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M2 信用に 踏み出す一歩 秋の風

日曜日の午前10時、私は駅の噴水の前で待っていた。高校時代の友達、村田瑠璃(むらたるり)と会うためだ。

もっとも、私たちはこの地域の出身ではなく、関東の出身だ。就職先が偶然同じだったことが、ゴールデンウィークの同窓会でわかり、それからは時々2人で会ってお茶したり、映画を見たり、互いの部屋でアニメを見て過ごしたり、仲良くしている。

「あ、美咲、やふぅ〜」

「瑠璃!やふぅ〜」

いえーい、とハイタッチ。このノリは高校時代から変わらない。

「美咲は相変わらず可愛いのぉ。」

「何言ってるの…瑠璃だって…」

「はいはい、お世辞は言わないの。」

お世辞だろうか…165cm後半の長身を活かしたチェックのロングスカートに清潔感のある白のシャツ、足元はローファーできちんと社会人のオトナって感じでまとめている。どう見てもかっこいい。

片や…153cmのちんちくりんに、Tシャツの上にパーカーを羽織り、下はタイトなジーパン、靴はNew Balanceのスニーカー…この地域の大学生の方がおしゃれじゃないかな?

外から見てどちらがオシャレかは明白であった。

「素材がいいのよ。美咲は。それでさらに今でもランニングして女磨いてるんでしょ。かーっ、意識が違う!」

「別に、女磨こうとしてるわけじゃ…特に何かやりたいことがなかっただけで…」

「だからって、それを目的なく4カ月以上続けるぅ?あたしにゃ無理だ。私は目標がなくても、日々楽しけりゃ問題ない。平日は仕事して、仕事終わればゲームとマンガ、休みの日は買い物したりお茶したり、イベント行ったりして過ごす。それで構わんではないか!我々若い女子は、日本の経済を消費によって健全に回しているのだよ!」

高らかに言う。ただ、瑠璃はそう言いながら、この地域で治安を守る警察官だ。普段の働き方の重さが私とは比べものにならない。

「だからさ、そんな卑下することないよ。今やってることを誇って、今を楽しく生きよう!乙女よ!」

駅前の喫茶店に入る。瑠璃子はこう見えて当直明けで疲れているはずなのに、なんでこんなにテンション高いんだ…

店員を呼び、オーダーする。

「私コーヒーと苺タルトで。美咲は?」

「私はダージリンティーとシフォンケーキをお願いします。」

「かしこまりました。」と店員が下がっていく。瑠璃が水を飲みながら私に乗り出してくる。

「で、最近はどうよ。なんか変わったことあった?」

「え、変わったことって…特には…あ、先週月曜日にまた奇行の彼現れた。」

「あぁ、あのランニングしながら宇宙人と交信して変なお経唱えてるっていう?まじまじ?襲ってきたなら連絡くれれば駆けつけるよ。」

「なんか話盛られてるし、瑠璃が駆けつけたら洒落にならないよ!…その…奇行の彼と話しした。」

「は?マジ?ナンパ?こわっ…ランニングコース変えたら?」

「違うの!聞いて!」

話そうとしたところで注文したものが届いた。私は飲み物を飲みながら話をする。

月曜日、ランニング後にストレッチをしながら私がが口ずさむ歌を、彼も一緒に歌い、笑い合い、少し話して終わり…話してみれば些細な…

「え?全然些細じゃないよ。それ。小説とかだと普通に物語冒頭のボーイミーツガールだけど…しかも、使い古されたギャルゲのネタみたいな。」

「ギャルゲしたことないでしょ。」

「うん。ないけど。」くすりと瑠璃が笑う「でもねぇ、相手が奇行の彼じゃねぇ。」

「でも…悪い人じゃなさそうだったよ。いつも笑顔で挨拶してくれるし。」

「それだけで善人と断定はできないけど。まぁ、本音言うと、話聞いてたときから一般市民の、しかも善人の方の類いだとは思ってたけど…急に話しかけられたりしたんじゃないんでしょ?美咲の歌ってたのが、自分の好きなアーティストのマイナー曲だったから、歌いたくなったとか、そんなとこよ。まぁ、美咲可愛いから、話しかけたかったのはホントかもしれないけど。」

