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3/3

後編 さよなら、私の王子様

王子がわざとか、わざとじゃないかと言えば、半分はわざとです。

地獄のお茶会から二日後。

なんとか復帰したモモカは、暗い顔をしてふらふらと廊下を歩いていた。


「あ~……まだ、あっちこっちピリピリしてる……」


普段ほとんど使わない筋肉を酷使したせいで、いまだに全身が悲鳴を上げている。

しかし、筋肉痛でいつまでも学園を休むわけにはいかないので、今日は根性で登校した。


それにしても、えらい目に遭ってしまった。

ゲームから離れればうまく事が運ぶと思っていたのに、ゲームより酷い展開になったのはどういうことなのか。


「やっぱ、ゲームどおりに動いた方がいいってこと? でもなぁ……」


あと残されているのは、乙女ゲームでの最大の事件。階段落ちである。

学園の本校舎の玄関ホールにある大階段が舞台だ。

そこでヒロインは、悪役令嬢に突き飛ばされて命の危機に瀕する。

無傷で済むか、大怪我を負うかは、ジョナスの好感度次第。

これまで積み上げてきたことの集大成とも言えるイベントだ。

ここで無事にジョナスに助けられれば、あとは卒業パーティーでの悪役令嬢の婚約破棄、そして断罪となる。


しかし、モモカはそのイベントの再現だけはためらっていた。

ジョナスの好感度がいまいち分からないからである。


ゲームでは、要所での台詞や演出で、各攻略対象の好感度が分かるようになっていた。

階段落ちイベントを発生させようと思っていたときは、それを目安にするつもりだったのだ。

だが、この世界のジョナスは、それに類する台詞を一切口にしてくれない。

というか、何を考えているのか全然分からない。


ただ、キャスリンのことを語るジョナスは常に上機嫌だった。

少なくとも、悪役令嬢への嫌悪感は感じられなかったと思う。


「婚約破棄する気はなさそう。ヒロインへの好感度は不明。この状態で階段落ちは博打が過ぎるわ……」


いくらモモカでも、率先して痛い思いをしたいわけではない。

かといって、ここで諦めてしまうのは悔しい。

せっかくヒロインに転生して、最推しのジョナスが目の前にいるのに、他の女と結ばれるのを指をくわえて見ているわけにはいかない。


「でもなぁ……」


うんうん唸りながら腕を組んで歩く。

窓から差し込む陽光は温かいが、モモカの気分は沈む一方だ。


ふと顔を上げると、少し先に女子生徒が歩いていた。

艶やかな金髪と美しい立ち姿で誰だか分かる。


「キャスリン、様……?」

「あら、モモカ様」


独り言のつもりで呟いた声は、聞こえてしまったらしい。

立ち止まり、振り返ったのは思ったとおりキャスリンだった。

少し気まずい気持ちを押し殺し、何とか笑顔を作る。


「珍しいですね、こんなところにいらっしゃるなんて」

「ええ、わたくしとしたことが、忘れ物をしてしまいまして。取りに行ってきたところです」


そう言ってキャスリンが示したのは、隣国の言葉をまとめた辞書だった。

王子の婚約者となると、最低でも三か国語を習得しなければならないと聞いた。


(……この子って私と同い年なのよね。なのに、六歳からあんなスパルタ教育を受けて、外国の言葉も勉強して……)


モモカはたった三時間で音を上げそうになったのに、彼女は十年以上も続けている。

本人の努力や根性もあっただろうが、何より、王族の婚約者という立場では嫌だと言えるものでもなかったのだろう。


少し前なら、『ジョナスと結婚できるんだから、当然の努力でしょ』と思っていた。

けれど、実際に体験してみて、初めて見えてくるものがある。


(……ゲームと、現実……)


