第81話 勇者のその後
テオの農場が「世界一の経済特区」へと急成長を遂げ、人種や階級に関係なく『やる気のある者には、最高の飯と快適な寝床を提供し、公平な賃金を支払う』という求人を出したという噂は。王都の最下層、陽の当たらないドブネズミと野良犬しかいない裏路地でくすぶっていた「彼ら」の耳にも、届いていた。
元・伝説の勇者アレク。
元・一流戦士ガストン。
元・最高宮廷候補魔導師ミランダ。
かつての栄光は、今や見る影もなかった。武具は全て差し押さえられ、着ている服は継ぎ接ぎだらけ。日払いの下水道掃除や害虫駆除で食いつなぐ日々の果てに、彼らは借金取りの執拗な追跡から逃れ、ついに王都に身を置くことさえできなくなっていたのだ。
今日のパン一枚を手に入れるために、かつて自分が蔑んでいた「掃除」や「雑用」を奪い合う惨めな有様。そんな彼らにとって、テオの農場の求人情報は、もはや「選択肢」ではなく、文字通り「最後の命綱」であった。
数日後。テオの農場の転移ゲート前、多くの観光客が賑やかに行き交うその場所で。
三人のボロボロの男女が、地に額を擦り付ける「土下座」の姿勢で固まっていた。
それはかつて、同じ場所でテオを見逃してやった時のような傲慢な慈悲ではない。プライドも、過去の意地も、英雄としての矜持も、すべてを等価交換して投げ捨てた末の、剥き出しの懇願であった。
「頼む……ッ! テオ、いや、テオ様! どうか、どうか俺たちをここで働かせてくれ!」
「皿洗いでも、肥溜め掃除でも、魔物の餌の準備でも……! 言われたことは何でも、文句を言わずに、命を懸けてやり遂げる!」
「もうプライドなんて一欠片も残っていませんわ! ただ、テオさんの作ったあの温かいご飯が食べたいの! お酢をかけられない、本当の温かい布団で眠りたいのよぉぉッ!!」
ミランダが、かつての高飛車な態度はどこへやら、泥まみれの地面を握りしめて号泣した。
テオは作業の合間に、冷やかし半分に騒ぎを見守るオークの従業員たちの間を通り抜け、彼ら三人の前に立った。
正直、驚いた。憎むべき相手ではあった。理不尽に自分を追放し、どん底に突き落とした張本人たちだ。だが、今の彼らの濁った瞳には、かつての「自分が世界の中心だ」という醜悪な傲慢さは消え失せ、代わりに、泥水を啜ってでも生き延びようとする「生命の根源的な必死さ」だけが、生々しく宿っていた。
「……前にも、襲撃に来た時に言ったと思うけど。僕は君たちを特別扱いはしないよ。給料も休みも、あそこに並んでるオークのボブさんや、リザードマンの連中と全く同じ条件だ。それでもいいなら……」
「もちろんだ! 文句なんて、誰が言える状況かっ!」
「雇っていただけるだけで有難き幸せですだぁっ!!」
こうして、皮肉にもかつての「主従関係」は、逆転した形で再構築されることになった。
勇者アレクは、意外にも皿洗いの才能が異常なレベルで開花した。伝説の剣技で培った超高速の手首の旋回と、一ミリの曇りも見逃さない戦士の動体視力を駆使し、彼は一分間に数百枚という驚異的な速度で、汚れた皿を鏡のようにピカピカに磨き上げる職人と化した。
元戦士ガストンは、その自慢の怪力とスタミナを遺憾なく発揮。以前のパーティでは「荷物持ちは役立たず」と吹聴していたのが嘘のように、今は笑顔で巨大な米俵十個を同時に軽々と運ぶ、倉庫部門の不動のエースとして重宝されるようになった。
そしてミランダは、その繊細にして正確無比な魔力操作スキルを、温泉の温度を〇.一度単位で調整する「湯守」として、さらには魔力を指先に込めてコリを解き明かす「至高のマッサージ師」として、観光客から圧倒的な支持を受ける人気スタッフとなった。
かつて世界を救おうとした壮大な力は、今、目の前の一人の客の食事を支え、一人の旅人の疲れを癒やすために、地道に贅沢に使われている。
アレクは、休憩時間に配られた炊き立ての塩むすびを、涙を流しながら噛み締めた。
「……ああ、美味い。……生きてるって、こういうことだったんだな」
彼はピカピカに磨き上げた大皿に映る、以前よりも少し日焼けし、健康的で、充実感に満ちた自分の顔を見つめ、久しぶりに無邪気な、心からの笑顔を浮かべた。
彼ら三人の本当の物語、すなわち「人間としての再生」は、この地の底の農場から、ようやく一歩を踏み出したのであった。




