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そうそうない  作者: 碧井 漪
40/43

40 2016年4月30日のこと

ぼんやり目を開けると、徐々に僕の頭の中から、重苦しいものがすうっと抜けて行った。


僕の頭を悩ませたもの、その正体は"夢"だったと、瞬きして気付いた。


隣に居る美和の寝顔を見た後、僕は仏壇のわーさんの写真へと視線を移した。


わーさん……怒って居るの?


ううん、でもまさか────わーさんなら、僕と美和がこれからも一緒に居る事を反対したりしないと思うんだ。


だけど、それならどうしてあんな夢を見たのだろう……わーさんが、僕と美和の結婚に反対する夢。


少しずつ薄れて行く夢の記憶を再び辿った。


僕と美和が、仏壇の前に正座する険しい表情のわーさんに向かって『僕達は結婚してこの家で暮らして行きます』と報告するという夢。


あり得ない話なのだけれど、夢の中ではそれが現実で、全く違和感を覚えなかった。


わーさんなら賛成してくれる……と僕も美和もそう思って居た。


しかし、わーさんは反対した。その理由は、彼の嫉妬からではなく、僕らの年齢差やこれからの生活についてなど、まるで心配する両親の如く。


はい、はい、とわーさんの話を聞きながら、僕はおかしいなと思って居た。わーさんなら僕らの事に反対しないだろうとずっと考えて居たからだ。


僕の大好きなわーさんが、こんなつまらない事を言うなんて……とガッカリしたのと同時に、いくらわーさんに反対されても僕は美和と離れる気はないという気持ちも深めて居た。


例え今、わーさんが生き返って『美和ちゃんと暮らすのは許さない。追い出して』と言われたとしても、僕は美和一人を追い出せないだろう自分が居る事に気付いた。


半分はわーさん、半分は美和を100%ずつ愛して居る、なんて言ったら本当に都合の良い人間みたいだけれど、どちらが好きで、どちらかを選ばなければならないという事は、僕には出来なくなって居た。


わーさんの事も愛して居るれど、僕は、美和も愛してしまったんだ。ごめん、わーさん。わーさんだけを愛してなくて。でも、わーさんへの想いを減らしたのではなく、美和への想いが新たに増えただけだって、わーさんには分かって欲しい。


美和と一緒に生きようと決めたのは、決して寂しいからというだけではなくて、本当に、美和の事を見て居たくて、美和にも僕の事を見て居て欲しくて、この先のどんな僕を見せる事も、どんな美和を見つめる事も、したいと思ったから。


今はまだ午前6時前。遅くまで話し込んで居たから少し眠い。


美和の事を起こしたくはないけれど、どうしてもその肌に触れたくなって、美和の頬に手を添えた。


ゆうべ付けた美和の耳の裏のキスマークは、この角度からは見えない。


耳の裏に指先を滑り込ませて、耳朶を持ち上げ確かめようとした時、美和の目がゆっくり開いた。


「ん……元?おはよう、どうしたの?」


まだ眠そうな目で僕を見る美和が可愛らしくて、ぎゅっと抱き締めたくなる衝動が湧き上がる。


しかしそんな僕を止めるのは、夢の中のわーさんの言葉。


『美和ちゃんは駄目だ。元とは釣り合わない。元をしあわせに出来ない』


わーさんはそんな事を言わないと思いつつも、もし本当に天国でそう思って居るなら、僕らを祝福してくれないなら、わーさんを恨みたくなってしまう自分の心に驚いた。


愛して居るのに恨むなんて、おかしい……だけど、反対されても美和と離れるなんて出来ない。





仏壇の遺影に見られて居るような感覚の中、敢えて僕は美和の耳朶を食んだ。


わーさん、僕は本気だから。一時の気の迷いなんかじゃない。


「ど、どうしたの、元?寝惚けて居るの?」


戸惑う美和の声を「違うよ。」とあしらい、今度は唇にキスした。


ほら、どう?本気だよ。嫉妬した?─────わーさんの声は何も聞こえなかった。


唇を離した僕は、再び遺影を見て後悔した。


さっきのは完全に夢で、天国のわーさんが本当にそう思って居る訳では無くて、ただ単に僕の不安があんな夢を見せたのだと、わーさんを恨むなんて間違って居たと反省と後悔が心の奥底から噴き出した。


「どうしたの?」


「ううん……」


変な夢を見てしまった事は、恥ずかしくて美和にはとても打ち明けられない。


僕は本当に45の男だろうか?精神年齢というものが美和より下に思えてしまう。


こんな状態でよく"結婚して欲しい"なんて言おうと思ったなと自分で自分に呆れる。


「朝ご飯、何がいい?ご飯にする?パンもあるよ?」


「うん……」


「まだ眠い?」


「少し。」


「今日はお休みだから、もうひと眠りしてもいいよ。」


そう言って、美和は布団の中からもぞもぞ起き上がった。


「どこ行くの?」


「んー?顔洗って、ご飯作るね。」


「まだいいよ。」


「そう?」


それでも布団から抜け出そうとする美和の手を掴んで引き留めてしまうと、


「ちょっと……お手洗い行って来るね。」と打ち明けられた。


「あ、ああ……僕も、行こうかな。」


4月最後の朝。


東京よりは涼しいけれど、暖房を点ける程ではなくなった。


季節の移ろいを感じた僕が、


本当は、この先迎えるのが怖かった夏を、


今年はきっと大丈夫だろうと、変な自信を、並んで鏡に映る二人の姿に貰った。


愛する人が生きて居て、隣で微笑んでくれる。


人によってはありふれて居て、大した事ではないと感謝もしない。


けれどそれが、どれだけしあわせな事なのか、僕はよく知って居る。


僕が想い、そして想われる、奇跡のような出逢いに感動した時、僕の心の裏側に、ひたと張り付いて居た恐怖が見る間に拡がる。


想いが深くなる程、離れる時の事ばかり考えてしまう僕の手を、そっと握って引っ張って、


「お腹空いたね。」と笑う君。


「うん。」


怖いけれど、進んでみたくなる。このまま君から愛を貰って、僕も君に何かを与えられるなら、この上ない。


朝起きて顔を洗い、一緒に朝食を食べて出掛ける。


夜になったら眠り、また朝を迎えての繰り返し。


そんなささやかな日常を、君と送りたい。


君には少し退屈かもしれないけれど、僕には十分過ぎて、


もしも君が、こんな暮らしを続けてもいいのなら、僕はずっとずっと君の手を離さない。


二人で「ごちそうさま」を言った後、僕から「出掛けよう」と切り出した。


"どこに?"と訊かれたら、どうはぐらかそうかと考えて居たのは無駄になった。




それから、


「どこへ行くの?」と美和に訊かれたのは、家から30分、車を走らせた辺りでだった。


普段通らない道。いつも利用する駅は随分前に過ぎ、お正月に言ったショッピングモールとも方向は違う為、さすがに美和も気になり始めたらしい。


「買い物。欲しい物があって。」


そう言うと美和は「そう……」と言って詮索しなくなった。


何を買うのか教えればよいのかもしれない。


けれどこれは、単にイジワルでもなくサプライズでもなく、何と言うのだろうな……


もう少し待ってて、とハンドルを握る僕の方が、実は待ち切れないで居るような。


(はや)る気持ちを宥めながら、ようやく目的地に辿り着いたのはお昼前。


連休で、道が渋滞して居なければ、もう少し早く着いただろうけれど。


「ここって……えっと、まさかだけど東京に行くの?」


美和が訊いたのも無理はない。


新幹線の駅のある商業施設の駐車場に車を停めたから。


だけど違う。単なる買い物だ。単なる────


「違うよ、単……いや、買い物。」


「何を買うの?」


「美和に選んで貰いたいんだけど、いいかな?」


「あっ、分かった!元が何を買いたいのか。」


えっ?分かっちゃったの?


ぎくりとしながら、シートベルトを外した僕は、気になるので訊いてみた。


「美和、僕が何を買うと思ってる?」


ドキドキ、ドキドキ……


「えっとね、ネクタイ、でしょ?」


何だ、良かった、まだ知られてない────ホッとしながら僕が首を横に振ると、


「えっ?じゃあ、スーツ?違うの?靴、ワイシャツ、鞄?ええと、名刺入れ!」僕の反応を見て美和は次々訊ねて来る。


「どれも違う。」思わずふっと笑みが零れる。


「えー?」


そうか……"欲しい物"と言ったから、美和は"僕の物"を買うと思って居るのだな。



違うよ。


正確には"僕の贈りたい物"だって事、まだここでは明かせないよ。


「行こう。」


「はーい。」


二人で並んで歩く。僕が差し出した手を、美和がそっと握った。


こういうのが嬉しい。


手のひらから伝わる熱が、僕の心も温めてくれる。


一人じゃないっていいなと感じる。


わーさんも両親もきっと、僕にこんなしあわせを味わって欲しいと願って居たのだろうと思ってしまう。


うん、ありがとう。


僕はしあわせだよ。きっとみんなが、僕にそうなって欲しいと願ってくれたからだと思う。


僕はしあわせ。


いつか悲しみに暮れる日を迎える事になるかもしれないけれど、今はそれを忘れて、ただただこのぬくもりに包まれて生きるから。


好きだよ、大好きだよ、美和。


二人だけのエレベーターの中で静かに顔を見合わせ、思う。





目的のお店は二階にある。


駅から流れ込む人波の中を、二人離れないように進みながら、


「ここだ。」とお店の前に着くと、


「えっ、ここ?」


と立ち竦んだ美和は、何かの間違いではないのかと言いたそうな顔をして僕を覗き込む。


込み上げる笑いを隠して、僕は美和の手を取り、お店に足を踏み入れた。


「こんにちは。いらっしゃいませ。」


店奥のショーケース傍から、黒の上品なスーツに身を包んだ女性が近付いて来る。


「何かお探しですか?」


目的の物を口にしても良かったが、そうする事で、今にも逃げ出しそうな美和の気持ちを煽るだけだと


「少し見させて頂いてもよろしいですか?」とだけ訊ねた。


「はい、勿論でございます。」


どうぞ、と女性は僕らから少し離れてショーケースの奥に再び控えた。


「んー……」どこにあるかな?


僕が店内を探し始めると、美和と繋いで居る手が徐々に離れた。


振り返ると美和は立ち止まったまま、浮かない顔をして居る。


「どうしたの?」


「ちょっと……お手洗い行って来ます。」


そう言うと美和は僕を一人残し、お店を出て行ってしまった。


一人では居た堪れなくなった僕は、奥の女性を気にしながら「すみません。」と言い訳のように呟いて、店内から逃げ出した。


ええと、トイレはどこだ?


天井から連れ下がる案内板を探してキョロキョロしながら急いだ。


秘密にし過ぎたのかな……正直に美和へ贈る"指輪"を買いに来たと言えば良かったのかな……


計画失敗の反省と後悔を抱え、僕は駅ビル奥の奥にあるトイレへ辿り着いた。


ひっそりしたそこは、僕の浮かれた頭を冷やすのに丁度良かった。


どこからか冷たい隙間風、ひゅうひゅうひゅう……はっくしゅん!


ポケットティッシュを取り出し、洟をかむと、僕もトイレへ行きたくなった。


しかし、美和が出て来るまで待って居ないと、行き違いになりそうで、その場で軽く足踏みしながら待つ事二分、美和が出て来た。


僕の前に来ると、美和は「ごめんね。」と言って視線を逸らした。


「ううん。」


急にトイレに行きたくなった事が恥ずかしかったのかなと思った。


それなら「僕も行って来ていい?」と通路奥にあるトイレを指差しながら訊くと、美和は黙って頷いた。


小走りでトイレへ向かう。周りの人の目には、トイレに行くのをギリギリまで我慢して居た人に映るかもしれないなと少し恥ずかしいが、美和を長く待たせたくはないので急いだ。


用を足してトイレの外に出ると、さっき二人で居た場所に美和が居なかった。


えっ?どこへ行ったんだ?まさかとは思うけれど、一人で帰ったなんて事はないよね?


キョロキョロしながら、さっきのお店の見える通路まで戻って美和を探すと、居た。


柱の陰で電話して居る。コソコソ、誰と?


もしやアカマツ?


もしもそうなら、と僕の中に嫉妬心が芽生える。


美和の視界に入る位置に移動し、そっと顔を覗き込む。それをした後で、僕だったらこんな事されたら嫌だと思うだろうなと、軽はずみな行動だった事を反省した。


電話中の美和は怒ったかな、と見ると、口に手を当て、頬を膨らませ、顔を赤くして……いやしかし、怒って居るのではなさそうだ。


笑いを堪えて居る?何故?


「はい、はい、分かりました。SNMホテルですね。後で行きます。」


え?ホテルに後で行く?


