第1章 1-12 東船橋防衛線 エンペラー戦
エンペラーの宣告が落ちたあと、広場には凍りつくような沈黙が残っていた。
誰もがその存在の異様さに圧倒され、声すら奪われている。
崩れかけた第一障壁の先に立つ、異様に均整の取れた王。
銀の長髪。
深紅の瞳。
額に輝く額冠。
そして、その手に下げられた漆黒の大剣。
ただそこに立っているだけで、防衛線全体の空気が重く沈んでいた。
だが、その沈黙を破ったのはギルド本部からの通信だった。
「――全冒険者に通達。東船橋ダンジョン及び周辺区域を放棄する。住民ならびに低ランク冒険者の避難を最優先とせよ。抜刀隊は安全マニュアルに従い避難支援へ。スエリ族には遅滞戦闘を要請する」
重い決定が告げられる。
逃げるための戦い――誰もが理解した。
桐生の通信機に、続けざま命令が届く。
「副支部長、避難誘導の指揮を執れ」
桐生は短く息を吐き、銃口をエンペラーへ向け直した。
「……悪いが、私はここを動けない」
次の瞬間、ライフルの側面に刻まれた魔紋が赤く輝く。
内部機構はそのままに、弾倉から圧縮魔力が供給され、実体弾の代わりに光弾を放つ兵装へと変貌していく。
砲身は限界まで魔力を圧縮するため、一度撃てば焼き切れて交換が必要になる――ただ一撃のための仕様だった。
「全力射撃に切り替える。補給班、準備を」
背後で防護服を着た職員たちが頷き、交換用バレルを構えて待機する。
桐生は引き金を絞った。
――閃光。
灼熱の奔流が一直線にエンペラーを貫かんと放たれる。
だが――。
エンペラーが、漆黒の大剣をかざした。
ただ、それだけだった。
振り払うでもなく、受け止めるでもない。
刃がわずかに傾いた瞬間、その前面の空間が歪んだ。
見えない魔力障壁。
灼熱の光条はそこへ衝突した――ように見えた。
だが、止められたのではない。
光は障壁の表面で進路を歪められ、刃の周囲を滑るように流されていく。
圧縮された魔力の奔流が、ねじれ、ほどけ、細かな光粒となって四方へ散った。
貫通力を失った熱だけが周囲へ飛び散り、石床を焦がす。
「逸らされた……!?」
桐生の目が細まる。
光条は消されたわけではなかった。
エンペラーの前面に展開された見えない魔力障壁に進路を歪められ、削られ、散らされている。
圧縮魔力の奔流は、なお本体へ届こうと唸りを上げていた。
だが、押し切れない。
わずかに光を帯びた膜が、漆黒の大剣の周囲で揺らめいていた。
直後、砲身の左側が開き、灼け落ちたバレルが排出される。
待機していた職員が素早く新しいバレルを装着する。
桐生は冷徹に次の弾倉を叩き込み、再びスコープを覗いた。
「何度でも撃つ。……動きを止めるためならば」
エンペラーは微笑んでいた。
人間に酷似しながら、どこまでも怪物じみた冷ややかさを孕んだ笑み。
桐生は再び照準を合わせる。
倒すためではない。
今は、あの王の視線を、ほんの一拍でもこちらへ縛るための射撃だった。
「撃つ!」
二射目の閃光が走る。
灼熱の光条が、再びエンペラーの前面に展開された見えない魔力障壁へ触れる。
障壁の表面で光が歪み、進路を削がれ、火花のように散った。
エンペラーの足が、わずかに止まる。
その一瞬で、スタリーナが動いた。
もはや第一障壁も防壁も、エンペラーを防ぐ盾ではなかった。
何万もの魔物を喰らい、王格へと至った怪物。
それを前にして、人間の築いた防衛線など、時間を稼ぐための残骸でしかない。
だからこそ、ギルド本部は撤退を命じた。
この場に残る者たちの役目は、勝つことではない。
逃げる者たちの背中から、エンペラーの視線を逸らし続けることだった。
投槍を放ち尽くしたスタリーナは、背に負っていた斧槍を引き抜く。
そして、防壁上から迷わず戦場へ飛び降りた。
着地と同時に床石が砕ける。
彼女はそのまま低く駆け、エンペラーとの距離を一気に詰めた。
「シオン、合わせろ!」
「了解だ、母上!」
シオンの身体が、防壁上の影に沈む。
次の瞬間、スタリーナの足元から伸びた影が戦場を走り、エンペラーの背後で揺らいだ。
そこから、シオンの黒刃が迸る。
同時に、スタリーナが正面から斧槍を振り下ろした。
前後から挟み込む一撃。
だがエンペラーは漆黒の大剣をわずかに巡らせ、正面の斧槍をいなしながら、背後の黒刃までも弾き散らした。
火花が散り、シオンの斬撃が霧のように裂ける。
スタリーナが歯を食いしばる。
「硬ぇ……!」
それでも退かない。
彼女は弾かれた斧槍を即座に引き戻し、石床を踏み砕く勢いで踏み込んだ。
横薙ぎ。
突き。
石突きでの打撃。
連続する斧槍の攻めに合わせ、シオンも影の中から黒刃を重ねる。
正面と背後。
上段と足元。
一瞬だけ、エンペラーの魔力障壁が大きく波打った。
漆黒の大剣の周囲に揺らめいていた光膜が、薄く剥がれる。
「今だ!」
桐生のライフルが横合いから閃光を放った。
灼熱の光条がエンペラーの魔力障壁に触れ、表面で激しく歪む。
進路を曲げられながらも、なお押し込む。
あとわずかで届く。
誰もがそう思った瞬間――エンペラーが笑った。
漆黒の大剣が、逆袈裟に振り下ろされる。
スタリーナは必死に受け止めた。
次の瞬間、彼女の瞳が見開かれる。
「……ぐっ!」
防ぎようのない痛みが脳を焼く。
傷口ではない。
もっと深い場所を、刃で直接削られているような感覚だった。
力が、じわじわと奪われていく。
「母上!」
影から飛び出したシオンが叫ぶ。
だが彼自身も掠められ、浅い傷にさえ集中を崩された。
(これは……普通の剣じゃない!)
