第45話 砂の底、胎動の刻
赤黒と漆黒が、砂の上で噛み合った。
空気が波打つたびに砂丘の稜線がへこみ、音は一歩遅れてやって来る。赤黒の脈動は血の熱、漆黒の奔流は重さそのもの――世界の片側が傾くような圧だ。
ドーレイは歯を食いしばり、腕に赤黒の光を巻いた。皮膚の下で脈が太く跳ねる。胸骨の裏側、燃えるような声が起き上がる。
――もっと。
――もっと痛みを。血で磨け。刃を鈍らせるな。
〈アルマ・ドローリス〉。かつて耳の奥でただ「喰わせろ」とだけ囁いたそれが、今日は言葉になっていた。
――苦痛は形だ、ドーレイ。痛みが境界を浮かび上がらせる。砕け、砕け、砕いて越えろ。
「黙れ」
声に出したとたん、漆黒が呼応したように膨らむ。仮面――バアル・ペオルの黒い面が軋み、周囲の砂を数歩分沈ませる。空に三本の黒い剣が生まれ、彼の両手の剣と軌道を揃えた。計五本。柄も鍔もない、純粋な“斬るための質量”。
「めんどくさい、めんどくさい、めんどくさいいい」
フードの陰で笑いもない声がひび割れ、砂が震える。言葉のたびに黒の刃がわずかにうなり、世界の薄いところを探る。
赤黒が走る。両前腕に纏わせたオーラを、ドーレイは大剣のように振るった。受ける、削ぐ、捻じる。火花の代わりに砂が細かく散り、熱だけが皮膚に刺さる。押すたびに肩が軋み、足下の地面が沈む。質量差は明白だ――が、退かない。
遠くで、セリナの祈りが震える。「……《プロテクト》薄く」「《スウィフト》二枚」。
ヴェラは息を殺して矢羽を撫で、ジャレドは左腕の板金にオーラを通して合図の金具を短く鳴らす。白い光は砂に伏したまま――エルガはまだ立ち上がれない。
「もっと、もっとだ」
内の声が甘く舌打ちする。
――お前は生き延びたい。ならば貸せ。痛みの手綱を。
「借りねぇよ」
五本が円を描く。黒の軌跡は線ではない、“空白”だ。そこだけ空気が欠け、音が滑り落ちる。赤黒がぶつかるたび、世界が半目を閉じる。ドーレイの足は砂にめり込み、膝が笑い始めた。
砂嚢がねじ切れるような音。風向きが変わる。砂嵐の縁から、細い影が滑り出た。
大鎌を引きずる白銀の女――カリューネ。背後に小隊。肩口まである砂色の鱗が地に転がり、尾が痙攣している。サンドリザードの首が二つ、同じ高さに並んで転がった。
「こりゃまた……すごいねぇ」
カリューネは顎を上げ、黒と赤黒の継ぎ目を愉快そうに眺める。「これが魔神の咆哮ってやつかい?」
後ろの隊員が唾を飲む。「あのオーラの質量……化物かよ……」
「下手に入れば、命がもたないさ。……それに、見てみたいじゃないか」
死神は足を止め、鎌の柄を軽く打った。音が一度だけ澄む。
バアルが面の下で喉を鳴らす。「めんどくさい」
空に浮いた三本が角度を変え、蛇の頭のように同時に突っ込んでくる。ドーレイは赤黒を隆起させて受け止める――が、一瞬、脈が乱れた。アルマ・ドローリスの呻きが別の音程に跳ねる。砂が螺旋状に崩れ、足場が抜ける。
「ッ――!」
黒の重みが肩口から背骨へ落ち、世界が裏返った。視界が砂と黒で回転し、次の瞬間、背が地に叩きつけられる。肺の空気が全部抜け、船底で波がぶつかった時みたいに内臓が跳ねた。
「ドーレイ!」
セリナの悲鳴。ヴェラが半歩前に出る。ジャレドが左腕を前に出して庇う姿勢に入るが、黒の刃は彼女たちを無視し、落ちた男へと一直線に降りる。
――青白い輪が、砂を割った。
「まだ終わりじゃない――が、勘違いするな。貴様を助けるためじゃない」
