五歳児の口から、婚約者の声がした
五歳の迷子が、婚約者の声で、わたしの黙らせ方をしゃべった。
『少しくらい不安にさせたほうが、あいつは黙る』
けれど、わたしが婚約を終わらせたいと書いたのは、その声を聞く三週間前だった。
――ジェイド様との婚約を、解消していただきたいのです。
父へ宛てた手紙にそこまで書いた。
けれど、最後の署名だけができなかった。
寂しい。
大切にされていない。
そんな気持ちだけで家同士の約束を壊してよいのか、分からなかったからだ。
ジェイドの言うとおり、わたしの心が狭いだけかもしれない。
だから今日、もう一度だけ自分の希望を伝える。
聞いてもらえたなら、手紙は破る。
また同じ言葉で終わるのなら、今度こそ父へ渡す。
「ねえ、ジェイド。今日も一緒に回ってくださるでしょう?」
「もちろんだ」
ハーヴィル侯爵家が主催する、秋の狩猟会。
集合場所の広場には、着飾った貴族と馬がひしめいていた。
その中央で、わたしの婚約者は青い乗馬服のレイア嬢と馬を並べ、顔を寄せて笑っている。
レイア嬢の鞍袋からは、青いリボンをかけた小箱がのぞいていた。
わたしはジェイドの婚約者だ。
けれど、この場でいちばん余計なのは、わたしのように思えた。
「あの、ジェイド様」
「なんだ」
「今日の狩りは、わたくしもご一緒したいのです」
「クラウディアは、こういう場が苦手だろう。無理をしなくていい」
「苦手だと申し上げたことはございません」
ジェイドの眉が、わずかに動いた。
「わたくしは、ご一緒したいと申し上げました」
「レイアがいるから、気にしているのか」
「今は、わたくしの希望についてお話ししています」
「同じことだろう」
ジェイドは面倒そうに息を吐いた。
「彼女とは、ただの友達だ。気にするお前の心が狭いだけだろう」
レイア嬢が、手袋を口元へ寄せて笑った。
「クラウディア様、ごめんなさいね。わたしとジェイドは、子供の頃からの仲ですもの」
わたしは、鞍の上からそっと鞍袋の底を押さえた。
水筒と焼き菓子の下、内袋の中に、二つのものを隠している。
一つは、ジェイドの頭文字を刺しかけたハンカチ。
もう一つは、署名のないあの手紙だった。
そして、たった今。
同じ言葉は、もう告げられてしまった。
やがて角笛が鳴った。
ジェイドはレイア嬢と並んで、森の奥へ駆けていった。
一度も、こちらを振り返らなかった。
◇
わたしは一行の最後尾を進んでいた。
獣を追う声も、犬の鳴き声も、すでに遠い。
追いついたところで、あの二人のあいだにわたしの居場所はない。
そう思う自分が情けなくて、手綱を握る指へ力が入った。
「……おなか、すいた」
かすかな声が聞こえた。
馬を止め、周囲を見回す。
道を外れた大木の陰から、小さな女の子がこちらをのぞいていた。
五歳くらいだろうか。
薄いドレスの裾は泥で汚れ、髪には枯れ葉が絡んでいる。
片方の靴には紐がなく、歩くたびに踵が浮いていた。
狩りの最中の森に、子供が一人でいる。
わたしは腰の呼び笛を三度鳴らした。
異常を知らせる合図だ。
しばらくして、遠くから同じ音が返ってきた。
馬を降り、女の子の前に膝をつく。
「あなた、どうしたの」
「ここ、どこ?」
「ハーヴィル侯爵様の狩り場よ」
「はーゔぃる」
うまく言えなかったらしく、女の子は口をむにむにと動かした。
「お名前は?」
「フィー」
「おうちは?」
「わかんない。きづいたら、ここにいたの」
言っていることは、よく分からなかった。
けれど、痩せた手足と泥で固くなった裾は嘘ではない。
「お腹が空いているのね」
「うん。ぺこぺこ」
わたしは鞍袋から焼き菓子と水筒を取り出した。
「お食べなさい。ゆっくりね」
フィーの目が、まんまるになる。
「たべていいの?」
「ええ」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶ、いいわ」
フィーは焼き菓子へ飛びついた。
両手でつかみ、頬をいっぱいにふくらませる。
「慌てると、喉に詰まらせてしまうわ」
