譚ノ六
「出ておいで? “虚鬼”」
彼女は真っ直ぐと志郎を見ている。
いや、違う。自分ではない、と志郎は感じた。自分よりももっと後ろを、見ているような気がする。
だが自分の背後を振り向く勇気がなくて、呆然と立ちすくむ。
一歩、一歩と紫月が近付き……やがて、志郎を一歩追い越す。
背中にひりつくような視線を感じる。
誰かが……紫月以外の誰かが自分に視線を向けている。
ぎこちない動作で志郎は振り返った。
そこにいたのは……見覚えのある姿。先程追い越した街灯の下に立っている。
いつの間に自分達の後ろを歩いていたのか分からない。
けれど、街灯の下にいるのは……間違いない。
「なん、でや……なんで、こんな所におんねん」
それも、手にはすでに黒く酸化した包丁が握られている。
「なんでなんや……亜季」
「お兄ちゃん、みぃつけた」
短い黒髪が風で揺れる。
少し長めの前髪の隙間から、しっかりと志郎を見つめている。
いつも一緒にいた時と変わらない無邪気な声で。
「ずっとね、探してたの。お兄ちゃんは私の宝物なの。だから……大事に大事に匣に片付けないといけないの」
では今まで殺された被害者達は、彼女が……もしそうなら、一体何のために殺した?
「報道こそされていないけれど最初の四人の男女はね、志郎。キミの産みの両親と彼女の産みの両親だよ」
「え……なん、やって?」
頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を受けた。
顔ももう覚えていない両親。妹分である亜季は、志郎の両親を見たことがないはずだ。
殺されたというのも衝撃が強い。
そもそもどうやって見つけ出したというのだろうか。
「お兄ちゃんの家族はね、“鬼”が教えてくれたんだよ。私の両親がどこにいるのかもね。全部教えてくれたの。あっちにいるって」
ではその後の被害者達は。
「匣を一杯にしようと思うとね、足りないの。後の人はね、皆優しくしてくれたんだよ? 大切にしたかったら匣に片付けようねって“鬼”が言ってくれたの。後は、そこの“鬼喰”とお兄ちゃんだけ。最後にお兄ちゃんを匣に入れたらやっと一杯になるの」
だから、と彼女は包丁をしっかりと握りなおして嗤った。
「私の匣を満たして?」
まずはと亜季は包丁を振り上げて紫月を刺し殺そうとした。
だが、紫月は軽い動作で彼女の包丁を避けた。
「おやおや。可愛らしい女の子には似合わないね。そんな汚れた包丁じゃあ未来の旦那もドン引きだよ」
「な、何余裕こいてんねん! 殺されそうになっとるんやで!?」
「うん。そうだね。キミは下がっていたまえ。何、“鬼”を喰らうだけさ。すぐに終わるよ」
もっと明るい時間だったら。
人や車通りが多ければ。
携帯さえ持っていれば。
自分に止める力があれば。
だが志郎には何も出来ずにどうしていいのか、怖くて突っ立っていることしかできない。
後ろに、下がらなければと思うのに体が一歩も動くことができない。
「避けないでよ。せっかく匣を一杯にしたいのに。ただ満たしたいだけなのに。どうして避けるのよ。最初は優しいのに……皆、皆、みんな……みんなみんなみんな……」
彼女に何が起きているのかも分からないまま、志郎は何とか足を動かして後ずさる。
これが“鬼”の状態ということなのだろうか。
「ほらほら、シロ。もう少し下がってないと、うっかり刺されちゃうよ?」
「ぅ……」
志郎は紫月に言われてようやく、少し後ろに下がった。
「彼女が何故“鬼”になったか、分かるかな? 志郎」
分からない。分かるはずがない。
ただ分かるのは、彼女は―――亜季は今、正気ではないということだ。
「彼女はただ、愛情が欲しかったのさ。それを自分のものにしたかった。ただそれだけだよ。愛情というのは欲深く果てしない。遥か昔から様々な形で“人”の心に棲まう“鬼”の一つさ」
振り回される包丁を、避けながら紫月は腰の帯から抜いた小太刀で受け止める。
予想以上の力。けれども紫月は先程まで怖いくらいの真面目な表情から一転、いつもの飄々とした笑みを浮かべて志郎を振り返る。
「大丈夫だよ。どんな“鬼”の心でもどこかに“人”の心が残ってさえいれば。彼女にはまだ“人”の心が残っている。“人”を狂わす“鬼”を喰らうのが“鬼喰”の仕事だからね」
小太刀で弾き返し、空いている手で手首を捻り上げれば亜季の手から包丁が落ちる。
「っ。どうして、邪魔するのよ。どうして匣に入ってくれないの? 満たされないじゃない」
包丁を弾き飛ばされたままの格好で亜季はぶつぶつと呟く。
月明かりと街灯の灯りで、紫月の小太刀の刀身だけが煌めく。
まさか彼女は殺すつもりなのではないだろうか。そのまま、小太刀を振り上げて。
「殺すんか?」
紫月は何も答えない。
「ただ匣に入れたいだけなのに。大切なモノを大事に、大事に……ただそれだけなんだから邪魔をしないでよ!!」
落ちた包丁を拾い上げて亜季が紫月に襲い掛かる。
これで、これで一つ、埋まる……と亜季は嗤う。
もうすぐだ……この一突きで。そうすれば最後の一人を……血の繋がりはなくとも大切なお兄ちゃんを、匣に入れるだけ。
「危ない!」
志郎は走った。
間に合わないかもしれない。けれど、手だけでも紫月に届けばと。
「大丈夫。心配しないで」
紫月は慌てず、ゆったりとした動作で小太刀を左手に持ち変えると右の掌を上に息を吹きかけた瞬間、彼女の掌から行く匹もの黒い蝶が亜季を目掛けて拭き出した。
「きゃぁ! 何よこれ!」
顔に纏わりつく黒い蝶を亜季は包丁を振り回して遠ざけようとする。
視界を遮られたかと思えばすぐに黒い蝶達が離れ、気が付けば亜季の目の前にいたのは紫月だった。
中性的で整った顔立ちが、すぐ目の前にある。
形の良い唇を三日月に形作り、とても綺麗な笑みを浮かべていて……少しも目が離せなかった。こんなに綺麗な人が、世界にはいるんだと。
「キミが奪った命はもう戻らない。どれだけ恋焦がれ愛を欲しようと。失ってしまえば二度と手に入らない。“人”としてキミはやり直すべきだ。大丈夫。君はまだ若いから。その代わり“鬼”はボクがちゃんと、喰べてあげるよ」
そう彼女に囁かれた瞬間に、亜季は全身から力が抜けていった。
今まで満たされなかった匣が何故か満ちた気がした。何もしてないのに。大切なものはまだ足りないはずなのに。
意識が遠ざかっていく中で、確かに聞こえた。
高すぎず、低すぎない心地よい声が。
「ごちそうさま」
と。




