美徳の限界
Cは誰からも尊敬される人物だった。親切で、誠実で、約束を守り、他人を思いやり、嘘をつかない。まさに美徳のかたまり。住んでいる地区の誰もがCを信頼し、困ったときはまず彼に相談した。
ある日、近所の老人・Dが言った。
「君は完璧すぎるよ。まるで機械のようだ」
Cは微笑んで答えた。
「人として当然のことをしているだけです」
だが、あるときからCの周囲で、奇妙なことが起こり始めた。頼みごとの数が急激に増えたのだ。買い物代行、トラブルの仲裁、ペットの世話、家の修理……Cは一つひとつ真面目に対応した。
「Cさんならきっと断らないよね」
「Cに言えば間違いないから」
頼られることは光栄だった。だが、Cの時間は次第に奪われ、食事も睡眠も削られていった。彼の目の下にはくまができ、顔色も悪くなっていく。
ある晩、Cは誰もいない公園のベンチでつぶやいた。
「これは、美徳なのか……?」
次の日から、Cは誰の頼みごとにも応えなくなった。挨拶もせず、道で転んだ人にも目をそらした。
町の人々は驚き、口々に言った。
「どうしたんだ、あのCが……」
そして噂が流れた。
「きっと何か悪いことがあったに違いない」
「いや、本当は偽善者だったんだ」
だが誰も、Cに直接話しかけようとはしなかった。誰よりも人に尽くしてきたCが沈黙した途端、人々の美徳もまた、静かに消えていった。
数週間後、Cは静かに町を去った。
彼の机の上には、短い手紙が残されていた。
『美徳は道具ではありません。消耗品でもありません。限界があります。どうか、皆さんもお元気で』




