啜りながら、涙交じりの声で呟く美和に、
「うん。」と僕は頷く。
「大好きなのに。」
「うん。」それは今も変わらない。
「一緒に暮らしたいのに。」
「うん。」もう少しでこっちに戻るから。
「……子ども、産みたいのに。」
「えっ?!」今、なんて言った?
子どもと言った?
確か美和は『子どもが産みたいのに』と……言ったような気がする。
僕の聞き間違いでなければ。
美和は、もう一度訊こうとする僕から目を逸らし、「疲れたでしょう?お風呂用意してくるね。」とお風呂場へ向かってしまった。
まるで、僕の返事は聞かなくてもいいという風に。
それは、僕には期待して居ないという事なのかな。
でも、子どもって、男女どちらか一人が望んでも授からない。
僕らの場合、望まない場合を除いて、それは叶えられる確率が高いが───何故、美和は、その答えを僕の口から聞きたくないと思ったのか……考えた。
今のは嘘だった────とは思わない。嘘なら言う必要はない。思わず出た本音と取ろう。
美和は僕と結婚して、子どもを望んで居る。
まあ、望まれないよりは、僕を愛してくれて居るからこその想いだと分かって、嬉しい……と言うか何と言うか、判断付けられない気持ちである事は確かだ。
子どもが居たら楽しいのかも、と考えた事はあったが、僕とわーさん、男同士である限り、二人の子どもを授かる事はどんなに頑張っても無理で、叶わない結論に辿り着くから考えないようにして居た。
だから、愛する人との子どもと暮らすという事を、急に考える事になった僕の胸の中は混乱して居る。
美和が望むなら叶える、けれど、本当にそれでいいのかとも。
結婚についての問題もまだ片付いて居ないのに、その先の子ども……二人の暮らしもどうなるか分からないと言うのに、この僕に何の約束が出来るのだろう。
いつ死ぬか分からない。それと、いざ子どもを授かろうと思っても、僕の体や美和の体の問題もあるかもしれない。
もし、男女の夫婦で子どもを望み、それが叶わないと分かった場合、男同士と違って理論上出来るのにと周囲の人間なども含めて諦めが付け難い。
最初から分かって居る男同士だって悲しいのに。
僕は美和に何て答えたらいいのか。
"いいよ、そうしよう"
"それはおいおい考えよう"
"今は考えられないよ"
"そんな先の事まだ分からないよ"
どれも違う気がするし、今の僕では何を言っても無責任な気がしてしまう。
少なくとも美和のご両親に認められて、結婚出来てからやっと、責任のある発言になるのだろう。
その時、僕がどんな答えを美和に告げるのか、
今は僕自身、分からないまま。
僕も不安なんだ。
「お風呂、沸いたよ。元、先にどうぞ。」
捲ったシャツの袖を戻しながら、美和が戻って来た。
何事も無かったかのように、表情は会話前のものに戻って居た。
「美和が先に入っていいよ。」
「上着脱ぐ?」
美和は僕の後ろに回り込んだ。
僕は上着のボタンを外し、腕を抜く。
美和が手伝い、僕の上着は美和の手の中に移った。
「今、何時?」
ぽつり訊くと、美和が僕の手首を掴んで引き上げた。
「今、午後四時前。」美和は僕の腕時計を見ながら答えた。
「ああ、うん……」大体それぐらいだとは、窓の外を見れば分かる。
そうじゃなくて、僕の言いたい事は─────
「疲れちゃった?そうだよね、ごめんね。うちの家族のせいで。」
僕とは目を合わせずにふふふと笑う美和。
疲れて居ると言うより、どこか、何か、無理して見えた。
多分それはきっと、落胆して居るんだなと分かる。
少しは期待して行ったんだ。美和のご両親に僕らの結婚を認めて貰う事を。
ただ、僕より美和のそれの方が大きかった。血の繋がった親子だからこそなのかもしれない。
家族は分かり合えるものと、どうしても思ってしまうから。分かり合えなかった時は辛いんだ。
人と人なんだから、血が繋がって居ようと居まいと、簡単には行かない。
家族だからって同じ方向を向けるとは限らない。立場が違うんだ。その人と同じ気持ちになる事は一生無い。
僕らは家族じゃない。血は繋がって居ないし、戸籍も違う。
でも、と僕は思う。
「謝る事は無いよ。だって、僕も美和の家族だから。勿論、わーさんも。」
「え……?」
「僕はもう家族だと思ってる。婚姻届を出さなくても。違う?わーさんと僕も家族だったよ。誰に認められなくてもちゃんと家族だった。」
「知ってる……」
「だから焦る事ない。昨日も今日も明日も、僕と美和は家族なんだから。」
いつからなんて知らなくていい。家族だと思った瞬間からもう家族なんだと思う。
逆に、血が繋がって居ても、縁を切りたいと考えてしまったらもう家族では居られないのだと思う。
周りに認めて貰うには、社会的に家族であると認められるには、【結婚】しかないと焦って不安を煽ってた。
いいんだ。僕らは誰に認められなくても、離れる気はない。
「結婚式も披露宴も婚姻届もまだ先になってしまうけれど、僕と一緒に生きてくれる?」
顔を上げた美和の目には、今にも零れそうな程、涙が溜まって居た。
「はい。」と言って瞬きした美和の涙が頬を伝い落ちた時、
美和の唇に僕はキスをした。
離した唇が醒める前に、僕は美和に「一緒に入る?」と訊いて居た。
以前、幾度か互いに冗談で口にした言葉は、
今は冗談にならなかった。
「うん。」
涙も乾き、落ち着いた笑顔で美和は頷いた。
「じゃあ、一緒に入ろう。」
─────なんて、数分前に言ってしまった事を、灯かりを点けなくても明るい夕方のお風呂場の中で思った。
わーさんと一緒にお風呂に入るのと同じに考えてしまったけれど、違った。
どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。つくりの違う体同士だから?