ボタン一つで早送りしてきた、キャラクターのエピソード。

けれど、ここにコントローラーはない。あるのは、分厚い辞書と筋肉痛だ。


「……」

「モモカ様? どうされました?」

「あ、いえ、なんでもないです。……途中までご一緒してもいいですか?」

「ええ。教室はお隣ですものね」


断られるかと思ったが、キャスリンはほんの僅かに笑みを深めて了承してくれた。

少し斜め後ろに並ぶと、ゆっくりと二人で歩き出す。


ここは本校舎の二階。

それぞれの教室がある校舎に向かう途中に、あの大階段がある。


どきん、とモモカの心臓が一つ大きく跳ねた。


廊下には、ほかに生徒がいない。

モモカとキャスリンだけ。

ゲームでは、偶然階段の上で鉢合わせたヒロインを、悪役令嬢が憎悪を込めて突き飛ばすのだ。


だが、現実のキャスリンはモモカに対して悪意を抱いている気配がない。

今までも、彼女が敵意を向けてくることは一度もなかった。


「そういえばモモカ様、昨日お休みされたとか?」

「はい。ちょっと、体調を崩しまして……」

「今もお顔の色が悪いし、歩き方もぎこちないですものね。お気を付けくださいね」

「ありがとうございます」


少し後ろを歩くモモカを振り返りながら、気遣いの言葉さえかけてくる。

このキャスリンが、モモカを突き飛ばすことはきっとない。


……では、その逆は?


大階段が見えてきた。

二十段近くある、木造でとても広い階段だ。


もしここで、ヒロインではなく、悪役令嬢が落ちればどうなるだろう。

さりげなく下の階に視線を向けたが、ジョナスどころか誰もいなかった。

キャスリンが『事故に遭っても』、誰も助けない。目撃者もいない。


モモカは汗が頬を伝うのを感じた。


(キャスリンが大怪我を負って退場すれば……)


モモカは立ち止まった。

キャスリンは無防備に背中を晒している。


最大の障害となる悪役令嬢がいなくなれば、あとはヒロインの独壇場だ。

攻略対象者はヒロインと結ばれると決まっているのだから、きっとジョナスはモモカを選んでくれる。

自然と口元に笑みが浮かぶ。

ゆっくりと両手を上げて、その背中を少し押せば……!


「……モモカ様?」


足音が消えたのを不思議に思ったのだろう。

キャスリンが立ち止まって振り返り、驚いたように目を丸くした。


「モモカ様? どうされました?」

「……できない」

「え?」

「できないよぉ……っ」


モモカは泣いていた。

ぼたぼたと涙を流し、みっともなく口をへの字にしてしゃくりあげていた。

キャスリンが心配そうに駆け寄ってそっと背を撫でてくれるが、その優しさが余計に辛い。

あと、筋肉痛で普通に痛い。


「モモカ様、落ち着いてください。どうしたんです?」

「だって……だって、そんなことしたら……!」

「え?」

「キャスリンが痛い思いしちゃう……!」


子どものように泣くモモカにキャスリンは困惑していたが、ポケットからハンカチを取り出して手渡してくれた。

礼を言って受け取り、目元に当てる。


どうしてもできなかった。

自分が有利になると分かっていても。キャスリンを排除できるとしても。

小手先の冤罪とはわけが違う。命がかかっているのだ。


ひとしきり泣いて少し落ち着いたモモカは、ハンカチを畳みながら顔を上げた。


「すみません、突然泣いちゃったりして」

「いいえ。大丈夫ですか?」

「はい。お騒がせしました。あの、このハンカチ、洗って返します」

「お気になさらず」


見上げたキャスリンの顔には、ほのかに安堵の笑みが浮かんでいた。

普段はちょっと疲れた様子だけれど、よく見ると、とても優しい顔をしていることに初めて気づいた。


(あーあ。悪役令嬢がいい人かもしれないって思ったら、やっぱできないよ……)


階段落ちイベントは諦めよう。

モモカは照れ笑いを浮かべ、キャスリンを促して歩き出そうとした。そのとき。


ずる、とモモカの足が滑った。


「あ」

「え」


モモカの体は大きく傾く。

二人の声が同時に響くのが、どこか滑稽だった。


ふと、モモカの脳裏をよぎったのは、前世の知識。

『原作の強制力』。

どれだけ抵抗しても、あがいても、原作どおりの展開になってしまうという厄介な法則だ。


(ヒロインは、悪役令嬢の前で、大階段から落ちる……ってこと!?)


真っ青になったキャスリンがモモカへ手を伸ばすが、僅かに届かない。

モモカの視界が逆さまになった。


「モモカ嬢!?」


聞き慣れた男性の声に、ハッと下の階を見る。

驚いた顔のジョナスが、いつの間にか階段下に立っていた。


(やった!! 助けてもらえる!!)


