その後【7】後編
貴族の社交会に行く、とアドリアーナは言った。未婚の男女にとってそれは……出会いの場だ。あまりにも残酷な宣言に何と答えていいか分からない俺に、アドリアーナは慌てて説明を重ねた。曰く、自分が求められる役割は宣伝用の人形。兄の商売のために行くのであって、自分自身の出会いを欲しているわけではない。信じてほしい。
事前にそこまで言われたら、了承しないなんていう選択肢は存在しないだろう。実家の商品に全身を包んで、めかしこんで行くというアドリアーナ。彼女を間近で見られる男どもに嫉妬して、全部殴り倒したい気持ちになっているとしても、それを彼女に悟られるわけにはいかない。俺は物わかりのいい男のふりをして、頑張ってこい、と言って頭を撫でた。
……が、だがしかし。モヤモヤする。その社交会自体は俺も知っていた。大規模なので、獣人部隊からも数人応援を出す予定だ。そういった華やかな場の警備の常として、持ち場が会場内になるのは人間の中でも容姿に恵まれた騎士。俺たちは外での警備となる。まあ、中に入れられて醜いものを見る目を向けられる方がよほどきついから全く構わないのだが。当然こちらも一応、隊長のアルフを筆頭に部隊の中でもまともな見た目の奴を出している。……普段なら。
「……行くか……?」
警備はアルフに行かせるつもりだった。アルフもそのつもりだ。だが、代わりに俺が行ってまずいことがあるかというと……、建前上はない。俺の顔面しか問題はない。元より、何もなければ招待客の前に姿を晒すことはないポジションだ。こちらが対処しなければならないような事態が起き、その対処に俺で不足するなら、アルフが行っていても一緒だ。能力には自信がある。
俺は警備担当の交代を、アルフに相談することにした。事情を話すと、アルフは拍子抜けするほど簡単に警備を譲ってくれた。もしもの時にアドリアーナを優先的に守ることは許されないぞ、と、釘を刺された上で。……問題ない。もしもの時は速やかに原因を排除すれば、全てを守ることが出来るからな。
そうして向かった警備では、あからさまに嫌な顔をされながらも、直接何かを言われることもなく。問題なく時間が過ぎていくので、中にいるであろうアドリアーナに男どもが注目している様子を想像して勝手に腸が煮えくり返っている余裕すらあった。普段も奇跡のように美しいが、めかしこんだアドリアーナを、俺も見たいのに。
「副隊長ー、なんか恐らく無意味な殺気がちょっと漏れてます……」
「……悪い」
不機嫌の理由が、遂に部下にまでバレている。情けない。いくら平和でも仕事だ、しっかりせねば。
そう気合いを入れ直した瞬間だった。
「きゃああああ!」
「……!」
会場内から響いた悲鳴に、俺は素早く周囲を確認する。外的要因による異常は、少なくとも俺のいる側ではなし。
「待機しろ。出てくる奴がいたら確保」
慌てる部下に短く告げ、弾かれたように入口に向かった。中には……アドリアーナがいる。
入口近くで張っていた部隊と合流し、すぐに中に踏み込んだ。騒ぎの中心に意識を向ける。
「お、おい、お前なんてことをしたんだ!」
「だってお父様、この女が!私なんかルドルフ様に見向きもされないって!」
「なによ!事実じゃない!あんたみたいな野蛮な女!ワインなんてかけてきたのがその証拠よ!一生一人でいればいいのよ!」
一緒に突入した人間たちには、ざわめきに紛れたこの声は聞き分けられていないのだろう。
「……」
聴覚を研ぎ澄ませていた俺は察した。これ、ただの、良家の子女のキャットファイトだ。しかもルドルフと言ったな。彼女の兄をめぐるやつだ。俺みたいなのが行くべきじゃないし行きたくない。俺はさりげなく後退った。
案の定、少しすると伯爵の声で問題ない旨の放送が流れる。はぁ、焦って損した。そこで俺は、何事も無かったように踵を返せばよかったのだ。だが……見つけてしまった。
