最終話 サルベージ
ノートパソコンの画面に、古い写真が表示されていた。
春樹と、真尋と、美咲。
十四歳の夏。
講習会の最終日に撮った写真だった。
画質は荒い。
今のスマートフォンで撮る写真とは比べものにならないくらい、全体がぼんやりしている。
それでも、三人とも笑っていた。
画面の中の自分は、少しぎこちなく立っている。
その隣で、真尋が明るく笑っている。
美咲は、二人の間で柔らかく微笑んでいた。
こんな写真が残っていたことすら、忘れていた。
春樹はしばらく、画面を見つめたまま動けなかった。
ガラケーから抜いたSDカードを、持ってきていたノートパソコンに差しただけだった。
ただ、昔の写真が少し出てくるかもしれない。
それくらいのつもりだった。
なのに、気づけば春樹は、二十年近く前の春に戻っていた。
◇
あのあと、真尋とは会わなかった。
高校二年の五月。
サッカー部の新人戦の会場で、フェンス越しに話したのが最後だった。
『じゃあ、またね』
真尋は笑っていた。
その笑顔に、春樹は確かに安心していた。
『おう。またそのうちな』
そう返した。
あの時は、本当にそう思っていた。
また、そのうち会える。
また、そのうち電話する。
また、そのうちメールすればいい。
けれど、その“そのうち”は来なかった。
連絡は、少しずつ減っていった。
最初は、三日空いた。
次は、一週間空いた。
部活が忙しいんだろう。
テスト前だしな。
こっちも新聞部で遅いし。
そんな理由はいくらでもあった。
春樹は、何度か携帯を開いた。
真尋の名前を見つけて、メールを作りかけたこともある。
けれど、何を書けばいいのかわからなかった。
今さら急に送ったら変かもしれない。
向こうも忙しいだろう。
また時間ができたらでいい。
そう思って、閉じた。
何度も。
何度も。
そのうち、真尋からのメールも来なくなった。
別れよう、と言われたわけではない。
別れよう、と言ったわけでもない。
喧嘩をしたわけじゃない。
誰かを嫌いになったわけでもない。
ただ、次の約束をしなかった。
ただ、連絡をしなかった。
それだけで、あの恋は終わってしまった。
◇
春樹は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「あー……」
声にならない声が、部屋に落ちる。
今なら、わかる。
多分、真尋は待ってくれていた。
あの子は、待ってくれる子だった。
寂しくても、強く責めたりしなかった。
会いたいと言う時も、冗談みたいに笑っていた。
寂しいと言う代わりに、走って会いに来るような子だった。
それを春樹は、どこかで当たり前みたいに受け取っていた。
待ってくれること。
笑って流してくれること。
こっちが何も言わなくても、ちゃんと好きでいてくれること。
真尋がそうしてくれたから成り立っていただけなのに、春樹はそれを恋愛の形だと思っていたのかもしれない。
「そのうち」
「また今度」
「落ち着いたら」
「いつか」
気づけば、そんな言葉ばかり使うようになっていた。
そのあとに付き合った人たちのことを思い出す。
大学の頃。
社会人になってから。
何度か、恋人と呼べる人はいた。
けれど長く続かなかった。
相手が悪かったわけではない。
多分、春樹が同じことをしていた。
連絡をあとに回して。
会う約束を先延ばしにして。
大事な話を、落ち着いたらで済ませて。
相手が離れていく頃になって、ようやく気づく。
けれど、その時にはもう遅い。
そのうち、恋愛は無理にしなくてもいいものになった。
仕事がある。
生活がある。
今は今で、別に困っていない。
家庭だとか、結婚だとか。
そういうことは、そのうち考えればいい。
そうやって、気づけば今になっていた。
「……ひどいな」
春樹は小さく呟いた。
真尋にだけじゃない。
多分、今まで付き合った人たちにも。
ずっと同じことをしてきた。
悪気がなかったから、余計にたちが悪い。
春樹はノートパソコンの画面を見る。
十四歳の自分は、何も知らない顔で笑っていた。
◇
しばらくして、春樹は椅子から立ち上がった。
ふと、思い出したことがあった。
真尋にもらったCD。
まだ、どこかにあったはずだ。
CDは大学へ進学する時、ほとんどは置いていった。
社会人になってからも、実家の自分の部屋をきちんと整理したことはない。
母親が片付けた箱の中をさらにあさると、古いCDケースが何枚か入っていた。
背表紙は色褪せていて、どれも少し懐かしい。
当時好きだったバンド。
友達に借りて、そのまま返しそびれたようなアルバム。
姉の影響で聴いていたアイドルのベスト盤。
その中に、見覚えのある一枚があった。
「あ……これだ」
ジャケットには、ヘッドホンをつけた白い猫のようなキャラクターが描かれていた。
背景は銀色で、ところどころにピンクのインクが飛び散っている。