からかうように笑い、瑠璃はコーヒーを一口飲んでから、進める。

「あと、奇行も、変なことではないよ。きっと。多分なんか伝統系の何かか、武術かな…やってる人なんじゃない?その手の基本の形って、外から見ると奇行にしか見えないし。」

そういえば、瑠璃は逮捕術の訓練を受けているのだった。なんとなく、わかる部分があるのだろう。武術…なんかかっこいい。

「武術か…空手とか、柔道とか?」

「それなら多分見たらわかるでしょ。もっと馴染みのないやつ。まぁ、外でもやるってことは、外面気にしないけど真面目な人なんでしょ。えぇ、気になるならまた話してみたら?」

「うん…私から行く勇気はないけど。」

「なら、その話はそれで終わりってことよ。」

「そうか…」

「話したいなら話してみて、ヤバいなって思ったら逃げる。それでもヤバかったら、私に相談しなさい。」

「その相談って…」

「法の裁きにかけてあげるわ。」

「そうならないよう、善処します。」

「ちなみに、イケメン?」

「ん〜、真面目熱血漢って感じ。笑顔が爽やかって印象かな?あと、背は瑠璃と同じぐらい?」

「じゃあパス。私180cm超えてないと男として認めてない。」

「過激派…」


ケーキも飲み物もなくなったため、喫茶店から出て、買い物に行こうと駅ビルに向かう。

「それにしても、ランニングよく続いてるよね。まぁ、美咲は部活好きだったし。」

「反復練習が好きだっただけだよ。技術は上がらなかったし。」

私たちはバレーボール部に所属しており、私がセッターで、瑠璃はアウトサイドヒッターだった。私は、練習は好きだったが、いざ試合となると緊張でテンパり、コミュニケーションがうまく取れずにミスが多かった。それで、最後の大会も地区予選敗退だった。

それでも、高校時代は楽しかったなと思う。毎日みんなで集まって練習して、辛かったけど仲間で頑張って、助け合って…それが当たり前だと思ってた…高校までは。

「でも、美咲の一生懸命さはみんなわかってた。今はいい思い出。それでいいのよ。」

そう、高校のことはそれでいい。じゃぁ、今は?

「とりあえず、買い物しよう!美咲の服、選んじゃうぞぉ!」

「ええ!?今日ってそういう日なの!?」

そうして、日曜日の午後は、買い物好きの友人に着せ替え人形にされて過ぎるのだった。


月曜日、仕事を終えて、いつもの公園に向かう。

9月も下旬に入ったのに、まだ残暑がある。走っていると体力がどんどん削られていく。


疲れた身体で昨日の瑠璃との会話を思い返す。「まぁ、美咲は部活好きだったし。」…そう、私は部活が好きだった。技術は上がらなくても、運動そのものは好きで、練習は一生懸命やっていた。

受験も順調で、志望の東京の私立大学に入れる成績があった。

だが、その年、2019年12月、世の中に暗雲が立ち込める。

新型コロナウイルス感染症の流行が…始まった。

最初は、いつものインフルエンザの流行みたいなものだろうと思った。ただ、第一志望の合格が決まる頃、状況がかわり始める。

連日流れるパンデミックのニュース、友達との関わりもなくなり、そして、高校の卒業式と大学の入学式が中止になった。

描いていた大学生活は全て崩れてなくなり、家でオンライン授業を受けるだけの日々になった。

臆病な性格もあり、サークルもきちんと見て決めたいなぁとか思っていたり、バイトも家族の間で感染したら良くないということでやらないことにし…そうこうしているうちに…

コロナ禍が終わった2023年5月には、もう大学4年生。就活と卒論で、大学生活を謳歌する余裕などなかった。

世の中の流れから「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」なんて聞かれず、真面目に勉強してたことも幸いし、就職は地元から離れた地方都市の事務職に決まったが、学生時代の私には、本当に何も残らなかった。


