枝を折る朝
朝のヴェルンは、少しうるさかった。昨日までの息をひそめる静けさが嘘みたいに、まだ淡い空の下で鎧の鳴る音と人の声が重なっている。そんな中、階下からヴァルターが呼んだ。
「起きてるか」
「起きてます」
返事をした瞬間、隣のベッドでリヴも身を起こして眉を寄せた。
「……体、重い」
「そりゃそうだろ。昨日はあんだけ無茶した」
それでも昨夜より顔色はいい。胸元を押さえる癖は残っているが、目はまだ折れていなかった。
階段を降りると、店の中はもう朝の戦場だった。パンの山に、大鍋のスープ。出発を待つ冒険者がテーブルを埋め、椅子の軋みと笑い声が、湯気の匂いに混ざって跳ねている。
「おう」
カウンターの中でヴァルターが振り向いた。腕まくりのままパンを切り、皿を投げるみたいな勢いで並べていく。
「座れ。今出す」
「今日、そんなに人が出るんですか」
俺が聞くと、ヴァルターは鼻を鳴らし、滑らせるように皿をよこした。固めのパンと具の多いスープが、どんと俺の前に収まる。
「黒い枝を折れって報せを出した。畑の隅、川沿い、森の縁……次に獣が生まれねぇように、向こうを消耗させろ、とな」
言い終えるより先に、もう次の皿が飛ぶ。
「だから今日からは枝狩りだ」
枝狩り。軽い言い方のくせに、胸の奥に残る昨日の重さが反応した。あれは一度勝っただけで終わる相手じゃない――その代償が、今朝のざわつきになっている。
「各パーティに範囲割り振って、見つけた枝はすぐ折る。深追いはしない。無理だと思ったら引く。……そういう日だ」
「消耗戦ですね。時間を稼ぐ感じで」
俺がそう返すと、ヴァルターは肩をすくめた。
「向こうの魔素集めを邪魔して、少しでも時間を稼ぐ。こっちに意識を向けさせる。今できるのはそれだ」
そこで一拍、目が俺に刺さる。
「その間に、お前たちは“元凶側”を見てこい」
「はい。行きます」
返事に合わせて、リヴも小さく頷いた。
「……枝を折るだけじゃ、終わらないのは分かってるから」
ヴァルターはそれ以上言わず、代わりにパンをもう一切れ追加して寄こした。
「食え。腹が減ってると、ろくな決意も出来ねぇ」
「分かりました。ちゃんと詰め込みます」
パンを噛みながら店内を見渡す。昨夜、酒場で見かけた顔もいるし、見なかった顔もいる。いつもなら適当に依頼を取っていた連中が、今日は皆、同じ温度の目をしていた。
怖い。だけど、怖いまま立っている目だ。
カウンターの端でラナが忙しなく動いていた。パンを配り、スープをよそい、時々こっちを確認するようにちらっと見る。目が合うと、ぱっと笑った。
「ナオキさん、リヴさん! ちゃんと起きた!」
「起きたよ。ラナも早いな」
リヴも笑い返してから、ラナの手元を見た。
「……ラナは?」
「私は街まわり担当! ミーナさんと一緒に、『枝が出たときの動き方』を広める係!」
胸を張る声は、昨日より一段高いのに、目だけはやけに真剣だった。
「だから、ナオキさんたちは、ちゃんと向こうのほう見てきて。こっちは任せて」
「任せる。無理はするなよ」
素直に言うと、ラナは満足そうに頷いた。
「じゃあ、戻ってきたときの“二回目の缶詰”の準備もしとくね!」
「太るなぁ」
「いいの! 生きて帰ってくる前提の悩みだから!」
その言い方が、胸の奥を少しだけほどいた。
朝食を終えて身支度を整え、ギルド前へ出る。広場にはもう人が溢れ、剣士も槍使いも弓持ちも、ローブ姿の魔法使いも、装備を担いだ肩をぶつけ合っていた。顔はしかめているのに口はよく動く。
「おい、昨日あそこに枝出たって聞いたぞ」
「こっちの組には、ギルドの新人も付いてくるらしい」
「死ぬなよ新人」
「そっちこそ」
冗談半分、本気半分。その上を割って、ギルドマスターの声が落ちた。
「隊ごとに並べー!」