美和の口からその言葉を聞かされた僕の気持ちは、穏やかでは居られなくなった。


「それでは、後程。失礼します。」


電話を終えた美和に、


「今の電話、誰から?」と自分でもびっくりする位低い声で訊いて居た。


「え、っと……」僕を見上げる美和の表情は戸惑って居た。


さっき吹き出しそうになった時とは違って強張って、多分、僕の形相が悪くなったせいだろうと思う。


「今の、誰から?」


「志歩理社長からです。」


志歩理の話になると、丁寧になる。おそらく間違いはないのだろうが、


「どうして志歩理から?ホテルって何の事?」まだ疑問は残って居て、質問ではなく詰問になってしまった。



何にイライラして居るのか、どうして余裕が無くなって焦ってしまうのか、自分でも分からなかった。


「元、どうしたの?」


美和の目が心配そうに僕を見た。


ああ……そんな顔させたかった訳ではないのに。


僕は一体、何をやって居るんだと落ち込む。


「さっきのお店……で何を買いたかったの?」


美和は気遣うように、視線を下に向けて僕に訊いた。


言うべきか迷った。こんな、駅ビルの通路の端で、駅へと忙しなく行き交う人波を避けた中で、打ち明けたい話ではなかったから。


「美和に、贈りたい物があったんだ。」


僕が言うと、美和は少し驚いた顔を上げ、


「これがあるから、もういいのに……」と。僕が先月贈った真珠のネックレスに触れて言った。


「うん……だけど、そうじゃなくて────」


あれを、あれを買いたいと、どうしても僕の口から言葉が出せない。


「喉、渇いてない?コーヒー飲もうか?」


そう言って、美和は向こうの改札近くに見えるコーヒースタンドを指差した。


正直、それ程ではない。


美和もそうだろうと思う。けれど、僕は美和の提案に頷いた。


一旦、落ち着こう。僕らしくない。冷静になった方が、話が纏まりやすい事をよく知っている。


二人で入ったコーヒースタンド。


「ホットでいい?」


美和の声に僕が頷くと、


レジへ向かった美和が注文し、やがて蓋を付けた紙製のカップを二つ、トレーに載せて運んで来た。


僕は窓辺のカウンターにあった少し高めのスツールに腰掛けて居た。


「お待たせ致しました。ホットコーヒーです。」と美和はふざけて僕の前にトレーを置いた。


ここは笑うべき所か迷いつつ、


「ありがとうございます。」と微笑むと、


「お客様、素敵なので惚れちゃいそうです。」なんて言い出した。


なんだこれ、喫茶店のコントでもしたいのか?と苦笑いしながら、


「じゃあ、僕より素敵な人がお客として現れたら、今度はそっちに惚れちゃうんじゃないですか?」と言った。


「お客様より素敵な人が現れるなんて事はそうそうありません。」


「そうそう?という事は、あるかもしれないって事だよね?」


"絶対"は嘘っぽいと思うくせに、それでもこんな時は"絶対"と言って欲しいと思ってしまうなんて、大人げない。


「もしも、元より素敵な人が現れても、好きになれない自信ある。」


「え?」


「私、元しか好きになれないもん。」


「え、あ、それは……」耳まで熱くなる僕の顔は、きっと赤くなってしまったのだろう。


「あ!だけど一人居る。」


「え?」


「元より素敵かもって思う人。」


誰?まさかアカマツ?


(のぼ)った血が、一気に下がる。


美和は、ふふふと手で口を押さえて笑って、僕を焦らした。


「誰?」ふうと息を吐いて、不機嫌を装う僕の内心は、ドキドキして居る。


「わーさん。」


「えっ?わーさん?」意外な人の名前を聞かされて動揺する。


「わーさんが現れたら、仲良くなっちゃうかも。ううん、なりたい!」


「えー……それは……」複雑だ。


美和とわーさんが仲良くなって、僕だけ蚊帳の外なんて嫌だなあ。


百面相する僕を見た美和は、再びふふふと笑って、


「大丈夫、元のわーさんを取らないってば。それに、私は元が大好きだから!」なんて、さっきより大きい声でいうものだから、他の人に聞こえたんじゃないかと、僕はまた恥ずかしくなった。


「わーさんには勝てる自信ないな。」ぼそり漏らすと、


「そう?」美和がにこりとして僕の顔を覗き込む。


「だからかもしれない。」


「何が?」


「僕が、美和に贈りたいのは。」


「何を?」


「……指輪。」


「えっ?」


「贈ってもいいかな?婚約指輪。」


「え、っと、でも……」


「僕から貰うのは嫌って事?」


「ううん、嫌なんて思ってない。だけど、だけどね────」


「だけど、何?」


「……指輪を貰わなくても、元の事大好きだし、婚約だってするよ?」


「あ、ええと─────」追い込んだつもりが、追い込まれてしまった。プロポーズする前段階の指輪購入から(つまず)き、しかもプロポーズ前に"婚約する"と承諾されては、今回の、指輪を買う計画を、美和に黙って進めるべきだったと、詰めの甘さを痛感させられただけになってしまった。


ああ、もう駄目なのか?


さっきの店に戻って指輪を買うのは難しいのか?


色々考えて、でも結局浮かんだのは名案ではなく、志歩理ならどう言うかな?という事だけだった。


少し黙ったまま、コーヒーをあと一口飲んだら終わりという所で、僕は美和に切り出した。


「さっきの電話、志歩理からだって言ったよね?」


「え?うん。」


「ホテルがどうって、言ってなかった?」


「あ、そうなの!実は志歩理社長、こっちに遊びにいらしたって……」


「遊びに来た?いつ?」


「さっきホテルに荷物を預けて、これから観光するみたいです。」



「あのさ、美和。志歩理の事"社長"って呼ばなくていいから。それと丁寧な言葉も使わなくていい。普段通りでいいから。」


「あ、はい……じゃなくて、うん。」


ぎこちない美和に、何だか僕は僕と会う前の美和はこんな風だったのかなと考えた。


結婚式で見かけた僕に一目惚れなんてしなければ、今の美和の僕との暮らしは無かった訳だから、もしもあの日、僕らが出逢わなければ、今日という日は迎えられなかった。


あの日の僕のおかげで、今の僕のしあわせがある事に感謝しないといけないな。


ん?そう言えば、一目惚れって言ってたけれど、それって今も、美和は昔の僕に惚れてるって事?


「あのさ、美和。訊いてもいい?」


「何?」


「今も、昔の僕の方が好き?」


「えっ?何?"昔の僕"って。」


美和は、少し驚いたように言った後、笑った。


「だから、結婚式で見たって言ってた僕の事。」


「結婚式?志歩理社長の?」


「あ、社長って言うの禁止。」


「え、うん……えっと志歩理さんの結婚式で見た元が、何?」


「だから、その時の僕と今の僕と、その、どっちが好きなのかって事。」


つまり僕の言いたい事は、中身を何も知らない外見だけの僕と中身も全部知ってしまって外見も良くない僕と、どちらが好きかという事だ。


「どっちって、どっちも元でしょ、好きだよ?」


「そういう意味じゃなくて……」


「ああ、どちらがより好きかって事?元を知る前と知った後とって意味?」


にやりと笑った美和には、僕の考えはお見通しのようだった。


「……」子どもっぽい事を訊いてしまい、恥ずかしくなった僕は、黙って残りのコーヒーを啜った。


「私が好きなのは、元の事を何にも知らなかった時の、昔の元。」


「えっ?」という事は、今日の僕が好きなのではなく、一緒に暮らす前のあの日の僕が好きという事?僕は過去の僕に勝てないという事?


「……よりも、今の、色々駄目駄目な元が好き。」


「ええっ?」


"色々駄目駄目な僕"が好き?


それってどういう意味?


美和はふふっと笑って、


「今の元がだーいすき!」と隣に座る僕の肩に腕を回した。


急に肩に腕を回され、どきりとしながら僕は、努めて冷静に訊いた。


「駄目駄目なのに好きっておかしいよ。」


「駄目駄目って言ったから怒ってる?実は私、元の家に会いに行く前、元は完璧な人で、私の取り付く島もない人だと思って居たの。でも違った。寂しがり屋で甘えん坊ですごくやさしい人で、私、益々好きになっちゃって、どうしようもなくなった。」


「どうしようもなくなったって、何それ……」


美和はまたふふっと笑って、


「もうね、どんな駄目駄目な元を見せられても、ただ好きになっちゃうだけだって事。」と言った。


「何その、僕がもう駄目な部分しか出せない人みたいになってるのはどうして?」


苦笑いして言いながら、ホッとして居るのに気付いた。


どんな僕を見せても、美和は僕を嫌わず、傍に居てくれるらしい。


「その方がいいなって。」


「ん?どうして?」


駄目駄目な僕の方がいいと言うのはどうして?


「毎日完璧な元と居たら、私の出番が無くなっちゃうから。」


「毎日完璧な僕?」


「私は、寂しがりで甘えん坊で私を必要としてくれる元と暮らしたい。」


「え?」


「元もそうでしょう?完璧な私と不完全な私だったらどちらと暮らしたい?」


「完璧な美和。」


「えっ?!」


「完璧な美和を死ぬまでに見たいな。」


「それって、不完全な私と一緒に居てくれるって事?」


「年長者として、僕が美和の成長を見守るよ。」


「それはそれは……不束者ですが、よろしくお願い致します。」


「はい、こちらこそよろしくお願いします。」


二人、顔を見合わせ笑いながら握手を交わした。


変な約束。


未熟な二人が、死ぬまで補い合って暮らそうという約束。


男女ではあるけれど、結婚の約束という事ではない。


僕は結婚してもいいとは思うようになって居るけれど、美和は……違うのかな。


さっきも、指輪を贈ろうとしたら逃げ出したし、美和は、ただ僕と一緒に居たいだけで、結婚までは考えていないのかもしれない。


僕は勘違いして居たのかもしれない。


女性の方が結婚願望が強いだなんて。


美和は一般的な女性とは違う感じもするし、もしかすると僕が正式に結婚を申し込んだら、正式にお断りされてしまう、或いはある日突然、あの家から姿を消してしまう可能性だってある。


美和のこの笑顔の裏に、一体どんな思いが隠されて居るのかと考えたら、やっぱり女性は恐ろしい生き物なのかもしれないと思えた。


僕が"結婚したい"と思っても、美和がそう思わなければ、"結婚は出来ない"。


僕とわーさんは"結婚したい"と思っても、法律で"結婚出来なかった"。


人と人の縁って難しいなと思う。


さて、この後どうしようかと考えた。


さっきの店に戻って"婚約指輪"を買っても、美和は受け取ってはくれない様子。


結局、ここまで来たのは無駄足だったが、いや、待てよ?


「そろそろ出る?」


お客の入れ替わりの激しいコーヒースタンドでは長居し難い上、すでにコーヒーも飲み終えてしまって居る。


「そうだね。」


「この後、どこに────」僕と一緒に席を立った美和は、言い掛けてやめた。




再び指輪を買いに行くのではないかと警戒して居るのだろう。


僕はこの店を出て行こうと考えて居る場所を、店を出てすぐ口にした。


「志歩理の居るって言うホテル行こうか。」


「えっ?」


驚いた顔で僕を見上げ、すぐに頬を緩めた美和を見て、


僕は"見事な正解"を出せたなと安心した。


「どこだっけ、この近く?」


「そう。SNMホテルだって。」


「ふうん。ナビで調べてみるか。」


「あ、私分かると思う。」


「さすが、地元民。」


「元よりちょっとだけ長くこっちに住んでたってだけ。」


齢では僕に敵わない美和は、地元情報に詳しい事が嬉しいようだ。


それでいいよ。お互い完璧なんて求めないから一緒に生きて行けるんだ。


完璧があったとして、二人共それを持って居て、この先生きて行くのに、これ以上成長出来ないと分かってしまったら、完璧なんて本当につまらない物になってしまうと、僕は思うんだ。


二人、足りない物を補い合えるから、一緒に居られるとも思う。


僕に出来ない事、美和に出来ない事、二人共出来ない事、


出来ない事だらけの方が、色々考えられて退屈しない人生を送れるって事、


僕は今、初めて気付いたよ。


もっと駄目駄目な僕になってしまったら、多分だけど、美和は僕から離れずに、傍に居てくれるのかもしれないなと思えた。


これ以上"駄目駄目"な僕にならないように努力するけれど。


「美和、車こっち。」


駐車場内で僕が美和の手を引くと、


「あ、そうだっけ。ごめん。いつも私すぐ忘れちゃうね。」


美和が反対の手で握る僕の手の甲を撫でた。


両手から伝わる美和の熱に、"頼りにしてるからね"と言われて居るようで、嬉しいような擽ったいようなふわふわした気分になった。


美和が忘れてしまう事は僕が憶えて居るから、その代わり、僕の忘れてしまいそうな事を、美和が時々思い出させてくれればいいから。


美和から志歩理に連絡し、それからホテルに向かった。観光から戻り、先にホテルのロビーで待って居てくれたらしい志歩理は僕らを温かく、と言うより熱く出迎えてくれた。


志歩理は「美和ちゃーん!」と甲高い声を上げて駆け寄るなり、美和に抱き付いた。


いつも人前ではクールな志歩理が、こんなに甘えるなんてと面食らった。同時に、何かあったのかと心配にもなった。


しかし、それにしても、ずるい、というか何というか……女性同士が公衆の面前で抱き合って居ても、周囲から好奇の目で見られないのは、何故だろうかと思う。これは僕の偏見なのか、男性同士で人前で抱き合う方が風当たりが強いと思えてしまう。