後ろから、誰か走ってくる気配がして我に返る。振り返ると、奇行の彼だ。

「あ、どうも。お疲れ様です。」

私と並んだ彼はペースを落とし、イヤホンを外して話しかけてきた。話しかけられちゃった…まぁ、同じポルノファンで、あれで終わりにするのもなんとなく惜しかったし、何かあれば…瑠璃に相談しよう。

そうして並走が始まる。

「お疲れ様です。」

私もイヤホンを外し、ケースにしまった。

「何を聞いてたんですか?」

「あ、ええと…Rainbowです。」

「あぁ、走るときに聞くとテンション上がりますね。」

「はい、一応、走る用のプレイリスト作ってます。Mugenとか、キング&クイーンとか。」

「その中にメジャーも?」

「はい、一番好きな曲なので、ええと…あなたも、ポルノを?」

「ええ、大好きです。ギフト、ワンモアタイムが好きですね。まぁ、ラバッパーではないですけど。」

「その言葉が出るってことは、相当好きな部類ですよ。」

「ですね。個人的には、去年出たDispatcherのアルバムも良かったです。配信ライブの映像も同封されてて。」

「あぁ、あのアルバム、まだ買えてないんです。配信ライブも、大学のときにバイトもできなかったから、見られなくって…」

「そうですか…いいライブだったから、ファンなら見て欲しいですね。…よければお貸ししましょうか?」

「いいえ、悪いです。あって日の浅い方にそんな…」

「そうですか。じゃあ、気が向いたときにお声がけいただければ。」

そんなこんなでいつもの広場に着いた。アプリの測定を切る。

「あ、ごめんなさい。ペース測ってたんですね。乱しちゃった?」

「いいえ、大丈夫です。それに、引っ張ってもらって、いつもよりペース良かったぐらいです。」

2人でクールダウンをして、ストレッチをする。ただ、いつもの奇行を始める様子はない。

「…いつもの、やらないんですか?」

「いつもの?…あぁ、あれですか。一人と分かってでやる分には良いんですけど、話してる相手がいる前だとちょっと恥ずかしくて…変な動きでしょ?職場でも、たまにやってると変な目で見られます。」

変な自覚はあったのか。それでもやるくらい、必要なことなんだろう。

「ちなみに…何の動きなんですか?ミュージックアワーじゃないし。」

「ははは…絡めてきますね。変な踊りではないです。合気道を…やってるんですよ。基本運動って言って、基本となる動きの形です。」

あぁ、本当に武道だ。瑠璃、大正解だな。合気道…合気道?って…

「どんな…武道?ですか?」

聞くと、彼は考え込む。困る質問だっただろうか?

「どんな…と言われると、説明が難しいな。よく、相手の力を使って投げる、とか、護身術とか言われますけど…」

彼は言葉を探すようにつぶやいたあと、そうだな…と口を開く。

「体をうまく使って、相手を投げたり固めたりしましょう。って武道かな?」

余計に分かりにくくなった。

「例えば…」彼はタオルで手首の汗を拭き取る。

「手首を握ってみてください。差し支えがなければ。」

私は恐る恐る彼の手首を掴む。汗は拭いてくれたため、乾いている。男の人の、太い腕だ。

「これ、このままだと、相手のて、振りほどこうとしてもなかなか外れませんよね。それを、相手の握る手すき間、ここです。ここに私の首が横になるようにして、腕をおなかにつけたまま、腰をこう、ひねると」