スタリーナは血に濡れた唇から笑みを零した。
「……これじゃ、まさに昇天命令だ」
撤退も降伏も許されない――ただ命を削り、死力を尽くす戦い。
「撤退も降伏もない……ここで止める!」
シオンも影から姿を現し、赤い瞳を細めた。
二人の声が重なった瞬間、漆黒の大剣が再び唸りを上げる。
スタリーナは正面から斧槍で受け止め、シオンは背後から影の刃を突き込んだ。
だがエンペラーの魔力障壁に阻まれ、刃は浅くしか入らない。
それでも二人は退かず、火花と血飛沫の中で踏みとどまった。
桐生も撃ち続けた。
灼熱の光条がエンペラーを狙う。
だが、またも見えない魔力障壁に触れた瞬間、光は進路を歪められた。
障壁の表面を滑り、ねじれ、減衰し、やがて細かな光粒となって四散する。
砕けた光が雨のように降り注ぎ、戦場全体を照らした。
スタリーナはその光の中で咆哮を上げ、斧槍を突き込む。
シオンは影の縁から短剣を振るい、障壁へ連撃を浴びせた。
だがエンペラーは笑った。
「……なるほど。知恵を持つ者よ。だがその知恵が、血と肉を護るとでも?」
その声音は甘美でありながら残酷。
怪物ではない――理解し、試そうとする知性の化身。
それこそが最大の脅威だった。
桐生は声を張り上げた。
「援護を切らすな! 補給班、即応体制を取れ!」
銃声と咆哮が再び交錯し、エンペラーとの死闘が続いていった。
◇
その頃、地上の死闘を知らぬまま、ダンジョン内部では――。
私――佐伯浩一、そして高坂、橘、三浦、藤堂の五人は、ゴブリンジェネラルを倒した直後の試練の部屋にいた。
部屋の中央には、報奨として現れた宝箱。
そこに収められていた黒鋼の装備を前に、私たちはまだ息を整えきれずにいた。
黒鋼の重鎧。
攻撃魔法の威力を増す短杖。
光魔術を増幅する鎖帷子。
魔力を代償に威力を高める弓。
そして、黒鋼の小剣と軽鎧。
さらに、ここへ来る前に回収していた紅い小剣と紅い軽鎧もある。
かつて全滅した上級冒険者パーティの遺品。
ゴブリンソードマンに奪われていたものだ。
報奨。
そう呼ぶには、あまりにも重い装備だった。
高坂は黒鋼の重鎧を身につけ、これまで使っていた剣槍を握り直す。
橘は紅い軽鎧をまとい、黒鋼の弓を手にした。
三浦は黒鋼の短杖。
藤堂は光魔術を増幅する黒鋼の鎖帷子。
そして私は、黒鋼の軽鎧を身につけた。
腰には紅い小剣と黒鋼の小剣。
二本の刃を収める。
装備を整えた直後、全員の視線が私に集まった。
息をつく時間はない。
だが、伝えなければならないことがある。
「この黒鋼の装備には……もう一段階ある」
三浦が短杖を抱えたまま、顔を上げた。
「もう一段階……?」
「意図して力を引き出せば、使用者のレベルを捧げる。レベルは一に戻る。その代わり、能力は桁違いに跳ね上がる」
空気が凍った。
「魔力を代償にして多少の強化はできる。だが、本質はそこじゃない。この装備の本当の力は――レベルを犠牲にして発動する」
「レベルを、捧げる……?」
三浦の声がかすれた。
藤堂は鎖帷子の胸元を押さえ、小さく震える。
「そんな装備、聞いたこと……」
高坂は重鎧の留め具を強く握った。
「本気ですか、佐伯さん」
「本気だ」
橘が紅い軽鎧の肩当てに触れながら、まっすぐ私を見る。
「どうして、そこまで言い切れるの? 佐伯さんのスキル、普通じゃないよね」
ここまで来て、隠している場合ではなかった。
私は静かに息を吐く。
「《神授スキル/神の義眼》。敵や装備の本質が視える」
沈黙が落ちた。
誰もすぐには言葉を返せない。
その沈黙の中で、澄んだ音が脳内に響いた。
――【神授スキル《神の義眼》がLv2に進化しました】
視界の奥で、白い線がほどける。
ただの輪郭ではない。
魔力の流れ。
空気の歪み。
床石の奥を走る脈動。
ダンジョンそのものが、巨大な生き物のように動いているのが視えた。
「……ダンジョンが動いている」
私は顔を上げた。
