第五話:それから
いっぽう、西念寺では、礼郎の母のたよりが最期の時を迎えていた。
かび臭い小屋の片隅で、いまや咳も出なくなったたよりをのぞきこむようにして、礼郎が息子たちと肩を寄せ合っている。
たよりの両の目は濁り、もはや何を見ているのかも定かではない。
「母さん」
礼郎は、たよりの耳元で腹に力を入れて呼びかけてみるが、たよりの反応はにぶい。
「礼郎」
たよりの手が空をつかむ。
「テンが、商いをはじめるよ」
母のこぼしたその言葉の意味が、礼郎には分からない。
礼郎は、いよいよ母がぼけてしまったのだと思った。
「礼郎、テンが商いをはじめる。いいなぁ。商いだ。いいなぁ、いいなぁ」
たよりは口の中でただ、「いいなぁ」と繰り返す。
「母さん、大人しくしてなよ。寿命が縮むよ」
礼郎は息子たちと目くばせをして、苦笑いを浮かべながら呼びかけた。
息子たちも口々に、「婆様」「お気をたしかに」と呼びかける。
「私は毎日、寝屋で男の相手をして暮らしてきたというのに、あの子はこれから化け猫の力を借りて商いをするのだとよ!」
たよりは濁りきったまなこを開き、唾を飛ばしながら叫ぶように吐いた。
枯れ枝のような両腕で空をかき切るように握りこぶしを作ると、そのままその場にあおむけに倒れこんだ。
礼郎はその様子を見て、「皆、今わの際だ。覚悟するように」と息子たちを見やった。
たよりの口は、なおも小さくうごめいている。
礼郎がそばへ耳をやると、小さく「いいなぁ、うらやましいよう、いいなぁ」とつぶやいているのだった。
そうして、しばらく。
たよりは顔いっぱいに悔しそうな皺を寄せると、最後に「うらめしや」とこぼし、息を引き取った。
礼郎と息子たちはそれを見てほっと息を吐き、静かに合唱をするのであった。
それから一年が経った。
夏の暑い日、礼郎の息子の坊主たちは、市に出向いていた。
「あの棚をご覧よ」
そのうちの一人が声高に叫んだ。
一同が見やると、小さな小屋の中に棚をしつらえ、所せましと布が置かれていた。
周囲には人だかりができている。
「お、お坊さん方、お目が高い」
そう言いながら、店先で呼びかけをしていた若い男子が声をかけてきた。
「これはね、京の都の西陣織ですよ。今噂の。一反いかがです」
男子の後ろ、棚の奥では若い夫婦が店を切り盛りしているようである。
妻の方が、夫の方に何か叫んでいる。
「貴世と猫旦那さまはどこへ行きなさった」
そう、言っている。
若い坊主たちは「猫旦那」というのを聞いて、変わった名前もあるものだと笑い合った。
さてその頃、話題にのぼった貴世と猫旦那は、西念寺の裏にある例の小屋を訪れていた。
相変わらずこの小屋の中ではたちの悪い咳の音がひっきりなしに聞こえていた。
そのなかにあって、寝そべる礼郎の枕もとに、貴世と猫旦那の姿はあった。
「もし」
貴世が礼郎に呼びかける。
病人の間を縫うように小間使いの小坊主の一人がやってきた。
「礼郎さん、お客人ですよ」
貴世は、この時はじめて、礼郎の名を知った。
「礼郎、さん。私です。覚えておいでですか」
小坊主に抱き起されながら、礼郎は上半身を起こす。
「はて、もう目が見えませんで。申し訳ないが、顔が分からんのです」
礼郎はかすれた声でそう告げると、咳を何度かしてまるまった。
「昨年の夏、猫のテンをあずけてくれたでしょう。その時の者です。貴世といいます」
貴世は、礼郎の耳元で大声を張り上げてみた。
しばらく口の中でもごもごと言ったのち、礼郎は動きを止めた。
頭の中で貴世の言ったことをかみ砕いているようであった。
しかし、次の瞬間「はて、貴世どの、どちら様だったかな」とつぶやいた。
小坊主は苦笑いをして貴世と猫旦那を見やった。
貴世と猫旦那は互いに目くばせをしあった。
「どうぞ、お体をお大事になさってください」
貴世はそう言うと礼郎のひからびた両手にそっと自分の手を重ねた。
それからしばらくして、礼郎は息を引き取った。
その最後は、それはそれは穏やかなものだったという。
貴世と猫旦那の商いは各地で成功をおさめ、この時代その名を知らぬものはないほどまでになったという。