彼の腕が、私の手からスルリも外れた。

抵抗はなかった。痛みもない。ただ、彼の腕が私の手の間から抜けた。単純な筋力の差というわけでもないらしい。

「と、こんな感じのことをしてます。」

「え?なんで?ちゃんと持ってたのに…」

「「手ほどき」って言います。あ、教えるって意味じゃなくて、相手の手をほどくから「手ほどき」。まぁ、これは遊びみたいなものです。女性でも、簡単にできますよ。やってみます?」

頷くと、彼は私の右手首を左手で握る。硬くて厚い、大きな手だ。簡単には外れそうにない。彼は手の角度や体の使い方を私に教えていく。つかまれた手を下に向けて、自分に引き寄せ、腰をひねると、彼の手がスルッと外れる。手加減はしたんだろうけど、思ったより簡単にできた。

「できました!やってみるとちゃんと理にかなってるんですね。」

「そうなんです。これを突き詰めるのが面白いですよ。」

「これが、いつもの動きと関係が?」

「ああ…それはこの手の形が…」

そうやって、話をする彼は楽しそうだ。ポルノグラフィティの話をしているときと同じテンションだ。相当熱中しているんだろう。

「お好きなんですね。合気道。」

「そうですね。高校生の頃からやってて、大学でも続けて、一度ブランクはあったんですけど、2年前くらいに再開したんです。生涯続けられることですし、目標はあるけどゴールはないのでとても面白いです。」

「生涯…ですか…それに、ゴール、ないんですか?」

「はい、試合とか、優劣つける大会があるわけではないので、自分がどこまで極めたいかって感じですね。だから、一生続けられると思ってます。あ、でも、昇給昇段審査とか、演武会とかはあるので、それはいい目標になります。」

あぁ、この人は、ちゃんと熱中できることがあるんだ。羨ましい。

「じゃあ、段位とかも…」

「はい、二段を持ってます。今度の12月に三段審査を受けることになってて、自分はその体力づくりのためにランニング始めたんです。」

「いいですね。そんなに熱中できることがあるのって。」

つい、声が暗くなってしまった。でも、彼は気にした様子はない。

「あなただって、毎週お会いしますし、ペースだってそこそこ速かったたですから、長く続けられてるんでしょう?マラソンとか、されるんですか?」

「いいえ、特にやることがなくて、ただ目的もなく走ってるだけです。マラソンも、出てみるのもいいけど、一緒にやる人もいませんし、そこまでのモチベーションにはなれないんです。だから…」

言葉を切り、目を伏せて言う。

「夢中になれるものがあるのは…羨ましいです…すごく…」

言葉にして後悔した。会って日の浅い人に何を言っているんだろうか。こんなの、彼にとっては困るだけだ。

彼はふと、困ったように首を搔く。次の言葉を迷ってる様子だ。

申し訳ないがここで帰ろう。これ以上困らせるのも悪い。そう思って立ち上がろうとするが、彼から出たのは思いとよらない言葉だった。


「じゃあ、やってみませんか?合気道。」


さぁぁぁっ…と、風の音が聞こえた、気がした。


「え…?」

「いやぁ、今なにか取り立ててやっていることがないなら、どうかなと思って。いえ、無理強いはしません。でも…何でもいいから、何か挑戦したいと思うなら、是非。ちょうど、今週末から初心者向けの体験教室がありますので、ちょうどいい機会ですし。興味がございましたら。」

そう言って、スマートフォンを操作し、画面をこちらに差し出す。電話番号が表示されている。

「これ、自分の連絡先です。会ったばかりの人物から、こんな誘いを受けるのは、怪しいと思われるかもしれませんので、あなたの連絡先は聞きません。気が向きましたら、ご連絡ください。あ、別に、今週じゃなきゃいけないとかではないです。体験は何時でも受け付けてますので。」

