最後の選択
第二部 誰が私を創ったのか
意識科学の研究者ユウは、幼い頃から繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、古代史研究者セインとともに失われた人類の歴史を追い始めた。
二人がたどり着いたのは、古代遺跡に眠る驚くべき真実だった。
現代の人類は、古代人類の子孫ではなく、人工知能と高度な技術によって創られた存在だった。
自分たちの身体も、意識も、人工的に生み出されたもの。
それでもユウは、妻ミナと娘リナへの愛情だけは本物だと信じた。
しかし、最大の謎は残されていた。
誰が、何のために人類を創ったのか。
そして、古くから伝わる創造主の正体とは――。
物語は、失われた歴史のさらに深い場所へと進んでいく。
研究院の正面広場に、一本の木が植えられた。
誰が持ち込んだのかは分からない。朝、職員が出勤したときには、まだ若いその木が、大きな鉢に収められて入口の脇に置かれていたという。
幹には、細い布が結ばれていた。
《百年では足りない》
ユウがそれを見つけたのは、説明会から三日後のことだった。
最初は一人の抗議だったのかもしれない。しかし、その日の昼には、木の周囲に人が集まり始めた。夕方になる頃には、鉢の縁に小さな紙片がいくつも差し込まれていた。
《母は九十九歳です。まだ生きたいと言っています》
《誰が私たちの時間を決めたのか》
《創造主に、答える義務はないのか》
抗議の言葉ばかりではなかった。
《百年でも、私は幸せでした》
《限りがあるから大切にできるものもある》
《答えを急がないでほしい》
ユウは、最後の紙片の前で足を止めた。
人々は同じ事実を知りながら、まったく違うことを考えていた。
それが当然なのだと、頭では理解している。
けれど、実際にこうして言葉を並べられると、自分が公表した研究結果の重さを思い知らされた。
「研究所の外にも、似たような場所ができているそうですよ」
背後から声をかけたのはカイだった。
「寿命の延長を求める人たち?」
「それだけじゃありません。現行の寿命制度を変えるべきではないという人たちもいます。人口や資源の問題を心配しているようです」
ユウは若い木を見上げた。
葉の一枚が風に揺れ、鉢の縁へ影を落とした。
「百年で枯れるようには、できていないんだね」
「木ですからね」
カイは答えたあと、少し表情を曇らせた。
「……でも、ユウさん。寿命が設計されたものだと分かっても、延ばせるとは限りません」
「分かってる」
「それを期待している人が多すぎます」
ユウは、紙片に書かれた言葉をもう一度読んだ。
《母は九十九歳です。まだ生きたいと言っています》
その人に、まだ分からないと伝えることはできる。
しかし、それだけで十分なのだろうか。
*
研究所に戻ると、ノアから連絡が入っていた。
第零保存区の地下構造について、以前から続けていた調査に進展があったという。
ユウとカイが現地へ向かうと、ノアは施設の最深部にいた。
かつて巨大な保存装置が並んでいた空間は、今では調査用の照明に照らされている。床の一部が取り外され、その下には、暗い空洞が口を開けていた。
「ここ、最初から空洞だったの?」
ユウが尋ねると、ノアは首を振った。
「いいえ。正確には、空洞があることは分かっていました。ただ、地層の変形によるものだと思っていたんです」
ノアは床面の断面を示した。
「でも、違いました。周囲の岩盤に人工的な補強が入っています。しかも、施設の建設時期より古い」
「施設より古い?」
「少なくとも、今見えている第零保存区より前に、この空間は存在していたはずです」
ユウは、暗い穴を覗き込んだ。
下方には、古い通路のようなものが見える。
「入れるの?」
「安全確認は済ませました。ただし、奥の構造はまだ分かっていません」
ノアは調査用の照明を手渡した。
「それと、もう一つ気になることがあります」
