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お節介なチョコレート







そしてバレンタイン当日、私はチョコレートを一箱だけ持って出社した。

とあるメゾンの、バレンタイン限定のものだ。


日本酒の香が特徴的な、お酒好きな彼にはぴったりのチョコレートだと思う。



部署内の男性には部署の女性社員からということで若い女の子達が代表で用意してくれたので、実質、私が購入したのはこの一箱だけである。


まるでジュエリーが入っているような上質な黒いギフトボックス。


シンプルなものだが、なんだか妙に目立ってしまいそうで、私は誰にも見られないように注意していた。


いや、もし見られてもそれ自体は問題ないのだが、渡した後に彼が持っているのを見られること、・・・つまり、この明らかに高価なチョコレートを私が彼に贈った、と認識されるのは避けたかったのだ。



始業前、若い女性社員が「部署女性一同からです」と、可愛らしい笑顔を添えてその場にいた男性社員全員に配っているのを微笑ましく眺めていると、ふと、榊原くん・・・湊くんと目が合った。


彼は大久保さんからチョコを配られてお礼を言った直後だったけれど、私と目が合うとその表情が柔らかくなった。


それだけで、嬉しくなってしまう。


けれどこの後、私はほとんど一日をかけて、密かに隠し持ったあのチョコレートをどうやって渡そうか悩んでいた。


人目につかない方がいいのは決まっているが、だからといってこの前のようにおかしな噂の原因にはなりたくない。



結局、もともと一時間ほど残業する予定だった私は、チョコレートを渡すつもりの彼も残業予定だと知り、それなら帰り際にさりげなく渡そうと思ったのだった。

悩んだ割には何てことのない渡し方だけど・・・・


予定の時刻を少し過ぎた頃、仕事を終えた私は帰り支度しながら彼の姿を探した。


けれどデスクにはいなくて、室内を見まわしてみても見当たらない。


デスクの上はまだ仕事途中のようだから、待っていればそのうち戻ってくるだろう。

でも、はやくこのチョコを渡してしまいたかった。


そう思った私は帰り支度の手をわざと遅らせたりして時間稼ぎをしてみるも、彼はなかなか帰ってこず、仕方なく更衣室に移動しながら彼を探すことにした。


メイクポーチや貴重品を入れて持ち歩くバッグの底に黒い小さな長方形のボックスがあるのを確認して、私は席を立った。


「お先に失礼します」


まだ残業続行中の上司に挨拶し、ちらっと会議部屋を見遣った。

けれどそこは扉が開け放たれていて、中には誰もいない。


「ああ、お疲れ。気を付けて帰れよ」


上司の労い言葉を受けて部屋を出た私は、そのまま更衣室には向かわず、彼がいそうな場所を探した。

一番に思いついたのはトイレだったが、近くまで行っても人の気配がなかったので、すぐに他に移動した。

コピー室、自動販売機コーナー、どこにも誰もいなかったが、最後に給湯室と休憩室に向かおうとしたところで、廊下の反対側からコートを着た湊くんが早足で歩いてくるのに気が付いた。


彼は今日外の仕事で出ていて、時間によっては直帰もあり得ると聞いていたのだけど・・・


「あ、美咲さん!お疲れさまです」


誰もいないとはいえ、社内で下の名前を呼ぶ湊くんに私はわざと眉をひそめた。


「お疲れさま。でも名前はやめて」


小声で窘めた私に、「誰もいませんよ?」といたずらっぽく言ってくる彼。


「それでもけじめは必要なの。仕事とプライベートは別にし・・・」


別にしなくちゃいけないでしょう?


