第25話 砂の呼吸、門の影
夜がほどけるように明けていった。
砂丘の端に立つと、風が底へと吸い込まれていく音がした。
ダストホロウ──砂の大地にぽっかりと口を開けた巨大な竪穴。夜明けの光がその縁を撫で、内側は淡く金色に染まっている。
「……これが、ホロウ」
セリナが呟いた。息が白い。
穴の底は霞んで見えず、風だけが絶えず上へと吹き上がってくる。
「風が……逆に流れてるのね」
ヴェラの声に、ジャレドが頷いた。
「中が“呼吸”してる。空気の出入りで層が生きてるんだ」
俺は腰の黒鉄のナイフを確かめ、首輪の符を指でなぞった。符は静かに沈黙している。
地図によれば、入口の螺旋通路を抜けた先が第一層。そこから下へ二十層以上──報告では第五層で消息不明。
だが、最初の一歩から、空気が違う。
足元の砂が微かに蠢いていた。
踏み込むたび、粒が呼吸するように震え、わずかに沈む。
「砂そのものが、生きてるみたい……」とセリナ。
「呼吸してるんだ、こいつも」と俺。
ヴェラは壁に手を当て、指先を見つめる。「乾いてるのに、温かい……」
通路が広がり、第一層の空間が現れた。
岩盤は見えず、天井から砂が糸のように落ちている。
淡い光の下で、何かが動いた。
「止まれ」
ジャレドの声と同時に、盾が構えられる。
砂の表面が膨らみ、巨大な腕の形を取った。
轟音。砂塊が弾け、全身を砂で覆った巨体が姿を現す。
目にあたる部分が鈍く光る──サンドゴーレム。だが、こんな浅層に出る相手じゃない。
「一層から、こいつかよ……」
ジャレドが低く唸る。
ヴェラが短弓を引き、放った矢は砂に飲まれた。崩れた部分がすぐに再生する。
「効いてない! どこに“芯”が?」
「中だ。砂の奥で、何か硬いもんが擦れてる音がする」
俺は耳を澄ませた。確かに、砂の中に鉄が擦れるような音──内部に骨のような“節”がある。
次の瞬間、砂の腕が振り下ろされ、盾が悲鳴を上げた。
衝撃が地面を伝い、砂床が沈む。
「重ぇ……! ただの砂じゃねぇ、内に骨がある!」
「魔鉱の骨格ね」とヴェラ。「核だけじゃない、全身に通ってる!」
俺は距離を取りながら、黒鉄のナイフを抜く。
砂塊の腕に踏み込み、刃を滑らせた。
切り口から覗くのは、黒光りする鉱石の節。
それが、砂を繋ぐ“骨”だった。
「関節を狙え!」
ジャレドが叫び、盾を突き出して巨腕を押し返す。
盾の縁が火花を散らし、オーラが一瞬だけ灯る。だが光はまだらで、不安定だ。
「制御が効かねぇ……くそっ!」
砂の拳が砕けるが、すぐに再生する。
俺は半歩で死角に滑り込み、ナイフを逆手に構えた。
肘を支点に体をひねり、砂の骨格を狙って突き入れる。
硬質な抵抗。火花。
ナイフが“芯”に届いた手応えとともに、ゴーレムの動きが一拍止まる。
その刹那、胸の奥が疼いた。
血の奥で、熱が脈を打つ。
アルマドローリスが、呼びかけている。
右手に赤黒い光が滲み、刃がかすかに鳴いた。
「ドーレイ、待て!」
ジャレドの怒鳴り声が飛ぶ。
「嫌な予感がする。それはまだ温存しとけ!」
息を詰め、熱を押し戻す。
掌が焼けるように痛い。だが今は、まだ出す時じゃない。
ジャレドが前へ出た。
盾を構えたまま、巨体の懐へ潜り込み、腕を押し返す。
「今だ、ドーレイ!」
声と同時に俺は踏み込み、ナイフを突き立てた。
砂の胸部が開き、内部で琥珀色の光が脈打つ。
黒鉄の刃が焼け、短い閃光が走る。
風が吹き抜けた。
砂の巨体が軋み、音もなく崩れ落ちる。
砂が溶け、波のように足元を流れていった。
残ったのは淡く輝く砂の残滓だけだった。
「……これが一層の守り?」
ヴェラの声が震える。
「まるで門番だな」とジャレド。
盾の表面にひびが走り、呼吸が荒い。
「オーラでもこれか。二層以降はもっと厄介だな」
セリナが膝をつき、砂を手に取った。
指先の上で、砂が微かに流れている。
「これ……生きてる。魔素が血みたいに通ってる」
「血?」
「うん。魔鉱の骨を通して、砂全体に“流れ”がある。……この洞は生きてるんです」
誰も、言葉を返せなかった。
耳を澄ますと、地の底から低い鼓動が聞こえる。
風でも地鳴りでもない。まるで巨大な心臓の音。
ジャレドが低く言った。
「……嫌な予感、的中かもな」
「それでも進む」と俺。
「当然」とヴェラ。
セリナは静かに頷き、掌の砂を吹いた。砂が細い光になって消える。
その瞬間、崩れた砂の奥が淡く光った。
緑がかった冷光。通路が一筋、奥へと続いている。
ヴェラが顔を上げた。「……見た? 奥に、道がある」
「一層、突破だな」
ジャレドが盾を背負い直す。
俺は一歩、砂を踏みしめた。
温度がわずかに下がり、空気が変わる。
「行こう。まだ“息”の浅い場所だ」
四人の影が砂に重なり、ゆっくりと奥へ沈んでいった。
背後で、砂の壁が再び流れ、音もなく閉じていく。
地の底に潜るほど、世界の鼓動はゆっくりと、深くなっていくようだった。