第18話「彼が目指す理由」
「なんや今のん……」
週明けのブルペン、投球練習を許可された龍太朗は、キャッチボールを終え、弘大を座らせたうえで振り被った最初のストレートに驚愕していた。それを受けた弘大は鋭い目を目いっぱい丸くさせている。
「速い……」
「あんま意識して投げとらんで?」
念のためもう一度投げてみる。始動前はリラックスし、すうっと振り被った両腕はいつもに増して軽く上がり、久方ぶりの投球で思い出すように流れていくフォームは、猛然と振り下ろした右腕からとんでもない剛速球を放った。
「いいフォームだね!」
乾いたミットの捕球音を聞き終え、右手を見つめるエースにブルペンの外から美里の嬉しそうな声が降りかかる。
「俺そない疲れてたんかねぇ……」
「もう一回投げてみて! スピードガン持ってくる!」
美里の提案と深堀からの要請に従い、週末はストレッチを除き自主練習の一切をしなかった龍太朗はこの朝、何もしていないことへの強烈なもどかしさにうずうずしたが、起き上がって部屋から持って出る鞄を拾い上げて、得も言われぬ軽さを感じた。
朝から感じ続けていた違和感も含め、困惑しつつ右手を眺める龍太朗を捨て置き、ウキウキ飛び跳ねるようにベンチへと駆けていくマネージャー主任は、監督と美央、そして遅ればせながら練習の準備を整えた透と慧次朗も連れ立ってスピードガンを構える。
「ちょっとやりにくいなぁ」と苦笑する龍太朗だが、一息入れて真剣な表情に移り変わると、弘大のミットへ迷いのない剛速球を投げ込んでみせた。
「ひゃく……、146キロ!?」
一瞬の静寂ののち、目を見開いてスピードガンの結果を叫んだ美里に、龍太朗は思わずマウンドから駆け出す。
「なんやて!? ホンマに言うてんのか!」
「降りるならもう今日は受けんぞ!!」
「えぇー!? 見に行くぐらいええやないか」
「そのボールを続けろ! 本物なら、お前自身がいくらでも投げられるだろ」
相変わらず堅物だというのは横において、龍太朗は引き続き10球ほどストレートを連投してみる。先発で投げる時と同様に、7~8割の力で3球ほど投げると、球速は140キロを切る程度のいつも通りのボールに戻りつつあったが、それ以降は142~3キロほどで維持し、9球目には145キロを計測。
周囲がざわつく中のラスト1球、少年は三振を狙うイメージで渾身の一球を放った。弘大の構えたミットから右打者内角寄りに逸れて収まった白球は、ミットを引き千切らんばかりの音を響かせる。
「すごい! 149キロ!!」
ブルペン外に集まった皆々が「おぉ!!」と思い思いに驚き騒いでいるが、投げた本人は今一つ実感がないこと以上に、悔しさが沸き立っていた。
「うわおっしいなぁ! やっぱ150ってエグイなぁ」
「まあでも、さすがだよ。龍太朗のそういうセンスは」
龍太朗の2球目を投じたのち隣のマウンドへと移り、エースの投球をすぐそばで見ていた透は、「タッツー、投げるよ!」とボールをかざし、待ちくたびれたように一息入れると、伸びやかなワインドアップから唸るような直球が飛び出す。キャッチャーとして構えていた慧次朗は余りの速さに左腕が耐え切れず、胸の前で受けたはずのミットがプロテクターまで直撃し、鳩尾の激痛に顔を歪めている。
透の球にもスピードガンを向けていた美里は、糸を引くような快速球の球筋と、スピードガンの数字に絶句した。
「141っ……! すごい透くん!」
「はぁっ!?」
今までの最速が129キロだった優男が突然の140キロ台記録に、隣の龍太朗は「えぇ~……」と消え入る言葉を発するしかない。
「僕だっていつまでも手加減してるわけじゃないよ。ってタッツー大丈夫?」
「大丈夫とちゃうからこんなことなっとんねん……」
この世のものではないものを見る目で透を見つめる龍太朗だが、微笑輝く透の「手加減」という言葉がさらに引っ掛かった。
とりあえず妙な引っ掛かりは忘れてしまおうと、その後快調に気分良く投げ込んだ龍太朗は、気持ちの良い汗をかけたと練習を終え、ユニフォームのままロッカールーム近くのベンチでボール磨きに勤しんでいる。
「なあ浜風」
「ん? どないした?」
残りのボールも少なくなってきた頃、すでに帰り支度を終えた慧次朗が、透の直球の衝撃がまだ残るのか、鳩尾の辺りをさすりつつ、サウナに入ってきた中年よろしく通路向かいのベンチにドサリと腰掛ける。
「お前何でそないに甲子園行きたいんや?」
ダラしない座り方とは裏腹に露骨なほどの真面目な表情というギャップに、龍太朗は吹き出しそうになる。
「突然どないしたんやタッ――」
「何度も言うとくが、1年生だけで甲子園に行こうなんぞ、頭おかしいか錯乱しとるか気ぃ狂っとるかしかないぞ」
「いやいや全部同じ意味やん!」
「ほれやったらなんや、その楽天的思考は? 現実考えて無理くりや言うんは分かっとろう? ただでさえ予選の時点で難攻不落の極みやぞ。なんでや?」