そう言いかけたけれど、私は自分が今持っているチョコレートが完全にプライベートであることに気付き、言葉尻を濁した。


すると湊くんはビジネスバッグを持ち替えながら、


「すみません、今日はじめてちゃんと顔を見たんで、つい・・・」


と悪びれもせずに言った。


私はそんな彼を見て、やっぱり好きだなと思う。


「・・・・もしかして、迎えに来てくれたの?」


今日のバレンタイン、湊くんは仕事帰りに私の家に来ることになっていたのだった。


湊くんが言うところの ”お節介なチョコレート” の成果はそこそこ出ていたけれど、仕事のスケジュール的にバレンタイン当日に手作りを用意することは難しそうで、

それを知った湊くんからチョコレートの代わりに手作りの夕食をリクエストされたのだ。


そしてその日、つまりは今日、一緒に夜を過ごす約束だった―――――――――――――



「一応電話はしたんですけど、美・・・当麻主任、電話に出られなかったので、まだ仕事中なのかなと思って寄ってみたんです」


一日の終わりだというのに、彼からは疲労感なんか見受けられない。


彼が若いせいかもしれないが、この後の約束も少しは関係しているかもしれない。


・・・・そんな風に意識してしまうと、お前は本当に三十半ばか?と突っ込まれそうなほどにドキドキしてしまいそうだ。



「ところで、もう帰られるんですか?でも更衣室は反対ですよね?」


「ああ、うん、ちょっとね・・・・」


私は湊くんになんと説明しようか逡巡した。


このチョコレートの行き先を告げて、彼はまた気に病んだりしないだろうか・・・?



「あのね、ちょっと人を探していて・・・・」


私が言葉を選びながら話そうとすると、湊くんが何か閃いたように瞳を動かした。


「柏原係長ですか?」


そう訊いてきた湊くんは普段通りの穏やかなものだったので、私はホッとした。


「そうなの。ちょっと渡したい物があって。あ、でもこれはこの前の ”お節介なチョコレート” のお礼だからね?」


彼に誤解を与えないよう、間髪を容れずに付け加えた私に、湊くんは相好を変えずに「分かってますよ」と答えてくる。


ちょっとおかしそうに笑いかけているようにも見えたけれど、少しでも早く柏原くんにチョコレートを渡して帰りたかった私は、とりあえず休憩室に足を向けることにした。



もともと会社に寄る必要のなかった湊くんは先に車に行って待ってると言うので、途中まで一緒に歩いていると、休憩室が近付いてきたそのとき、中から声が漏れ聞こえてきたのだった。



「・・・・・・ど、こんな日まで残業ですか?係長、働き過ぎじゃないですか?」


大久保さんの声だった。


「こんな日っていうけど、もしバレンタインのことを言ってるなら、所詮はただの平日だろう?」


そう返したのは柏原くんだ。


私と湊くんは休憩室の中にいるのがこの二人だと分かると、互いに顔を見合わせた。


 ”どうしますか?中に入りますか?”