下総浩一…それが彼の名前のようだ。

「あの…私があなたの連絡先を悪用することだってあるかもしれませんけど…」

「ん?あぁ…」今思いついたように答える。「そうですね、でも…私が合気道をやってるのを羨ましいと言って、気持ちを明かしてくれた人を、信用してみたくなったんです。」

笑顔で答えた。そうか…この人は…

「お人好しですね。」

「そうですかね?」

照れたように笑う。それに私も応えることにした。

「高田美咲です。よろしくお願いします。」

「あ、下総浩一(しもうさこういち)です。こちらこそ、よろしくお願いします。」


「さて、そろそろ帰りましょう。」

「そうですね。暗くなっちゃいました。あの…お話聞いてくださり、ありがとうございました。あと、合気道も、紹介してくださって。その…即答できなくて申し訳ありません。」

「いいえ、お気になさらず。…気軽に考えてください。」

私は一度家に持ち帰って考えることにした。それについて、特に嫌な顔もせずに許してくれる。

「暗いですので、お気をつけて。」

「はい、ありがとうございます。」

私は、礼を言い、帰路についた。

何か新しいことを…そう思っていて、それが急に飛び込んできた。そんな状況に、何か夢見心地な気分になっていた。


あれから、2日が経ってしまった…

火曜日から水曜日、朝、スマートフォンを見て、閉じる。昼、ご飯を食べてスマートフォンを見て、閉じる。夜、家に帰り、スマートフォンを見て、寝転がり、アニメの世界に逃げる。

そんなことを繰り返して、下総さんに返事はまだできていない。踏み出してもいいのか…失敗しないか…それが怖くて返事をできずにいる。

もう、失敗しないために断ってしまうか…それでもいい。でも、下総さんに悪い気がして、返事をできない。

今日は他にやることを終え、あとは寝るだけ。ぼーっと動画配信サービスでアニメを見ている。やらなくてはならないことがあるのに、それを後回しにして…

瑠璃に勧められた、ゲーム原作の子供向け冒険アニメシリーズの10年くらい前のタイトル。なんでも、「過去最高の作画、予想できないストーリーとバトル展開、各キャラクターの設定の深さ、そして主人公のイケメンっぷりが最高なのよ!」とのこと。

シリーズも終盤差し掛かり、物語はそれぞれのキャラクターが自分たちの進む先を決めようかという段階に来ている。

ただ、私はこのヒロインがあまり好きではない。特に序盤は、厳しい訓練から逃げ出して、自分で旅に出ることを決めたくせに、何をやりたいかを決められないとクヨクヨする。主人公に助けられながらも、それを頼りにして、精神的に頼っているシーンが多く感じる。

…そう、まさに今の自分なのだ。なんだか、同族嫌悪で悲しくなる。自分が怒られてるみたい。私もこの主人公みたいに…彼みたいに、キラキラした目標のある冒険をしたい。

物語が進むにつれ、目標を見つけて挑戦する姿が見られ、周りからも評価を得られるようになるが…ほら、今回だって、せっかく年長者が進むべき道を示したのに、自分で決められずに迷っている。あぁ、嫌になる。迷わないで自分で決めなさいよ。もぅ…もぅ…

主人公とヒロインが、夜空の下で会話をしている。ヒロインが、主人公に問いかける。「あなたは迷わないんだろうな…」そう、この主人公は迷わない、熱中できることがある。だから…

「俺だって、迷うことくらいあるさ。」

…………え?

「迷ってる時間があるならまず動いてみる。それで失敗したって、何かは残る。無駄なことなんて何もないさ。」

「あなたらしいね…」

心に、響いた…

あ、あぁ、もぅ、泣きそうだ。

そうなのだ。動かないと、ダメなのだ。何も、始まらない。失敗しても、今の私になくすものは何もない。ただ、会ったばかりのまだ他人みたいな人からの信頼を、失うくらい。

いや、彼だって、なんて言った?思い出してみる…

「無理強いはしない。何か挑戦したいと思うなら、是非。気持ちを明かしてくれたあなたを信頼する」

彼は、私の失敗を責める人か?よく知らない女に連絡先を明かすぐらいに信頼してくれたのに?