ここでジョナスが現れてくれたなら、好感度が高い証拠だ。

落ちてくるモモカを受け止めてくれるはず。

そう信じて手を伸ばそうとしたモモカだが。


ジョナスは、すっ……と横にスライドするように移動して、視界から消えてしまった。


「うぉぉぉぉぉぉい!!」


思わず吠えた。全力で吠えた。

ここで期待させておいて、横に逃げるってありえないだろ。

いや、人が上から落ちてくるのを避けるのは至極真っ当な対応かもしれないが、それにしたって。


「いぃぃやぁぁぁ!!」


このまま階段に叩きつけられて、全身打撲と骨折で退場。

あえなくゲームオーバーか……と悲壮な覚悟を決めたモモカだが。


横に避けたはずのジョナスが、ダンッ! と一度強く床を踏みしめた。

するとどうだろう。

バタバタバタッと音を立てて段板が次々と倒れ、隙間なくつながっていくではないか。


モモカの体は、巨大な坂となった元・階段の上に落ちた。

膝をつき、正座の姿勢でつるーんと坂を滑り降りていく。

そして、そのまま一階に到着した。


「……」

「……」


何が起こったのか理解できないモモカ。上の階にいるキャスリンも同様である。

無言のまま固まっていると、階段横からジョナスが興奮した様子で出てきた。


「やったー大成功! 学園に入学した時に、面白そうだなーと思って改造したんだ! 使う機会はないかなと思ってたけど、君が初めての体験者だ!!」


ありがとう! と正座したままのモモカの手を握って、上下に振り回すジョナス。

今までで一番嬉しそうな顔をしていた。悪戯が成功した悪ガキの顔とも言う。


上の階で顛末を見て、全てを察したキャスリンが、すんっと冷めた目を王子に向けた。


「殿下。学園の施設を勝手に改造してはいけません」

「そういう校則はないから、別にいいかなって思って」

「常識でお考えください。元に戻せるんですか? これ」

「上から一段一段手で戻さないといけないのが、一番の問題点かな」

「殿下がご自分で、責任をもって戻してください」

「そんな!!」


ショックを受ける王子の足元で、モモカは顔を覆った。

感情の乱高下が激しすぎて、限界を突破したのだ。

モモカは泣いた。しんしんと泣いた。


大回りして急いで降りてきてくれたキャスリンに付き添ってもらい、保健室に連れていってもらった。

怪我は、坂に膝をぶつけたときの打ち身だけで済んだ。


ジョナスは、学園の大階段を勝手に滑り台へ改造していたことがバレ、学園長にしこたま叱られた。







数日後。モモカは、キャスリンに呼び出された。

場所は学園内のサロンである。

何を言われるか分からなくて少し怖かったが、覚悟を決めて行ってみることにした。


指定されたサロンは、地獄のお茶会と同じ会場だった。

ちょっとだけトラウマが刺激されたが、恐る恐る扉を開けると、幸い待っていたのはキャスリンだけだった。


「いらっしゃいませ、モモカ様。突然お呼び立てしてしまい、申し訳ございません」

「いえ、お招きありがとうございます」


丁寧に礼をするキャスリンに、モモカも頭を下げた。

ご夫人たちの指導が生きた瞬間である。


椅子を勧められたので腰かけると、すぐに侍女がお茶を出してくれた。

侯爵家の侍女だろう。キャスリンの前にもお茶が置かれ、二人で喉を潤した。

一息ついたキャスリンが、早速口を開いた。


「モモカ様。単刀直入に伺います。……ジョナス殿下に、思いを寄せていらっしゃいますね」

「……はい」


ごまかしても仕方がないので、素直に答えた。

この学園に入ってからずっと、キャスリンを貶めるような行動を取っていたのだ。

ことごとく失敗したせいでただの不審者になってしまったが、彼女が気づかないわけがない。


キャスリンはふっと小さく笑うと、素直な方、と呟いた。


「気づいていましたわ。でも、あえて放置していました」

「どうして、ですか?」

「だって、『あの方』ですし」

「……ああ……はい……」


キャスリンの一言には、万感の思いが込められていた。

モモカもまた、いろんな意味を込めて頷く。


恐らく、ジョナスに接近しようとした令嬢は、自分が初めてではなかったのだろう。

あの容姿と、人当たりの良さ、そして王太子候補という地位。

多くの貴族令嬢たちが、『我こそは!』と挑んでいったに違いない。


「直接ジョナス様に『私を婚約者にしてください』と常識的に申し込んだ場合は、まだよいのです。そうすればジョナス様からも『申し訳ない』と常識的にお断りすることができます」

