第47話 砂上の休日
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夜の歓声が砂に吸われ、静けさが戻った。
翌朝――まだ陽の上がりきらぬ時刻、ドーレイは《砂鳴りの宿》の扉を押し開ける。
乾いた風が廊下を抜け、背中を撫でていく。
この宿に身を移したのは、シルバーに昇格した夜のことだった。
闘技場の牢よりも、わずかに広く、静かで――そして自由だ。
二階の角部屋。窓の外には街路の灯が見える。
卓の上には昨夜の水差しが置かれ、まだひんやりと冷たい。
階段を降りると、女将のマレーナが帳場で帳簿を閉じて顔を上げた。
「今朝は早いね、不死身さん」
「受け取りだけだ。――昼には戻る」
「部屋の水、換えておくよ。戻ったら顔でも洗いな」
短い会話。短い信頼。それで十分だった。
宿を出ると、東の壁の向こうで陽が鈍く滲み、砂を含んだ風が街路を撫でていく。
ゼルハラはもう、熱の準備をしていた。
ドーレイは頬を一度だけ拭い、《アレナ・マグナ》へ向かう。
闘技場の支払い窓口では、昨夜の試合の報酬袋がすでに用意されていた。
袋の口を指でつまみ、硬貨の触れ合う音で中身を量る。問題なし。
光の差し込む通路を抜け、外に出る。
門の陰で、セリナが手を振った。
「おはようございます!」
「今日はオフにするか。歩こう」
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ゼルハラの街は、朝から活気に包まれていた。
露店が並び、香辛料の香りが風に乗って流れる。
焼きたてのパン、油の匂い、酒の樽。行商人の声が交錯する。
通りを歩きながら、セリナが目を細めた。
「朝でも、すごい熱気ですね」
「昼には倍になるさ。砂と同じで、この街は熱しやすい」
ドーレイは淡く笑い、行き交う人の波を眺めた。
露店の奥には、遠く霞む青灰の山脈が見えた。
〈大陸の背骨〉――大陸を東西に貫く、未踏の山並み。
その南麓には、鉄と炎の民〈ドロムハルド〉の国が広がっている。
そしてさらに南。
砂に沈むこのヴァルハルト帝国があり、ゼルハラはその中央――やや南西に位置する。
山から鉄が、砂から香辛料が、そして人の欲が落ちてくる。
――だからこの街は、今日も満ちている。
セリナは肩の小瓶を撫でながら、露店を見回した。
「今日は、闘技はお休みなんですね?」
「ああ。たまには、砂の外の風も吸っておかねぇとな」
ドーレイの声は柔らかく、どこか遠い。
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昼前、二人はある鍛冶屋に立ち寄った。
スレイグの工房――ドーレイが毎度武器を打ってもらっている職人の工房だ。
鍛冶場の奥では、煤だらけの腕で槌を振るう親方スレイグが、溶けた鉄を叩いていた。
ドワーフ族。背丈は低いが腕は丸太のように太い。
火花が散るたび、空気が赤く瞬いた。
「来たか、不死身」
声は低く、地鳴りのようだった。
ドーレイは剣とナイフを抜き、台の上に置く。
どちらも刃はよく手入れされており、黒鉄の光を宿している。
「手入れを頼む」
「傷は浅いな。……お前も鉄みたいに、馴染んできたか」
「……悪くねぇな」
スレイグは口元を歪め、砥石を取り出した。
鉄の匂いが立ちこめる。
火の粉の中で、ドーレイは静かに剣を見つめた。
黒鉄のナイフの次にここで打ってもらった立派な長剣である。
「……悪くねぇ」
小さく呟くと、スレイグは笑いながら槌を振った。
「当たり前だ。俺が鍛えた鉄に外れはねぇ」
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夜。
ゼルハラ中心街の片隅、《赤砂の盃亭》。
外壁は古い赤土で塗られ、扉の上には小さなランタンが二つ。