そんな目を向けられて、私も ”どうしようか・・・?” と視線で訊いた。


けれど中ではなにやら会話が続いており、私も湊くんもタイミングを掴みかねていた。


「そんなこと言って、係長モテるから、山のようにチョコレート貰ったそうじゃないですか」


大久保さんのノリのいい、跳ねた話し方に、私は中の様子がなんとなく浮かんでくるようだった。


「どうせみんな義理か賄賂チョコだろ?いい歳したおっさんがバレンタインで浮かれてたら気色悪いだろうが」


「係長はおっさんなんかじゃありませんよ。中には本命チョコもあるんじゃないですか?」


「ないない。こんなおっさんからかって何が楽しいんだ?」


柏原くんが短く笑う。


「何言ってるんですか!本当に知らないんですか?柏原係長、私達同期の間でもすごく人気あるんですから!女の子の本気を軽く流さないでくださいよね」


大久保さんの勢いに若さを感じてしまうのは、私が柏原くんと同い年のせいだろうか。

だが隣の湊くんを見ると、彼も苦笑いを溢していた。


「もし本命チョコがあったら、ちゃんと対応してあげてくださいよ?!」


「はいはい、分かりました。大久保さんに叱られたくないから、きちんと対応させていただきます」


柏原くんの余裕ある答え方は、とても彼らしい。

もちろん、大久保さんに言われなくても柏原くんは誠実に対応していただろうけど。


そしてそこで微かに会話が止まったので、私は今だ、と、扉の取っ手に手を掛けた。

けれど、次に柏原くんが放ったセリフに、パッと手を離したのだった。


「でもまあ、どれだけチョコレートを貰っても本命から貰えなかったら意味ないんだけどな」


「えっ?!本命?!それって当麻主任のことですか?最近噂が流れてましたよね?」


大久保さんの声が一段と高くなった。



私は突如現れた自分の名前に、ドキリ、ではなく、ギクッとしてしまう。



「・・・・・・まったく・・・女性はどうしてそんなに噂が好きなんだ?」


呆れたように言う柏原くん。

私も心の中で盛大に頷いていた。


「じゃああれはガセだって言うんですか?前に当麻主任も否定してましたけど」


「当麻に確かめたのか?」


「はい」


「いつ?」


「先週ですけど・・・・」


「・・・・・そっか、それであいつ・・・・」


「なんですか?」


「いや、なんでもないよ」


「それより、係長の本命って誰なんですか?まさか社外に彼女さんがいらっしゃるんですか?」


「あー・・・・・・そうだな・・・・・・名前くらいなら教えてもいいかな。でもあんまり人に言うなよ?」


試すように、何かを企んでるように投げかけた柏原くんに、大久保さんは飛びついた。


「言いません!私本当の秘密は守る方なんで大丈夫です」


本当の秘密って何なんだよ・・とクスクス笑った柏原くんは、勿体ぶるように間を取ってから、



「ミランダっていうんだ」


と言った。



「・・・・・ミランダ、さん?」


「そう、金髪のショートボブで・・・」


「まさか、イギリス人女優のミランダのことですか?」


「あ、彼女イギリス人だったんだ」


飄々と返す柏原くん。



ミランダという名前に聞き覚えがあった私は息をするのを忘れたように喉が苦しくなって、バッグを持つ手に力を込めてしまった。


だが少し高いところから湊くんの息を吐く音が聞こえてきたのでそちらを見上げると、複雑そうに歪めた表情とかち合った。



・・・・・・湊くんは、何か気付いたのだろうか・・・・?




休憩室の中ではまだ会話が続いていた。



「国籍も知らないくせに、本当に好きなんですか?」


大久保さんは砕けた調子で笑っている。


「うるさいな。女優に恋してもいいだろう?」


柏原くんの冗談はいつもに増して軽やかだ。


「じゃあ、今日はそのミランダさんからはチョコ貰えたんですか?」


冗談には冗談を。

大久保さんの声の感じもとても楽しそうに聞こえた。


「残念ながら。俺の想いが向こうには届いてないんだろうなあ」


やや大げさにそう言った柏原くんだったけど、大久保さんは「へえ・・・・」と何かを含んでいるようだった。



そして



「でも、斜め前の席のミランダさんにはちゃんと届いてるんじゃないですか?」



射貫くように鋭く尋ねたのだった。



「・・・・・は?斜め前の席って、なんだよそれ」


「雰囲気、似てますものね」


「なんのことだ?」


「さすが係長。動じませんね」


「大久保さんがなんのことを言ってるのか分からないから、動じようもないだけだよ」


「なるほど、そう来ましたか」



中の二人は深刻さなんか漂わせていないのに、扉一枚を挟んだこちらで私は



――――――――――密かに唾を飲み込んだ。



二人のやり取りが孕んでいるものに気付かないほど、私は鈍くはないつもりだから。



けれどそれを一緒にいる湊くんに悟られたくないと思った。

そしてその為には何も知らないフリをすべきだと思った。


だから芽生えかけた動揺を逃がそうとしていたのに、休憩室の二人の会話がそれを邪魔するのだ。



「でもその方が係長にとってはいいのかもしれませんね。誰だって、失恋確定の相手と一緒に仕事するのは気まずいですものね。それなら、はじめから好きなんかじゃなかったと思っていた方が・・・」


「おいおい、誰が失恋確定だって?」


まるでラブコメの映画の中に出てくるようなテンションで柏原くんが突っ込んだ。


「柏原係長ですよ?」


「おーい、勝手に人に失恋させるなよな」


「まさかご存じないんですか?斜め前のミランダさん、最近彼氏ができたみたいですよ?まだ社内では秘密にしてるみたいですけど」




―――――――――――大久保さんにバレてる・・・・・




私は予想もしていなかったことに驚いたけれど、



・・・でもそれじゃ、私と柏原くんの噂の真偽を訊いてきたのは鎌をかけただけだったの?