「婚約者がいるって分かってて申し込むのは、常識的なんですか?」

「『まだ』、常識的です」

「あ、ハイ……」

「ですが、色仕掛けや策略、家の圧力などなど、裏から手を回そうとした方々は……」

「……方々は?」

「漏れなく、殿下の『遊び相手』になりました」

「遊び、相手……」


かつてこれほどに恐ろしい婉曲表現があっただろうか。

肌寒さを感じて温かい紅茶を口にすると、キャスリンも一口飲んだ。


「幸せになりたい、権力者と結婚したいというなら悪いことは言いません。殿下だけはおやめなさい」

「分かってます。でも……」


膝の上でぎゅっと拳を握る。


「でも……殿下が……好きだったんです。ずっと、ずっと。追いかけ続けてたんです」


攻略本が擦り切れるまで、繰り返しジョナスのページを開いた。

スクリーンショットでジョナスのシーンを集め、自分だけのアルバムにまとめて大切にしていた。

あの笑顔が、優しさが、自分だけのものになったら、どんなにいいだろうと思った。

だから、ヒロインに転生したと知ったときは嬉しかったのだ。


「恋ができるって、思ったんです。ジョナス様に」

「でしたら、なおさら他の方にしたほうがいいです」

「分かってます、でも、諦めきれなくて……振り向いてくれるんじゃないか。私だけに優しくしてくれるんじゃないか。大切にしてくれるんじゃないかって、この学園に入ってジョナス様を見たときに、そんな希望を抱いてしまったんです」