「元気だったー?」


「はい、社……志歩理さんも。」


「あら、嬉しい。名前で呼んでくれるなんて。」


「すみません。お嫌でしたら───」


「嫌だなんてとんでもない。もっと呼んで。」


「はい……志歩理さん。」


「ほっぺ赤くして、かーわいい。ね、元啓?」


志歩理は一体、僕にどんな同意を求めて居るのか。素直に頷けないで無言を貫くと、


「早速だけど、お昼食べて、部屋に行きましょう。」と僕らを一階奥にあるというレストランの方向へ促した。


訊くべきか迷いつつも、早い方が良いだろうと僕は口を開いた。


「志歩理、泰道は?」


敢えて呼び捨てると、志歩理はびくんと体を揺らして、歩みを止めそうになったが、僕らを振り返らず、


「一人よ、いけない?羽を伸ばしに来たの。」と、それしか言わなかった。


何かあったのには違いないが、これ以上訊いても、何も答えてはくれなそう。


僕はジャケットの中のスマートフォンを気にした。


泰道に黙って来たのなら、今頃電話があるだろうと。


『志歩理が突然居なくなったんです!木村さん、ご存知ありませんか?』


なんて、半泣きで電話が─────ブルル、ブルル、ブルル……


【着信 虎越泰道】


丁度握って居たスマートフォンが震えた。


僕は前を歩く女性二人に気付かれないように、「ちょっと失礼。後で行く。」とトイレへ行く振りをして踵を返した。


ちらと後ろを気にしながら、レストランへ向かう二人から離れた所で電話に出ると、


『木村さん、志歩理がそちらに行ってませんか?』半泣きの泰道からで、僕の予想通りの展開になった事に驚いた。


「何かあったのですか?」


一先ず、志歩理がこちらに居る事は伏せて、泰道から事情を訊き出そうと考えた。


『いえ、別に大した事ではないのですが……』


泰道の元気のない声からして、二人の間に何かあった事は明らかだが、話してはくれず、


『そちらに行ってないならいいんです。それじゃ────』と泰道は電話を切りそうになったので、僕は慌てて


「来てます、志歩理。今一緒に居ます。」と言った。


『えええっ!』


泰道の叫び声をもろに聞いてしまった僕の右耳は、キーンとしてしばらく使い物にならなくなった。


右手で握って居たスマートフォンを左手に持ち替え、左耳から少し離した位置で僕はマイクに向かって「虎越さん、今どこですか?」と訊ねた。


『今、東京駅です』



「すぐこちらに来ますか?」


『勿論です』


泰道は力強い声で即答した。


志歩理は愛されていると、僕にも分かる。


「何があったのか分かりませんが、SNMホテルでお待ちして居ます。」


『分かりました。夕方頃には着くと思います。それまで志歩理の事、よろしくお願い致します』


「はい。」と僕が返事をすると、


『お願いします。それじゃ』と泰道は安心したように電話を切った。


ジャケットにスマートフォンを戻した僕は、ホッと息を吐きながら、レストランへ向かって歩いた。


喧嘩でもしたのかな。それで志歩理は泰道に行き先を告げず家を飛び出し、心配した泰道が心当たりに連絡して、いつでも迎えるように東京駅に居た……という所かな。


しかし、志歩理も僕と同い齢だって言うのに、黙って家出するなんて、随分子どもっぽい。


でも少し安心した。愛する人の事で感情を昂らせてしまうのは僕だけではないって事に。


老いも若いも、男も女も無いんだな、愛って。


どんな人も狂わせてしまう、強い力を秘めて居る。


知らなかった訳じゃないよ、取り扱い方を忘れてしまって居ただけ。


毎日触れて居ても、慣れる事なんて無いんだ。


愛と愛はちょっとぶつかっただけで、激しく反応してしまうものだって事を、よく憶えておかないとな、僕も。


レストランの入口を入った所で、窓際、奥のテーブル席に、志歩理と美和の姿を確認した僕は、静かに近付いた。


志歩理と談笑中の美和が、最初に僕に気付いて顔を上げた。


僕の立って居る位置は、丁度志歩理の後ろで、美和の様子から気付いた志歩理はパッと振り向いた。


「わ!びっくりしたー、元啓。気配消して近付かないでよ。」


「気配消してないよ。志歩理が話に夢中だったんじゃないか。」


「ほんと、あなたって学生時代から変わらないわねぇ。」


そう言って、屈託のない笑みを見せた志歩理の方こそ変わらないよ、と僕は思った。


「変わらないって、元啓さんはどんな学生だったんですか?」


志歩理の言った事に美和が食い付いた。


普段"元"と呼ばれて居るから、"元啓さん"と呼ばれるのが擽ったい。


「教えてあげるー。あとで私の部屋でゆっくりとね。」


志歩理の間の椅子に腰を下ろしながらそれを聞いた僕は、思わず「え?」と声を上げてしまった。


「あら、駄目なの?」


「いや、駄目と言うか、その……」


「この後、何か急ぎの用事でもあるの?」


急ぎ───ではないけれど、だけど、指輪の事がまだ解決して居ない。


"いや、今日はもう美和を説得して指輪を買いに行こうとしない方がいい"と考える僕と、


"いや、今日買うと決めたのだから、もう一度一緒に指輪を買いに行くべきだ"と考える僕が、頭の中で議論して居る。


そうした所で、結論は出なそうだが。


「美和ちゃん、どこか行くつもりだった?」


「いえ、特には……ね?元啓さん?」


同意を求める美和は、やはり僕が指輪を買う事に同意してくれないらしい。


今、美和の首に掛けられた真珠のネックレスのように、僕が黙って買うべきなのか迷う。


「どうしたの?元啓。具合悪い?」


「ああ、いや何でもない。」


「寝不足?美和ちゃんの事を考え過ぎて。」


にやりと笑う志歩理を見た途端、他の意味もありそうだと感じた僕の耳はカッと熱くなった。


男はすぐいやらしい発想をすると言われるが、僕はそんな事は無いと思って居る。


女だって十分、いやらしい。ただ、昔の志歩理はそんな事は言わず、どちらかと言うとその手の話は苦手だという奥手な女子大生だった……のに、今は随分違う。


付き合う男次第なのだろうか。


確かに、最初の結婚に失敗した後に再会した志歩理からは、学生時代にあった遠慮がちな部分が感じられなくなって居た。


色々あったんだな、なんて、知ったように一言で片付けられない志歩理の人生。


これからも色々あるに違いない。志歩理も僕も。


それでも毎日生きなくてはならない。一生懸命では無くても、それなりでも。


親友の僕に出来る事は高が知れて居る。


しかし、するのとしないのでは大差がある。


僕に出来る事は何か────そんなの分かる訳ない。志歩理にとっての最善が何か?という事なのだから。


「あ、そうだわ。元啓。」


何かを思い出したように言う志歩理に、僕はさっき泰道と電話して居た事を気付かれたかと身を固くした。


しかし違った。


「ランチだけど、三人ともコースにしちゃった。いいわよね?ワイン飲む?」


何だ、そんな事か。


「あ、いや、運転するから僕はいい。」


「夜までには抜けるわよ。」


夜?夜にはここに居ない……ではなく、そうだった。泰道が来るまで僕はここで志歩理を見張って居ないといけないのか。


事情が分からないから、志歩理が何をしようとしてここへ来たのかも分からない。変な事を考えてはいないと思うが、人と言うのは、自分でも抑え切れない衝動に駆られて何をしてしまうか分からない、危うい所のある生き物だから。



「じゃあ、夜に飲もうかな。」


「元啓も泊まって行くなら、部屋押さえるわ。」


「あ、いや、それはまだ分からないからいいよ。」


「あらそう。じゃあ美和ちゃん飲みましょ。夜も私の部屋で二人で飲みましょうね。楽しみー!」


志歩理は追加でワインを注文した。


あー……僕の計画なんてもう、粉々になって吹き飛ばされてしまった。


「"夜も"って、美和はここに泊まるって事?」


「えっ、と、あの……」ちらと志歩理を見る美和の表情からは、どうしたいのか窺えない。


「あなたも泊まるか、一人で帰りなさいよ。美和ちゃんは泊まりましょ?食事の後、二人でボディーエステ受けましょう?」


「は、はい。」


あーあ、すっかり尊敬する"志歩理社長"モードの美和だ。


志歩理に取られるとは……まあ、会うと決めた時から、そうなるかもとは思ってたけど。


しかしこれじゃあ、美和が志歩理を好きだったと以前の僕が誤解してたのも無理はないよね。


僕と居る時より笑顔で居続ける美和を見て、少し自信を失くしそうになる。


志歩理は女だから、僕より美和の気持ちがよく分かるのだろう。


僕から指輪を受け取りたくないという美和の気持ちも、多分……


僕の方が志歩理に色々訊きたいよ。美和の気持ちが、美和の考えが分からないと。


でも、今日志歩理に相談するのは難しそうだ。


久し振りの再会に燥ぐ女性二人を微笑ましく見ながら、僕はただ黙々とランチコースを腹に収めた。




やがて食事を終えると、午後二時前過ぎだった。予約したエステは三時からだと言う。


「私の部屋に行きましょ。」と誘われたが、「僕はいいよ。」と断った。


泰道が着くのは、さっきまで居たショッピングビル隣接駅。


時間を潰すついでに、迎えに行こう。


「読みたい本があるから、買って来る。」


「じゃあ、私の部屋の鍵を渡しておくわ。戻ったら部屋で待ってて。」


僕は志歩理の泊まる部屋のカードキーを手に入れた。



「夕方には戻って来てよね?ディナー予約しておくわ。」


「分かった。」


「気を付けて。」と美和は胸の前で手のひらを開いた。


「うん。」


『志歩理社長の事は任せて』


『頼むね』


僕らはそんな風に心の中でやり取りしたのではないかと、勝手に思ってしまう。


僕も美和も口にしなかったが、お互いに志歩理の様子がおかしい事には気付いて居た。


普段より明るく振舞って居る気がしてならない。


良い事があった時の機嫌の良さとは違う感じ。寧ろ、あった嫌な事を隠す時のような微笑みを湛える志歩理。


今は女同士で過ごしたそうな志歩理を美和に託して、僕は一人、さっきまで美和と居た駅ビルに車で向かった。


美和と燥ぐだけで解決する問題でもないと僕は睨んで居る。


泰道に黙って出て来たのは、それだけでもう、彼に関係があるという事が窺える。


まあ、理由は何なのか分からないが、夫婦なのだから、志歩理に起きた問題を知る権利が泰道にはあり、同じく、泰道に起きた問題を知る権利は志歩理にもある。


それが他人ではなく、夫婦というものか。


僕と美和はそうなるべきなのかと改めて考えてみる。


僕は、どちらかと言うと何でも話してくれない美和と暮らすなら、美和の夫として、知る権利を得たいと思うが、美和は僕の事を知る権利なんて今更、欲しいと思って居ないのかもしれない。


美和の方が僕の事を色々知って居るようだから。


それもこれも志歩理が吹き込んだのか、と思うと、やはり二人にするべきではなかったなという後悔も生じるが、まあ、今更だ。


知られて恥ずかしい過去なんてもう無い。


美和は僕の事をみんな知っても、それでも僕から離れて行かないらしい。


だけどある日突然、僕の事が嫌になって出て行くなんて言い出す日が来るかもしれないって事は覚悟しておかなければとは思う。


本当は嫌だけど。


覚悟なんてしたくない。どんな僕を知っても出て行かないで傍に居るという誓いを立てて欲しい……なんてそこまで望むのは罪だとも思う。


嫌になってしまった相手と無理やり一緒に暮らすなんて、僕なら嫌だ。


それには、僕がこの先美和に嫌われないようにするしかないけれど、元来女性の気持ちの分からない僕には、何が女性の機嫌を損ねるのか分からず、まるで地雷を踏むかの様に爆発させてしまいそうで怖い。


結婚、したい気もするが、志歩理の所のように固い絆で結ばれて居ても、こんな風になる事もあるのだから、付き合いの浅い僕らが結婚なんてしたら、どうなるか分かったものではない。


まして僕らは齢が二十も離れて居る。年の差婚をして、離婚したら、齢のせいにされる事は間違いない。


まあ、別れる理由なんて人それぞれだから、知らない人には言わせておけばいいけれど、そうではなくて僕は、別れるに至りたくない。


それならばと、結婚しなければ離婚もない。


だったら、このまま、籍を入れず、事実婚、若しくは恋人同士のまま、の方が長続きするのだったら、その方が良いのか……?


結婚して得になるのは僕だけで、美和にはあまり得はない?


……確かに、美和が僕と結婚しても得になる所が見つからない。


じゃあ僕は、美和に結婚を申し込まない方がいいのかな。


だから美和も、僕から指輪を受け取りたくないのかな。


分からないな────もしも、と考えた瞬間、心がスウッと冷たくなった。



美和の気持ちを疑う訳では無いけれど、僕が美和に傍に居て欲しいと思えば思う程、信じる力が弱まってしまって、美和の気持ちの本当の本当の所はどうなのかと、また見えなくなる。


何が僕を不安にさせて居るのだろう?


美和の言葉?態度?いや、それだけではない。決定的な何かが得られて居ないから、僕の心はどこか満ち足りて居ない。


何だろう……その"何か"を美和から与えられたらきっと、僕は安心出来ると思う。


満ち足りて、不安など感じず、ただ平穏でしあわせな毎日を送れると思う。


安易かな。


しかし、その"何か"が分からなければ、僕はいつまでも美和の気持ちを心から信じる事が出来ず、不安なまま一緒に暮らすのだろう。


こんな不安、わーさんの時には感じなかった。


何故だろう。わーさんと美和の違いは性別だけ。


"好き"な気持ちに変わりはない。同じ、本当に同じ、それなのに、わーさんの時とは何かが違う。


深く考えたくない事が一つある。


それは、わーさんが男で美和が女だという事。


僕は、男性しか愛せない人間なのだろうか?


美和に対して抱える想いは、"恋"や"愛"と勘違いした"寂しさを昇華させる為だけのもの"なのだろうか?


この先、僕らは一体どうなるのか。不安ばかり浮かぶ。


もしも今、目の前に占い師が現れたら、この不安をどうにかしたくて、この先の僕らの事を占って貰うかもしれない。


ただ、その結果が『二人は一緒にならない方がいい』というものだったら、多分僕はもっと悩んでしまう事になるだろうけれど。


結局の所、何が正解かは分からない。


だから悩むんだ。最善への欲を捨て切れずに。


最悪になってもいいじゃないか、と言えないのは、僕だけの未来では無いから。


二人の未来だから。


欲が人を狂わせる。


愛も欲だ。愛したい、愛されたい、結局自分の想いを遂げたいだけの欲の塊をここに抱えて居るから苦しいんだ。


手離してしまえば楽になるのに、どうして人は愛に執着する生き物なのか不思議だ。


僕も美和もわーさんも生き物。


『俺が死んだら、俺の事は忘れていいから』


わーさんは、"愛されたい"という欲を手離せたのかもしれない。


どうして?