彼女のこれまでの言動に違和感を覚えた。



「君って、意外と・・・・・・・」


休憩室からも柏原くんの驚いたような声が聞こえたかと思ったが、それはすぐにいつもの調子に変わった。


「いや、でもそういう大久保さんだって、失恋確定組なんじゃないの?」


「ご心配には及びません。私のはただの憧れみたいなものですから。だってあんなイケメン、アイドルでもなかなかいませんから。ただみんなできゃあきゃあ言ってるだけで楽しいんですよ。彼は新人一年生で色々大変な私達の目の保養、癒しなんです。・・・・ていうか、もうとっくに振られてますし」


最後に明るく告白した大久保さん。

私はそれを聞いて、また混乱した。


湊くんがみんなの目の保養だというのは納得だが、とっくに振られてる?大久保さんが?


大久保さん、バレンタインに手作りチョコを渡して湊くんに告白するって言ってなかった・・・?



私の聞き間違いではないはずだ。

その証拠に、あの休憩室での会話を覚えているのは私だけではなかった。


「とっくにって・・・でも、大久保さん、ちょっと前に女の子達とバレンタインに手作りチョコで告白するって話してただろ?俺あのとき近くにいたから聞こえちゃったんだけど?」


まるで私の代理に訊いてくれたような柏原くんの質問に、私は無意識に前のめりになってしまった。


なのに、


「あ、あれはただの意地悪です」


あっけらかんとした答えに、思わず「・・・・は?」と声が零れてしまった。


慌てて両手で口元を隠したが、「意地悪って・・・・」と湊くんの小声が降ってきて、私達は視線を合わせた。



「意地悪?当麻に対して?」


柏原くんも拍子抜けしたように詳細を尋ねる。


私達は中の会話に意識を戻した。


「そうですよ?だってズルいじゃないですか。当麻主任、可愛らしいけど仕事もできてかっこいいし、おまけにあんなに年下でイケメンな彼氏ができるなんて羨まし過ぎる。だからちょっとした意地悪で、彼氏はモテるからちゃんと捕まえとかないとだめですよーって意味で煽ってみました。柏原係長との噂をわざわざ確かめたのも、半分はそんな意地悪心です。・・・・まあ、残り半分は係長との噂が本当だったらいいのになんて思ったりしましたけど」


悪気のなさそうな、軽快にも感じる大久保さんの説明を聞いて、私は何とも言えない気持ちになっていた。


ここ最近の流れは、すべてこの大久保さんの ”ちょっとした意地悪” のせいだったのかと思うと、力が抜けてしまいそうで、

でも、その意地悪に込められた彼女の気持ちを考えると、落ち着いてはいられなくて・・・・・


すると隣の湊くんが、やれやれ・・というようなため息を吐いた。



・・・・湊くんは思い当たる節があるのだろうか?



扉の向こうを探るように眺めていた湊くんは、彼を見上げる私と目が合うと、困った色を重ねながらも微笑んでくれた。


そして柏原くんとはまた違った感じに飄々と語っていた大久保さんだったが、彼女もやっぱり若い女の子だった。


「へえ・・・・・・・。大久保さんの気持ちも分からないでもないけど、振られた相手にまだそんな風に構うなんて、意外と可愛いところもあるんだ?大体の女性は自分を振った男なんてすぐに記憶から削除してしまいそうなのに、大久保さんは違うんだね。そこが可愛らしい・・・いや、この場合は純粋って言った方がいいのかな?ふんわりした見かけに反してしっかりしてると思ってたけど、やっぱり中身は見た目通りの可愛い女の子なんだね」


大人の男の色気というか、余裕を遺憾なく発揮する柏原くん。


「はい・・・?何、言ってるんですか?!可愛いとか純粋、って、それってセクハラ一歩手前ですよ!・・・・・そんなことより、係長こそ告白しないんですか?このままだとあの二人、あっという間に結婚しちゃうかもしれませんよ?」