一度は叶うと思った望みを諦めるには、勇気が必要だ。

モモカもすでに頭では分かっている。

なのに、前世からの想いが邪魔をして、振り切ることができない。


唇を噛みしめるモモカに、キャスリンはふ……と遠い目をした。


「そんな希望……学園の門をくぐるときに、一切を捨てるべきでしたね……」

「そんな地獄の門みたいな」


これをジョナスとまったく関わりのない貴族令嬢に言われたなら、腹が立ったかもしれない。

だが、婚約者であり、おそらく一番の苦労人でもあるキャスリンに言われると、なんだか心に来るものがあった。


「なぜ、わたくしが殿下の婚約者になったのか、分かりますか?」

「えっと、家格ですか?」

「そうですね。高位貴族の一角である侯爵家の娘で、殿下と同い年のわたくしは、確かに釣り合いの取れる立場です。でも、それだけではありません」

「では……?」

「……あの方、昔は今よりもっと、手が付けられなかったのです」

「うぇ」


思わず変な声が出た。

今でもわりと酷いのに、昔はもっと酷かったというのか。

モモカには全然想像できない。


聞きたくないような、聞いちゃいけないような。

しかし、好奇心には勝てず、モモカが恐る恐る尋ねると、キャスリンは語り始めた。


「あれは、わたくしたちが六歳のころ……婚約が結ばれる前の出来事でした。あれが、きっかけですね」


当時、伯爵以上の貴族の子どもたちを集めて、王宮で交流会を兼ねたお茶会が開かれた。

ジョナスの婚約者や、将来の友人・側近候補を見定める目的もあり、王宮の庭園を使ったかなり大規模なお茶会だった。


子どものころから端正な顔立ちだったジョナスは、当然、令嬢たちの人気を独占した。

彼の周りには人だかりができ、新たに近づく隙もないほどだった。

キャスリンはジョナスに興味がなく……というより、なんとなく近づきがたいと思っていたので、少し離れたところでお茶と庭園の花を楽しんでいた。


「すでに感じ取っていたのかもしれませんわね……ジョナス殿下の、その、アレな部分に」

「アレな部分」


ジョナスを囲む輪に入れない、おとなしい性格の令嬢たちと集まり、ゆったり過ごしていたキャスリン。

するとそこに、とある伯爵令息が数人の取り巻きを連れて近寄ってきた。


『なんだよ、こんなところで固まって、陰気な奴だな! おい、俺様の相手をしろ!』

『お断りいたしますわ。わたくしたちは今、この見事なお花を楽しんでいるのですから』

『なんだと! 生意気な!! このブス!!』


穏やかに断ったつもりのキャスリンだが、伯爵令息は気に入らなかったようで、怒りを募らせた。

そして、キャスリンの腕を掴むと、乱暴に引っ張って突き飛ばしたのである。


転んだキャスリンは、幸い怪我をせずに済んだ。

しかし、目の前で突然起こった乱暴な振る舞いに、周りの令嬢たちが悲鳴を上げた。


『きゃああ! キャスリンさま!!』


その場は騒然となった。

少し離れた場所にいた大人たちが、何事かと駆けつけてくる。


キャスリンは恥ずかしさに泣きそうになった。

けれど、侯爵家の令嬢として、大人の手を煩わせず、これ以上騒ぎを大きくしないようにしなければならない。

涙をこらえて必死に立ち上がろうとした。


だが、その前に現れたのが、ジョナス王子であった。

ジョナスは不思議そうな顔で伯爵令息に問いかけた。


『君はなぜ、この令嬢に乱暴を働いたのだ?』

『はぁ? お前には関係ないだろ!』

『ん? ここは王宮で、つまり僕の家だ。僕の家で開かれたお茶会でのことなのに、僕には関係ないのか?』

『う……』


正論を突きつけられ、さすがに反論できない令息。

その間にキャスリンは立ち上がり、ドレスについた汚れを払っていた。


(助けに入ってくださった、のかしら?)


間に入ってくれたのはいいのだが、ここは普通、倒れている淑女に手を差し伸べるのではないか?

少なくとも、キャスリンの五歳年上の兄ならそうする。


いまいち判断できないジョナスの行動を、キャスリンはとりあえず黙って見守ることにした。

ジョナスの追及は続く。


『彼女に声をかけたということは、構ってほしかったのか? だったら、ちゃんと「遊んでください」と言わないと』

『う、うるさい、うるさーい!! むずかしいことばっかり言いやがって! だまれよお前!!』


癇癪を起こして地団駄を踏む令息。顔は怒りで真っ赤に染まっていた。

その顔を見てジョナスは黙り込むのではなく……満面の笑みを浮かべたのだ。

まるで、新しいおもちゃを見つけた子どものように。


思わぬ反応に周囲の子どもだけでなく、令息すらも呆気にとられる中、ジョナスは輝く笑顔のまま何度も首を縦に振った。


『自分より力の弱い女の子を突き飛ばす! 理解できないと暴れる! そうかそうか! つまり君は、言葉ではなく行動で示すのだな!』

『え……』

『分かった! それなら僕も君のやり方に合わせなくては! この僕の今の感情を、君のやり方で表現しよう!』


そう宣言するやいなや、ジョナスは上着の前のボタンを全て外し、中腰の姿勢になった。

そして広がった裾を握ると、大口を開けて笑いながら令息の周りをぐるぐる回り始めたのだ。


『うきょきょ! うきょきょ! うっきょっきょ~!!』

『ひ、ひぃぃ!!』


目を見開き、口から奇声を放ちながら、高速で横歩きしてぐるぐる回る。

少し前まで王子様然としていた少年の豹変ぶりに、庭園は完全に凍り付いた。


「どういう感情の動きなんですか、それは」

「わたくしには分かりません……しかも、ぐるぐる回りながらも十秒に一度のペースでぴたりと止まり、無言真顔で令息を見つめた後、また奇声を発してぐるぐる回り始めるんですよ……」

