第51話 静寂の砂、動く影
陽が昇りきる前、砂の風が東から吹いていた。
ゼルハラの城門を越えた馬車の列は、ゆるやかに北へと進んでいく。
商人の荷馬車が二台、護衛の馬車が一台。
まだ周囲はゼルハラの監視圏内で、砂族の影も薄かった。
道の両脇に低い岩壁が続き、乾いた空気が馬の鼻を撫でていった。
護衛の四人は、一台の荷台に同乗していた。
ジャレドはその隅に腰を下ろし、腰の斧を外して脚の横に置いた。
外套の裾に砂が積もり、朝陽にかすかに光る。
前方では、灰毛の獣人が尻尾を揺らしている。
「おいおい、一日目から退屈だな。」
ランド――銅の首輪、リュド派の斥候。
犬のような耳がぴくりと動き、黄の瞳がきらめいた。
「退屈なのは平和な証拠だろう。」
長槍を背負った男が淡く笑う。
ヴァルス。金の首輪、エルディア派の前衛。
真直ぐな背と落ち着いた声は、戦士というより教官に近い。
「砂の街を離れて半日。今のうちに身体を慣らしておけ。」
「了解。……けどさ、槍の兄貴、真面目すぎんだよ。」
ランドが笑うと、杖を握った女が小さくため息を漏らす。
「あなたたち、朝からうるさいわ。」
シェラ。銀の首輪、アイリス派の魔導士。
青白い瞳が揺れ、透き通るような声が砂の音に混じる。
「彼の言う通りよ。平和なのは悪くないわ。」
「平和ねぇ……退屈すぎて鼻が腐る。」
ランドは尻尾をばさりと振った。
ジャレドはそのやりとりを黙って聞いていた。
視線は遠く、揺れる地平の先――陽炎の中へと向けられている。
その眼差しには、何かを探すような微かな光があった。
⸻
日が落ちる頃、隊は小高い砂丘の陰で野営を張った。
砂を避けるように帆布を広げ、火打石の音が響く。
やがて焚火が上がり、香辛料の匂いが夜風に流れた。
商人のハグルが鍋をかき回しながら笑う。
「砂羊の干し肉に赤砂酒。これが旅の醍醐味だな。」
鍋の中では、肉と根菜がとろりと煮えていた。
「ほら、パンを浸して食いな。硬いままじゃ歯が欠ける。」
ランドが真っ先に受け取り、舌を火傷しながら唸る。
「熱っ! でもうまい!」
ヴァルスが笑い、木皿を受け取った。
「この香り……ゼルハラのスパイスか。」
「そうさ、ゼルハラで仕入れたもんだ。」
ハグルは誇らしげに鼻を鳴らした。
「危険なのは魔物だけじゃねぇ。最近は盗賊も増えてる。
砂族に加えて、あの“グレイウルフ傭兵団”まで名を上げてきやがる。」
「グレイウルフ……」
ヴァルスが眉をひそめた。
シェラも頷く。
「北の交易路でも襲撃が相次いでるって聞いたわ。」
「奴ら、傭兵を名乗っちゃいるが、やってることは野盗と同じだ。」
ハグルの声が少し低くなる。
「昔は律儀な連中だったのにな。」
焚火がぱちりと鳴った。
ジャレドは無言でスープを口に運んだ。
熱が喉を通り、胸の奥で小さく疼く。
(……まだ、“名”が残ってるのか。)
瞼の裏に、砂の夜風が吹き抜けていった。
⸻
二日目。
朝焼けの砂原に、六つの影が現れた。
狼のような姿、だが体躯は馬並み。
背に砂をまとう群れ――サンドウルフ。
「来るぞ!」
ヴァルスが槍を構える。
砂を蹴って、獣が一斉に跳ねた。
ランドが先陣を切り、短剣を抜いて滑り込む。
「任せろ、二体はもらう!」
シェラの杖が光り、風の弾が走る。
「右は吹き飛ばすわ!」
砂煙の中でジャレドが動いた。
両斧が交差し、赤銅の閃光が走る。
狼の首が宙を舞い、砂が血を吸った。
振り抜いた勢いのまま、左腕のアームガードで二体目の牙を弾く。
「遅い。」
その声は低く、獣の唸りに溶けた。
瞬く間に六体が沈む。
風が止まり、砂だけが落ちた。
「……終わりか。」
ヴァルスが槍を立て、息を吐く。
「同じゴールドランクでも、あんたは別格だな。」
ジャレドは斧を収め、視線を遠くに向けた。
「まだ浅い。群れの主はいない。」
「主?」
シェラが首をかしげたが、彼は何も答えなかった。
⸻
その日、一行はセドランに入った。
オアシスの町。砂に沈むように建てられた家々から、薄い煙が立っている。
宿の前で馬を止めると、ハグルが満足げに笑った。
「やれやれ、久しぶりにまっとうな屋根の下だ。」
「他にもルートはあるんだろ?」
ランドが聞くと、商人は肩をすくめた。
「どこ通ったって砂は砂だ。けどな、セドランは酒がマシなんだよ。」
⸻
――同じ頃、ゼルハラでは。
ガルマの執務室では、葉巻の煙が静かに揺れていた。
「不死身。お前の試合だが、今回は“指名”が入ってる。」
「……拒否権は?」
「あるにゃある。だが、砂の底に戻るには今回は避けられねぇ。」
ドーレイは眉を上げた。
「つまり? 随分遠回しな言い方だな。」
「異変が起きた。戻りたいなら次も勝ってプラチナに昇格しろ。」
「……相手は?」
「それなりの相手だ。闘技は二日後。メインでやる。」
「メインだと?」
ガルマは笑みを浮かべ、煙を吐いた。
「精々気張れや。」
ドーレイが扉を出ていく。
静かな足音が遠ざかる。
「……ここを越えれねぇと先はねぇ。」
ガルマは独り言のように呟いた。
⸻
夕方。
第二訓練場で、ドーレイが汗を流していた。
砂上に剣を構え、ひと太刀ごとに呼吸を刻む。
赤黒の光が刃を走り、砂が跳ねた。
そこへ、慌ただしい足音。
「ドーレイ! 次の相手、聞きましたか!?」
セリナが駆け込み、ヴェラが続く。
「相手は……無所属のダイヤモンドランクよ。」
「“闘神”――グラン・ゼヴァルド。」
セリナの声がわずかに震える。
ドーレイは一瞬だけ空を見上げ、口の端をわずかに上げた。
「……おもしれぇ。」
⸻
――場面は再び北のセドランへ。
夜、酒場《砂喰い亭》。
灯りが琥珀に揺れ、香辛料と酒の匂いが混ざる。
木卓の上には砂蜥蜴の串焼き、香草の豆、そして泡立つ麦酒。
「くぅ……! これだよ、これ!」
ハグルが盃を掲げる。
ヴァルスも続き、杯を鳴らした。
「戦いの後の酒は格別だ。」
シェラが笑い、ランドが尻尾を揺らす。
「お前ら、飲みすぎんなよ。明日もあるんだから。」
「わかってるって。」
笑い声が続く。
ジャレドは盃をゆっくり回し、琥珀の泡を眺めた。
喉を通る熱の向こうで、風が低く唸る。
外では、砂が街壁を叩いていた。
遠くで、誰かが笑ったような声がした。
焚火の色が、赤から黒へと沈んでいく。
――静寂の砂の下で、影がひとつ、ゆるやかに動き出していた。
お読みいただきありがとうございます!
ブクマ、評価お待ちしてます!