「……っ!」
息を呑む。入口近くに……女神がいた。
「……り、アーナ……」
掠れて声にならなかった名は、俺自身の耳にもろくに届かず消えた。兄に庇われる彼女は、一目見ただけで全人類が見蕩れるだろうと確信させるほど、美しかった。
見せたくないと思った。今まで、アドリアーナはこの姿を会場の全ての人間に晒していたのか。なにが宣伝用の人形だ。甘かった。商品のためとはいえ、元々美しい彼女が『人に魅せるために』着飾るという意味を、きちんと理解していなかった。背中の大きくあいたドレスに、メイクにより落ち着いた美しさと色気を見せる顔に、結い上げた艶やかな髪。
込み上げてきたのは、自分でも容易には信じられないほどに醜い感情だった。
俺は、その姿を見ていなかったのに。そこらの有象無象には、見せたのか。許されるのなら全員引き裂いてしまいたいとすら思う。俺は見た目ほどには醜くないつもりだったが、そうでもないのかもしれない。だって、今、少しだけ疑っている。……本当に、ここに来た理由に、出会いを求める気持ちは全くなかったのか、と。そんな姿を見せられたら、未婚の男は全員、もしかしたら既婚者すらも、アドリアーナを欲しいと思うに決まっている。それくらい分かるだろう。まして社交会にはそもそも、そういった意味もあるのに。本当に、本当に商品の宣伝のためだけに来たのか? もしもいい男がいたら、という気持ちは全くないと言いきれるのか?
自分が思っているよりも最低だった俺という男は今、信じると決めた恋人の気持ちを……疑っている。
兄の腕の中で怯えていたアドリアーナに、ルドルフ……さんが、何かを囁く。小声すぎてさすがの俺でも聞き取れないが、美男美女のその姿は苛立たしい程に絵になっている。彼の言葉で、アドリアーナが笑顔になった。……彼は、アドリアーナの大切な兄だ。自分にそう言い聞かせるのに、彼に対してすらも、醜い感情が頭をもたげる。
「そう、リアはどんな顔でも美人だけど、笑顔が一番だ」
今度は声を潜めていないので聞き取れた。ルドルフさんの優しい言葉と笑顔に、嬉しそうに頷くアドリアーナ。俺は、……アドリアーナの兄である彼がアドリアーナを笑顔にした、ただそれだけのことに、焼け付くような嫉妬を覚えてしまった。
すぐそばにいる二人が、酷く遠くにいるような気がした。俺は、彼女のそばにいてもいいのだろうか。彼女に害をなす存在に、いつかなってしまうとしたら。
そんな恐ろしい想像をしていた時だった。予備動作もなく、アドリアーナがこちらを向いたのだ。俺は何も反応できず、ただ身を固くした。向こうも驚いたようで、沈黙が流れる。
「ラーシュ……?」
俺と、すぐそばにいるルドルフさんくらいにしか聞き取れないであろう、小さな小さな呟き。疑念を含むその声に、俺は焦った。
アドリアーナからしたら、俺がいるのは完全に想定外のはずだ。何故いるのか、と思うだろう。だって俺は、社交会に行く報告を受け、快く送り出したはずなのだ。それが会場まで乗り込んできていたことが、バレた。俺がアドリアーナを信頼していないのだという印象を植え付けてしまっただろうか。それとも、こっそり来ているなんて……ストーカーみたいで気持ち悪い、と、思われただろうか。
アドリアーナは何も言わない。いや、当然か。兄の同伴者という立場上、兄に迷惑をかけたくないと思えば何も言えないはず。たとえどんなに俺を罵りたいと思ったとしても、だ。というかそもそも俺と知り合いなことを周囲に悟られた時点でプラスかマイナスかで言ったらマイナスか。付き合っているなんて……目も当てられない。
ならばこの場は、彼女のことを考えるなら、早急に退出するべきだ。何を言われるにしても、言い訳をするにしても、後日。そう結論付けて、軽く一礼して外の持ち場に戻ろうとした瞬間。高いヒールで立っていたアドリアーナの重心が、急にぐらついた。