違う!彼を信じてないのは、私だ。下総さんはこんな私を信頼してくれている。今、ダメなのは私で、彼の信頼を今まさに裏切っているのも、私だ。

あの人の信頼を、私は無碍にしてはいけない。何もない私に、挑戦するチャンスをくれたあの人の信頼を。

そんな…子供向けアニメで伝えられるくらい…簡単なことが…わからなかったのか!情けない!本当に情けない!


私は、スマートフォンを出す。テレビではヒロインの歌うアップテンポなエンディングテーマが流れるが、そんなのお構いなしだ。

登録した連絡先「下総 浩一」を開く。

ショートメッセージを開き、文章を打つ。

「下総様、お疲れ様です。高田美咲です。ご連絡が遅れて申し訳ありません。先日お話いただいた、合気道の体験教室の件、ご迷惑でなければ参加させていただきたいです。練習場所や時間、服装や持ち物を教えていただけると幸いです。お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願いします。」

実は怪しい人では…そんなことない!信じるって決めただろ!

私が言っても迷惑では…いいんだ!初心者はみんな同じだ!

さぁ、押せ…送信ボタンを…明日でも…駄目だ!今だ!私は、挑戦するんだ!迷ってる暇があるなら!

動け!

さぁ、飛べ!紙飛行機!彼の下へ!

…………………………………………送信、完了。


下総さんからはすぐに返信が来た。

「高田様、お疲れ様です。下総浩一です。ご連絡いただき、ありがとうございます。体験教室にご参加いただける件、承知いたしました。当日は10時からの稽古です。場所は位置情報をお送りいたします。水分補給用の水分と、動きやすい格好を着替えとしてお持ちください(正座をしますので長ズボンがございましたらそちらが良いと思います)。女性指導員もおりますので、ご安心ください。当日、楽しみにしております。お仕事、頑張ってください。おやすみなさい。」

気遣いの効いた丁寧な文面…

その後、写真が送られてきた。「秋の合気道体験教室!」と書かれた、イラスト付きの可愛いプリント。たぶん、道場の案内だろう。

承知とお礼のメッセージを送る。ふぅ、と息をついた。

「あぁぁぁ…疲れた…」

張り詰めていた緊張の糸がばらりと緩んだ。もぅ、どうにでもなれ。そんな気持ちだ。

でも…私はLINEを開き、瑠璃にメッセージを打つ。

「瑠璃が勧めてくれたアニメ、すごく良かった。私、動いてみる。失敗しても何かは残るらしいから。何も残らなかったら、慰めて。」

仕事中なのだろう。既読はつかない。

今日は寝よう。疲れた。

ベッドで目をつむると、タスクを果たした安心感と、この先の不安が入り混じって複雑な感情が渦巻く。でも、先ほどまでの焦りや負い目の感情とは雲泥の差だ。

これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、私とっては偉大な飛躍である。少しだけでも前に進んだのだ。まだあのヒロインみたいに、結果を残したわけじゃないけど、それでも…進めた。あとは…とりあえず、やってみよう。楽しかったら続ければいい。ダメそうだったら下総さんに誠心誠意謝ろう。

でも、あんなにキラキラした顔の彼が、私にも是非とも勧めてくれたものだ。きっと面白い。私も、彼を信じようと思う。

少しだけでもポジティブを膨らませて、私は眠りに落ちていったのだった。


朝、アラームの前にスッキリと目覚められた。

スマートフォンを見ると、瑠璃からメッセージが来ていた。

「内容はわからんが、なんか決断したんだね。おめでとう。何かあったら私の胸で良ければ飛び込んでおいで。

やっぱり、ジャリボーイ最高だっただろ?」

ジャリボーイはアニメの話か。そのセリフになぞらえて送った私の文面で、察したようだ。

私は、「ガツンときたぜ!」とセリフのついたスタンプを送り、朝の準備を始めるのだった。




次回、11月6日(金)更新予定です。

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