アルバムタイトルは英字で崩した字体になっていて、ぱっと見ただけでは読みにくい。
母が「変なCD」と言ったのも、少しだけわかる気がした。
春樹はケースを手に取り、そっと開く。
中には、歌詞カードと当時の帯が入っていた。
クリスマスの日を思い出す。
イルミネーションの見える広場のベンチ。
寒そうに手をこすりながら、真尋がこのCDを差し出した。
『なんか春樹、こういうの好きそうだなーって思って』
そう言って、照れくさそうに笑っていた。
『あと普通に、今いちばん好きなアルバムだから聴いてほしかった』
あの時は、その言葉がただ嬉しかった。
真尋が好きなものを、自分にも聴いてほしいと言ってくれた。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
春樹は歌詞カードを開き、曲名を目で追う。
聞き覚えのあるタイトルが並んでいる。
CMで流れていた曲。
ドラマか映画の主題歌だった曲。
教室でクラスメイトが歌っていた曲。
そして、あるタイトルで視線が止まる。
『春恋サルベージ』
春樹は、しばらくその文字を見つめていた。
こんなタイトルだったのか。
何度も聴いた曲だった。
真尋が歌っていた曲だった。
美咲の携帯からも流れていた曲だった。
あの頃の春に、ずっと近くにあった曲だった。
けれど、今初めて意味がわかったような気がした。
春に沈んだ恋を、拾い上げる。
忘れたわけじゃない。
捨てたわけでもない。
ただ、深いところへ沈んでしまった気持ちを、もう一度引き上げる。
そんな言葉が、歌詞カードの中に並んでいた。
春樹は歌詞を目で追いながら、昔の自分を思い出す。
真尋からのメールを待っていたこと。
電話の着信音に胸が跳ねたこと。
会える日が近づくたびに、何度も携帯を開いたこと。
手をつなぐだけで、どうしようもなく嬉しかったこと。
あの恋は、もう戻らない。
真尋に連絡することもできない。
仮に連絡先を知っていたとしても、多分しない。
あの頃に恋をしていたのは、あの頃の真尋で。
あの頃の春樹だった。
劇的な再会なんてない。
相手が自分を思い出すことも多分ない。
どこかで偶然会えたとしても、言えることは一つくらいだ。
あの時は、ごめん。
それだけだと思う。
それでもあの時、確かに自分は恋をしていた。
誰かを好きになることに、ちゃんと夢中だった。
あの感情まで、なかったことにしなくていい。
沈んだままにしなくていい。
春樹は歌詞カードを閉じた。
◇
机の上には、古いガラケーが置かれている。
銀色の折りたたみ式。
そこには、真尋とおそろいだったストラップがまだついていた。
あのあと、機種変更はした。
けれど、ストラップを新しい携帯へ付け替えた記憶はない。
そのうち付け替えよう。
多分、そう思った。
そして、そのまま忘れた。
春樹はストラップを指先でつまむ。
小さなキャラクターは、色が少し褪せていた。
あの時、真尋は新しい携帯に同じストラップをつけていた。
それを見て、春樹は「いいな」と言った。
春樹も早く機種変しなよー。
そのうちな。
そんな会話をした。
真尋は笑っていた。
でも、一拍置いてから笑っていた。
その一拍の意味を、今さら考えてしまう。
春樹はストラップから手を離した。
そして、今使っているスマートフォンを手に取る。
三日前に届いたメッセージが残っていた。
『また予定合う日教えてくださいね!』
仕事で知り合った年下の女性からだった。
打ち上げの帰りに、何度かやり取りをした。
感じのいい子だった。
話していると、妙に落ち着いた。
少しだけ、また会ってみたいと思っていた。
けれど返事はしていなかった。
実家に帰る準備があったから。
妹の結婚式があるから。
落ち着いてからでいいと思っていた。
そのうちでいいと思っていた。
春樹は苦笑する。
「……ほんと、変わんねぇな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
それから、メッセージ欄を開く。
少し考えて、文字を打つ。
『返事遅れてすみません。
地元から戻ったら、ぜひ食事行きましょう。
来週、空いている日ありますか?』
打ち終えて、画面を見つめた。
たったそれだけの文面なのに、指が止まりそうになる。
またあとでいい。
もう少し落ち着いてからでいい。
そんな言葉が、どこかから浮かび上がってくる。
でも、春樹は送信ボタンを押した。
画面に、送信済みの文字が表示される。
その瞬間、胸の奥で何かが少しだけ動いた気がした。
夜風がカーテンを揺らしている。
机の上には、古いガラケーと、真尋にもらったCD。
高校二年の春に沈んだ恋は、もう戻らない。
でもあの頃の自分が知っていた、誰かを好きになる気持ちなら。
まだ、引き上げられる気がした。