全員の表情が強張る。
「スタンピードが強まっている。深層の群れが、出口へ押し出されている。だが、それだけじゃない」
喉が渇いた。
視える。
押し寄せる魔力の流れが、一点へ収束している。
「もし外の結界が破られれば、ダンジョンブレイクが起きる。ダンジョンそのものが現実を侵食する。……そうなれば、街は持たない」
誰かが息を呑んだ。
橘は一拍だけ目を伏せ、それから顔を上げる。
「指揮は私が取る。でも――先導は佐伯さんに任せる。いい?」
「任された」
私は二本の小剣の重みを確かめた。
この部屋に籠もるという選択肢も、一瞬だけ頭をよぎった。
だが、すぐに消える。
ここは避難場所ではない。
ゴブリンジェネラルを送り込んできた時点で、ここはダンジョン側が用意した試練の部屋だ。
次に何が起きるか分からない。
それに、ブレイクが起きれば、隠し部屋に閉じこもっていたところで意味はない。
ダンジョンそのものが現実を侵食する。
壁も、床も、空間の境目さえ信用できなくなる。
ならば、外の状況を確認するしかない。
撤退できるのか。
それとも、別の道を探すべきなのか。
答えは、地上に出なければ分からない。
「行くぞ」
休息は、ここまでだ。
私たちは試練の部屋を出て、地上への出口へ急いだ。
だが――おかしい。
スタンピード中なら、通路にはモンスターが溢れているはずだった。
それなのに、一階の通路には影ひとつない。
足音だけが、やけに大きく響く。
血の匂いすら薄れていた。
「……どういうことだ」
高坂が眉をひそめる。
私の《神の義眼》が答えを返す。
白い線が、通路の奥へ、さらにその先へと伸びていた。
散っていたはずの気配が、すべて同じ方向へ吸い上げられている。
“すべてが喰われ、ひとつの存在に収束している”
そう視えた。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
私たちは足を止めず、地上への出口に到達した。
そして広場を覗いた瞬間、全員の息が止まった。
漆黒の大剣を振るう、異様に均整の取れた王の姿をした異形がいた。
銀の長髪。
深紅の瞳。
額に輝く額冠。
そして、その手に下げられた漆黒の大剣。
ただそこに立っているだけで、戦場の空気を支配している。
私の視界の端で、《神の義眼》がわずかに震えた。
淡い文字が、まだ形を結びきらないまま浮かび上がる。
――エンペラー。
その名だけが、先に意識へ焼きついた。
その怪物に、二人の戦士が食い下がっていた。
ひとりは、長身の女戦士。
背負っていた斧槍を振るい、正面からエンペラーへ踏み込んでいる。
もうひとりは、影を操る若い男だった。
足元の影に沈み、次の瞬間にはエンペラーの背後から黒い刃を放つ。
そして防壁上からは、特殊なライフルを構えた狙撃手が閃光を撃ち込んでいた。
圧縮された魔力の光条が、エンペラーの前面に展開された見えない魔力障壁へ触れた瞬間、進路を歪められ、光の粒となって砕け散る。
だが、それでも足りない。
女戦士の斧槍が弾かれる。
若い男の影の刃が砕かれる。
防壁上の狙撃手が放つ閃光さえ、漆黒の大剣と魔力障壁に逸らされる。
そのすべてを――エンペラーは嘲るように受け流していた。
私の視界に、白い線と淡い文字がはっきりと浮かぶ。
――【ゴブリンエンペラー】
「……エンペラー……」
思わず漏れた私の声に、仲間たちが振り向く。
「佐伯さん、今……?」
藤堂が震える声で問いかけた。
私は静かに頷く。
「間違いない。《神の義眼》が告げている。あれは……ゴブリンエンペラーだ」
三浦の手から短杖が滑り落ちかける。
橘が弓を握り直した。
高坂は剣槍を構えたまま、奥歯を噛みしめる。
戦場に君臨するその存在は、人の貌をした怪物。
数万の魔物を喰らい、ひとつの災厄へと成り上がったもの。
そして《神の義眼》が告げていた。
それは、人類史上二体目の――ゴブリンエンペラーだ、と。




