第7話 勝った戦、失ったもの
高岡。
夜が明けが近づくころ、遠くから兵の声が聞こえてきた。
「戻ってきた!」
松は救護所から外へ出る。
高岡の道を、兵たちが戻ってくる。
先頭には官兵衛と休夢。
その後ろには、傷を負った兵たちがいた。
肩を支えられて歩く者。
腕を布で押さえている者。
足を引きずる者。
松はすぐに女中たちへ声をかける。
「負傷した者から救護所へ」
「はい!」
準備していた人員が動き出す。
松は一人ひとりの様子を見ながら、手当ての順番を決めていく。
「こちらの方を先に」
「はい」
「この方は横にしてください」
「承知しました」
救護所が動き始める。
その様子を確認してから、松はようやく官兵衛たちへ目を向けた。
「官兵衛」
「姉上」
「休夢殿も」
「うむ」
二人とも無事だった。
それを確認した松は、ほんの少しだけ息を吐いた。
だが、二人の顔を見れば分かる。
**勝って帰ってきた顔ではない。**
松は静かに尋ねた。
「……戦は?」
休夢が答える。
「勝った」
松の目がわずかに動く。
「そうですか」
しかし、その言葉だけでは終わらない。
松は官兵衛を見る。
官兵衛は何も言わない。
その顔には、勝った者の表情がなかった。
松は続けた。
「……室津は?」
休夢の表情が曇る。
「……間に合わなかった」
松は黙った。
昨日の朝。
自分が送り出したおたつ。
その日のうちに、政秀が室津へ向かい――。
官兵衛たちは追った。
それでも、間に合わなかった。
松は視線を落とす。
「……おたつちゃんは?」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、松には十分だった。
松はしばらく、誰もいない救護所の一角を見つめていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……分かりました」
松はそれ以上、おたつのことを尋ねなかった。
今は、目の前に負傷した兵がいる。
「こちらの方、傷を見せてください」
「はい」
松は女中へ指示を出す。
「この方には先に湯を。布は新しいものを使ってください」
「承知しました」
「食事も用意して。動けるようになった者には、温かいものを食べさせてください」
救護所の中を人が行き交う。
松は淡々と仕事を続けていた。
その様子を見ていた休夢が、ぽつりと口を開く。
「……松」
「はい」
「少し休んでもよいぞ」
「まだです」
松は負傷兵の腕に巻かれた布を見る。
「この方たちを落ち着かせるまでは」
休夢はそれ以上言わなかった。
やがて、ある程度の処置が終わる。
松はようやく官兵衛と休夢のところへ戻った。
「それで……」
二人を見る。
「詳しい話を聞かせてください」
休夢が頷いた。
「うむ」
官兵衛は黙っている。
休夢が話し始める。
「政秀方は南へ進んだ。わしらも追った」
「はい」
「室津へ着いたときには――」
休夢が言葉を止める。
松は黙って待つ。
「……すでに、城は襲撃されたあとだった」
松は目を伏せる。
官兵衛が初めて口を開いた。
「俺たちは、遅かった」
その声は低かった。
「政秀は室津を襲ったあと、兵を引いた」
「そして、その退路を追った」
官兵衛は拳を握る。
「追いついて、戦った」
「そこで勝った」
松は官兵衛を見る。
「……だから、勝ったのですね」
「ああ」
だが官兵衛の顔には、勝利の喜びなど欠片もなかった。
松には分かっていた。
官兵衛が勝ったのは――
**戦そのものだけだ。**
守るべき場所を守れなかった。
そして、その場所には――。
「……おたつちゃんがいた」
松が呟く。
官兵衛は答えない。
救護所の外では、兵たちの声が聞こえている。
「勝ったぞ」
「飯がうまい!」
「酒はまだか!」
兵たちは、生きて帰ってきたことを喜んでいる。
松はその声を聞いて、静かに立ち上がった。
「……宴をしましょう」
官兵衛が顔を上げる。
「宴を?」
「はい」
松は兵たちのほうを見る。
「勝ったのですから」
その言葉に、休夢が小さく頷いた。
「そうじゃな」
そして松は、女中たちへ声をかける。
「飯と汁を。酒も出してください」
「はい」
「今日は兵たちに、しっかり食べてもらいましょう」
松は笑顔を作った。
その笑顔は、先ほどまでのものとは少し違っていた。
**悲しみを抱えたまま、それでも兵を労うための笑顔だった。**
宴の支度が整うころには、高岡の空気も少しずつ変わっていた。
大きな鍋から汁の香りが漂う。
飯が配られ、酒が次々と運ばれていく。
「ほら、食え」
休夢が兵の一人へ盃を渡す。
「今日はよくやった」
「ありがとうございます!」
兵は嬉しそうに頭を下げる。
別のところでは、
「酒、もう一杯もらえるか!」
と声が上がる。
「まだあるぞ!」
笑い声が起こる。
戦から戻ったばかりの兵たちにとっては、こうして温かい飯を食べ、酒を飲めること自体が何よりの慰めだった。
