見慣れた顔
朝。
銀月亭の一階では、いつものように食器の触れ合う音がしていた。
「パン、もう一つ!」
「はいはい、よく食べるねぇ」
ローナは籠から一つ取り出し、皿へ放るように置いた。
「ありがとう」
「食べるならちゃんと払うんだよ?」
「払ってるよ!」
「前科がある」
「借金の話?」
「そうだよ」
「もう返したって」
「今はちゃんと払ってるから出してるんだよ」
「信用ってそういうもの?」
「そういうもんさ」
リベルは納得したような、していないような顔でパンをちぎった。
最初にこの宿へ来た時とは、随分違う。
あの頃は金もなく、街のことも宿の相場すら分かっていない。
それなのに妙なところだけ物怖じせず、知らないことがあれば何でも聞いてきた。
正直。
長くいる客だとは思っていなかった。
「今日も依頼かい?」
「うん」
「一人?」
「セラと」
「ああ」
名前を聞いて、すぐに顔が浮かぶ。
最近よく一緒にいる黒髪の少女。
何度か銀月亭の前まで来たこともある。
「昨日も一緒だったでしょ」
「昨日から正式に一緒にやることになった」
ローナの手が止まった。
「正式に?」
「パーティー組んだ」
「へえ」
「反応薄くない?」
「何て言えばいいんだい」
「おめでとうとか?」
「おめでとう」
「言わせた感じすごいな」
「じゃあ言わないよ」
「もう聞いたから十分」
リベルは笑いながら残りのパンを口へ入れた。
その時。
二階から、小さな足音が聞こえてくる。
人のものではない。
少し間を空けて、また足音。
「あ」
リベルが椅子から立ち上がった。
「起きたかな」
「食堂には入れないでよ?」
「分かってるよ」
「前より慣れたからって、そこは別だからね」
「はいはい」
「返事が軽いよ」
「ちゃんと守ってるだろ?」
「今のところはね」
リベルが階段へ向かう。
少しして戻ってきた時には、一匹のカーバルがその後ろにいた。
アリス。
最初に連れてきた時は、入口を越えるだけでも周囲を警戒していた。
人が近づけば距離を取り。
音がすれば耳を立て。
廊下の角で何度も立ち止まっていた。
今も警戒心がなくなったわけではない。
けれど。
少なくとも、この宿の中で逃げ道を探し続けることはなくなった。
ローナが見ると、アリスの耳がこちらを向く。
「……水?」
「キュ」
「今の絶対そう」
「何であんたが嬉しそうなんだい」
「返事したから」
「最近よく鳴くんでしょ?」
「うん」
ローナは厨房の端に置いてある器を取った。
水を入れ、入口近くの決まった場所へ置く。
いつからそこが決まった場所になったのか。
覚えていない。
アリスが近づき、水を飲み始める。
「最初はこんな器、置くつもりなかったんだけどねぇ」
「何を?」
「その器」
ローナは水を飲むアリスを顎で示す。
「でもあるじゃん」
「誰のせいだと思ってるんだい」
「アリス?」
「あんたが連れてきたんだろ?」
「勝手についてきたんだよ」
「でも責任は持つんだろ?」
「そうだけど......」
そこは何度も聞いた。
勝手についてきて。
本人がここにいることを選んでいる。
最初は、何を言っているのかと思った。
今でも全部分かっているわけではない。
けれど、アリスがリベルの後をついて歩く姿を何度も見ていれば、それ以上説明されなくても何となく分かる。
「そろそろ行くよ」
「忘れ物は?」
「多分ない」
「その返事で安心できると思う?」
リベルが腰回りを確認する。
剣。
もう一本、刃のない柄。
小さな袋。
ギルド証。
「ある」
「ならいいさ」
「行ってきます!」
その言葉に。
ローナは考えるより先に返していた。
「いってらっしゃい」
扉が開く。
リベルが外へ出る。
アリスも、その後についていく。
扉が閉まった。
「…………」
ローナは少しだけ、その扉を見る。
最初は変な客が来たと思った。