「コミュニケーションが取れないタイプの怪異じゃん」


令息は状況が呑み込めずに凍り付いていたが、しばらくして恐怖に震え始めた。

周囲を回られている令息は相当怖かっただろうが、それを外から見ていた子どもたちも怖かった。

恐怖のあまり泣き出し、その場にへたり込む子までいた。

大人たちすらもどうすればいいか分からず、おろおろするばかり。


キャスリンも正直泣きたかった。すぐにその場を逃げたかった。

しかし、侯爵令嬢として、何より騒動のきっかけとなった責任も感じて、根性で踏みとどまった。

どうすればこの人知を超えた生き物を止められるか、必死に考える。


そして、ひらめいた。


『あなた! 今すぐ、わたくしに謝りなさい! 突き飛ばしてごめんなさいと!!』

『!!』


さすがにキャスリンの言葉の意味をすぐに察した令息は、隙を見てジョナスの輪から抜け出し、キャスリンの前まで来ると、腰を直角に曲げて大声で叫んだ。


『突き飛ばして、ごめんなさい! もうしません!!』

『許します!! 許します!!』


二人が半泣きで叫び合うと、ジョナスの動きはぴたりと止まった。

恐る恐る振り返るキャスリンたちを、様子を窺うようにじっと見ている。


その沈黙が怖かったが、キャスリンは背筋を伸ばして宣言した。


『令息には謝っていただきました! そしてわたくしは許しました! これでこの話はおしまいです!』

『……許したのか?』

『はい!!』

『……なら、これ以上は無粋というものだな。うん』


ジョナスは何事もなかったかのように姿勢を正し、手早く衣服を整えた。

奇怪な生物から王子様に戻ったのを見て、庭園にようやく平和が訪れたのだ。

その場にいた貴族の子どもたちはもちろん、付き添いの家族にも心の傷を残した一件だった。

例の伯爵令息は、今でもジョナスの姿を見るとビクッとするらしい。


あの後、『自分たちがいると緊張するだろうから』とあえて席を外していた両陛下が、騒ぎを聞きつけて慌てて駆けつけてきた。

ジョナスは二人に庭園の隅へ連れていかれ、しこたま叱られていた。


実はジョナスのこういった行動は、その時が初めてではなかった。

彼は自分が納得しない限り、誰の言葉も聞かないため、一度奇行を始めるとなかなか収まらなかったらしい。

しかし今回は、キャスリンが機転を利かせたおかげで、最速記録でジョナスが引いたのだ。


彼女なら、ジョナスを制御できるのではないか。

そんな期待を、その場にいた大人たち全員が抱いてしまった。


「結果、ちょうど釣り合いも取れているし、と。わたくしに押しつけ……いえ、婚約者に指名されたのです」

「おぉ……」


ふふ、と乾いた笑いを漏らすキャスリンに、モモカはかける言葉が見つからなかった。

そして、『蒼銀の奇行氏』という異名が生まれたのも、たぶんこのときのお茶会だろうな、と思った。


「キャスリン様は、それで……よかったんですか?」


この世界では政略結婚が一般的であることは、ゲーム知識として知っている。

しかも、手に負えない王子の押しつけ先として婚約者に指名されるなんて、あんまりではないか。

モモカが恐る恐る問いかけると、キャスリンは新しく淹れてもらった紅茶を一口飲んだ。


「本音を言うと、お断りしたかったのですが、王命ですしね」

「……」

「でも……」

「え?」


キャスリンは、紅茶の水面に映る自分の顔をしばらく見つめていた。


「あの騒ぎのとき、両陛下に叱られた後のジョナス殿下に、お声をかけたのです」


両親からの説教で疲れた様子のジョナスに、キャスリンは恐る恐る近づいた。


『あの、殿下』

『ん? なんだ?』

『先ほどは、助けていただいてありがとうございました』

『僕は別に助けたつもりはないぞ? 気になったことを確かめないと気が済まなかっただけで』


でしょうね、とキャスリンは思った。

助けるつもりだったら、起こしてくれていたはずだから。


『でも。殿下がどのようなお気持ちであったとしても、助けていただきましたから。ありがとうございました』

『……う、うん。まぁ、それは、よかった、ね』


ドレスの裾を持ち上げ、感謝を込めて微笑む。

ジョナスは少しだけ目を丸くしたが、ぽっと頬を染め、ぼそぼそと呟きながらそっぽを向いてしまった。

その耳が赤くなっていたのを、キャスリンは見逃さなかった。


「悪いところしかなければ、どんな手を使ってでも逃げていたんですけどね。困ったことに、悪くないところも持ち合わせていらっしゃるから」

「……」


そう言って困ったように笑うキャスリンを見て、モモカは気づいてしまった。

彼女も、ジョナスのことをとても大切に思っているのだ、と。


(ただの政略で、二人の間に全然気持ちがないなら、押そうと思ってたけど……)


諦めきれないという思いが、少しずつ薄れていく。

モモカはそっと胸元を撫でた。


「まぁ、実際はほとんど制御できていないうえに、成長するにつれて手口が巧妙になってきて……最近は片手間に立ち上げた商会の利益を、ご自分の興味のあることに全力で投入するので、ますます手に負えなくなってきているのですが……」

