動物園の妖精
動物園には、たまに妖精がいる。
動物を見ているとすっと横に来て、動物の解説を垂れてくる、見知らぬ人。種の説明だったり、個体の説明だったり、そういう話をいきなりしてくる、園の常連さんのことである。
この親切ともありがた迷惑とも言える行為をする赤の他人を、私は自分の中で、動物園の妖精と呼んでいる。
「あのレッサーパンダは去年生まれたばかりの子でね、名前はルリちゃんといって、お母さんから離されてしばらくは落ち着かなかったけど最近は慣れてきて……」
今現在、私の真横で講釈をたれているこのオッサンも、そんな妖精のひとりだ。ゴブリンである。
親切かありがた迷惑かでいうと、私はこういうのを、迷惑に分類している。
なぜ、他人に話しかけるのか。なぜ、放っておいてくれないのか。
大体こういう人は、ひとりで来園している客である。家族連れは子供を見ているし、カップルはお互いに自分の相棒を見ている。ひとりで来ている人は、子供を遊ばせる目的でも、性行為の準備運動でもなく、純粋に生き物を見にきたはずだ。それなのになぜ、他人に話しかけるのか。誰かと話したいなら、身内でも友達でも誰か連れてくればいいだろうに。
それとも、と、私はちらっとオッサンの脂汗の滲んだ顔に目をやった。
私が女子高生という属性だから、話しかけたいのか?
私――こと、鈴木祐子がこの動物園にソロで来るのは、単なる暇潰しである。
付き合ってすぐに別れた彼氏との最後のデートで行った場所だったという理由でひとりで来園して以来、入園料五百円で一日過ごせるコスパのいい場所だと気づいて、時折にこうして遊びに来るようになった。
元彼と来たときには元彼の視線ばかり気にしてしまっていたが、ひとりで来ると動物にまっすぐに向き合える。レッサーパンダはなんで尻尾がしましまなんだろうとか、くちばしの大きいオオハシという鳥はそんなくちばしで不便でないのかとか、そんなことに、ぼーっと思いを馳せていられる。
まさに、子供を遊ばせる目的でも、性行為の準備運動でもなく、純粋に生き物を見にきた来園者である。
私のような若い女がひとりで動物園にいるのは、異質なのだろう。こうやって見知らぬ人が話しかけてくる。私でも知っているような知識をひけらかされる、超望遠レンズを自慢される、年パスマウントを取られる……正直、どうでもいい。放っておいてほしい。
動物を見に来たなら、大人しく動物を見ていてくれ。
私を、見ないでくれ。
レッサーパンダの妖精がいなくなったあと、私は園の端っこにある『リスたちの森』へ足を運んだ。
ここはニホンリスが放し飼いになっているウォークスルー型の施設である。リスが逃げないように配慮された二重扉の向こうには、木々が植えられ、その隙間に餌台が置かれ、小さなリスたちが駆け回っている。
早速、入ってすぐの餌台にいたリスと目が合った。警戒する様子もなく、クルミを齧っている。ふさふさの尻尾に、輪郭から張り出すほどの大きな瞳。クルミを持つ小さな手に、これまた小さな指があって、愛らしい。
ウォークスルー型は生き物との距離が近いので、ライト層からも人気がある。子供が絶叫しながら走り抜け、おばさんの団体が「かわいー」と当たり障りのない会話をし、一分も滞在せずに出口から出ていく。
リスの森にも妖精はいる。
「リスはあそこですよ」
知らないおじさんが、親切ヅラで私に教えに来た。木の上で寝ているリスを指さしている。
言われなくても見えているし、私は今、餌台にいる別の個体を見ていたのに。私は愛想笑いと会釈を返した。
通路の端には、また別のおじさんがカメラを構えている。すばしっこいリスを画角に収めるべく、じっと耐えている。
彼のそばをカップルが通る。間近にいるリスに気づいていないふたりを、おじさんは一瞥だけした。「ここにリスいますよ」と話しかけるタイプかのように見えたのだが、彼はなにも言わずに、ただ道を空けて、カップルが歩く幅を作った。
「あれ。あの人、前にも見たような」
私は口の中で呟いた。
眼鏡をかけた、地味なおじさんだ。カメラを持ってはいるが、撮りやすい場所を占領するでもなく、他の来園者が来ればそっと避ける。
おじさんなんて興味もなければひとりひとりの顔を覚えるわけでもないが、この人は、以前も見た気がする。カメラバッグにつけている、小さなリスのキーホルダーに、見覚えがある。
私はというと、特にものすごくリスが好きなわけでもない。ので、この施設はさっと見るだけで出口に向かった。
施設の出口に向かう私を、おじさんがそっと避ける。通路を広く開けて私を通し、また樹上で枝をかじるリスを見上げる。
私が『リスたちの森』を出てしばらく経っても、おじさんがじっとリスと向かい合う姿が、施設の外から見えた。




