初めての一歩と……
お互いに身支度を済ませるといっても、俺はノワイエから渡された外套を台所で羽織るのみ。何かの皮らしい灰色のそれは、薄手ながらなかなかどうして悪くない。
でも何故こんな天気の良い日に外套を羽織る必要があるのだろうか。普通ならシャツ一枚にズボンだけで十分なくらいだろうに――
「お待たせしました」
と、疑問に首を傾げている内にノワイエの準備が終わったようだ。背後からかけられた声に振り返って……俺は半ば唖然としてしまった。
相も変わらずな白い仮面、後はもう黒一色。四肢を締めるベルトさえつけていない為に、身体のラインごと頭をすっぽり覆い隠すロープは、杖こそ持たないが邪悪な魔法使いといった様相だ。
そういえば、いつぞやのハロウィンで灯衣菜が似たような服装を着ていた。裾を踏んで転んでも泣こうとしない気丈な姿に俺は――
「あの、京平さん?」
「あ、あぁ、悪い……ちょっと考え事をしていた。それで行くのか?」
端から見れば、仕事を探しに行くのか、邪神の封印を解きに行くのか判らない。邪神がいるのか解らないけどさ。
「勿論です。一応こう見えて機能性の高い服装ですからね。京平さんのにもフードが付いてますから付けておいてくださいね」
「ソウナンダ、ワカッタヨ」
思い出せ、ここは異世界なんだ。これが普通なのかもしれない。郷に入れば郷に従えというやつだ。
「それでは、こちらです」
視界が隠れそうになるフードは浅く被り、俺は彼女の声についていく。これ本当に大丈夫なの? 悪いけど俺の世界でこんな格好してたら通報されちゃうよ?
一抹の不安が増していくなか、俺は廊下を抜け、見知らぬドアを通った。
そこは、何らかの商品を扱っている店内のようだった。
商品棚には布が掛けられ、どことなく物寂しさを感じさせる。もう訪れることのない時を待つように、この場所の時間は止まっていた。
「靴はこれを……外に出るには、ここを通るしかないので」
「あぁ……」
少しだけ足早に日差しが差す出入り口へ向かうノワイエを追う。眠りについている棚達に見送られながら……
いよいよ異世界の第一歩を踏み出す。ほんの少しだけ大きな革靴が、俺を励ますように小さく音を立てた。
家を出ると、そこはひと気のない石畳の路地だった。微かに吹く乾いた風が、遠くの喧騒を運んでくる。初めての外出に不思議と胸がドキドキして、視線は少しでも情報を得ようと動き回る。
地面と同じように、周囲の家々の壁は石組みが多い。ふと、ノワイエの家はどうなのかと振り返って――
「なんだよ。これ……」
そこにあった惨状に目を疑った。
惨状。そう、俺の目に映るそれを、惨状と呼ばずしてなんと呼ぶか。
元は明るい色の煉瓦が汲まれたモザイク模様だったらしい壁には、極彩色のペンキがぶちまけられ、何かが打ち付けられたような跡や、煉瓦が欠けてしまっている所もある。
隣家の状態とかけ離れているだけに、これが普通だとはどうしても思えなかった。
同時に、数秒前に見た閉められた店内を思い出し、その考えは一つに集約されてしまう。
「京平さん。もう行きま――」
「誰が、こんな……」
望んでこうなったではない。この店も、そして……もしかしたら、ノワイエも。
ふつふつと胸の奥が熱くなっていく、それは怒り。両親を失い、家をこんな風にされている彼女がこんな目にあっている。
どこから来たか解らないような男に無償で衣食住を提供するような彼女に――
「京平さん。もう行きましょう……お願いですから……」
「……ごめん」
いつからから手を引こうとするノワイエの手の冷たさに、俺は我に返る。
確かに、こんな光景は見ていて気持ちの良いものじゃないし。
――それに……
「……わたしも、ごめんなさい」
その小さな呟きが、無性に悲しくて、悔しかった。
なぜなら俺には、どうにかするなんて……できないのだから。