黒衣の男が歩み出る。左の魔導書が勝手に開き、頁から符号の光が立ち上がって空に陣を描く。
異端審問官、カイン。
右の剣が走るたび、術式が咲いて閉じ、黒の軌跡をずらす。
ドーレイは砂を吐き、膝で地を押す。赤黒がまだ手足に残っている。彼は立つ。立って、隣に青白を並べた。
「そのオーラ……制御しているのか? ――暴走すれば、その瞬間に斬る」
「……ああ、暴れねぇよ」
短い応酬。ふたりの前で、黒の剣が小さく震える。五本のうち一本が空気に音を残した。
「めんどくさい……めんどくさい、めんどくさいめんどくさいい」
バアルの声はノイズになり、仮面の縁で黒の呼吸が増幅する。漆黒がもう一段重く落ちた。
カインの術式が軋む。「……っ、ギアを上げたか」
五本が同時に弾け、空間の縫い目を抉る。青白が二本を捌き、赤黒が二本を弾く――最後の一本が、赤黒と青白の“間”をしゃがみ込むように潜ってきた。
「ドーレ――」
セリナの声が届く前に、刃が胸を掠める。皮膚が裂け、熱が一枚剥がれる。赤黒が反発で膨らみ、痛みが脳の奥で白光に変わった瞬間――
鎌が鳴った。
「これ以上のダメージは、まだ早いさね」
カリューネの大鎌が、黒の剣の腹を撫でるように当たり、軌道を“少しだけ”曲げた。ほんの一寸。それだけで致命は逸れる。カリューネの足元の砂が細かく沸き、白銀の髪が風に散った。
「死神……」
カインが息を引く。
「観戦は終わり。ここからは、観客席がない」
三つのオーラが混じり合う。青白が糸のような数式で黒を縫い留め、赤黒が叩き潰し、白銀の鎌が“今だけ空く”筋を作る。漆黒はそれでも重さで圧してくる。砂の大地がざくざくと崩れ、裂け目が浅く広がる。
世界が、三つに割れたみたいだった。
刹那、仮面の裏で笑いが鳴る。
「――めんどくさい。」
面を指で叩く音。黒がふっと軽くなった。漆黒の質量が一段落ちる。仮面を外したのだ――その瞬間だけ、攻防の密度が緩む。
「させるか!」
カインが術式を投げるより早く、バアルは外套の内から薄い金属板――刻印の詰まった魔道具を弾いた。空間の縁に円環が灯り、砂の上に薄い光の陣が開く。
もう一人の仮面の人物の肩口に手が置かれ、二人は砂煙の中で輪の中央に寄る。
光が収縮する。空気が吸い込まれ、砂が上へ舞う。
「転移の魔道具だと……!?」
ジャレドの悔しげな声が砂に飲まれて、ふたりの影は、消えた。
あとに残ったのは、赤黒の熱と、風の戻る音だけだった。
◇
崩れた砂丘の縁で、セリナが駆け寄る。掌に残り火を灯して、ドーレイの傷の縁にそっと触れる。皮膚の奥で熱がくすぶり、赤黒が“触れてくる”。彼女は祈りの息でそれをなだめ、熱を浅いところへ押し戻した。
ヴェラは拳でドーレイの胸を軽く叩いた。「また、心配かけてくれるじゃない」
ジャレドは膝をつき、息を吐く。「……無事で、何よりだ。不死身」
ドーレイは短く頷く。喉の奥に鉄の味が残ったまま、それでも眼は静かだった。
白い光が揺れて近づく。エルガが、肩を押さえながら立っている。カリューネ隊の一人が素早く裂いた布で圧迫し、骨の位置を確かめる。「こりゃかなり重症だな。とりあえず応急処置だ、後で治癒師に見てもらえ。」
エルガは短く礼を言い、肩を預けた。
砂の底で、風がようやく同じ方向を選んだ。
カリューネが大鎌を肩に担ぎ直す。「さあ、帰るか。死人になる前にね」
◇
十五層のキャンプは、さっきよりも静かに見えた。鍛冶台の火は小さく、飯の匂いは薄い。それでも人はいる。音もある。生きている場所の音だ。