僕は多分、美和に対してそう言ってあげられそうにない。


これが、"愛"ではないから言えないのか?


そして美和も、僕に嘘をついたまま、あの家で一生暮らすつもりだった。


僕を"愛したい"だけで、僕から"愛されたい"とは望まなかった。


どうして?


二人共、僕を愛してくれるだけで、まるで、僕の"愛"は要らないと欲して居ないかのようで、僕は傷付く。


僕がおかしいのかな。


僕なら"愛する"より"愛されたい"。


その方が、ずっとずっと満たされる気がする。


違う?僕の考えは間違って居る?誰か教えてよ。


僕はすっかり自信を失くしてしまった。


僕の人生45年の間に感じて来た"愛"というものが、実はみんなの言う"愛"とは異なって居るのではないかと思えたからだ。


僕の愛と美和の愛とわーさんの愛は同じではないの?


ざわ、ざわざわ、その音にふと顔を上げると、店看板が目に入って驚いた。なんと、運転して居た筈の僕は、さっき美和と覗いたショップ前に立って居た。


プロポーズするなら指輪だ、と思い、買おうとして居たが、当の美和が乗り気ではない事を、僕はどうする事も出来ない。


それなりの婚約指輪を買ってプロポーズしたら、全員が全員上手く行くという訳では無い、その事を忘れて居た訳では無いが、うん……僕はだんだん美和の気持ちが分からなくなって来て居た。


僕なら、わーさんが指輪をくれると言うなら、うん!と喜んで居たと思う。


美和はそうではないのかもしれない。


真珠のネックレスの時は喜んでくれて、美和は今日も着けて居た。


サイズも分からないし、何より、買っても受け取って貰えなければ無駄になってしまう。


コトン、胸の奥で、何かが置かれる音がする。


僕だけ一人、置いてけぼり。


愛されて居る筈なのに、何だか寂しい。


それでも僕は美和を愛して居る、けれどこれが本当の愛ではないのかもしれないと疑ってしまう。


溜め息をいくつ吐いても、僕の頭の中は重く、胸はキュッと締めつけられたままだった。


ぼんやりそうして何分も経たない内に、僕のポケットが揺れた。


電話?と、スマートフォンを握ると、


【着信 虎越泰道】と画面に表示されていた。


この場所は人通りがあって少しうるさかった。


僕は、その電話に出ながら、さっき行ったトイレのある方の静かな通路へ移動した。


泰道はもうすぐ駅に着くそうだ。



僕は用を足して、泰道と待ち合わせた駅改札へ向かった。


その間、僕の意識は、二人連れの左手薬指に集中した。


二人共同じ指輪をして居るのは、夫婦であるだろう。


若い女性の方だけ指輪をして居るのは婚約中、若しくはただのファッション。


男性同士は……うん、指輪をして居る人は見つからなかった。


僕らも指輪はしなかった。けれど、そんな物が無くても、心で繋がって居るからいいと思って居た。


男同士の方が、制約が多い。人前で手を繋いだり腕を組んだり出来ないし、キスだって……と僕らは思って居た。


今は違うのかな、と言うより、人によるのかな。


別に、外でイチャつけなかった事を後悔して居る訳では無い。そうじゃない、ただ何だか、わーさんの時より美和に愛されて居ない気がしてしまうんだ。


男と女の考え方の違い、行動の違いもあるのだと思うけれど、もしもわーさんなら、指輪の事だって受け入れてくれたのではないかなんて。


わーさんが女だったら、そして今生きて居て美和の隣に立ったら、僕の気持ちは揺らぐかもしれない。


わーさんとは長い付き合いで、美和の事より知り尽くしている。背中のほくろの位置まで。


気心知れた相手と一緒に居るのは、安心しか生まない。


よく知らない相手、知り合ったばかりの相手と一緒に居て、安心感を得られるには時間が掛かると思う。不安や疑心なら沢山湧いて来るのに。


美和とは知り合ったばかりではないとは言え、わーさんほどの安心感は得られていない。


安心感=愛とは思わないけれど、安心感も愛を育むには必要だと思うんだ。


美和について、僕の知らない事が多分まだある。


例えば、美和の誕生日、血液型。


初恋の人────って、それは僕だったらしいけれど。


家族構成は聞いた。両親と妹三人。


学生時代のあだ名が"わーさん"だった事。


性格上、二人は似て居ると感じる事がある。


だから好きになってしまったのかは分からないけれど。


美和と居ると、わーさんを思い出して、忘れられない。でも苦しくない思い出し方で、それは美和が居てくれるせいだって分かって居る。


一人では辛くて思い出せないわーさんとの思い出も、美和と一緒なら鮮やかに蘇らせても怖くない。


それが美和と一緒に居たい理由、そしてそれが、美和を愛して居るという証拠にならないかな?


昔の僕はこうではなかった。


考えてもどうにもならない事を考えるようになったのは、わーさんから病気を打ち明けられてからだったように思う。


ただ、考えたって、命はどうにも出来なかった。


人の気持ちだって同じ。


僕がどうこう考えたって、どうにもならないって分かって居るのに。


最後になると思う恋をして、最後に欲しいと思った愛を掴みかけて居る僕は、慎重になってしまう。


大胆に進めて、失敗して、それで失ってもいいなんて事、今の僕には出来ない。


怖いよ?臆病だよ?


大人の僕は、子どもの僕より、色々知り過ぎて色々考え過ぎて、弱いんだ。


「木村さん?木村さーん!」


雑踏を潜り抜けた声が僕の耳に届いて顔を上げた時、現在の僕の待ち人が、もう目前に迫って居た。


息を切らして額に汗する彼・虎越泰道は、有ろう事か突然僕に抱き付いた。


「木村さーん!」


駅の改札口から十数メートルの人の大勢行き交う場所で、情けない声を上げながら、僕を抱き締める泰道。僕は気が気では無かった。


親しい友人、仮に志歩理が男性だったとしてこのようにされるのならまだ理解出来るが、僕は泰道とはそれ程親しいという認識はなく、仮にわーさんとだとしても、酒に酔っ払ってだってこんな人の多い場所では抱きあったりしない。


「虎越さん、あの、ちょっと……」


引き剥がそうとすると、泰道は、ううっと嗚咽を漏らした。


「木村さんが居てくれて良かった……」


いや、僕はあなたにここまで言わせるような事は何もしていないと思うのだけれど、そう思ってくれるのなら────「虎越さん、離して貰えませんか?」人目が気になる。


しかし、彼に僕の声は届いて居ないのか、僕の肩に顔を埋めたまま、彼は泣いて居た。


僕はゲイだった。けれど、ゲイだってすべての男が好きと言う訳では無い。


ノーマルな男だって、世の中すべての女が好みという訳では無いと思う。


そして、わーさんという伴侶を得てからは、たとえわーさんより顔が良く性格が良い相手が現れたとしても心動く事は無かった。


それはゲイの男でもそうではなくても同じではないかなと思う。


この泰道だって、志歩理より従順で、泰道を振り回さない女が目の前に現れて、泰道を誘惑したとしても、そちらには靡かないだろう。


この人が自分の運命の人だと決めた相手が居れば、どんなに魅力的な相手が現れても、簡単に心は許せないものだ。


もしも、結婚して居て不倫をしてしまう人が居るのなら、それはもう、伴侶に対して運命を求めなくなったという事だ。


僕だったら、もしもわーさんが浮気をしてしまったのなら、僕の役目は終わったと受け入れ、彼から離れて居ただろう。


愛して居るから、僕より大切な愛を見つけてしまった彼の心を、縛って置きたいとは考えなかったからだ。


僕を想わない彼に縋り付いても、お互い辛いだけ。


ただ幸いな事に彼は僕一筋で居てくれて、僕も彼以外の男にときめく事はもうなかった。


それなのに今の僕は、何故か美和を好きになり、今の僕は、何故か好きでも親しくも無い男に抱き付かれて居る。


「虎越さん、とにかくここでは何ですから、行きましょう。」


泰道の体を引き剥がしながら促すと、


「行くってどこに?」と訊かれた。




「志歩理の居るホテルです。」あんなに心配して居たくせに、早く志歩理の元へとは思って居ないのだろうかすと不思議だった。


「その前に─────」と、泰道に連れて切られたのは、何故かさっき美和と入ってすぐに出てしまったショップだった。


ブランド時計やアクセサリーが並ぶこの店。


奥に立つ女性も僕の顔を憶えて居るに違いない、また冷やかしに来たと思われて居るかも……と思うと、僕はすぐに店を出たくなった。


逃げ出そうとする僕に気付いて居ないのか、泰道は


「木村さん、これどうですかね。志歩理に似合うと思うんですけど、好みじゃないかなぁ?」と腕を引っ張りながら訊いて来る。


「えっ?さあ……僕には女性の好むアクセサリーは分かりませんので。」と言った後、すぐに僕はさっきの女性店員から送られる視線を感じて固まった。


『だったら何故、さっき指輪を選ぼうとしてたのよ?』


向けられる視線で、彼女がそう考えて居る気がして、本当に恥ずかしかった。


『婚約者に振られた男が友人連れてやって来たわ』と笑われて居るとは考え過ぎだろうが、遠くは無いだろう。


美和に振られたのではない、と示すなら、何か指輪を買えば女性店員から掛けられて居る疑いは晴れるだろうが、問題はその買った予備輪をどうするかという事だ。


美和には受け取って貰えない、僕には必要ない、志歩理に渡すのも違う。


恥も疑いも気にしなければいい。僕は何も買わない────と決めた時、


「木村さんも、彼女に買ったらいいんじゃないですか?婚約指輪。」と要らぬ事を泰道が漏らしてしまう。


「僕の事より、虎越さんこそ……これなんてどうですか?」


僕はショーケースの中を見下ろしながら指を指した。


志歩理が好みそうな赤い石、これはルビーのネックレスかな?


「うーん、そうですね。色はいいけど……これの指輪かイヤリングってありますか?」


「はい。同じデザインの物はございませんが、お色が同じお品でしたらございます。」


奥に引っ込んだ女性は、少ししてトレーに載せてジュエリーを運んで来た。


金に赤い石の付いた指輪、ブレスレット、イヤリング、加えて、文字盤に赤い石をあしらった銀色の時計まで。


「うーん、どれにしようかなぁ。指輪がいいけど、かなり持ってるし……」


突然志歩理がこちらにやって来た理由も、志歩理を追い掛けて来た泰道がここでジュエリーを買う理由も、そして僕が一人ここに居る理由も、僕のぼんやりしてしまう頭では何も分からないまま、ただ時だけが過ぎて行く。


知りたい事はいずれ分かる。けれど分かったその時、すべてが上手く進んだ後とは限らないから、人は事前に色々な事を知りたいと思うのだろう。


僕が今ここに居る理由に深い意味は無いけれど、僕の意識次第では、ここに"偶然"居るのではなく、ここに居るのは"必然"である、と出来る。


「それじゃあ、これにします。」指輪がいいと言って居た泰道が選んだのは、意外にもイヤリングだった。


それも、耳朶に収まる小ぶりのものではなく、縦に長くユラユラ揺れる大ぶりのデザインで、仕事中に着けるには向かない形の品だった。


これには、口を挟まないつもりだった僕もつい、


「本当にそれでいいのですか?」と訊く程だった。


「はい。こういうの、持ってないと思うので。」


なるほど、そう考えればいいのか。しかし、それなら何故、最初に僕に志歩理の好みを訊いたのかと言いたくなる。


まあいいけれど。


これを包んでと、泰道は財布からカードをスッと取り出して女性に渡した。


女性は、品物とカードを預かり、奥に引っ込んだ。


二人だけになった所で、


「何があったのですか?」と小さな声で訊くと、


「それより、これなんかいいと思いますけど、どうですか?彼女に。」と泰道が言った。


"彼女"と言うのは"美和"の事に違いない。


指された品は、プラチナダイヤの婚約指輪だった。


「サイズが分からないから……」


「志歩理に訊いたらいいですよ。志歩理は大抵の女性社員の指のサイズを把握して居る筈だから。」


「えっ?そうなのですか?」初耳だ。志歩理が女性社員の指のサイズを知って居るなんて。


「全員かどうかは知らないですけど、時々、志歩理は親しくなった女性社員に自分のアクセサリーを譲ってますから。」


「じゃあ、今日買ったイヤリングも?」


「いずれそうなるかも。」


「さすがに、人から贈られた物をあげるなんて志歩理はしないと思いますけれど。」


「使わないよりは使った方がいいって言いますよ?私より似合う人にあげたいって。」


「それじゃあ、虎越さんがアクセサリーを贈る意味がなくなるじゃないですか。」


「意味?ありますよ。気持ちです。俺の気持ちを形にして渡す事が重要なんです。」


虎越泰道は変わったなと思う。




数年前の彼は前妻と離婚して、手に入れたマイホームを売り、志歩理に振られた状態で単身故郷に戻った。


一文無し、と言っても志保理から借りたお金で友人と会社を興し、それが成功して、今や志歩理と肩を並べる程の事業主に変貌。現在、一流ブランドのスーツをさらりと着こなすまでに成長して居る。