夏の大阪府大会は、300校近くの出場校数、そして強豪校ひしめき合う全国屈指の激戦区。甲子園を勝ち抜くよりも難しいとさえ評する者もいる。慧次朗の言い分ももっともだ。
辛辣な言葉を続ける割りに、変わらずダラリと座る慧次朗に、わざわざ言うべきことなのだろうかと思案しつつ、キャプテンは最後のボールを磨き切った。
「やっぱ、親父やな。親父を超えたいんや」
「親父さん? 元プロの?」
「いっちゃん分かりやすい目標てなんやってなりゃ、やっぱ親父の背中よ」
開いた両腿に腕を置き、手を組む龍太朗に、慧次朗はどこぞのミュージシャンのCDジャケットを想起する。
「ほんならタッツー、突然やけどここでクイズといこう」
「ふぇっ? ほんまに唐突やの」
「俺の親父、浜風真太郎、その出身校はどこ?」
「ん!? えーっとどこやったかなぁ。確か結構マイナーな高校やったような……」
慧次朗は、部内でも随一の雑学王である。小学校時代は休み時間の大半を図書室で過ごしていたこともあり、幅広い知識と知的好奇心を持つ。が、野球についてはプロの分野は手広くても、アマチュアの分野は範囲外だ。よほど主要な強豪校でもない限り、ぱっと思いつく高校は結局数えるほどである。
「出えへんか? 大阪府立春ヶ丘高校や」
「あーそんな感じやったか。え、春ヶ丘!? 偏差値で見ても結構上位なとこやんけ」
「せや、オカンもそこやで」
「はぁ~、そら浜風も成績ええはずやわ。府立高出身やってんな」
「せやで、ほんで――」
「甲子園行ったん? それ考えたらすごいな」
「たった1回だけやけどな」
浜風真太郎はドラフト1位でプロ野球に殴り込んだが、甲子園出場は1度しかない。
80年代以降の熾烈極まる大阪府大会を勝ち抜いた公立校は極々僅かだ。そのうちの一校が真太郎の母校、大阪府下の公立校であれば十指に入るほどの進学校、府立春ヶ丘高校であった。
春ヶ丘の2年生エースだった真太郎は、左腕から放たれる剛速球で快刀乱麻の投球を見せ、府大会決勝で完全試合を達成し、甲子園出場を決めた。
甲子園初戦も府大会の勢いそのままに好投を続け勝利したが、2回戦に滅多打ちを喰らって敗退。秋の府大会は援護に恵まれず3回戦敗退。3年時も府大会で好投を続けたものの、準決勝で最後の夏を終えた。
「親父は2年で甲子園に行った。でも3年間で1回だけ。行けるチャンスがもっとあるんやったら、全部出たいんが本音や。なら、せめて親父を超えたい。それが原点やった。デカいうえに遠すぎる背中やけどな……」
「それだけで1年から甲子園行きたいとはならんやろ?」
入部前に問い詰められた私怨でも晴らすつもりか、慧次朗もキャプテンと同じ姿勢になり、半ば尋問の様相だが、龍太朗の表情は晴れやかである。
「唯一無二ってもんを俺自身で手に入れてみたいんよ」
「唯一無二?」
「誰にも超えられんものを成し遂げてみたいんや」
高校野球界において唯一無二となれば余程のスーパーレアをやってのけない限り発生し得ない状況だが、慧次郎の目の前にいる少年は大真面目だ。
「ナンバーワンよりオンリーワン。1番ならんくても元から自分は他の誰でもない、なんて歌あるけど、なんか爪痕残そう思たら飛びぬけてナンバーワンなれなオンリーワンには絶対なれん。気ぃ悪いことこの上ないけどな」
「最速不倒、っていうべきなんか? えぐいのう」
「おう、言うとけ言うとけ。俺はやる。絶対やる。んで、昔の俺に言うてやりたいねん。今の俺はここまでできるようになったぞ、安心せいって」
「昔の自分に自慢か、いや。弱かった自分との決別か?」
慧次朗の二言目に目を見開いた龍太朗にしばし押し黙った龍太朗は、「まあ、そんな感じかね」と苦笑し、調子を合わせる。
「今の間ぁなんや?」
「ん? あぁ、実は昔のお――」
「龍太朗、いい加減帰るよ。まだ着替えてなかったの?」
「え? あっもうそんな時間か! 悪い、この先はまた今度!」
「はぁ!? えぇ……」
身支度が整った透からの一言を受け、一目散にロッカールームへ消えていったキャプテンの決まり悪さに面倒くささが間欠泉のごとく湧いてきた慧次朗は、もうええわと盛大な溜息を吐き、日が沈んでからの涼やかな風に押されるように出口へと歩き出した。
「ああそや。そもそも聞きたいんやけど」
「ん?」
「浜風のオカンってなんかやっとったんか?」
「俺のオカン?」
「親父が凄かったとて、ただそれだけでここまでの実力は出てこんやろ。なんかしとったはずや」
「なんか言うたってなぁ、まあ言うて薙刀でインカレ2連覇したぐらいかの」
「あー明らかそれやどうやってもそれや血ぃ争えんのに自覚ないような言い方してくれるな俺が悲しなってくるわ!」
帰り際に、追いついてきた龍太朗の血統の良さをまざまざと思い知らされる慧次朗であった。