「なっ……」
必死だった。俺の身体能力を持ってしてもギリギリのタイミングだった。俺はバランスを崩したアドリアーナに手を伸ばし、間一髪で抱き抱えることに成功した。
「……大丈夫か!? ……です、か?」
ぎこちなく敬語に言い換える。今この場では、俺は警備兵で、彼女は招待客だ。
世にも醜い獣人騎士が、天女と見紛うような女性を抱き抱えている。転びそうなところを助けたとはいえ、あまりの酷さに、周囲からは悲鳴が上がった。これがアドリアーナでない令嬢なら、転んでいた方がましだったと殴られかねない。咄嗟に手が出たとはいえ、そういうレベルの暴挙だ。
至近距離で目が合う。俺はまだ、重心が崩れた瞬間の焦りと、間一髪で転ばせずに済んだことへの安堵が勝っていて、照れるという感情まで達していなかった。間に合ってよかった、とそれだけ考えていると、アドリアーナの顔がぶわっと真っ赤になった。虚を突かれる。
「いや、えっ、あああああのめっちゃいま、はや、えっあれっ」
「……落ち着いてください」
アドリアーナがどもりすぎていて、逆に冷静な言葉が出てくる。
「た、立ってたところから、距離、あの、私まで、結構あった、ですね?」
不可抗力とはいえ抱き締めているのに、全く嫌がる様子を見せない。むしろ、真っ赤になってどうしていいか分からないようだ。なにか主張しているが、何を言っているか分からない。その程度には動揺しているらしい。
……そうだ、そうだった。つい先程までの追い詰められた醜い思考から一転、安堵が胸に広がる。アドリアーナは俺なんか相手に真っ赤に照れるような、不思議な人だった。
周りに聞かれないように。先程ルドルフさんがしていたように、耳元に唇を寄せ、囁いた。
「ほんと、落ち着け、アドリアーナ。降ろすぞ?」
「は、はひ……」
そこで困ったことが起こった。アドリアーナが、立てない。俺の腕を支えにバランスをとる様子は愛らしいが、周囲の目線がものすごく痛い。そこ代われ獣人、と、直接言われているわけでもないのに、周りの連中が言いたいことが理解できてしまう。譲らないが。
困り果てる俺たちに助け舟を出したのは、ルドルフさんだった。
「ああ、リア、可哀想に。ヒールが折れて足首を痛めてしまったんだね。騎士殿、私の妹は足を痛めて歩けないようだ。申し訳ないが、当家の馬車まで妹を運んでいただけませんか。私もすぐに向かいますので、先に」
機転の効く人だ。俺からすると、この人の印象はアドリアーナを狂言誘拐した結果ビンタを食らっていた情けない姿が強いのだが、それだけではないらしい。俺は改めて尊敬と、感謝をした。
「畏まりました」
ルドルフさんが大きめの声で状況を説明してくれたので、俺は堂々とアドリアーナを抱き上げ、会場中の注目を集めながら、その場を後にすることができた。
アドリアーナを運ぶという、一般に役得としか言いようがない役目を任され、歩くこと少し。真っ赤になったアドリアーナから謝罪を受けた。謝ってくるくらいだ、俺に対して悪い印象はないのかもしれない。その予想に後押しを受け、俺は一番気になっていることを質問した。
「俺のことを気持ち悪いと思ったか?」
案の定、心当たりがないと不思議そうな顔をした彼女に深く安堵し……、俺の軍服姿に見蕩れた、という、百人が聞いたら百人が首を傾げそうな情報も手に入れた。全ての人間を見蕩れさせるような完璧な容姿をしておいて、自分は俺みたいな、誰もが目を背けたくなるようなものに見蕩れたという。もう、からかわれているとは思わない。アドリアーナは『こう』なのだ。だから、俺は大丈夫だ。さっきは嫉妬でほんの一瞬だけ思考がおかしくなりかけたが、大丈夫。
しがみついてくる愛しい生き物を大切に運びながら、俺はそう思った。