しかし彼の心根はあまり変わって居ないように思う。


大金を持つ前と同じく、腰は低くて嫌味な所は無いし、何より志歩理一筋で、献身的に支え続けて居る所は、どんな男より信頼出来る。


決して男前ではなく、切れ者でもないこの男を、どうして志歩理が好きなのか、周りは不思議がるかもしれないが、僕には分かる。彼がとても善良な人だからだ。


わーさんと美和と同じ、裏が無い────あ、いや、美和は分からないか……僕の知らない女という生き物であるから。


今、僕は美和の事が信じられなくなって居る。


僕の事を好きで居てくれるようだけれど、それは僕の好きとは違う気がする。


結婚も、意識して居たのは僕だけだって事がはっきり分かった今、この先の未来が塗り潰されたような気分だ。


やがて女性店員が戻って来て、泰道にクレジットカードと品物の入った紙袋を手渡した。


「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。」


丁寧なお辞儀で見送られた泰道と僕は店を後にした。


「次はアレです。」


「アレとは?」


スマートフォン片手の泰道に付いて行くと、そこはお花屋さんだった。


「花も買うんですか?」


「イヤリングだけだと心許ないので。あと、何かスイーツも。」と地下街の入口を指差した。


アクセサリー、花、お菓子、どれも女性の心を動かす物には違いないが、それらを贈られたからと言って、簡単に心を許して貰えるとは考えない方がいい事は、僕のみならず泰道にも分かって居る筈だが。


特に志歩理の心を動かすのは、並大抵の事ではないと、親友の僕からお墨付きを出そう。


そうして、泰道の考える"献上品"三種を全て揃えると、「喉渇きましたね。コーヒーでも飲みませんか?」と少し安心したように微笑んだ泰道から誘われた。


ジュエリーショップに引き続き、こちらも二度目のコーヒースタンド。


相手は違えど、同じ行動を同じ日に何度もするのは本当に変な感じだ。


泰道はトレーに載せて運んで来たコーヒーのカップを、やはり窓際を選んだ僕の前のカウンターテーブルの上に置いた。


泰道が腰を下ろすタイミングを見計らって、僕はずっと痞えていた問いを吐き出した。


「志歩理と何があったのですか?」


熱いコーヒーを一口啜って、あちちと舌先を出した泰道は、苦笑いしながら


「正直、分かりません。何があったのか。けれど、何かあったのでしょうね。突然行き先も言わず度に出るなんて、よっぽど。」と言った。


僕は夫婦になった事が無いから分からないけれど、もしも母が志歩理のように、夫に一言も無しに家を出たのなら、父は心配もするし、母が家に戻った時に怒るだろう。


それが父に心当たりのある事で、父が原因であるならば、父のせいだと言えるが、特に父に原因が無く、母が自分の気まぐれで、父に黙って家を出たと言うのなら、父が怒っても仕方ないと思える。


しかし、泰道は怒っては居ない。志歩理の尻に敷かれっぱなしだからなのか?


「怒ってないんですか?」


「怒ったら、どうにかなるならそうするでしょうね。」


志歩理が年上だからとか少しはあるのかもしれないけれど、違うんだなと思う。僕の知る夫婦像と、虎越夫妻は違う。いい意味で、二人は夫婦である前に人と人で、上下関係など無い。


僕が抱いて居た昔ながらの夫婦像は、男が年上、夫が妻を従えて、更に子どもが居れば、子ども達の前で妻が夫を立てるというもの。


だからって、僕がもしも美和と夫婦になったらそうしようとは思わないけれど。


それでも志歩理と泰道夫婦の独特な関係性を知ると、僕の持って居た結婚観と夫婦像は豆腐のように軟らかくなり、揺れた。


「いつもですか?志歩理に振り回されるのは。」


訊くまでも無いのに、僕は泰道の口からどんな言葉を待って居ると言うのか。


「いつもです。それでも好きなんですよ。」


そう言って、口の端を上げた泰道を見た途端、僕の胸の奥がドキリとした。


顔も仕草も声も違うのに、わーさんを思い出してしまった。


その笑顔、やさしい目、いつも僕に向けられていたわーさんのそれと同じだった。


「何度困らされても?」


僕がそうだった。何度も拗ねて、よくわーさんを困らせた。見えない愛が本当にここにあるのかを試すみたいに。


「困らせてくれるって事は、まだ何か俺に期待してくれて居るって事ですよね?」


僕は言葉を失った。そんな風に考えられるなんてと。


今日まで僕は心の隅で泰道を馬鹿にして居たのかもしれない。いや、馬鹿にしてないとしても、尊敬はしていなかった。


けれど、今、彼は僕が尊敬したい人になった。僕より年下でもきっと、経験豊富な彼は、僕より色々な苦難を乗り越えて来たのかもしれない。


「だけど、志歩理がプレゼントだけで簡単に機嫌を直してくれますか?」


さっきの志歩理の頑なな様子を見た僕が、無理だと思ってそう言うと、


「プレゼントは、ただお金で買っただけの"物"ではなく、目で見えない人の気持ちを形にして表す"事"だって言うのが志歩理の口癖で、まあそこで終わらず、気持ちが大きければ金額もそれなりにしなさいって言うんですけれどね、勿論、これだけで機嫌を直してくれる人ではないので大変ですけど、取り敢えず、今の僕に出来る事を全部してみて、また考えます。」


昔の、気が小さく背中を丸めて居ただけの泰道はどこにも居なかった。今の泰道からは、真っ直ぐ前を向いて確実に進もうとする強さをただ感じた。


プレゼントは気持ちかあ。


本当に今の僕の気持ちを形にして表せるのなら、本当にそうなら、僕の気持ちを形にして美和に渡したらどうだろうかと考え始めた。


受け取って貰えないならと、形にするのを諦めてしまった僕の気持ち。


けれど、まだその気持ちはここに、僕の胸の奥にある。


受け取って貰えないかもしれないと、僕の気持ちをまだ表に出しても居なかった事に気付いた。


「虎越さん、お願いがあるのですが────」





それから約二時間後、僕ら二人は志歩理の泊まるホテルの部屋の隣に居た。


泰道が空いて居たその部屋にチェックインした。


志歩理にはまだ会いに行って居ない。僕がホテルに戻った事も、泰道が志歩理を追い掛けてこのホテルに着いた事もまだ知らせて居ない。


そして僕と泰道は、部屋のダブルベッドの上で、初の共同作業と言うのかこれは─────


「知りませんでした。虎越さんがこんなにお上手だったなんて。しかしすみません。無理させて……」


「お役に立てたのなら、嬉しいです。」


「本当にありがとうございます。」


「お礼なんていいですよ。それより、本番はこれからです。」


「はい。」


僕と泰道は、お互いに顔を見合わせ、頷いた。


ダブルベッドの上での泰道との共同作業は二十分足らずで終わった。先に作業を終えたのは泰道。顔に似合わず器用な男だと、仕上がりの美しさを見て、改めて感心した。


引き換え僕は、やっとの思いで完成させた。途中、何度か指に針を刺しながら。


僕が駅ビルで泰道に頼んだのは、買い物に付き合って欲しいという事。


ホテルに戻る二時間足らずの間、僕は泰道と、僕一人では買えなかった物を買い回った。


「ありがとう。」


「どういたしまして。」


まず、スーツを買った。今夜のディナーで着る以外の目的で。


そしてスイーツ、花、最後にメインの物を、ここまで来たらという思いで、やっと買えた。


ホテルに戻った泰道は、志歩理の隣の部屋を押さえ、二人で籠もったその部屋のダブルベッドの上で、僕らが何の共同作業をしていたかと言うと、買ったスーツのスラックスの裾を手纏(てまつ)りして居た。


スーツを買ったはいいが、時間内に仕上げられないと聞き、泰道が「それなら俺が直します。」と言ってくれた。


本当に出来るの?と半信半疑だったけれど、時間もないしとスーツを持ってホテルに戻った。まあ僕も少しなら縫えるかと二人で始めたら、泰道は今代表を務める会社を始めた時、何でもやって鍛えられたという事を話してくれた。


何でもやった事で、少し自信になったそう。そして二年後、志歩理に借りたお金を用意して志歩理に会いに行った時の事を話してくれた。


志歩理にはその時、付き合って居る男が居て、その男を見た時、負けたと思った泰道は黙って引き下がろうとしたらしい。


気付いた志歩理は泰道を追って来て、二人はめでたくハッピーエンド……の先には、「喧嘩ばっかりですよ。一方的に怒られてばっかり。」トホホ顔で笑う泰道。


でも、不幸そうには見えないと言うと、


「まあ、完璧なしあわせって、絶対に喧嘩しないって事じゃないって、俺も志歩理も分かって居るから安心して喧嘩出来るんでしょうね。」だって。


安心して喧嘩なんて、それは二人が何があっても離れないとお互い信じて居るから出来る事なんだそう。


じゃあ、簡単に仲直り出来るんだなと僕も安心すると、それは違うらしい。


誘われたディナーの時間が近付くと、泰道は落ち着きが無くなって来た。


今の段階だと、本来は僕の方が緊張して然るべきなのに、泰道を見て居たら、緊張する暇が無くなってしまった。


泰道の問題は、僕の問題より深刻そうだ。まあ、相手があの志歩理では、どんな男でも大変だろう。


それに比べたら美和は────だけど、こっちも別の意味で慎重になってしまう。


志歩理はまだ泰道がこのホテルに来て居る事を知らない。


先程から何度かかかって来た電話で、志歩理と美和はレストランに向かうと言って、僕にも早く来るようにと催促されて居る。


あまり待たせて、志歩理の機嫌を損ねるのは良くない。


「そろそろ行きましょう。」


急いで支度を終えた僕が言うと、泰道も「そうですね……」と胃の辺りを手で押さえながら、一緒に部屋を出た。



エレベーターに乗り、一階へ向かう最中(さなか)、闇を背に僕の僕らの姿を映すガラス壁に向かって、泰道は苦笑いしながら


「木村さんがスーツ着ると恰好良いですよね。なんか、こっちの方が木村さんって感じがします。」と言った。


お世辞だろうが、上手いお世辞になって居ないと感じる。


スーツを着ない僕は"恰好良くなく"て、"らしくない"と言われたみたいで。


だから仕返しのつもりで言った。


「僕は見かけだけです。虎越さんの方が何でも出来て恰好良いと思いますよ?」


「え、えーっ……?」


僕のはお世辞ではないから、泰道は困ってしまったようだ。


しかし、今日は本当に彼が居てくれたおかげで、今ここに僕は立てて居ると感じる。


お礼を言いたかったが、彼がこれから志歩理と対峙すると言う時には相応しくない言葉のような気がして、すべて上手く行ったら言おうと決めて、呑み込んだ。


「着きました。どうぞ。」


一階に着いて、扉が開いてもなお動こうとしない泰道の緊張を貰ってあげられればいいけれど、これから美和に話す事を想うと、僕の余裕も無くなった。


一歩踏み出す泰道の脚は震えて居た。


夫婦、と一言で言う中に、僕ら未婚者の知らない事は、どのくらいあるのだろう。


色々あった中で結ばれた志歩理と泰道夫婦の絆は、周りから見たら強固で揺るがないものに見えた。


それでも、二人にしか分からない、避けて通れない問題があるらしい。


僕と美和は、この先乗り越えて行けるのかな。


まだ始まったばかりの僕ら。齢だって離れて居て、お互い知らない部分も多いのに、僕のポケットに忍ばせた決意は、二人にとって間違った選択を導くものになるかもしれない。


僕が一番恐れているのは、美和を不幸にしてしまう事。


震えながら歩く泰道の後に付いて歩いて居た僕だったけれど、レストランの入口で立ち止まった泰道と前後を入れ替え、僕が先になって志歩理のテーブルへと向かった。


「あっ、やっと来た!こっちよ。」


僕に気付いたイブニングドレス姿の志歩理が手を挙げた。


楽しそうにして居た志歩理の表情は、僕の後ろに居る泰道の顔を見て一変した。


それに気付いた泰道も、僕の後ろに隠れるように縮こまった。


前途多難だな────と溜め息を堪えた僕は、志歩理の隣に座る美和に視線を向けた。


志歩理と同じく、肩と背を露出したドレスに身を包む美和の肌は、僕の想像より白く瑞々しかった。


どきりとして思わず目を逸らした。見てはいけないものを見てしまったような僕の前で、美和も気まずそうに僕から視線を逸らした。


どきどきどき……お互い何だか変な感じだ。


しかし、本当はそれどころではない事を、僕の後ろから微かに感じる怯えで思い出した。


口の端で不機嫌を表す志歩理は、手にしたシャンパングラスをぐいと呷った。


志歩理の隣の椅子に掛けようとしない泰道の背中を手で促しながら、僕は


「僕らも飲んでいいかな?」と訊いた。


「……好きにしたら?」志歩理は僕とも視線を合わせてくれないまま、自分で注いだ二杯目を呷る。


このままでは一人でシャンパンボトルを空けてしまいそうだと、「僕らにも。」とグラスを手に催促すると、


「どうぞご勝手に。」と素っ気なく、志歩理はボトルを僕の前に寄越した。


「じゃあ、遠慮なく。」と、僕は泰道のグラスにシャンパンを注いだ。


それを横目で見る志歩理は、益々不機嫌な顔になる。


ハラハラした様子の美和のグラスにも注いだ僕の前に、美和が手を差し出した。


「私が……」


僕は美和にボトルを譲り、グラスを手にした。


美和が持ったボトルから、僕のグラスにシャンパンが注がれる。


その間、志歩理と泰道の視線は、僕ら二人に集まった。


そうされると、普段より緊張する……が、僕以上に何故か美和が緊張して居て、注いだシャンパンがグラスから零れ、テーブルクロスを濡らした。


「あっ!ごめんなさい!」


慌てて立ち上がろうとする美和を「大丈夫。座ってて。」と止めた僕は、テーブルの上のナプキンを取り、零したシャンパンを拭き取った。


この場を雰囲気を悪くしてしまったと肩を落とす美和を見兼ねた志歩理は、


「大丈夫。美和ちゃんは気にしないで。今日は女同士で一晩中楽しみましょう?」と僕らの存在を忘れる宣言をした。


それはつまり、"泰道の事を認めた訳では無いけれど、この場は抑えて、こっちはこっちで、そっちはそっちで食事を楽しめば?"という事なのだろうと、長い付き合いから推察出来た。