通りに漏れる灯が、砂塵を金色に染めていた。
中は静かだった。
客の多くは剣闘士、あるいは興行主の下働き。
厚い木の卓、壁にかけられた古い闘技用の盾。
油とスパイスの香りが混じり合い、どこか懐かしい温かさがある。
ドーレイとセリナは、奥の窓際の席についた。
薄いランプの光が、盃の中で赤く揺れる。
「いらっしゃい、不死身さん。」
皿を拭きながら、店主の老人が笑う。
名前はバルム。初老の男で、元は闘技場の調理係だった。
「いつもの“赤砂酒”でいいかい?」
「ああ。それと肉を一皿。セリナには……」
「砂果のジュースをお願いします!」
「ほいきた。」
やがて卓に運ばれたのは、薄赤の酒と砂蜥蜴の焼き肉の皿。
香辛料が強く、脂が熱で光っている。
ジュースの方は琥珀色で、柑橘のような酸味が香る。
「ここのお肉、いつも美味しいですね」
セリナがフォークを口に運びながら微笑む。
「スパイスが効きすぎてるけどな」
「でも、砂の味がします」
「……悪い言い方じゃねぇな」
バルムが厨房の奥から笑い声をあげた。
「不死身さん、次の試合はいつだい?」
「昨日闘ったばかりだからな。」
「不死身さん、最近人気だからねぇ。
次の試合いつだって、よく聞かれるんだよ。」
「たまには、剣を置かねぇと錆びちまう」
「そりゃ鉄の話かい、自分の話かい?」
「……どっちもだ」
三人の笑いが、店の奥へと消えた。
静かになったところで、セリナが問いを投げる。
「ジャレドさんとヴェラさん、今日は来ないんですね?」
ドーレイは盃を回しながら答えた。
「最近は顔を見ねぇな。」
「昨日はドーレイの試合を一緒に観戦してましたよ。お二人とも、修練かもしれませんね」
「明日、誘ってみるさ。少し鈍っちまう」
赤い灯がゆらゆらと盃を照らし、
香辛料の煙が天井に薄く漂う。
遠くでは笛の音がかすかに流れていた。
その旋律は、砂漠を渡る風のように穏やかで――
戦いの夜を忘れさせるには、ちょうどいい静けさだった。
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翌朝。
ドーレイは早めに起き、ジャレドの拠点を訪れた。
《砂鳴りの宿》から歩いて数分、古い石造りの宿屋。
入口には朝露を含んだ風が流れ込み、廊下に砂の粒が散っていた。
「ジャレドの部屋は?」
受付の娘が帳簿をめくりながら答える。
「早朝から出て行かれましたよ。外の依頼かもしれませんね」
「そうか」
ドーレイは短く礼を言い、闘技場の方角へ歩き出した。
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《アレナ・マグナ》第二訓練場。
そこではヴェラが細剣を構え、エルガが木剣を持ち指導していた。
ヴェラの突き出した剣から微かな赤いオーラが空気に残り、砂上に軌跡を描いている。
周囲の剣闘士たちは圧倒され、誰も近づけずにいた。
特にプラチナランクのエルガが訓練場にいることで、
下位の剣闘士たちはやっかみを言いながら第一訓練場へ流れていく。
「ずいぶん熱心だな」
ドーレイが声をかけると、ヴェラが細剣を下ろした。
「久しぶりね」
エルガも振り返り、ドーレイへ軽く会釈する。
「オーラ……か。」
「まだ形になったばかりよ。でも、少しは“見える”ようになってきた。」
「焦るな。制御は筋肉と同じだ。使えば応える」
エルガがうなずき、木剣を納めた。
ヴェラが息を吐き、手首を回す。
「ジャレドは?」
ドーレイの問いに、ヴェラは肩をすくめた。
「放っておきなさい。彼にもプライドがあるのよ」
砂上に、訓練を終えた風だけが残る。
ドーレイは空を見上げた。
陽光が強く、砂の粒が光を跳ね返していた。
その光の奥で、砂の底が、かすかに“息づいた”。
――胎動は、まだ止まっていない。