「怪異から祟り神にクラスアップしてる」


噴水のボールプールとか、階段の滑り台は、商会で稼いだ金を注ぎ込んだものらしい。

税金からじゃなくてよかったね、と取るべきか、奇行氏にお金を持たせちゃまずいでしょ、と取るべきか。


二人の間の会話が止まる。

キャスリンは何も言わない。黙り込んだモモカを静かに見つめているだけ。

ただ、その緑の瞳は、まっすぐに問いかけていた。

『まだ、諦められないのか』と。


モモカは唇を軽く噛んだ。

本当は、少し前から分かっていた。

この世界は、自分が知っている乙女ゲームとは似て非なるものであることを。

ゲームどおりに事を運ぼうとしたって、うまくいくはずがない。

だって、ジョナスも、キャスリンも、そして当然自分も、この世界でそれぞれの人生を生きている人間なのだ。


(何か、きっかけがほしい。すっぱり、きっぱり、彼を諦められるきっかけが)


前世から、ジョナスの存在はモモカにとって心の支えだった。

それほどに大事なものを手放すための踏ん切りがほしい。


モモカは無意識に、縋るような目をキャスリンに向けた。

彼女はその視線の意味を正確に受け止めた。

モモカの瞳を見返しながら、厳かに頷く。


「……モモカ様。もし仮に、わたくしとジョナス様との婚約が解消されて、あなたが新たな婚約者になったとして。結婚したら、あの方の面倒を一生見なければいけません。その覚悟が、あなたにおあり?」


モモカの呼吸が一瞬止まった。

真顔のまま数秒静止した後、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

そして、キャスリンの前で正座すると、両手をついて深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした!!」

