第9話 堺の商人
堺の町。
砥堀から運ばれてきた荷を載せた船が、港へ入っていく。
船が岸へ着くと、待っていた人足たちが荷を下ろし始めた。
官兵衛は、その様子を少し離れたところから眺めていた。
砥堀を出てから、ここまで船で来た。
市川を下り、飾磨へ出て、そこから瀬戸内の海を東へ。
道中も多くの船とすれ違った。
だが、堺へ入ってからは、その数がさらに増えている。
「……すごいな」
官兵衛が呟く。
与助は慣れた様子で周囲を見回した。
「堺ですからね」
「これほどの荷が、毎日動いているのか?」
「私も毎日見ているわけではありませんが、少なくとも珍しい光景ではありません」
やがて荷を下ろし終える。
与助が官兵衛へ声をかけた。
「では、参りましょう」
「どこへ?」
「荷を扱っている商人の店です」
二人は港を離れ、堺の町へ入っていく。
しばらく歩くと、一軒の商家の前で与助が足を止めた。
「ここです」
官兵衛が店を見る。
「ここが?」
「はい」
与助が中へ入る。
「ごめんください」
すると、店の奥から男が顔を出した。
そして与助を見るなり、笑顔になる。
「これはこれは!」
男はすぐに頭を下げた。
「砥堀の与助殿ではございませんか」
「ご無沙汰しております」
「いやいや、こちらこそ」
店主は与助の後ろにいる官兵衛へ目を向ける。
「……おや?」
その視線が止まる。
「こちらのお方は?」
与助が一歩下がる。
「こちらは――」
官兵衛を紹介する。
「**黒田本家のお嫡男、黒田官兵衛様です**」
店主の表情が変わった。
「……黒田本家のお嫡男様」
官兵衛が軽く頭を下げる。
「黒田官兵衛です」
「これは失礼を……」
店主は慌てて頭を下げた。
そして、改めて与助を見る。
「しかし……」
少し首を傾げる。
「与助殿がこちらへ来られたということは……」
店主は笑った。
「今回も、松姫様から何かご用事でございますかな?」
与助は頷いた。
「ええ。少々ございます」
「やはりそうでしたか」
店主は嬉しそうに笑う。
砥堀から荷を受け取ること自体は、もう珍しいことではない。
店主が人を雇い、砥堀まで荷を取りに行かせている。
だが――。
与助が堺まで来るときは話が別だ。
松から、何か頼まれ事がある。
店主もそれを分かっていた。
「では、与助殿のご用事から伺いましょう」
「お願いします」
与助は懐から書状を取り出した。
「我が主、松様は鉄砲を所望です」
「鉄砲ですか」
店主の目が輝く。
「これはまた、大きな稼ぎになりそうですな」
「まずは五十挺」
「五十ですか?」
店主は思わず聞き返した。
「なかなか……集めるのに骨が折れそうですな」
「そうでしょうな」
与助は淡々と答える。
「ですが、姫様は必要だとお考えです」
「なるほど」
店主は少し考えた。
五十挺。
一度に集めるとなれば、簡単な話ではない。
しかも松が欲しがっているのは、それだけではなかった。
与助がもう一枚、書状を取り出す。
「あと、もう一つございます」
「はい?」
「鉄砲鍛冶師を引き抜きたいと仰せです」
店主の笑顔が止まった。
「……なるほど」
しばらく黙ってから、店主は官兵衛を見る。
そして再び与助へ視線を戻した。
「五十挺もの鉄砲を買い、修理までさせる。そのための職人まで欲しい」
「ええ」
「松姫様は……砥堀で鉄砲を運用するおつもりなのですね」
「おそらく」
店主は腕を組んだ。
「ですが、鉄砲鍛冶師は保護される対象です」
「そうでしょうな」
「そう簡単には引き抜けませんぞ」
与助は静かに頷いた。
「そのための条件も、姫様から預かっております」
店主の目が細くなる。
「ほう……」
与助は淡々と話し始めた。
「姫様は、砥堀の城に新たな廓を設けるおつもりです」
「新たな廓を?」
「ええ」
「そこに鉄砲鍛冶の工房を建てます」
店主は黙って聞いている。
「それだけではありません。職人の住まいも用意するそうです」
「住まいまで……」
「砥堀へ来た職人には、そこで暮らしてもらう」
店主は腕を組んだ。
「なるほど。職人を囲うおつもりですか」
「囲うというより、保護するおつもりでしょう」
与助は続けた。
「親方になれるほどの立場ではない職人でも、腕があるなら工房を任せる」
「工房の親方に?」
「はい。元手も姫様が用意します」
店主は思わず与助を見る。
「それは……」
「かなりの厚遇でしょう」
「ええ」
店主は苦笑した。
「親方になるには、腕だけでなく金も要りますからな」
「その金を用意する必要はない、と」
「はい」
与助は頷いた。
「年俸は十貫から二十貫を目安に」
「十から二十……」
店主の表情が変わる。