「それじゃあ、僕らも今夜は飲みましょう。」と僕はワインを追加で頼んだ。


本当はあまり飲まずに、目的を果たしたかったが、今夜はそれには相応しくない日なのだと、僕は僕の心に諦めるよう促した。


ポケットの中の箱の事は、今夜は忘れてしまおう。


どうせ、美和からは望まれて居ない物だし。


肩を落としたままで元気のない泰道を励ます為、僕は普段より沢山の酒を飲んだ。


泰道を連れて来た事で、僕に対しても怒ってしまった志歩理も、僕に負けじと料理そっちのけで飲み続けた……結果、僕と志歩理は完全に出来上がってしまった。


熱くて、ふわふわして、どこかへ飛んで行ってしまいそうだった。


体を重くして居た事が、頭の中から消えた。




「あー、うん、もうなるようにしかならないんだ、人生なんて。だから志歩理も、何を怒って居るのか知らないけれど、そんなの無駄だから。怒って居る内に人生終わっちゃうんだから!」


自分でも驚く程、舌がよく回った。心に溜まった澱を吐き出したのか、何だかすっきりした。


「もういい、悩みたくない。いつ独りになってしまうかもしれないなんて、誰にも分からない。自分がいつまで生きて居られるかだって分からないんだから、ね?これからの人生に期待なんかしなければいいんだよ。今より良くならない、しあわせになんかならない、寂しくなる、そう思って生きようよ。」


耳の端に、僕の声が引っ掛かって初めて、僕は今まで僕の頭の中だけに並べたと思って居る言葉を吐き出して居た事に気付いた。


僅かに焦ったけれど、でも、言ってしまった言葉は取り消して貰えない。


少し酔いの醒めた目で、三人の反応を窺うと、泰道は憐れむような心配そうな目で僕を見て居て、美和は困ったようにも見えるが無表情に近く、志歩理は泣きながら何度も頷いて居た。


「そうよね、そう、分かるわ。私もそう。私、自分が許せなかったの。私の我が儘ばかり聞いてくれる泰道にいつも甘えてばっかりで、何も返せなくて、このままじゃいけないって思うけれど何も出来なくて。どんどん嫌な女になって、嫌われるのが悲しくて。でも、これから泰道に好きになって貰える方法なんて思いつかなくて。だからしあわせそうなあなた達に、どうしたらいいのか教えて貰いたくて来たの。」


ん……?何?志歩理は怒って居るんじゃなくて、何?


僕の脳はクルクル回転して、まともに考えられなくなって居る為、志歩理の言葉の意味を理解出来なかった。


「志歩理さん。」


美和が志歩理の肩を撫でた。


「志歩理、俺は志歩理の事、嫌いになんかならない。」


「嘘!だったらどうして私と居る時、笑ってくれないの?いつもいつも私の顔色を窺ってびくびくしてる。あなたが私に甘えてくれない分、私が我が儘言って甘えるしかないって悪循環、もう嫌!私ばっかり嫌な女になっちゃうじゃない!」


「知らなかった。そうだったんだね……俺、嫌な事して志歩理を怒らせてばかりだと思ってた。」


「あなたに怒ってたんじゃないわよ。私が私自身に怒ってたの!」


「もういい、志歩理、分かったよ。部屋に戻って休もう。話は落ち着いてからだ。」


バサッ、泰道が自分の上着を脱いで、志歩理の背中を包んだ。


涙に濡れた頬を更に赤くした志歩理は、目を閉じて泰道の胸に身を預けた。


「あの、これ、志歩理さんのお部屋の鍵です。」


美和は泰道の前にカードキーを差し出した。


「ありがとう。それじゃあこれ、俺の方の部屋のキー。志歩理の部屋の隣だから。」と泰道は胸ポケットから取り出したカードキーと交換した。


もう、瞼が重くて開かない─────


「志歩理さんをお願いします。」美和の声が聞こえた。


「はい。あ……眠っちゃいましたね、木村さん。どうしましょう?」泰道の気配が遠のく。


「大丈夫です。私が運びます。」代わりに僕の頭が熱いもので包まれる。何だろう?やわらかい……


「でも……俺、戻って来ましょうか?」


「いいえ。志歩理さんをお願いします。離れないで下さい。彼の事は、私が責任を持って運びますから。」


「それなら、お願いします。大変だったらホテルの人呼べば、部屋まで運んで貰えると思います。」


「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」


僕の周りが急に静かになった。


「元、起きられる?」


美和の声がした。


あれ?もう朝だっけ?


目を開けられない僕は、朝の光を探して、居間の窓の方へ頭を動かした。


違う……ここ、どこだ?


朝でも、居間でもないと気付き始めた僕を、


「立てる?お部屋に行こう?」と美和が揺り起こす。


「う……ん……」


トイレ行きたい。


椅子から立ち上がった足に力が上手く入らず、僕の体を支える腕にしがみ付く。


「大丈夫?」


訊かれて、何故か僕は


「うん、わーさん……」と答えた後で、しまったと思った。


今、何て言った?


僕の頭のてっぺんから背中の下へと、冷たい血がザッと流れた。


まずい。


酔った僕の頭でもまずいと思った。美和とわーさんを間違えるなんて。


それなのに、美和は


「少し頑張って、お部屋まで歩いて?」と、僕の掻いた冷や汗を引っ込めるような態度で接した。


その後、どうにか部屋の前に辿り着くと、僕より先に美和がカードキーを挿し込んでドアを開け、僕の体を支えたまま部屋の中に入った。


テーブルの上には、花束が二つと、菓子折りの入った紙袋が二つ。


一つは僕ので、一つは泰道のだ。


荒れた部屋は、急いで支度をして出た時のまま。


まさかこの状態の部屋を美和に見られるとは思って居なかったから、恥ずかしさで酔いも醒めた。


美和は黙ったまま、ダブルベッドまで僕を支えて歩いた。


そのまま、ぽすんとベッドに座らされると、美和は僕のスーツの上着を脱がせ、部屋にあったハンガーに吊るした。



何も言わない美和の心の中を覗いてみたいような、怖いような。


どくんどくんと鳴る僕の心臓が、恥ずかしさを取り消したい気持ちが口を開かせた。


「あの、美和……どうする?」


"どうする?"って何を言いたいんだ?と自分でも思いながら美和に訊くと、案の定


「どうするって、何を?」と僕の方を向かないまま、美和が言った。


「えっと、バッグとか服とか志歩理の部屋じゃない?」


「そうだね。」


やはりこちらを見ない美和。空いたドレスの背中が寒そうで、思わず「お風呂に入って来たら?」なんて言ってしまった。


「お風呂って、このお部屋の?」と美和はようやく振り向いた。


「え……っと、うん。」このホテルに大浴場があったかな?あるかもしれない。


「……泊まるの?」


そうだった。本当は泊まるつもりなんて無かった。けれど、志歩理は美和と泊まりたい様子だったし、僕は一人帰っても良かったけれど、帰る前にホテル最上階のバーで美和と話してから帰るというのが僕の予定だった筈なのに─────酔っぱらってこのザマで……


「ごめん、そうなるかも。酒を飲んでしまったから。」


「うん、いいよ。ただ、泊まるって、お部屋はどうするの?ここ、元が取ったお部屋ではないんでしょう?」


「そうだね。虎越さんが取った部屋だけど……うん、多分泊まってもいいとは言ってくれると思う。」


「私、帰った方がいいよね。」


「帰るって、今から?駄目だよ。美和は元々、志歩理の部屋に泊まる予定だったんでしょう?」


「そうだけど、どうするの?今はお隣の部屋には戻れないよ?」


「どうするって、えーと、この部屋で一緒に泊まるしかないんじゃないかと思うけど……」


泰道に電話して訊けば、おそらくそうなる。


泰道は志歩理の部屋で、僕は美和とこの部屋に泊まる方が、泰道と志歩理にとってはいいんじゃないかな?


「分かった。」と返事をした美和だったけれど、すぐに「でも……」と不安そうな顔をした。


「志歩理の事なら彼に任せておけば大丈夫だよ。」


「ああ、うん、それはね。そうじゃなくて……」


「そうじゃなくて、何?」


「ううん。何でもない。元、眠そうだから、先にお風呂入って来て。」


お風呂か……うん、その前にと、僕はトイレに行きたかった事を思い出し、ベッドから立ち上がり、ふらふらした足取りで部屋のトイレへ入った。


ああ……胃の中が気持ち悪い。それに怠くて眠い。


こうなる事が分かって居るから、普段ここまで飲まないのに、しかも家ではない所で飲むのは失敗だった。


志歩理と泰道の二人を見て居たら、飲むしかなかったなんて言い訳だ。


僕が考えなければならないのは、友人夫婦二人の事では無く、これからの人生を共に歩みたい美和の事だ。


肝心な告白から逃げ出したい気持ちがあったのかもしれない。それは、どこかで上手く行かないのではないかという考えがあるから。


古い田舎の家で、45のゲイと、この先何年も慎ましい暮らしをして欲しい……なんて、言われたらやはり、うん……いくら"好き"と言って貰ったとしても、そんな人生預けてもいい位の"好き"ではないだろう。


今は良くても、何年かしたら後悔する。僕が寝たきりになってしまったら、とか。


美和がやさしいのはよく分かって居る。惨めになった僕を捨てて行けなくなる事も。


僕は、美和があの家から逃げ出せないようにしようとして居るのではないか、とアレを差し出す事を迷う。


約束の重さが違うのは、齢が違うからだ。


二十年、言うのは容易いが、生き抜くのは簡単ではない。


考え込んで動けなくなった僕は、しばらくトイレに籠もり、ぼんやりして居た。


失態後の告白なんて、嫌だな……明日、家に戻ってからするのも、うーん。


どちらにしても、トイレにずっと籠もって居る訳には行かないと出ると、「あれっ?美和?」美和が部屋のどこにも居なかった。


志歩理の部屋に戻ったのかな?と泰道に電話をしてみる。


しばらくコール音を聞いた後、


『もしもし』泰道が出た。


「あの、すみません。美和がそちらのお部屋にお邪魔して居ないでしょうか?」


『いいえ。美和さん、どうかしたのですか?』


「あ、いえ……志歩理はどうですか?」


『今は落ち着いて眠って居ます。少し話して、何とか。起きたらきちんと話をします。あ、そうだ。今、荷物を取りに行ってもいいですか?』


「はい。」


電話を切って、五分と経たず、泰道が荷物を取りに来た。


泰道は、美和が今朝着ていた服とバッグを持って居た。


「ありがとうございます。」とお礼を言うと、


「こちらこそ。木村さんと美和さんには本当にお世話になりました。」と返って来た。


「いえ……」


「美和さんは、どちらに?大浴場ですか?」


「え?大浴場?」



「さっきフロントで案内されました。露天風呂もあるって。まだ入れる時刻ですね。」


「そうですか。」


僕の様子を見て、何かおかしいと気付いた泰道が、


「美和さん、お風呂ではないのですか?」と訊いた。


「それが、分からないんです。僕がトイレに入って居る間に、部屋から出て行ったみたいで。まさか一人で帰ったという事はないでしょうけど。」


「服とバッグを置いては帰れないでしょう?」


「確かにそうですね。」


「電話してみましたか?」


「あ、いえ、おそらくバッグの中ではないかと。」


僕は美和のバッグを開け、中から美和のスマートフォンを引っ張り出して泰道に見せた。


「確かに。」頷いた泰道は、「でも、少し待って居たら、戻って来ますよ。」と前向きな事を言う。


今後ろ向きな僕の頭の中とは対照的で、そうなのかな、そうだったら安心出来るなという言葉だった。


だけど違ったら、安心どころか不安。


僕の事が嫌になり、美和が一人、部屋を出てホテルまで出てしまったら────「それじゃあ、俺はこれで。こちらの部屋は二人で使って下さい。」


「あ、あの……」美和がそちらのお部屋に来たらすぐに連絡下さい、と言おうかと迷ったが、今、安心したような状態の泰道に、また不安になるような事を言えない僕は、「こちらの部屋代は僕に払わせて下さい。」と言った。


「そんなの、いいですよ。」


「あ、いえ、そうさせて下さい。」


「分かりました。」


泰道はテーブルの上のお菓子と花束を手にした。


しかしその花束は、僕が買った物。泰道は僕より先に、真っ赤なバラの花束を買って居た。


「虎越さん、それは僕の花です。」


「え?だけど……」


僕の用意した花束は、バラでは無く、黄色を基調にした花束だった。


バラ、ガーベラ、カスミソウ、トルコキキョウ、その他の名も知らない花を混ぜて作られた物。


しかし、それではプロポーズに相応しくないだろうと気を利かせた泰道が、『俺の戸交換しませんか?』と言ってくれて居た。


けれど、今夜、プロポーズはしないと決めた。いや、出来ないの間違いだが。


とにかく、今は僕の事情より、泰道と志歩理の方を大事にして欲しいと思った。


「いつもバラの花束を贈って居るのなら、今夜もその方が良いですよ。志歩理にはバラの方が似合う。」


「木村さんがそう仰るなら。」


泰道は深紅のバラの花束を抱え、お辞儀すると、荷物を持って出て行った。


残された花束を見て、柄じゃないと首を振る。


僕は何をして居るのだろう、と窓の外に目を遣りながら、美和を待った。


ホテル高層階の部屋で、眼下に広がる夜景を見ながら、これからの二人の人生を決める言葉を告げる────とは、志歩理に言わせれば、世の一般女性の理想なんだとか。


一般女性の心理を完全に理解出来る僕では無いが、確かにそのプランは"良くない"と言い切れるものではないとも思う。


"悪くない"けれど、僕が実際するのは"どうかと思う"。


照れしかない。それを押して頑張ってみようとしたけれど、当初の計画と違って、酔っぱらって醜態を晒し、美和に呆れられ、部屋を出て行かれた僕が次に出来る事って何だろう。