不思議だと思う。今まで僕は女性の裸の写真を見ても何とも思わなかったのに。
美術館の彫刻だって、何も感じなかったのに。
美和だけが特別な訳は何だろう?
多分誰にも分からない。僕自身だって理解出来ないのだから。
ずっと女性に興味は無い、一生向く事も無い、そう思って生きて来たのは何だったのかと笑ってしまう。
わーさんの事は勿論今でも愛してる。でも、美和への愛しさもちゃんとある。
「熱いね。」
「そう?あ、確かに元、顔赤い。もう出る?」
「そうしようかな。」
「じゃあ私も。」
「美和はもう少し温まったら?」
「ううん、一緒がいい。」
その意図は、なんて考えてはいけないのだろうけれど、もしもそうなら、と今は少し期待して心が傾く。
固く絞ったタオルで濡れた体を拭うと、乾いたバスタオルをそれぞれ体に巻き付けた。
お風呂上がり、体に籠もった熱が逃げて行く間のふわふわした感覚が嫌いな人はあまり居ないと思う。
「あー、まだ着替えたくないねぇ。」
僕らは普段、着替えを用意してからお風呂に入る。そしてお風呂場を出ると、洗面所兼脱衣所でパジャマに着替える。
しかし今日は着替えを用意して居ない。僕のスーツもまだ洗面所のハンガーに掛けたままだ。
「ゆっくり着替えれば丁度いいよ。」
普段使う箪笥のある居間に促しながら言った僕だったが、
美和の肩から背中、バスタオルに隠れて居ない肩甲骨のラインを見てしまったら、無性に触れたくなってしまった。
箪笥を開ける美和の背中に向かって訊ねた。
「先に布団敷いてもいい?」
まだ夕飯も用意して居ないのに、まだ陽も沈み切って居ないのに、
愚かになった僕の質問に、「うん、いいよ。」と同意してしまう美和も愚かだ。
バスタオルを解いて横になった布団の上で、僕らは獣のように本能を曝け出した。
ただ体の中から湧き出す欲望に従うだけの時間。
考えなくても体はちゃんと反応して、
人間は少しも賢くなかったと思い出しながら、
柔肌の熱に溺れた。
肌の火照りが落ち着いた頃、「あ、今の聞こえた?」と美和が僕に訊いた。
「何が?」と訊くと、美和のお腹が鳴った音との事。
「美和、お腹空いたの?」
「だって、お昼お蕎麦だけだったでしょう?おやつも食べてないし……」
美和は細いくせによく食べる。
僕はクスッと笑いながら「夕飯にしようか。僕が作る。待ってて。」と布団を抜け出し、着替え始めると、
「えっ?私も一緒に─────」と体を起こした美和は、だけどお腹を押さえて、顔を顰めた。
気付いた僕は膝を折り、傍らにあった美和のパジャマを羽織らせた。
「お腹痛いなら横になってて。出来たら呼ぶから。」
「でも……」
「そうしてくれないと嫌だ。あまり酷かったら病院行こう。」
「病院?行かないよ。恥ずかしい。」
「恥ずかしがってる場合じゃない。なんて、無理させた僕が言うべきじゃないけれど。」
「ううん、平気。横になって居れば治るから、お言葉に甘えて寝てるね。」
「うん。ごめん。」
「元、謝ったらヤダ。そうだ!悪いと思うならキスして。」
「言うようになったね。」
「言うよ。だって元の家族だもん。遠慮しないから。元もそうしてね。」
「勿論。キスだけで許してくれるの?」
「うん。」
横になった美和に、僕が償いのキスをすると、美和は満足そうに笑った。これで痛みが紛れるって言うのかな。
台所に一人立った僕は、お腹が痛くても食べられる物と考え、土鍋を取り出した。
鶏だしの玉子雑炊。
冷凍ストックの鶏胸肉で出汁を取り、その中に水で洗った冷やご飯を入れ、蓋をして少し炊いて、ご飯がふっくらしたら火を止め、溶き卵を回し入れ、ざっくり混ぜ、蓋をして数分待つ。
丁度三つ葉があったので、刻んでおく。
出来た雑炊を二人分、小どんぶりによそい、三つ葉を散らした。水を入れたグラスと一緒に小どんぶりをトレーに載せ、レンゲを添えて美和の元へと運んだ。
横になって居る美和は、目を閉じて居た。
待ちくたびれて眠ってしまったらしい。
このまま寝かせて、起こさずに居てあげたいけれど、それでは華奢な美和の体を益々痩せ衰えさせてしまうから。
「美和、ご飯出来たよ。起きられる?」