次の日にはいなくなっていても、別に不思議ではなかった。
それが今では。
朝になれば降りてきて、依頼へ出て夕方になれば戻ってくる。
帰りが遅ければ、少しだけ気になる。
「……いつの間にか普通になったわね」
ローナは空いた皿を片づける。
明日の朝も。
多分、同じような声がするだろう。
◇
「おい。そこ置け」
「ここ?」
「もっと奥だ!」
「こっち?」
「何でさっきより手前なんだよ!」
解体場に、バルトの怒鳴り声が響いた。
「分かった分かった」
「分かってねえから言ってんだ!」
若い冒険者が慌てて素材を運び直す。
バルトは腕を組んだまま、それを睨んでいた。
朝から何件目かの持ち込み。
傷だらけの毛皮。
雑に切り取られた角。
血抜きの甘い肉。
「ったく」
新人の素材なんて、こんなものだ。
倒すだけで精一杯。
何が売れるのかも分からない。
持ち帰る途中で駄目にすることもある。
別に珍しくはない。
「次!」
受付の向こうから、新しい素材が運ばれてくる。
バルトは受け取りながら傷を見る。
「……まだ浅いな」
「え?」
「切り込みだ。もう一段深く入れろ。途中で止まってる」
「分かった」
「あと腹側は傷つけんな。売値落ちるぞ」
「そこまで見るの?」
「見るために俺がいるんだろうが!」
冒険者が素材を抱えて離れていく。
その背中を見ながら。
ふと、少し前まで似たようなことを何度も言っていた新人を思い出した。
「……」
最初に持ってきた時は酷かった。
何も知らない。
どこが売れるのかも知らない。
切り方も雑。
そもそも倒した獲物をどう扱えばいいのかすら分かっていなかった。
なのに。
『次はどうしたらいい?』
怒鳴っても。
『そこ何で駄目なの?』
また聞いてくる。
説明すれば。
次に持ってくる時には、少しだけ変わっている。
完璧ではない。
また別のところを失敗する。
でも、前に言ったことはだいたい直してくる。
「……面倒くせえ奴だったな」
口に出してから。
バルトは少し眉を寄せた。
「だった?」
別にいなくなったわけではない。
むしろ。
「バルトー!」
噂をすれば何とやら。
解体場の入口から声がした。
「……うるせえのが来たな」
リベルが顔を出す。
その足元にはアリス。
今日は素材を持っていない。
「何だ。依頼前か?」
「うん」
「なら何しに来た」
「通ったから」
「帰れ」
「まだ何もしてないけど」
「仕事の邪魔だ」
「分かったよ」
素直に引く。
かと思えば。
「そうだ」
「あ?」
「今度、セラも一緒に素材持ってくるかも」
「セラ?」
「昨日からパーティー組んだ」
「あの鎖使う嬢ちゃんか」
「知ってた?」
「一回見りゃ覚える」
「すごいな」
「珍しい武器なんだよ」
バルトは鼻を鳴らす。
「鎖で獲物ぐちゃぐちゃにすんなって先に言っとけ」
「本人に言って」
「お前も同じパーティーだろうが」
「あ、そっか」
「今気づいた顔すんな!」
リベルが笑う。
「じゃあ行ってくる!」
「おう」
「アリスも」
「キュ」
「お前は返事いいな」
アリスの耳が動いた。
リベルが解体場を出ていく。
その後をアリスがついていく。
バルトはしばらく、その背中を見る。
最初に見た時、何だこいつはと思った。
次に見た時も、やっぱり変な奴だと思った。
その次も、また来たのかと思った。
何度も素材を持ってきて。
何度も質問して。
何度も怒鳴られて。
そのたびに少しずつ変わって。
いつの間にか、あいつが解体場の入口から顔を出しても驚かなくなった。
「バルトさん!」
「ああ!?」
別の冒険者に呼ばれる。
「これ見てもらえますか!」
「今行く!」
バルトは声の方へ歩き出す。
途中。
一度だけ振り返った。
もう入口にリベルの姿はない。
「……見慣れたもんだな」
そう呟いて。
バルトは、いつもの仕事へ戻った。