「分かってくださってよかったわ」


美しい土下座を繰り出したモモカに、キャスリンはほっと息をついて微笑んだ。

ジャパニーズ謝罪スタイルは、異世界人である彼女にも無事に通じたようだ。


「あ~あ。初恋は実らないってほんとね。そもそも始まってすらいなかったけど」


モモカは頭を上げ、天井を見つめて寂しげに笑った。

キャスリンが椅子から立ち上がり、そっと手を差し伸べてくれる。


「きっとモモカ様も、素敵な恋ができますよ。あの殿下に途中まで食らいついた、不屈の精神があるのですから」

「なんかそれ、嬉しくないです」


差し伸べられた手を取って立ち上がると、二人は顔を見合わせて笑った。

キャスリンはモモカの目尻に滲む雫を、見なかったふりをしてくれた。







その後、モモカは学園生活を平和に過ごした。

時折ジョナスの姿を見ると胸が痛むことがあったが、次第にそれも薄れていった。

というより、彼が定期的に起こす騒ぎによって、そんな感傷は吹き飛ばされたというか、粉砕されたという方が正しいだろう。


「憧れは憧れのまま、遠くから眺めてたほうがいいってことね……」


ああいう人物は、初恋の人ではなく、おもしれー男枠に入れた方がいい。

実際、驚かされることはあったが、それも娯楽として楽しめれば悪くはないものだと気づいた。

ほとんどの生徒たちも、ジョナスの行動を恐れ半分、期待半分で見ているようだ。


ただ、キャスリンだけはそんな彼を止める役をしなければいけないので、大変そうだったけれど。

彼女に対して同情的な生徒が多かった理由が、今更ながら心から理解できた。

あと、ジョナスを見るとビクッと肩を跳ねさせる男子生徒がいた。あれか……と、モモカは悟った。


そして、数か月後。卒業式。

三年生は、この日で学園を卒業する。

モモカも一年間ではあったが、必死に授業に食らいついて、なんとか卒業資格を得ることができた。


意外なことに、実家の男爵家にはいくつか釣り書きが届いているらしい。

『あの殿下に怯むことなく食らいついていった気概を買った』とのことだ。

あのときキャスリンが言った冗談が、現実になりつつある。

正直複雑な気持ちだが、こんな自分に釣り書きを送ってくれただけでも御の字だろう。

家と家のバランスもあるので、実家に帰って父親と相談しながら決めるつもりである。


学園の大講堂には、卒業生と在校生、そして保護者や教師たちが参列していた。

ジョナスがいるため、貴賓席には国王と王妃が座っている。


式典の答辞は、三年間常に成績一位だったジョナスが務めた。


「暖かな春の光が心地よく感じられる今日の佳き日、私たち卒業生のためにこのような素晴らしい式を挙行していただき、誠にありがとうございます」


真面目な顔で、よく通る声で答辞を読み上げるジョナスは、凛々しくて格好よかった。

ああ、好きだったな、とモモカは穏やかな気持ちで彼を見つめる。


厳かな空気の中で式典は予定どおり進み、一人ひとりに卒業証書が授与される。

モモカも無事に受け取り、晴れやかさと少しの寂しさを噛みしめながら席に戻った。


と、そこで突然、予定にない出来事が起こった。

役目を終えたはずのジョナスが、壇上に現れたのだ。

戸惑う学園長を軽く押しやり、両手を広げる。


「諸君! 卒業おめでとう!! 非常に有意義な時間を過ごさせてもらった!! この三年間を僕はきっと、生涯忘れないだろう!!」

「殿下……っ」


笑顔で語るジョナスに、卒業生たちが目元を押さえ、鼻をすする。

大変なこともあったけど。いや、大変なことばかりだったけれど、それでも楽しかった。


感動的な最後の挨拶。

しかし、そこで終わらないのが、奇行氏の奇行氏たるゆえんである。

忘れていたわけではない。だが、ここでやるとは誰も思わなかった。


「記念に、僕からの、祝福のサプライズだ!!」


パチン、と指を弾くジョナス。

その瞬間、ボボボボン!! という破裂音が響き、大講堂を揺るがした。


「きゃー!?」

「なんだ!?」


いつの間にか天井に仕込まれていた袋が破裂した音だった。

慌てる生徒たちの頭上から、ふわふわと何かが降ってくる。

手を伸ばして受け止めると、それは落下傘を付けた手のひらサイズのクマのぬいぐるみだった。


「あ、赤の落下傘は女子用! 青の落下傘は男子用だ! 間違って受け取った人は、手近な人と交換してくれ!」


よく見ると、赤の落下傘のクマには宝石をあしらった髪飾りが付いている。

青の落下傘のクマにはカフスボタンが取り付けられていた。

それぞれ統一されたデザインで、裏には卒業式の日付と『卒業記念』の文字が刻まれている。


ジョナスからの、卒業記念品だ。

それに気づいた生徒たちは、割れんばかりの歓声を上げた。


「うぉぉぉぉ!!」

「ジョナス様、サイコー!!」

「ありがとうございますぅぅぅ!!」


感動でむせび泣く者、クマを抱きしめて飛び跳ねる者。

たくさんの生徒たちの声に、ジョナスは両手を振って応えていた。


貴賓席の両陛下を含め、家族たちは呆気にとられていたが、やがて力の抜けた笑いが漏れた。

笑うしかなかった。


ジョナスはその後、学園長に壇上から引きずり降ろされ、しこたま叱られた。

記念すべき最後のお説教だった。


そして、卒業記念パーティーも何事もなく終わり、生徒たちはそれぞれの道を歩み出した。







卒業式から一年後。

モモカは、子爵家の男性と結婚した。

物静かで穏やかで、ジョナスとは違うタイプの男性だったが、常にモモカを気遣ってくれる優しい人だ。

モモカもそんな彼を心から尊敬し、愛した。互いに支え合う良い夫婦になった。


その二年後、ジョナスとキャスリンも結婚した。

やがて男児と女児を一人ずつもうけ、幸福な王太子夫妻として国民からも慕われるようになった。

ただ、王宮での頭痛薬と胃薬の消費量が若干増えたことが、商人たちの間で噂になったが。


ゲームとは違った結末を迎えた。

けれど、これでよかったとモモカは思う。


「人生、平凡が一番。ってね!」


波乱万丈はいらない。心穏やかに過ごせる毎日こそが、幸せなのだ。


……などと言えば、キャスリンから恨まれるかもしれないが、ぜひとも彼女には頑張ってもらいたい。

原作からリタイアしたヒロインからの、ささやかな激励だった。




了


ジョナスが王になってからも王国はますます栄えたけど、比例して胃痛と頭痛持ちがじわじわ増加中です。

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