「ん……起きてるよ……」
そう言って擦る美和の瞼はとても重そうで、
「ご飯食べたら、寝ようね。」と言うと、
「元、先生みたい。」と美和が笑った。
「先生は美和でしょう?」
「元の方が先生似合いそう。高校とかの先生。それで女子生徒達にモテモテなの。」
「何それ。」
僕が先生だって?無理だよ、若者達に勉強を教えるなんて。
「元と出逢った瞬間がどんな場面でも、私は元を好きになったと思う。」
「それ、嬉しくないなあ。」
「え?」
「だって、外見だけって事でしょう?志歩理の結婚式の日、一言も会話して居ないのに好きになったなんて。」
おかしいよ、どんな人間かも分からない内に"好き"と言うのは。
「勿論、外見は好きだよ。元、かっこいいから。でもね、それ"だけ"の人にドキドキしたりしないでしょう?」
「確かに。美和より美人は沢山居るけれど、ドキドキしないね。」
「それ、複雑。」
「はははっ、ほら、おしゃべりはもうこれ位にして、食べよう。」
僕は美和の体を支え、トレーの上の小どんぶりにレンゲを入れて美和の手に渡した。
「元、好き。」
「うん、僕も。」
「私、しあわせ。元を好きで居る間中、ずっと。」
「変わってるね。」
僕はちらと遺影を見た。
わーさんの声を思い出す。
『元と暮らせてよかった』
あれはいつ言われたんだっけ。嬉しかったなあ。
わーさんは"好き"とか"愛してる"とかはあまり言わなかったけれど、愛されて居ると感じて居られた。それは、わーさんが態度で示してくれて居たから。
僕もそんな風になりたい。言葉で返すのではなくて、日々の暮らしの中で、美和が僕に愛されて居ると、しあわせだと感じてくれたらいい。
言葉の方が簡単だけど、それは多分心に残らない。
僕が死んだ後も、あの時こうしてくれたというしあわせな記憶が、愛になると思うから。
「いただきます。」
「いただきます。」
同じ言葉を発し、同じご飯を食べて、同じ時刻に眠りに就き、同じ時刻に目醒める。
良いとか悪いとか、正しいとか間違って居るとかではなく、一緒にしたいからする。
それがしあわせなんだって知った。そしてしあわせを分かち合う事が喜びなんだって知った。
一緒に生きてくれる人が居る。
その人は、僕以上に僕の命を日々見つめ続けてくれる。
だから僕は、その人の見えて居ない所にあるしあわせを拾って、その人に見せて、一緒に笑い合って暮らしたい。
前途洋々、
そう言える未来はまだ見えないし、おそらく多難の方が言い易いけれど、
そんなつまらない事はもう言わない。
何があろうとなかろうと、僕らは二人で乗り越える。
喧嘩した日も、笑い合えない事に直面しても、
お互いを信じて傍に居よう。
毎日分からない事だらけの中で生きるのは、
おそらくしあわせばかりではなく、
焦りや不安の方が大きくなって身動き取れなくなるかもしれない。
そんな時、君が
「そうそうない」って
心配性な僕の手を握って、笑い飛ばしてくれたら
丁度いい。
いつまでも、君が
「そうそうない」って
僕を安心させ続けて欲しい。
連休が終わる頃、僕らはまた離れ離れ。
でも、肉体同士は離れるけれど、心は傍にある。
わーさんと離れた時と似た寂しさ。
会えなくなる。
だけど美和は生きて居るからまた会える。
死んでしまったわーさんと違う事は、同じ世界に居て、いつでも会いに行けるから、"会いたい"という気持ちに諦めを付け難くなった事だ。
「元、気を付けてね!」
「うん、美和も。」
寂しさを隠し切れて居ないぎこちない笑顔で僕に手を振る美和。
寂しいよ、僕も。
でも仕方ないと、バックミラーを気にしないようにして、アクセルを踏んだ。
離れて数時間経って、もうすでに会いたくなってしまう気持ちを、
昔、何度も味わったなと、わーさんと付き合い始めの頃を思い出した。
わーさんと同じ家で暮らして、毎日会えるようになってからは忘れて居た気持ちを今、懐かしく蘇らせた。
きゅんと胸が切なく締め付けられる。
でも、大丈夫。
離れても、お互い好きで居るという事が、遠く離れた僕らをずっと繋いで居る。
明日に向かって生きる。君に毎日会う為に。