松も兵たちの間を歩いていた。
「足の傷はどうですか?」
「もう大丈夫でございます!」
「無理はしないでくださいね」
「はい!」
松は笑って頷く。
休夢も兵たちと盃を交わしている。
「今日は飲め。明日のことは明日考えればよい」
「ありがとうございます!」
宴は少しずつ賑やかになっていった。
けれど――。
官兵衛だけは、そこに馴染めていなかった。
盃を手にしている。
だが、ほとんど口をつけていない。
兵が、
「官兵衛様もどうぞ!」
と酒を差し出しても、
「……ああ」
それだけ。
兵が離れていく。
官兵衛は盃を見つめたまま、黙っていた。
松は少し離れたところから、その様子を見ていた。
休夢も気づいている。
だが、何も言わない。
今は兵たちを慰撫することのほうが大切だった。
松はしばらく考えた。
そして、官兵衛のところへ歩いていく。
「官兵衛」
「……姉上」
「ちょっと来て」
「ここを離れていいんですか?」
「いいから」
松は官兵衛を宴の席から連れ出した。
人の少ない廊下を歩く。
そして、空いている部屋へ入る。
松が戸を閉める。
外の宴の声が、少し遠くなった。
官兵衛は部屋の隅に座った。
「……姉上」
松は何も言わない。
官兵衛はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「おたつは……」
松が官兵衛を見る。
「着いた時には、もう……」
声が震える。
「私の腕の中で……」
官兵衛は俯いた。
「冷たくなっていきました」
松は黙って聞いていた。
「……そう」
松はそれだけを返した。
官兵衛は俯いたままだった。
「間に合わなかった」
「……」
「城へ入ったときには、もう……」
言葉が続かない。
松は官兵衛を見つめていた。
今朝まで、あの子はここにいた。
笑っていた。
これから浦上へ嫁ぐのだと、送り出した。
それなのに。
松はゆっくりと手を伸ばした。
官兵衛の肩へ触れようとして――
その手を止める。
そして次の瞬間。
**パシッ!**
乾いた音が部屋に響いた。
官兵衛が顔を上げる。
頬を押さえることもしない。
ただ、松を見つめた。
松は静かに言った。
「……あんたが弱いからよ」
「……私が?」
「そう」
松の声には、慰める響きがなかった。
「黒田が小さいからよ」
官兵衛の目が揺れる。
「……黒田が、弱い」
「ええ」
松は頷いた。
「だから、おたつちゃんを守れなかった」
官兵衛は何も言えない。
「悔しいでしょう?」
しばらくして、官兵衛が小さく答える。
「……悔しい」
「なら」
松は官兵衛の目を見る。
「強くなりなさい」
「……」
「次は間に合うように」
それだけ言うと、松は立ち上がった。
戸へ向かう。
官兵衛がその背中を見る。
「姉上……」
松は振り返らなかった。
「宴はまだ終わっていません」
「兵たちには、勝った夜を過ごさせてあげなさい」
そう言って、松は部屋を出ていった。
戸を閉めると、再び宴の喧騒が耳に戻ってきた。
兵たちは酒を飲み、飯を食べている。
松は何事もなかったかのように、その中へ戻っていく。
しばらくして、養父が松の隣へ座った。
「……松」
「はい?」
休夢は宴の様子を眺めながら、苦笑した。
「家臣たちは、気が気でなかったぞ」
「何がです?」
「お前が若を慰めるのかと、ひやひやしておった」
松は黙って盃を口にする。
「……そうですか」
「だが」
休夢は松を見る。
「そうではなかったようだな」
「ええ」
少し間が空く。
休夢は小さく息を吐いた。
「しかし……少し厳しすぎんか?」
松は宴の向こうを見る。
兵たちは笑っている。
今日、生きて帰ってこられたことを喜んでいる。
「官兵衛は才ある男よ」
休夢は黙って聞いている。
「だから、あれでいいのです」
「……」
「悲しむなとは言っていません」
松は盃を置く。
「でも、悲しんでいるだけでは、次も間に合わない」
休夢はしばらく松を見つめた。
そして、ぽつりと言う。
「……お前は、生まれる性を間違えたな」
松は一瞬だけ養父を見る。
それから、ふっと笑った。
「……そうかもね」
「でも――」
松は宴の向こうへ目を向ける。
そこには、まだ若い兵たちが酒を酌み交わしている。
そして、そのさらに向こう。
戸一枚隔てた部屋には、まだ官兵衛がいる。
松は静かに言った。
「私には、運があるわ」
職隆が眉を上げる。
「運?」
「ええ」
松は盃を手に取る。
「**才能のある弟がいるのだから**」
休夢は何も言わなかった。
ただ、松の横顔を見つめていた。
宴の笑い声が響く。
勝った夜だった。
けれど――。
松も、官兵衛も、休夢も。
その勝利の裏に失ったものがあることを知っている。
そして松だけは、もう次を見ていた。
**次は、間に合わせる。**
そのために――。
自分には、官兵衛がいる。