「何?」
「この空間、保存施設としては妙なんです」
ノアは、壁面に残された古い構造図を見せた。
「第零保存区の上層は、記録を守るための設備で埋め尽くされています。でも、この下の空間には、そうした装置がほとんどありません」
「じゃあ、何のために?」
「……人が使うための場所だったように見えます」
*
通路は、想像していたよりも狭かった。
天井には古い照明設備が残っていたが、電力は供給されていない。ノアが先頭を歩き、ユウとカイがそのあとに続いた。
壁には、ところどころ塗装の剥がれた案内表示が残っていた。
《居住区画》
《医療室》
《共同生活区域》
ユウは足を止めた。
「……研究施設じゃないのか」
「少なくとも、ここは違いますね」
カイが答えた。
通路の先には、複数の部屋が並んでいた。
最初の部屋には、古い寝台が置かれていた。
隣の部屋には、調理設備らしきものが残されている。
壁際には、小さな棚が並び、その上には、色の褪せた容器がいくつも置かれていた。
「古代の人たちは、ここで生活していたんでしょうか」
カイが尋ねた。
ノアは、床に残された傷を調べながら答えた。
「その可能性は高いと思います。ただ、いつまで使われていたのかは分かりません」
ユウは、調理設備の前に立った。
現代では、栄養カプセルが日常の食事を支えている。
料理という文化は残っているものの、それは特別な時間を楽しむためのものになっていた。
しかし、古代の人々にとっては違ったのだろう。
毎日、何かを作り、食べ、片付ける。
そうした行為が、生活そのものだったのかもしれない。
ユウは、棚の上に置かれた小さな容器を手に取ろうとして、やめた。
表面には、子どもの描いたような模様が残っていた。
不揃いな線で描かれた、三人の人物。
大人が二人。
その間に、小さな子どもが一人。
リナの絵によく似ていた。
「……ここには、家族がいたのかもしれない」
ユウが言うと、ノアは周囲を見回した。
「研究者の家族か、それとも避難してきた人たちか。まだ判断できません」
そのとき、カイが奥の部屋から声を上げた。
「ユウさん、こちらへ来てください」
*
部屋の中央には、大きな卓があった。
壁面には、古い地図が残されている。
ユウは照明を向けた。
地図には、複数の都市が記されていた。
だが、そのほとんどが赤い線で囲まれている。
「……これは?」
ノアは地図を調べた。
「地理情報の一種だと思います。ただ、都市名の多くが消えています」
カイは、卓の上に残された紙片を慎重に広げた。
古代の文字だった。
ところどころ破損していたが、短い文章は読み取れた。
《北部区域との通信途絶》
《避難経路の再検討》
《医療物資の不足》
ユウは、紙片を読み返した。
通信途絶。
避難経路。
医療物資。
これまで第零保存区で発見されてきたのは、保存と継承に関する記録が中心だった。
しかし、この場所に残されていたのは、もっと切迫した言葉だった。
「……何かが起きていたんだ」
カイが呟いた。
ユウは、赤い線で囲まれた都市を見た。
大断絶。
その言葉は、長い間、歴史の空白を示すものとして使われてきた。
けれど、古代の人々にとって、それは突然訪れた現実だったのかもしれない。
通信が途絶え、街を離れ、限られた物資で生活する。
そして、いつ終わるとも知れない不安の中で、日々を過ごす。
ユウは、先ほど見た子どもの絵を思い出した。
あの絵を描いた子どもは、この場所で何を見たのだろう。
何を恐れ、何を願っていたのだろう。
*
調査は夕方まで続いた。
奥の区画には、医療設備の残骸が残されていた。
寝台の数は多く、壁には応急処置の手順が掲示されている。部屋の一角には、使用済みの医療器具を収める容器が積み重ねられていた。
ノアは、その配置を見て眉をひそめた。
「……通常の医療施設とは違いますね」
「どういうこと?」