若い女性社員から人気の柏原係長を意識してしまったのか、大久保さんはひどく動揺しているように聞こえた。


もしかしたら顔を近付けたりして、柏原くんはわざと大久保さんの動揺を誘ったのかもしれない。


けれどその柏原くんは至って冷静に「そうかもな」と返したのだった。


「あいつももうアラフォー突入だからな。のんびり恋人期間を送るわけにもいかないだろ。けどそれでいいんだよ。俺とあいつの付き合いはもう十年以上になるけど、俺は今まであいつから義理チョコすら貰ったことがないんだからな。もう何も期待しちゃいないよ。じゃないと、この歳まで何も行動しないわけないだろ。見込みがあったならもうとっくに自分のものにしてるよ。だから・・・変にややこしくなるくらいならこのままでいいんだよ。あいつの友達でいるよ。ずっとな。・・・・・て、こんなおっさんの恋愛話なんかどうでもよくないか?」


柏原くんは自虐に傾けて笑ったけれど、



ずっとな・・・・・



その言葉に、つい、気持ちが動じて、連鎖的に肩が揺れてしまった。


そして近くにいる湊くんがそれに気付かないわけもなく、彼はおもむろに私の手を握ると、強く引っ張って歩き出した。



「・・・・湊くん?」



誰もいない廊下で、彼の無言の背中から気持ちを読み取ろうとしても、掴まれた手のぬくもりの心地よさがフェイクになって何も読み取れない。


私は不安になりかけて、でも手のひらのあたたかさを信じたいと思った。


ぐいぐい引かれた先は更衣室で、


「ここで待ってますから、着替えてきてください」


湊くんは私の手を離しながら言ったのだった。




帰りの車の中、この前も聞いたジャズナンバーがゆったりと流れていた。

湊くんの感情がどこの方向にあるのかは分からないけれど、運転は相変わらず丁寧だ。


そしてパーキングを出て二つ目の信号を通過したところで、湊くんが沈黙を破った。


「・・・・・美咲さん、柏原係長の気持ちを知ってたんですね。いつから?」


湊くんの感情が平生でないことは明らかなのに、運転動揺、彼の理知的な言い種はいつも以上に冷静に聞こえた。


「・・・・・なんとなく、かな。いつからかは分からないけど」


知り合った当時は互いに恋人がいたし、その後もそれぞれ別の人と付き合ったり別れたりしていた。


けれどいつだったか、はっきりしたきっかけはないが、もしかしたら彼は私のことを?と思う瞬間は巡っていたのだ。


それは、何気なく仕事のフォローをしてもらった時だったり、

友達よりも私との約束を優先してくれた時だったり、


そんな些細な出来事の連続が、私にヒントを与えたのだ。


でも彼は何も言ってはこなかったから、もしかしたら私の自意識過剰だったかもと恥ずかしくなることもあった。



・・・・・正直に言えば、湊くんに告白される前は、

このまま柏原くんを好きになれたらいいのに・・・なんて考えがなかったわけじゃない。



でもやっぱり彼のことを仲の良い友人以上には見ることができなくて、そのジレンマみたいなものを持て余していたのだった。



・・・結局、あのメゾンのチョコレートはまだ私のバッグの中にある。



私は行き先のなくなってしまったそれを撫でるように、バッグに触れた。


「・・・・そう言う湊くんだって、大久保さんに告白されてたのね」


「・・・・もう半年以上前のことですよ」


そこで、会話が途切れてしまう。



もちろん湊くんがモテるのは知っている。

誰々に告白されたとかいちいち報告する義務はないけれど、それにしても、それを聞いて晴れやかな気持ちでいることは不可能だ。



せっかくのバレンタインデーとだというのに、まるで仕事のトラブル処理を相談しているような空気感だった。



今夜湊くんが私の部屋に来ると決まって、私はメニューを練り、手作りチョコの代わりにせめてデザートプレートは凝ったものを出そうと計画していたのに。


湊くんが泊まれるように着替えだって用意したし、今夜だけでなく、いつ泊まってもいいようにワイシャツまで購入したり、逆に、万が一昔の元彼を連想させるようなものが残っていたらダメだと、数日前からちょっとずつ深夜に大掃除をしていたくらいだ。