いつものカウンターの奥より、二倍響く。煙草も酒も持っていない両手で、街の真ん中を押さえ込むみたいな声だった。
「いいか!」
静かになった広場を、声が撫でていく。
「今日は“世界を救う日”じゃねぇ!」
一瞬、ざわっとした空気が止まり、次の言葉で形を変えた。
「“時間を稼ぐ日”だ!」
そこで少し笑いが起きる。笑っていい内容じゃないのに、笑わないと息が詰まるのも分かる。
「黒い枝を見つけたら折れ。無理だと思ったら引け。深追いするな。『全部燃やして帰ってくる』なんて格好つけるな」
指が一本、二本と挙がる。
「お前らの仕事は、“枝に勝つこと”じゃねぇ。“明日を作ること”だ」
マスターの目が広場を一望した。
「その間に、別の馬鹿が“元凶”を殴りに行く」
「馬鹿って誰のことですか」
思わず言うと、近くの冒険者たちがどっと笑った。笑いの中に、緊張がほどける音が混じる。
「聞こえてるぞ、ナオキ」
マスターがこっちを向いて口の端を上げる。
「お前らが馬鹿やれるように、こっちは畑と街道をつなぎ続ける。……で、いいな」
「はい。必ず戻ります」
リヴも隣で軽く頭を下げた。誰かがひゅうっと口笛を鳴らし、空気が少しだけ明るくなる。
「よし!」
マスターが手を打つ。
「各隊、持ち場へ出る! 生きて折れ! 生きて戻れ! それだけだ!」
号令で広場が動き出す。背中に斧、腰にポーション、手に地図。皆がそれぞれの泥試合の準備をして、各隊へ散っていく。
「ナオキさん!」
ラナが走ってきた。片手に紙束、もう片手に小さな布袋。
「これ!」
「なに?」
「干し肉と、固いパンと、甘いやつ少し。森まで行くなら、途中で何か食べないとダメだから!」
布袋を押しつけられて、ずしりと重みが移る。
「ありがとう。助かる」
「それから――」
ラナは少しだけ真顔になった。
「“枝狩り”の人たちのこと、ちゃんと覚えててね」
「覚える?」
「うん。ナオキさんたちが“向こう”と戦うとき、支えてたの、今日出ていく人たちだから」
当たり前のことを言われたはずなのに、胸の奥がじんとした。
「……分かった。ちゃんと覚えとく」
「約束!」
ラナは笑って走り去っていく。商店街のほうへ、井戸のほうへ。目の端に、掲示板の前のミーナが映った。紙を貼って、質問を受け、短く答え、また紙を配る。目が合うと、軽く顎で門のほうを指した。
「――行ってください。街のぶんは、こっちでやります」
その一言で十分だった。俺たちは門へ向かった。
城門の外へ出ると、匂いが変わる。煮込みとパンから、土と草へ。ただ、その土に、うっすら灰が混ざっていた。石畳から土の道へ、ヴェルンから森へ。道のあちこちに「枝狩り」に向かう隊が見える。
前を行く三人組――大剣を担いだおっさん、小柄な弓使い、眠そうな魔法使いが、こちらに気づいて振り返った。
「おう、ナオキ。こっちは黒い枝をぶった切ってくる。……お前はお前で、わけの分からねぇほう、頼んだぞ」
「わけの分からねぇほうって」
「だって分からねぇだろ、テレビとか言ってたろ」
「まぁ、分からないですね。でも行きます」
苦笑いすると、男は歯を見せて笑った。
「分からねぇもんは、分かるやつに任せる。俺たちは目の前の枝だけ気にしてりゃいい」
「お願いします。生きて戻ってください」
男たちは手を振り、別の道へ分かれていく。見送ってから、俺たちは森へ続く道へ足を向けた。
最初の異変は、街からそう遠くない畑で見えた。昨日の「魔素喰いの獣を封じた畑」とは別の場所。柵の向こう、土の一角が不自然に灰色へ抜けている。
「……あ」
リヴが小さく息を漏らした。
灰色の縁から、細い黒い枝が一本、ゆっくり伸びかけていた。土を舐めるみたいに、きしきしと周りを鳴らしながら。
(やばい、間に合ってない――)