「腕の立つ者には、上限五十貫まで」
「五十貫ですか」
店主はしばらく黙り込んだ。
鉄砲鍛冶を一人引き抜く。
それだけでも簡単ではない。
だが、これほどの条件なら話は変わってくる。
「……松姫様は、本気ですな」
「ええ」
「鉄砲を五十挺買うだけではない」
店主は指を折るように確認する。
「工房を建てる」
「職人の家も建てる」
「腕のある者には、親方の地位まで与える」
与助は頷いた。
店主は小さく息を吐いた。
「それほどまでに、砥堀で鉄砲を使うおつもりなのですね」
「おそらく」
「いやはや……」
店主は苦笑する。
「これは、なかなか大きな話になりそうですな」
店主はしばらく考えていた。
「しかし……」
与助を見る。
「鉄砲鍛冶師は、そう簡単には動かせませんぞ」
「承知しております」
「今の親方の下を離れれば、揉め事にもなりましょう」
「だからこそ、条件を付けております」
与助は答えた。
「姫様は、腕のある者には相応の待遇を与えるおつもりです」
店主は腕を組んだまま、考え込む。
やがて、
「……なるほど」
と呟いた。
「親方になれない職人を、親方にする」
「はい」
「工房も住まいも用意する」
「はい」
「それだけの俸禄まで出す」
店主は小さく笑った。
「それならば、興味を持つ者はいるでしょうな」
「探していただけますか?」
「ええ」
店主は頷いた。
「ただし、すぐにとはいきませんぞ」
「それは承知しております」
「腕の良い職人ほど、今いる場所でも大切にされておりますからな」
「分かっています」
「ですが――」
店主の顔に商人らしい笑みが浮かぶ。
「条件次第では、話を持ちかけることくらいはできます」
与助が頭を下げた。
「お願いします」
店主は笑った。
「松姫様には、これまでも随分と儲けさせていただいておりますからな」
そして、
「この程度で恩を返せるのであれば、安いものです」
「一肌、脱がせていただきましょう」
与助が頷く。
「ありがとうございます」
そこで店主は、ふと官兵衛を見る。
先ほどから官兵衛は、二人の話を黙って聞いていた。
「ところで……」
「はい?」
「官兵衛様は、今回は何かご用向きが?」
官兵衛は少し困ったような顔をした。
「……気分転換です」
店主が目を瞬く。
「気分転換?」
「姉上に、堺を見てこいと言われまして」
店主はしばらく官兵衛を見つめる。
そして、くすりと笑った。
「なるほど」
与助も苦笑する。
「姫様らしいでしょう」
「ええ。まったく」
店主は頷いた。
「では、今回はゆっくり堺をご覧になるとよいでしょう」
そして官兵衛へ尋ねる。
「今回は、滞在されますか?」
与助が官兵衛を見る。
「そうですね」
少し間を置いて、
「**若の気分次第です**」
「……私の?」
「はい。姫様からは、堺を見てこいとしか言われておりませんので」
店主は笑った。
「それなら――」
官兵衛へ向き直る。
「**滞在されるのであれば、私の屋敷の離れをお使いください**」
官兵衛は少し驚いた。
「よろしいのですか?」
「もちろんでございます」
店主は頭を下げる。
「せっかく堺までお越しになったのです。急いで帰ることもありますまい」
官兵衛は店の外へ目を向けた。
港からは、絶えず人の声が聞こえている。
「……では、お言葉に甘えようか」
店主は笑った。
「それはよろしゅうございます」
官兵衛は再び堺の町を見る。
姉に言われて来ただけだった。
だが――。
**この町を、もう少し見てみたい。**
店主との話を終え、官兵衛は店の外へ出た。
堺の町には、まだ人の声が満ちている。
荷を運ぶ人足。
店先で話し込む商人。
行き交う船。
官兵衛はしばらく、その様子を眺めていた。
「……姉上は、ここまで来ていたのか」
与助が隣に立つ。
「ええ」
「鉄砲を五十挺……」
「はい」
「鍛冶師まで」
「はい」
官兵衛は黙った。
自分が戦場で兵を率いている間にも、松は別のところで人と物を動かしていた。
しかも、ただ買うだけではない。
工房を作り、職人の住まいまで用意する。
「……姉上は、何を考えているんだ」
与助は笑うだけだった。
「姫様のことです。若にも、そのうち分かるのではないでしょうか」
官兵衛は堺の町をもう一度見る。
まだ分からない。
だが、少なくとも一日見ただけで帰る気にはならなかった。
「与助」
「はい」
「明日は、どこへ行く?」
「どこでもお連れしますよ」
官兵衛は少し考える。
「……まずは、この町を見たい」
「承知しました」
与助が頷く。
こうして官兵衛は、堺でしばらく過ごすことになった。
それは松に言われた、ただの「気分転換」のはずだった。




