第26話 砂への誘い、沈む層
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夜の冷たさが背から抜け、朝の温みが指の節へ染みてくる。
第一層を示す岩刻を越え、俺たちは砂の螺旋通路をゆっくり降りた。壁が呼吸みたいにひそやかに膨らみ、縮む。吐く砂の匂いは薄い金属の味を含み、肺の奥をかすかに刺す。
「体温が落ちてる。……《テンペランス》」
セリナの囁きと同時に、皮膚の表面に薄い膜が張るような感覚が走った。寒気が和らぎ、指先の痺れが消える。
「お前、補助魔法まで使えんのか」
ジャレドが盾の縁で砂を払いながら振り向く。
「回復だけが取り柄じゃないですよ」
セリナが胸を張る。
「意外と優秀なんだな」
「“意外と”は要りません」
短い応酬に、ヴェラが喉で笑う。
風は上から下へ──通常と逆に流れていた。層の奥ほど、地の熱と砂の湿りが混ざる。第一層の底面まで下り切る頃には、息に砂が混じって重くなるのが分かった。
◇
第二層。
空間は起伏のある砂丘が小部屋のようにつらなり、背の低い洞の口が点在している。足を置くたび、砂の斜面が音もなく流れて形を変える。
シュ、シュ、シュ──。
「止まれ」
ジャレドが肩で俺を制す。砂面の下、糸のような影が複数走った。次の瞬間、指ほどの口がぱっくり裂け、砂を吐きながら細長い体が這い出す。一本、二本……十、二十。
サンドリーチ。小型と言っても一本あたり腕の長さはある。口腔の内側に硬い角質の歯列。群れ。
「数で押すタイプ。“面”で止める」
ジャレドが丸盾を前へ。砂煙を扇で払うみたいに一歩、二歩と押し出すと、突進してきた先頭が盾面に吸い付いて砕けた。
左側を抑えながら俺は半歩、斜に滑る。一本が弾けた反動の“戻り”を読む。噛みつきが届く寸前、刃を45度、体線に沿わせて通す──切断ではなく“通過”。
ヴェラの矢がカンと砂礫をはじく音とともに飛び、尾の節を射抜く。狙いは殺し切ることじゃない、動きを切ること。
「いいわよ、その半歩」
ヴェラが短く告げる。俺は呼吸を合わせ、ジャレドの押しの影に身を滑り込ませた。
後衛のセリナの指が弾くように動く。
「《スウィフト》、二拍限定。──《メンディング》は小傷だけ!」
足が羽根の一枚分だけ軽くなる。二拍だけ、世界が遅く感じる。
俺の半歩とジャレドの押し、矢の“鳴らし”が一息に繋がった。三手じゃない、一手半。訓練で刻んだ線が、砂上でも通用するのを骨で知る。
十分ほどで群れは沈黙した。砂の上に残ったのは細い殻の破片と、乾きかけの粘液が作る黒い痕だけだ。
「動きが合ってきたな」
ジャレドが盾を払って言う。
「半歩、盗むタイミングを掴んできたわ」
ヴェラは矢羽根を指で整えながら、砂丘の陰を一つ一つ確かめた。
セリナは皆の小傷を素早く撫でて歩きながら、ぽつりと呟く。
「ここ、さっきより……温かい」
階を下るごとに、空気の温度はじわりと上がっていた。背中に汗が薄い膜を作る。
◇
第三層。
降り口の壁に、黒く焦げた手の跡がばらまかれていた。古い。焼け焦げの縁が砂に飲まれないまま、石の素肌を掴んでいる。数は多く、ばらばらで、どれも深い。
「……封じた跡、ね」
ヴェラが低くいう。
足元には割れた金属輪、歪んだ鋲、焼けたランプ。灯油の臭いがまだ残っているような錯覚。ひしゃげた革袋からは灰になった薬草がこぼれていた。
セリナがしゃがみ込み、灰を指でほぐす。
「薬草袋……けど、薬効が飛ぶほど焼けてる」
壁の奥から、“何か”の拍動が伝わってきた。心臓ではないが、それに似た規則性。
砂の内側に線がある。魔素の流れ──ヴェラが「血脈」と呼ぶもの。
それは脈打ち、下へ下へと沈んでいく。
「魔鉱の血脈が地下へ引いてる。……旧い封が、下側から剥がされてる」
ヴェラの目が細くなる。
俺は手のひらを壁に当てた。冷たい。だが奥は熱い。二つの温度が層になっている。
胸の奥で、赤黒い刃の影が一瞬だけ揺れた。すぐに沈む。今じゃない。
◇
第四層。
空気が変わる。湿りが増し、腐った肉と鉄と土を混ぜたような臭気が鼻腔にまとわりつく。足元は細かい泥に近い。砂の粒が湿って重く、靴底を吸う。
「……腐ってる?」
セリナが袖で口元を覆う。
壁の割れ目から、白い繊維の束が覗いていた。根だ。
《砂哭草》の根。
本来は深層で、冷たく乾いた風と、一定の魔素の流れが重なる“呼吸の隙間”にだけ芽を出す。
だがここでは、根だけが異様に伸び、絡みあって壁面を白く侵食していた。
肝心の“花”はない。蕾すらない。
「……未成熟。根ばっかり広げてる。これじゃ薬効は出ない」
セリナが根の表皮を軽く裂き、淡い液を指先にひと滴。舌に触れ、顔をしかめた。
「薄い。誰かが“育てて”る。条件を作ろうとして、失敗してる感じ」
「だから五層で“採れた”って報告が走ったのか」
ジャレドが低く言う。「焦らせる餌には十分だ」
根の間から、熱が息のように吹き上がってくる場所があった。
ヴェラが身をかがめ、掌を穴の上にかざす。
「下から風が。……穴がある。人が通れるかは怪しいけど、熱は確かに上ってる」
通路の砂に、浅い靴跡が並んでいた。片方は早足で揃い、もう片方は重い。擦れた跡が金属を思わせる。
新しい。砂の縁がまだ崩れ切っていない。
「先に降りたやつがいる」
ジャレドが跡に沿って歩幅を測る。
「三人か……いや、四。うち一人は重装。金属靴の擦れが出てる。方向は──」
奥の通路から、薄く、砂を踏む音が流れてきた。
サラ、サラ、と。
靴ではなく、乾いた砂を掬っては落とすような、連続の音。
俺は掌を上げ、皆の足を止める。
耳の奥で、砂の呼吸が一つ、増えた。
「……誰か、いる」
セリナが小さく喉を鳴らした。
砂に沈みかけていた根が、音に合わせるように微かに震える。
ヴェラは矢を一本指に挟み、弦に触れたまま視線だけを走らせる。
ジャレドは盾をわずかに前へ、角度を落とし、押しの初動を殺さない位置に構え直した。
どこか遠くで、砂の“鼓動”が一拍、深くなる。
第四層の空気が、ほんのわずかに熱を増した。
「行こう」
俺は囁き、半身で通路の影へ滑り込んだ。
砂の気配は、俺たちを待っているみたいに、奥へ奥へと引いていった。