半端な治療と粗い包帯。ぬるい水。硬いパン。生ぬるい空気。
それらがゆっくりと“現実”の形を取り戻す間、誰も多くは語らない。
やがて、カインが転移陣の残滓を見て戻ってきた。魔導書の頁を一枚めくらずに閉じる。
「……貴様の処遇は保留にする。今は暴走が収まっていることを確認できれば十分だ」
ドーレイが苦笑いしながら答える。「まあ一時休戦ってところか。」
「どう捉えようと構わない。だがーー」
「次に暴走を確認した時点で処理する。」
カインは黙って砂の奥を見た。「それと――」
ヴェラが顎で促す。
「……仮面の二人組。
追跡を切るために、わざと“薄い”場所を選んだ形跡がある。
転移の魔道具にしてもかなり高価な物だ。」
ジャレドが眉をしかめる。「一体何が目的だったんだ?」
セリナは無意識に胸の小瓶を握った。瓶の中の光が、さっきより微かに赤い。
「呼ばれてるみてぇだったな、あの二人」
ジャレドがぽつりと呟く。
「誰に?」
ヴェラの問いに、誰も答えない。
ドーレイは夜の気配を吸い込み、目を伏せた。胸骨の裏側、あの声は今は黙っている。
――まだ足りない。だが、今は沈む。
ゆっくりと、内の熱が深いところへ潜っていく。彼は短く息を吐いた。
カリューネが立ち上がる。「今日は休め。続きは明日。……砂の底は逃げないからね」
冗談とも本気ともつかない声に、小隊の面々が苦笑する。
灯が落ち、キャンプの影が伸びる。
セリナは最後にもう一度だけ、暗い方を見た。
赤い光がまだ、砂の奥で脈を打っている気がした。
――そして、胸の底にひとつの疑問が沈む。
なぜ、あの二人は、十五層まで来ていたのか。
呼ばれていたのだとしたら――誰に。何に。
答えは、砂の下にある。今はまだ、息を潜めて。
◇
管理棟の執務室は、夜風で葉巻の煙が流れていた。
ガルマは窓際に立ち、報告書の端を指で折る。
机の向かいに座る女が、微笑を浮かべながら口を開いた。
「十五層でぶつかったみたいよ。」
「……やはり深層だったか。」
「ええ。十九層まではほとんど調査が完了しているわ。――残るは二十層。」
「カリューネに二十層の調査を急がせろ。場合によっては――俺も出る。」
女は少し驚いたように眉を上げた。
「十三年前に止まった時間を、今さら動かすというの? 大人しく後身に託すべきじゃないかしら。」
ガルマは何も言わず、葉巻に火をつけた。
紫煙が静かに立ち昇り、夜の風に溶けていく。
◇
――ダストホロウ二十層。
広大な二十層のどこか。
崩れた神殿跡。
柱の一部は砂に沈み、天井の穴から月のような光が差していた。
床にはかすかな紋章の痕。
折れた大剣を背に担いだ男が、静かに中へ足を踏み入れる。
石の床を踏むたび、微かな音が反響する。
男が歩を進めるごとに、空気の色が暗くなっていった。
――そして、神殿の奥。
漆黒よりも黒い“何か”が、ゆっくりと息をした。
砂がわずかに浮き、風が止まる。
闇が、開く。
ーー同じ刻、十五層のキャンプ。
ドーレイの胸の奥で、何かが同じ拍で鳴った。
砂の底のそれと、まるで呼応するように。
そして――“胎動”は、まだ止まらない。
これで四章完結となります。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
明日から五章投稿していきますので、引き続き応援よろしくお願いします!