そう思った瞬間、横から火線が走った。
「そこ!」
短い詠唱。炎が黒い枝を包み、二の腕くらいの太さになりかけた部分でちぎる。畑の反対側、土壁の陰から若い魔法使いが顔を出し、汗で額を光らせていた。
「くそ……さっきより太い……!」
隣では農夫が土を必死にかき寄せ、灰色の縁に土の壁を作ろうとしている。
「おい、もっと砂利持ってこい! 水はその外だ! 中に零すな!」
「は、はい!」
人が走り、土がこすれ、焦げた匂いが一瞬だけ風に乗った。黒い枝は焼けた部分からじゅう、と音を立ててしぼんでいく。止まったわけじゃない。けれど、動きは確かに鈍い。
「……行く?」
リヴが俺を見る。
「いや、ここは任せよう。俺たちが首を突っ込むと、混ざる」
言いながら、腹の底で歯を噛んだ。
(これが、今から増えていくのか)
枝狩りは今日だけじゃ終わらない。明日も、その次も。数が増えれば、人も割かなきゃいけない。その間に――崩壊核は、待ってくれないかもしれない。
畑から少し離れた場所で、若い魔法使いが仲間と話しているのが聞こえた。
「これ、今日一日やったくらいじゃ終わんねぇよな」
「終わらないね。でも、やらないともっとひどくなるから」
「……はぁ。泥試合だな」
泥試合。自分の口から出した言葉が、他人の口から出てくるのを聞くのは妙な感覚だった。
「ナオキ」
リヴがそっと俺の袖をつまんだ。
「行こ。……私たちが行かなきゃダメなほうも、あるから」
「……ああ」
畑をあとにして道を進む。
森に近づくほど、静けさが濃くなっていった。鳥の声も風の音もあるのに、どこかで間引かれているような静けさだ。道の脇の小さな祠、その手前の草がところどころ黒く変わりかけている。塩を撒いた跡、土を掘り返して根っこらしきものを焼いた跡。間に合ったところと、間に合わなかったところが、同じ道の上に混ざっていた。
「……間に合ったところと、間に合わなかったところが混ざってる感じだね」
リヴが足元を見て言う。
「“全部をきれいに守る”って、もう無理なんだろうな」
「うん。でも――」
リヴは息を整えて、言葉を続けた。
「全部は守れないって分かったぶん、『どこを守るか』ははっきりしてきた気がする」
「どこを守るか」
「“ただいま”を言いたい場所、とかね」
少し笑って、リヴは前を向く。その笑い方が、昨日よりほんのわずかに強かった。
枝狩りに人を割き続けても、敵のほうが早く強くなる。街の薬も鍛冶屋の武具も、そのうち追いつかなくなる。どこかで「元」を止めなきゃいけない。その「元」が崩壊核で、そして入口が――。
「……もうすぐだ」
視界の向こうに、見慣れた巨木が見えてきた。幹の途中にぽっかり開いた穴――ウロの拠点。地球とこの世界を繋ぐ場所だ。簡易小屋も焚き火の跡も、ほとんどそのまま残っているのに、周りの空気だけが少し違っていた。
静かだ。やけに静かだ。
遠くの獣の鳴き声も木の軋む音も、ここだけ避けて通っているみたいな静けさ。俺は思わず呟く。
「ウロの拠点、って言ってたけど……世界樹のウロって呼ぶほうが、しっくりくるな」
「そうかもね」
リヴが小さく息を飲む。近づくほど、周りの音が薄くなる。嫌な薄さじゃない。世界が「ここだけ別の用途がある」と言って、少し距離を取っているみたいな薄さだ。
ウロの縁に手を伸ばす。指先がひやりとした木肌に触れた。
「……行ける?」
リヴが隣で聞く。
「行くしかない。繋がってるか確かめる」
短く答えると、リヴは胸元を押さえたまま頷いた。
「じゃあ、“ただいま”のために、行こ」
「おう」
俺たちは森の芯、ウロの前に並んで立った。ヴェルンで始まった枝折りの一日が、背中のほうでまだ続いている。その音をぎりぎり感じ取れる距離で――俺は、崩壊核へ続いているかもしれない扉に手をかけた。