考えても分からない。頭の中も胃も重く、とてもじゃないが、今の僕の状態でロマンチックな展開に持って行くのは難しいと思えた。


無理だよ。45年もゲイだった僕が、急に女性を意識し始めて何かしようとしたってそれは、一般的な45歳男性の恋愛スキルとは雲泥の差なのだから、真似したって似合わない。


ネクタイを緩め、第一ボタンを外した。髪もぐしゃりと乱して、溜め息を吐いた。


指先を伸ばしたのは、闇夜に浮かぶ冴えない僕の姿。


弱気になると呟く名前は、いつも「わーさん」で、吐息で白く曇った冷たい窓ガラスに、付けた指痕が虚しい。


美和には、この部屋に早く戻って来て欲しいような、だけど戻って来たら何を言おうかまだ決まらないまま、三十分以上経った。


ドレス姿でバッグも持たずにホテルを出るのは考え難い。


けれど、お風呂にしても黙って行くのは────と、クローゼットを開けた僕は、備え付けのタオルと部屋着が二組あるのを確認した。


まさか、ホテルを出て行った?或いは、ホテル内のトイレで倒れて居るとか……


慌てて僕はフロントに連絡し、ホテルを出て行ったドレス姿の女性は居なかったかという事と、各階の女子トイレや大浴場で倒れて居る人は居ないかの確認をお願いした。


待つ事10分。フロントからの連絡は無い。


ホテルを出て行ってしまっていたら、それはそれで心配だが、しかしそれ以上に、もしもトイレや浴場で倒れてしまって居た場合────考えるだけでゾッとした。


仮に、外出中の美和が万が一事故に遭った場合など、家族でない僕には何の連絡も来ないし、病院に運ばれたとしても、手術の同意すら出来ない。


一緒に暮らして居ても、家族だと思って居ても、それはわーさんの時に悔しい思いをして知って居る。


今は家族の在り方が多様化して居るからとは言っても、法的な権利については何も変わらない。


────美和はどこへ行ったのだろう。


僕の胸の奥がズシンと重くなった。


居ても立っても居られず、上着を取って羽織った後、部屋を出てホテル中を探そうとドアノブを掴んだが、待てよと考える。


もし、行き違いになったら、と。


財布も携帯電話も置いて、あのドレス姿で夜の街に出て行く事は考え難い。


もう少し待とう。


僕はベッドの上に腰を下ろし、膝の間で手を組んだ。



体の中心が、チリチリジリジリする。


美和が部屋を出てから、おそらく三十分以上経つ。


好きだった筈なのに、ふいに憎らしい気持ちが芽生える。こんなに心配させて、本当に─────ガチャッ。


ハッと顔を上げた僕は、部屋の入口を見る。


開いたドアから顔を覗かせたのは、美和だった。


ホッとしつつも、怒りに似た感情が僕の中で噴き上がるのが分かった。


この感情を、そのまま美和にぶつけたら傷つける事は分かって居る。


立ち上がった僕は、美和に近付いた。


我慢しろ、我慢しなければ……「どうしたの?元。具合、どう?」


僕が心配して居た事など露程も知らないと言った顔の美和に、僕は怒りをぶつけてしまう。


「どうしたの?じゃないよ!黙って部屋出て行って、ずっと戻って来なくて、心配したんだぞ!」


ああ、言ってしまった。それも怒鳴るように言ってしまった。


これでいいという肯定と言い過ぎだという否定が表裏一体となって、僕の背中に貼り付いた。


僕をじっと見上げる美和の瞳に、ぷくりと涙が浮かぶ。


ああ、泣かせた。僕は嫌われた。


ショックを受けている胸に、どしん、美和が飛び込んで来た。


そして僕の背中に回した手に、美和がギュッと力を籠めた。


どきん、どきん、どきん……一瞬で怒りを忘れてしまった胸の音が速くなった。


「ごめんね、元。ちょっと色々あって戻るの遅くなっちゃった。」


「色々って、何?」


「うん。大した事じゃないんだけどね。」


「教えて。」


知りたいと思う。美和にある事すべて。


知らないままで居たくない。全部知って居たい。


そんな事を言ったら、困ると思うけれど。


「あの、実はね、私もトイレに行きたくなっちゃって、部屋を出て一階の大浴場の方にあるトイレへ行ったの。」


僕がトイレを占領して居たからか。反省。


「それでね、トイレを出たら、廊下を言ったり来たりするおばあちゃんに会ってね、事情を訊いたらお財布を入れたロッカーのカギを落としちゃったらしくて、一緒に探して居たの。トイレと大浴場を探しても見つからなくて。」


それで中々戻って来なかったのか。


「結局、ロッカーのカギは見つからなかったの?」


「ううん、あったよ。」


「どこに?」


「ご家族が持ってた。おばあちゃんをお部屋まで送って行ったら、ご家族がもうすでにロッカーを開けてお財布を持って行ってたんだって。おばあちゃんとご家族は大浴場で行き違ってしまったみたい。」


「そう。」人騒がせな……まあ、見つかって良かったけれど。


「心配掛けてごめんなさい。」


「そういう事なら。だけど……」


「だけど、何?」


「このままじゃ嫌になった。」


「え?」


美和の腕の力が緩んだ。そして美和は僕と目を合わせた。


不安そうに揺れる瞳。僕が"嫌になった"と言ったからだろうか。


「嫌って、何が?」


こわごわ訊いて来る美和に、僕はポケットの中のあるものを取り出した。


「これ、受け取って欲しい。」


「えっ?」


美和の手のひらに乗せた箱の蓋を僕が開いた。


「結婚して下さい。」


どうしたって僕は美和を心配してしまう。


だから、その先、僕の心配を落ち着かせる力が欲しい。


美和を守る事の出来る権利。


「元、あの……」


箱を乗せる美和の手のひらがグラグラ揺れた。


僕は箱の中の婚約指輪を取った。


そして


「左手、でいいんだっけ?」と美和の左手を掬い上げ、


その薬指に僕の選んだ指輪を嵌めた。


「……」


嵌めた指輪をじっと見つめる美和は、何も言わなかった。


いいとも嫌とも言わない。


僕は不安になる。けれど引きはしない。


「僕と家族になって欲しい。」


正直な気持ちを口にした。


お願い。


美和とならなれる。家族に。


わーさんとも家族だった。今も家族だ。


だけど、世間からは認められなかった。


美和とはなれる。世間から認められる家族に。


なれるのにならなかったら、それはわーさんにも申し訳ない。


『家族になれるならなるべきだ』


わーさんならきっとそう言う。


僕らが欲しくても手に入れられなかった権利。


紙切れ一枚と言う人には紙切れ一枚の価値しかないのだろうが、僕らは違う、そう思う。


「僕が死ぬまで、家族として傍に居て欲しい。お願いします。」


僕は美和に頭を下げた。


「やめて、元、そんな……」


美和が僕の下げた頭を戻そうと肩に触れた。


それは、"結婚は承諾出来ない"という事?


どくん、どくん、どくん、どくん……


胸が苦しくなった。


嫌だな、聞きたくない。怖い。


断られたらもう、一緒にも暮らせなくなる気がした。



「元、元、こっち見て。」


目を瞑り、俯いて居た僕の頬を美和は両手で挟んだ。


そっと目を開いた僕に向かって、美和が口を開いた。


「私で良ければ、元の傍にずっと居ます。家族として。」


えっ?


"家族として"


それはつまり────「結婚、してくれるの?」


美和はこくりと頷き、「はい。よろしくお願いします。」と言った。


「えっ、嘘……」思わず口を衝いて出た言葉に


「本当です。」と美和がにこりとして、触れて居た僕の頬を撫でた。


"結婚"が"本当"────美和が僕と結婚してくれる!


「あ……の……本当に、いいの?」


唇も全身も震えた。


「良くないの?」と言って微笑んだ美和を、僕はぎゅっと抱き締めた。


いいも悪いもない。離れたくない。


「結婚したら、離婚してあげないよ?」


「望む所。」


「浮気も許さないから。」


「元以外、興味ありません。」


「美和。」


「なあに?」


「ありがとう。」


「うん。ありがとう。」


安堵した僕は、美和を抱き締めながら、天国のわーさんを想った。


────"ごめんね"は言わないよ。"ありがとう"。わーさんを愛した事は後悔しない。永遠に。これから美和を愛して行く中、わーさんを愛した記憶も一緒に時を重ねて、決して僕の中から消える事はないから。


「愛してる。」


美和だけじゃない、今まで出逢ったみんな愛したいと思った。ありがとうと言いたくなった。


「私も、愛してる。」


信じるよ。それがただの言葉ではなく、美和の心を表したものだって。


美和が僕を好きになり、僕が美和を好きになり、


運命なのか奇跡なのか、とにかく僕は何物にも代えられない、素晴らしいものを手に入れた。


「運命の人って、一人じゃないと思った。」


僕の考えて居た事を、美和が言った。


「どういう意味?」


それは僕の考えと一緒なのかと確かめたかった。


「誰も好きにならない私には、運命の人は居ないんじゃないかって思った事もあった。元と出逢ってからも、元は私の運命の人じゃなくて、わーさんの運命の人なんじゃないかって。でもね、運命の相手って一人じゃないかもって、元と両想いになってから考えるようになったんだ。」


どきりとした。


「それって、僕が美和の運命の相手ではないって意味?」


結婚を承諾してくれたと思ったのに、僕が唯一の相手ではないような事を言うなんて。


「そうじゃないよ。ただね、一人じゃないのかもって思った。私が好きになって私を好きになってくれる人。心と体の波長が合う人。」


「波長が合う人?」


「うん。ただ"好き"だけじゃない、世界で一人かもって思える人……だけど、その人に出逢えるかどうか分からない。好きになって貰えるか分からない。一緒に居られるかどうかも。出逢えたら離れたくなくなる運命の人、その人と出逢う事は奇跡みたいな確率。」