それでも湊くんの着替えやワイシャツ、日用品を選んでいる間じゅう、私はいい歳しながら浮かれていた。


間違いなく、恋のはじまりを味わっていたのだ。



もう三十半ばだとか、相手は十二も年下だとか、そんなの忘れてしまうほど、今日の準備を楽しんでいた・・・・



そのことを思い出した私は、堪らず「ねえ!」と大きめの声で湊くんを呼んだ。



「はい・・?」


そして素直に返事をくれる湊くんの肩に手を置くと、



―――――――――その頬に、キスをした。





「―――――――っ、えっ?!美咲、さん?」


湊くんが私を凝視し、その反動で右に寄りそうになったハンドルを慌てて握り直した。



「・・・・・・・・さっき休憩室の前で聞いたこと、忘れない?柏原くんのことも、大久保さんのことも」


ただ頬にキスしただけなのに赤くなるなんて可愛い。

でも、焦った横顔もかっこいいなと思ってしまう。


これはもう、どうしようもないほどに湊くんに惹かれている証拠なのだ。


そんな相手とはじめて迎えるバレンタイン、一緒に過ごすはじめての夜を、私は誰にも邪魔されたくない。


私のこの想いが彼に伝わるといいな、そう気持ちを込めて、湊くんを見つめた。



すると折りよく赤信号で車が止まり、湊くんも助手席の私に顔を見せてくれた。



「・・・・・・・ずるいです。そういうこと、本当は男の僕から言いたかったのに・・・・」



湊くんの拗ねたような顔はあまり見たことがなかったけれど、新鮮に感じるよりも先に、私はホッとしていた。



「あ、でもそれならさっき柏原係長に渡すはずだったモノ、もう必要なくなったんじゃないですか?」


「うん・・・・そう言われたらそうだけど」


「チョコレート、ですよね?」


バレンタインの今日、お礼に渡すものといえば大方チョコレートだろう。

なのに敢えて確認するように尋ねた湊くんは、ほんの少し、きまり悪そうに視線を宙に浮かせた。



「・・・・・じゃ、今食べちゃう?」



私は湊くんの返事も待たずに、バッグの中、一番下に傾かないようにして入れておいた黒いボックスを出して見せた。



「え、これって有名なブランドじゃないですか。ここ、チョコレートも扱ってるんですね」


僕そういうの疎いから全然知りませんでした。



そう言って素直に驚いた湊くんだけど、私はちょっと意外だなと思った。



彼はスーツや身なりだけでなく、持ち物も、一緒に食事する際の店のチョイスも、オーダーの手慣れた感じも、彼を取り巻くすべてが洗練されていたからだ。


だから当然、流行りのメゾンや話題の物などには詳しいと勝手に決めつけていた。



去年まで学生だったことを考えると、確かにハイブランドに足を踏み入れていないのも道理かもしれないけれど・・・

そんなことを頭に浮かべる傍ら、私は湊くんの初々しい反応に頬が緩んでいた。



ボックスを開くと、ふわりと酒の香りが放たれた。


「わ・・・なんか ”大人のチョコレート” って香りがしますね」


湊くんはそんな感想とともに運転席から体ごとこちらに傾けて小さなボックスを覗き込んだ。


けれど私は、上品な小箱から漂ってくる香りの深さに、


「でもこれって、食べた後運転大丈夫なの?」


思わずぽつりと溢していた。



「大丈夫じゃないですか? ”お子さんは召し上がらないでください” とか説明なかったんでしょう?」


「それはそうだけど・・・・」



でも、万が一ということも考えられる。


私は自分で選んで購入したくせに、なんでこんな酒の香りが強いんだと内心で文句をついていた。

いや、当初はこれは行き先が違ったわけで、日本酒好きな柏原くんだったら喜ぶだろうなと思って選んだのだけど。


「うーん・・・大丈夫だとは思いますけど、美咲さんが心配なら、美咲さんの部屋に着いてからにしましょうか」


運転席に身を戻した湊くんは、「それにしてもいい香りだ」と嬉しそうだ。


「湊くん、日本酒も飲めるの?」


彼は私と食事するときも飲み会の席でも、あまり多く飲む印象はなかった。

飲んでても乾杯の延長でビールが多いように思う。


けれど湊くんはクスッと吐息で笑った。


「実は結構飲む方です。いける口だと知られたら付き合わされそうなので控えめにしてますけど、ワインも日本酒も、甘いカクテルもなんでも好きですよ」


あー、なんか飲みたい気分になってきました・・・