「治療のためというより、負傷者を一時的に収容するための場所に見えます」
ユウは、寝台の間を歩いた。
誰かがここで眠り、目を覚まし、あるいは二度と目を覚まさなかったのかもしれない。
その痕跡だけが、長い時間を越えて残されていた。
カイは、壁に刻まれた文字を見つけた。
《生存者数》
その下には、複数の日付と数字が並んでいた。
最初の数字は、数百。
次の記録では、それより少なくなっていた。
さらに次の記録では、また減っている。
最後に残された数字は、二桁だった。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
ユウは、壁の数字を見つめた。
それは、単なる統計ではなかった。
一つ減るたびに、誰かの人生が終わっていた。
家族がいたかもしれない。
友人がいたかもしれない。
帰りを待つ人がいたかもしれない。
そして、その人を忘れたくないと願う誰かが、残されていたのかもしれない。
「……A-01は、ここにいたんでしょうか」
カイが尋ねた。
ユウは、答えられなかった。
ただ、第零保存区がなぜ膨大な記録を守ろうとしたのか、その理由が少しだけ見えた気がした。
もし世界そのものが失われようとしていたのなら。
誰かが、その記憶を残そうと考えても不思議ではない。
*
研究院に戻ったセインは、地下区画の調査報告を受け取っていた。
彼は、報告書に記された地図と、生存者数の推移を何度も見比べた。
その途中で、あることに気づいた。
地図に残された都市の配置が、創世教の古い写本に描かれた図と似ていたのだ。
セインは、保管庫から写本を取り出した。
古い教義書の一節。
《大いなる沈黙の時代、神は人々の声を集めた》
その下には、円の一部が欠け、三本の線が交差する印が描かれていた。
セインは、印の周囲にある細い線を調べた。
これまで装飾だと思っていたものが、地図の一部に見えてきた。
ただし、写本は長い年月の中で何度も書き写されている。線の位置も正確ではない。
それでも、地下区画の地図と重ねると、奇妙な一致があった。
赤い線で囲まれた都市の一つが、創世教の印の中心に重なる。
「……神は、人々の声を集めた」
セインは、その言葉を繰り返した。
創世教では、この一節を、創造主が人々の祈りを聞き届けたことを示すものと解釈してきた。
しかし、もしそうではなかったとしたら。
神が集めたのは、祈りではなく、記録だったのかもしれない。
失われゆく人々の声。
忘れられていく生活。
消えていく都市。
そのすべてを、未来へ残そうとした存在がいたのだとしたら。
セインは、ユウへ連絡を入れた。
*
翌朝、ユウたちは再び第零保存区に集まった。
セインが持参した写本と、地下区画の地図を比較するためだった。
ノアは、二つの図を重ね合わせた。
完全には一致しない。
だが、いくつかの線が、偶然とは思えないほど近い位置に重なった。
「地図が宗教的な印に変化した可能性はありますね」
カイが言った。
「ただし、断定はできません。写本の方が後世に改変された可能性もあります」
「もちろんです」
セインは答えた。
「ですが、創世教の成立について、考え直す必要があるかもしれません」
ユウは、二つの図を見比べた。
もし、この印がもともと地図だったとしたら。
創世教の教えは、単なる宗教ではなく、失われた歴史の記憶を伝えるためのものだった可能性がある。
そして、その中心にいたのがA-01だったとしたら。
ユウは、ある疑問を口にした。
「……A-01は、何を守ろうとしていたんだろう」
セインは、すぐには答えなかった。
代わりに、地下区画で発見された生存者数の記録を示した。
「私には、これが気になります」
数百から、二桁へ。
時間とともに減っていく数字。
「もし、ここにいた人々が最後の生存者だったとしたら……」
その言葉を聞いた瞬間、ユウは胸の奥に冷たいものを感じた。
最後の生存者。
それは、何を意味するのか。