「うん、それは僕も思った。美和と出逢えたのは奇跡だなって。」


「元はわーさんと出逢って、そして私と出逢って……そのどちらとも運命感じてくれたのでしょう?」


改めて言われると恥ずかしいが、その通りだった。


「そうだね。」


「えへへ、自分で言っててちょっと恥ずかしい。」そう言って、照れた美和が可愛い。


「運命感じたよ。」可愛いので意地悪したくなって、わざと言うと、


「もう、いいってば!」と美和は頬を益々赤くして、僕の胸をこぶしで軽く叩いた。


「痛いよ。」本当は痛くない。


「ごめん。だってすごく恥ずかしい。」僕もだよ。


わーさんの事を否定するのではなくて、認めてくれる人は、美和の他に居ないよ────と思うと、また僕は運命を感じてしまうんだ。


他の誰でもなく美和がいい。男女関係なく美和が好きだ。わーさんもいいよね?美和なら許してくれるよね。


「美和には僕の他に、まだ出逢って居ない運命の人が居るかもしれないけれど、本当に僕でいい?」


「うん。元がいい、絶対。もしも運命の人じゃないと言われても、私は元から離れられないよ。」


ああ、そうだねと思う。


運命とか奇跡とか無くても、結婚も出来なくても、


好きで、離れたくなくて、傍に居る覚悟は変わらない。


「一つ言っておきたい。」


「なあに?」


「美和は、わーさんの代わりでは無いから。」


「分かってる。だって私はとてもじゃないけどわーさんの代わりにはならなそうだから。」


いつもどおりわーさんに遠慮する美和を見て、僕は頬を緩めながら口を開いた。


「違うよ。僕はどちらもそれぞれ100パーセント愛してるって言いたいんだ。分かってくれる?」


一瞬、目を丸くして驚いた後、美和は夏のひまわりのように笑顔を咲かせて、僕に抱き付いた。


しあわせだ。


僕は、二人で居るからこそ感じられる喜びを噛み締めた。


それから、僕らは何度もベッドの上でくちづけを交わし、初めて肌を重ねた。


心と体の波長を合わせて、お互いがお互いのかけがえのない人になる。


愛とは諸刃の剣のようで、しかし何よりも強い絆を結ぶ事も出来るもの。


空から舞い降りる無数の雪の一つのようにも思える僕の人生。


このまま融けて天に昇ってしまってもいいのかもしれないと、果てた体を横たえながら思う。



しかしまだ僕は、この腕の中にようやく抱けた、かけがえのない人の熱を、地上で感じて居たい。


飽きるまでずっと。


君の安らかな寝顔を、いつまでもずっと僕に見せて欲しい。


白い額に掛かる美和の髪を、指でそっと掻き上げ、閉じた瞼から伸びる長い睫毛を見つめた時、パチリと美和の目が開き、僕は「わっ!」と驚いた。


「起きてたの?眠ってたのかと……」


「うん。」いつもより少し元気のない美和の声。


「体、大丈夫?」


「うん。」


ベッドの中で美和は、天井を仰いだ顔を両手で覆った。


「何?やっぱり具合悪いんじゃないの?熱は?」


心配になって美和のうなじに手を挿し込み、熱を測ったが、微熱。


「少し熱いかな。大丈夫?」


「うん。」


返事をしながらも、美和は顔から手をどけない。


部屋の中はまだ暗く、窓の外の空が明るくなるまでにはまだ数時間掛かる。


美和に無理を強いてしまった事を後悔し、「病院行く?」なんて、都合の良い事を訊く自分が酷い男に思えて来る。


首を振る美和に、


「無理させてごめん。」と謝り、そうだ!と思い付いた僕は「ちょっと出かけて来る。」とベッドから起き上がろうと体を動かした。


すると、「どこ行くの?」と美和に腕を掴まれた。


「薬局。どこが開いてるか分からないけど探す。」


「それって、私の為?」


美和の為と言うか、僕の為になるのかなと迷って返事が出来ずに居ると、


「元の為じゃないなら行かないで。」と引き留められた。


「僕の為じゃないなら行かないでって、何それ。」


「私の為なら、ここに居て。」


そう言われ、見つめ合ったがしかし、美和の方が先に僕から目を逸らし、掴まれて居た僕の腕を離した。


「灯かり点けるよ?」


僕はベッドから手を伸ばして、電気スタンドの紐を引っ張った。


すると美和は、バサッ、掛布団の中に頭まですっぽり潜り込んだ。


「えっと、眩しかった?消した方がいい?」


「へ、平気……」


そう言いながらも、美和は掛布団の中から顔を出さなかった。


なので、僕も美和と同じく、掛布団の中に頭まですっぽり潜り込んだ。


こんな事するの、子どもの時以来だなと思いながら、もぞもぞ移動し、僕に背を向ける美和に近付いた。


何か悪戯してやろうと、童心に返った僕は、美和の背中を指先でつつくのではなく、湿らせた唇で触れた。


「ひゃっ!」


案の定、驚いた美和は掛布団の中で振り返り、僕と向き合う形になった。


「眩しかった?」


「何で元まで潜って居るの?」


「美和が潜ったから。」


「じゃあ、出る。」と美和が掛布団の中から出そうとする顔を掴んで僕は、


「キスしよう。」と迫った。


避けられるきっかけは何だったのか分からないので、打開策を強行する。


美和の顎を掴む僕の右手首は、美和の両手に捉えられた。


キスを拒むように一度首を竦めた美和だったが、僕は構わず美和の唇を追い掛けた。


ようやく重ねた唇はさっき程の熱は感じられず、また少し不安になった僕は、唇を離した後、美和に訊いた。


「嫌だった?」


「ううん。」


「じゃあ何故避けるの?」


「避ける、というか……恥ずかしいから、あんまり見られたくなくて。」


「恥ずかしい?」


「こういうの初めてて、どんな顔したらいいか分からなくて、だから隠れたの。」


何だ、そうだったのか。恥ずかしいのは僕も同じなのに。


美和の気持ちが分かると安心して、僕から隠れたという行為が可愛らしくて堪らない。


「僕だって恥ずかしいよ。お互いさまだ。」


「嘘、元は余裕あるでしょう?」


余裕?何の余裕?20歳年上だと、何でもかんでも余裕があるものだと思われるのは少し困る。


正直に言っておこう。


「あったら、こんなに焦らない。」


「焦ってる?そう?そんな風に見えない。」


「どうしたら、この先、美和に捨てられないかって真剣に考えないと。」


「捨てる?私が元を?"絶対"ない!」


「普段"絶対"を使わない美和から聞けるという事は、安心してもいいの?」


「うん。私は絶対元を一人にしないから!」


「前は"そうそうない"って言ってなかった?」


「それは、事故とか病気とかの時。生きてる限りは離れないって意味。」


どんなに愛し合ったって、別離の時は来る。


だから今、二人で居られる一秒一秒を大切にしよう。


時は戻らない。二人で居られる総時間を今も減らし続けて居る。


だからこそ、限られた時間内に愛を伝える事が重要なんだろう。


恥ずかしがって居る時間が勿体無くなる程に、想いを深めて。


「今も生きてる。」


「うん。」


「抱き締めていい?」


「うん。」


腕の中に抱き締める美和の熱を感じながら、そうかと思った。僕が先に死んでも美和が先に死んでも、二人が一緒に居られる時間は等しく同じなんだと。同時に息絶えなくても、愛し合う時間は同じなのだと。


わーさんが死んだ後、僕だけが愛を止められず、一人愛し続けて居る気がしてた。


苦しくて、悔しさもあった。死んだわーさんは僕を愛してくれないと。


だけどそれを言ったら、死んだわーさんからも『元は俺を愛してくれて居ない』と言われてしまうのだろう。


お互い、想いの届かない場所へ行ってしまったら、愛についての恨み言を言うべきではない。


未練は残るけれども、忘れられずに苦しむけれども、止まった時点の二人の愛はすでに永遠の物になって居る。永遠に変えられない。良くも悪くもそのまま、僕ら二人の胸だけに保管されてしまう。





美和ともそうなる。いつか、僕らは離れた時、別々の場所で永遠の愛に気付く事になる。


一緒に居られる今はまだ、僕らの愛は育める。大切に出来る。


永遠に変わらないものになってしまう前に、日々形を変えながら、見えないけれど確かにここにあるであろう愛を、この身に溢れる程感じて居たい。


ただその前に、けじめをつけなければ……責任を取る、と言うか、それだけじゃなく────


「美和のご両親に、ご挨拶に伺いたいのだけれど。」


「うん。」


「出来れば早く。」


「連休中?」


「今日じゃ駄目かな?」


「え?今日?」


昨日は土曜日だったから、今日は日曜日の筈。明日は月曜日で確か……


「明日、美和は幼稚園でしょう?こういうのはなるべく早い方がいいかなと思って。ご両親にご都合を訊いてみて欲しい。」


「い、いいけど……今日?」


急ぐのは、僕の気持ちがまた後ろ向きになってしまいそうだから。


今の気持ちを忘れない内に、どんどん進んでおかないと、立ち止まって動けなくなってしまいそうなんだ。


だって、僕と美和は────


「齢が20歳も違うから、ご両親の気持ちを考えると、いけない事だなって思うけど。」


「何がいけないの?」美和の語気が強くなった。


「老い先短い僕が、まだ若い美和のこれからの人生を奪う……みたいになるから。」


「奪う?与えるの間違いでしょう?私は毎日、元と居るだけで、色んなものを与えられてるって感じるよ?」


「ええっ?どこが?」


僕は驚いた。何も与えてなんか居ないよね、と僕は普段の暮らしを振り返る。


「例えば、幼稚園に送り出してくれる時、"いってらっしゃい"って言ってくれて、迎えに来てくれた時、"お帰り"って。それからご飯の時。元が作ってくれる事が多いけれど、たまに私が作った時も元は"頂きます"、"ご馳走様"って言ってくれるでしょう?」


「そんなの、当たり前の事だよ。与えてるって言えない。」確かに、何も言われないよりは嬉しいけれど、それだけの事。


「ううん、当たり前じゃないよ?一人だったら言われない。二人で居ても相手が言ってくれるとは限らない。多分言わない人も居る。」


「それは、居るかもね。」わーさんは言ってくれた。いつもどんな時も。だから喧嘩中でも無視はしなかった。


そうか……わーさんが当たり前にして居た事って、すべて僕に与えてくれた事なんだ。そして僕も、知らず知らずわーさんに返して居た。わーさんがそういう風に受け取って居てくれたかは分からないけれど、一度も挨拶を(おろそ)かにされなかった事が、彼がそう感じてくれて居た証かも。


「私、元よりも知らない事が一杯あると思う。元は、そんな私にイライラするかもしれない。だけど、元が知って居る事は知りたいって思うから、何でも教えて。大変かもしれないけれど、私が分かるまで教えて。」


それは、気持ちを伝えるって事も含まれているのかもしれない。


僕の方が美和より長く生きて居る分、色々考えてしまうから頭が固くなって、なおかつ、美和よりも沢山の感情を胸に抱え込んで居るせいで、この気持ちを言わなくても美和は分かってるなんて勝手に思って、美和に伝えるのを疎かにしてしまうかも。


気を付けよう。僕は美和の知らない事を教える。良い感情だけではなく、良くない感情も。とうに知って居る、分かって居る、なんて思わず、全部を。それが美和の望みである事を、僕は決して忘れてはならない。


「分かった。教える。思って居る事もなるべく口に出して伝えるようにする。」


「ありがとう。私も、何でも伝えるようにする。不満も言っちゃうから、覚悟してね。」


【不満は溜めるな。俺も溜めない。それが二人でうまく暮らして行く秘訣だ】


まただ……わーさんが蘇る。


"ありがとう"と言いたいのは僕の方。こんな僕を愛してくれてありがとう。


そしてわーさんも。


わーさんは、どんな小さな事に対しても"ありがとう"と言ってくれる人だった。


その度に、僕は嬉しかった。"ありがとう"と言って貰える事が嬉しくて、次も……って思ったんだ。


わーさんが亡くなり、その"次"の"ありがとう"が無くなって、僕はずっと寂しかったんだ。


美和があの家に来るまで、僕が誰かに何かを与えて、誰かから何かを与えられて居ると考えられなくなって居た。この世にひとりぼっちで生きて居る気がした。僕の人生は、誰の何の役にも立たず、ただ最期の時を静かに待つだけの味気ないものだと。


「僕の方こそ、ありがとう、美和。美和が居てくれるおかげで、今まで気付けなかった事がどんどん見つかる。」


「どういたしまして。」


ああ、その言葉もいいな。


今度。美和に"ありがとう"と言われたら、僕も言おう。


奪うでは無く、与える。


そう考えただけで僕らが二人で進む道の先が明るく、大きく拓ける。


君と手を繋いで進もう。きっと君は僕の手を握って居てくれる。仮に僕が先に死ぬ時も、そして仮に君が先に死んでしまう時も、僕は手を離さないで居る。


"もしも"が"いつか"訪れても、僕はその日まで後悔しないように、毎日"与えて"行く。君とそして僕自身にも。


二人、離れる日が来ても、毎日与えられた愛をいっぱい抱えて、笑って逝こう。


最期の時、後悔しないように今から生きよう。


何も恐れる必要なんかない。二人で居れば、それだけで心強いから。


愛して良かった。


人の心は、喪う辛さより、愛する喜びが(まさ)るように出来て居るのかな。


願わくば二度と味わいたくはない程の酷い喪失感。誰かを愛してしまったらそれは付いて来る。だけど僕はまた人を愛してしまった。


その人とはやはり最期の時まで離れたくない人。


どちらかの死に対して、君はきっとこう言う。


『仕方ない事だよ。それでもいいよ』


際限なく受け入れる強さを、僕は君から学ぼうと思う。その日まで。


あくびを我慢した時、


「ぐううー。」音が鳴り、


「?」美和が辺りを見回した。


その音の正体を知って居る僕は、苦笑い。


「何?」と僕を見て訊ねた美和に、


「お腹が鳴った。」と恥ずかしかったが正直に打ち明けたら、美和は目を丸くした後、


ふふふと笑った。


「ゆうべ、飲んでばかりであまり食べなかったから。」言い訳する僕の隣で、


ふふふ、ふふふふと美和はまだ笑って居る。


「そんなに可笑しい?美和だっていつもお腹鳴らして居るじゃないか。」生理現象を笑われた事に少し腹を立てた僕が抗議すると、


「可笑しくないよ。嬉しい。」と頓珍漢な事を言った。


「嬉しい?」変だよ。僕のお腹が鳴って嬉しいなんて。


「いつもきちんとしてる元の、しまったという顔を見るの、嬉しい。」


「僕の失敗が嬉しいなんて悪趣味だな。」


「うーん、そういう意味じゃなくって、そうだなぁ、会社で完璧に仕事をこなす副社長の元も好きだけど、家で隙だらけで甘える元はもっと好きって意味。」


僕の首から上がカーッと熱くなった。


昔、同じような事をわーさんにも言われた事がある。


『"ギャップ萌え"って言うんだって』


わーさんから教わった言葉を美和にぶつける。


「"ギャップ萌え"って言うやつ?」


「え?そう!元、よく知ってるね!」美和が意外と言いたそうな顔で僕を見る。


「わーさんが言ってた。」


「さすがわーさん!分かってる!」


「ほんと、美和とわーさんは似てる。兄妹か親子みたい。」


「いいね、それ!私もわーさんと他人って気がしないもん。あー……」


美和は何か言葉を続けたそうに見えた。


「何?」


「ううん。」


「言えよ。何でも言う約束だろ?」


「うん……じゃあ、言うね。」


「どうぞ。」


「わーさんに会いたかった。」


「……そう。」


「うん。」


二人で、しんみりした。


ベッドの中で繋いだ手だけ温かい。


窓の外に目を遣る。空が白んで来た。


夜明けだ。二人の心が一つになって初めての朝を迎える。


「僕も、美和をわーさんに会わせたかったよ。」


「ありがと。そう言ってくれて嬉しい。」


微笑む顔を見合わせて、僕らは軽いキスを交わした。


僕もだけど美和も多分、わーさんに祝福して欲しいんだと思う。勿論それだけで会いたいと言ってくれた訳ではないだろうけれど。


「わーさんは多分、僕らの事を天国から見守ってくれて居るよ。」


「そうだね、私もそう思う!」


元気に言って白い歯を見せる美和の手を、僕は強く握った。


僕と同じ気持ちで居てくれる人が居る世界というのは、なんて素晴らしいのだろうと思った。


「そろそろ起きて支度する?シャワー浴びてから、お茶飲もう?」


美和は、お腹を空かせた僕の為に提案してくれたのだろうけれど、


「待って。あともう少しだけ、こうしてて?」


恥も外聞も忘れられる相手を見つけてしまった僕は、ここぞと甘える。


「えー?」くすくす笑いながら、美和は、その温かな胸に僕を受け容れる。


目を閉じて僕は大きく息を吐く。


あの日、終わったと思った命を、新たに吹き返したみたいに。





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