そう言いながらネクタイの結び目に指を入れて襟元を寛がせるしぐさが、たまらなく色気を感じさせた。


それはよく聞く ”女性の好きな男性のしぐさ” のひとつだけど、周りにスーツの男性が多いせいか、今までそんなしぐさにときめいたことなどなかった。


どちらかというと、残業突入のときによく見かける、疲れを滲ませたマイナスイメージの方が強かったくらいだ。



それなのに、湊くんがするとこうも違って見えてしまう。


我ながら単純というか、嘘がつけないというか・・・・



私は自嘲に笑いかけたけれど、それよりも・・と、黒い小箱からひとつつまみ上げた。

隣では、私が何をするのかと、湊くんが興味を持ってこちらを見ている。



私は湊くんににっこり微笑むと、つまんだチョコレートの端をカリッと噛んだ。


「あ、美咲さん食べた・・・」


いいな、僕も早く食べたいのに。


そんなニュアンスを匂わせる湊くんと目を合わせながら、私は口の中が芳醇に満たされるのを待った。


そしてその時がくると、急いで彼の腕をこちらに引き寄せた。


「え、わ、ん・・・・・・っ」


合わせた唇から、そのもっと奥から、酒の香りを彼に届ける。


それはこの前彼からもらったキスと似ているようで、少し違うような、香りや吐息ごと交わる口づけだった。



「ん、・・・・・ん・・・っ」



彼が息を漏らす度に、その息までも逃したくないと思ってしまう。



けれど湊くんがキスのリードを取りたがってるのを感じ、私はひとまず、彼の唇を解放した。


すると、唇以外は離さないとでもいように、湊くんにきつく抱き寄せられてしまう。



「・・・・・・美咲さん、いきなり過ぎます」



額と額をくっつけて掠れ声で訴えられて、私は彼の潤んだ唇を人差し指で押してみた。



「お酒のいい香り、しなかった?」



湊くんは返事するよりも先にぺろりと私の指を舌で舐めて、


「しましたよ。美咲さんの香りも混ざってましたけど」


聞きようによっては際どいセリフを吐く。


「だって、飲みたい気分になったって言うから・・・・」


「それでこんな激しいのを?それって、サービスがいいのか、お節介なのか・・・・」


「あら、お節介だった?」


「だって、こんなキスされたら理性が飛んでいってしましそうになりますよ・・・?だから、僕にとったらこれもある意味お節介なチョコレートです・・・・」



そう告げた彼は、私が何か言いかけたその唇を塞ぐように口づけてきた。



もう香りとか吐息とか気にしてられないほどに彼に惑わされて、頭の中が白い紗をかけられたようにぼんやりとしてくる。



彼のキスは、いつも気持ちがいい。



私は彼の腕を掴んでいた手をその首もとに持っていき、緩んだワイシャツの縁を、意味を持ってなぞってみせた。


そしてその下の肌に指先がかかり、彼の腕も私の背中を這い出したそのとき――――――――――――




パパパパ――――――――ッ




大きなクラクションの音に、現実に引き戻されたのだった。




互いにハッとして身を離すと、もう信号は青になっていて、後ろにも車が連なってた。


バックミラーでそれを認識した湊くんは急いで車を発進させる。

その反動で私は体をシートの背に強めに当ててしまった。



「すみません、大丈夫ですか?」


湊くんは心配そうに訊いてきたが、私は、その焦ったような表情とさっきまでの濃厚なキスとのギャップに、なぜだか笑いが込み上げてきた。


「?・・・美咲さん?なに笑って・・」


「なんでもないわ」


不思議顔の湊くんに手を振って否定しつつも、笑いが止まらない。


すると彼の方もなにやら笑い出し、左手で私の手を握ってきた。



「笑っていられるのも、今のうちかもしれませんよ?」



そして告げられた艶のあるセリフに、



「望むところよ」



指で彼の手を撫でながら答えたのだった。




お節介なチョコレートの効果は、もしかしたら今握っている手の中にあるのかもしれない―――――――――――――




一瞬だけ、長い付き合いの同期を思い出したけれど、

それは湊くんには秘密だ。




でもそんなこと考えなくても、すぐに、これから始まる大好きな彼との夜に思いを馳せていた私は、


呆れるほどに恋愛最中なのだと実感していたのだった――――――――――









(了)









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