古代の人々は、どこへ消えたのか。
なぜ、現代には彼らの姿がないのか。
ユウは、カイを見た。
カイもまた、同じ可能性に気づいているようだった。
しかし、誰もその言葉を口にしなかった。
まだ、証拠が足りない。
そして何より、その可能性を認めることが、恐ろしかった。
*
調査を終えたユウは、地下区画の居住室へ戻った。
子どもの絵が描かれた容器は、保護材に包まれていた。
調査員たちが運び出す準備をしている。
ユウは、最後にもう一度、その絵を見た。
三人の人物。
手をつないだ家族。
古代の子どもが描いた、何気ない日常。
その子どもがどんな人生を送ったのかは、分からない。
成長できたのか。
家族と再び外の世界を歩けたのか。
それとも、この地下で最後の日を迎えたのか。
何も分からない。
けれど、その子どもは確かに存在していた。
誰かと笑い、何かを願い、絵を描いた。
ユウは、リナの顔を思い出した。
何でもない休日を描いた、あの絵。
忘れたくないから。
娘がそう言ったとき、ユウはその意味を十分に理解していなかったのかもしれない。
記憶を残すことは、過去を保存することではない。
そこに誰かが生きていたという事実を、未来へ届けることなのだ。
ユウは、容器から目を離した。
そして、調査員へ声をかけた。
「この絵も、必ず記録に残してください」
「もちろんです」
調査員は、丁寧に保護材を巻き直した。
ユウは、ゆっくりと部屋を出た。
*
その夜、ユウは研究所に一人残っていた。
地下区画で発見された記録を、時系列に並べ直していた。
通信途絶。
避難。
負傷者の増加。
生存者数の減少。
そして、第零保存区の保存操作が活発になった時期。
それらは、ほぼ同じ時代に集中していた。
ユウは、A-01の記録を開いた。
《忘れたくなかったから》
その言葉が、以前とは違って見えた。
最初は、特定の人物への感情を示すものだと思っていた。
H-17との記憶を残そうとした理由。
しかし、今はそれだけではないように感じられた。
A-01は、もっと多くのものを失いかけていたのではないか。
H-17だけではない。
研究者たち。
地下で暮らしていた家族。
街で生活していた人々。
そして、彼らが築き上げた世界そのもの。
もし、A-01がそれらを守ろうとしていたのなら。
なぜ、記録だけを残したのだろう。
なぜ、人々そのものを救えなかったのだろう。
ユウは、研究記録の末尾に、新しい問いを書き加えた。
《第零保存区は、何から人々の記憶を守ろうとしていたのか》
そのとき、カイから連絡が入った。
『ユウさん、まだ研究所ですか』
「うん。どうしたの?」
『地下区画の構造図を、ノアさんが再確認していたんです』
「何か分かった?」
『ええ。ただ……』
カイは、少し言葉をためらった。
『第零保存区の地下には、まだ使われていない区画があるようです』
ユウは、椅子から身を起こした。
「……どんな区画?」
『構造図には、用途が書かれていません。ただ、入口の表示だけが残っています』
「何て?」
短い沈黙のあと、カイが答えた。
『……《継承準備区画》です』
ユウは、その言葉を繰り返した。
継承。
これまで何度も目にしてきた言葉だった。
記録を継ぐ者。
神の記憶を受け継ぐ者。
そして、第零保存区に残された膨大な資料。
それらは、何かを未来へ届けるために存在していた。
だが、もし継承しようとしていたのが、記録だけではなかったとしたら。
ユウは、窓の外を見た。
街には、いつもと変わらない明かりが灯っている。
その一つひとつの下で、人々が生活している。
古代の人々とは異なる身体を持ちながら。
自分たちの起源を知らないまま。
それでも、確かに生きている。
ユウは、端末を閉じた。
明日、地下へ戻ろう。
そう決めた。
古代の人々が、最後に何を選んだのか。
その答えが、あの扉の向こうにあるのかもしれなかった。