水筒を差し出すと、フィーはこくこくとうなずいた。
「……ありがと」
口いっぱいに頬張ったまま言う。
その姿がおかしくて、わたしは久しぶりに少し笑った。
「わたくしは、クラウディアよ」
「くらうでぃあ。……やさしいね」
「そうかしら」
「おかし、くれた。おみずも、くれた」
食べ終えたフィーが、わたしの鞍袋をのぞきこんだ。
内袋を奥へしまおうとしたとき、隣に入れていた白い布が滑り落ちた。
ジェイドの頭文字を刺しかけた、あのハンカチだった。
「それ、なあに?」
「刺繍のハンカチよ」
「ししゅう?」
「糸で、布に文字を作るの」
「さわっていい?」
「ええ」
フィーの小さな指が、ハンカチの端に触れた。
その瞬間、フィーの顔から表情が消えた。
まばたきもせず、どこか遠くを見つめる。
小さな口から、聞き覚えのある声がこぼれた。
『こんな子供じみたものを、俺に渡すつもりだったのか』
ジェイドの声だった。
低い声も、鼻で笑う癖もそっくりだった。
『レイアも言っていたぞ。あれの刺繍は子供の手習いのようだと。少しは彼女を見習え』
息が止まった。
あの夜、部屋にはジェイドとわたししかいなかった。
この刺繍を見た者は、ほかにいないはずだった。
それなのに、レイア嬢が知っている。
つまり、ジェイドが見せて、二人で笑ったのだ。
フィーの口が、また動いた。
今度は、わたし自身の声が流れた。
『もう、終わりにしたい』
『次も、わたしの言葉を聞いてもらえなかったら、お父様に婚約を解いてほしいとお願いしたい』
『でも、心が狭いのが、わたしのほうなら』
『名前を、書いてはいけない』
「もう、いいの」
フィーの指をハンカチから離し、小さな体を抱き寄せた。
フィーは、ゆっくりとまばたきをした。
「フィー、なにいった?」
「覚えていないの?」
フィーは首を横に振り、胸へ手を当てた。
「でも、かなしいの、まだここにある」
「……そう」
「クラウディア、かなしかった?」
答えられずにいると、細い腕がわたしの腰へ回った。
「フィーには、なんでも聞こえるの?」
「ううん」
フィーは、ハンカチを指さした。
「つよいきもちが、くっついたものだけ。いちばんいたいところだけ、きこえるの」
いちばん痛いところ。
あの布に残っていたのは、ジェイドの嘲りと、署名できずにいたわたしの声だった。
わたしは鞍袋から、父への手紙を取り出した。
三週間前の日付の下には、空白が残っている。
携帯していた鉛筆を持つ。
指先が震えた。
それでも、最後の一行へ自分の名前を書いた。
クラウディア・グレンウッド。
「それ、なあに?」
「父へ渡す手紙よ」
「クラウディアが、かいたの?」
「ええ」
折り畳んだ手紙を、内袋へ戻す。
今度は、底へ隠さなかった。
◇
ほどなく、呼び笛の合図をたどって侯爵家の係が来た。
森で子供を見つけたことを伝えると、宴の天幕へ戻って身元を確認することになった。
「フィー。一緒に、人のいるところへ戻りましょう」
「クラウディアも、いっしょ?」
「ええ」
フィーを鞍の前へ乗せ、係とともに森を出る。
途中で、フィーが小さく言った。
「クラウディア、フィーのこと、こわくない?」
「どうして?」
「みんな、こわがるの。きこえないこえ、きこえるから。うそつきって、いわれる」
わたしは、フィーの頭を撫でた。
「あなたに聞こえたものを、わたしは信じるわ」
フィーはしばらく黙っていた。
やがて、鞍の前の体が、ほんの少しこちらへ寄りかかった。
◇
宴の天幕へ戻ると、侯爵家の者たちがフィーの身元を調べ始めた。
迷子の報せを受けたハーヴィル侯爵も、天幕の奥で執事から報告を聞いている。
確認が終わるまで、フィーはわたしのそばで待つことになった。
天幕には、狩りを終えた貴族たちが集まっていた。
料理と酒が並び、あちこちから笑い声が上がる。
その中央に、ジェイドがいた。
隣には、レイア嬢がいる。
わたしがフィーを連れて近づくと、ジェイドは露骨に眉をひそめた。
「クラウディア。その汚い子供は、なんだ」
フィーの体が、小さく固くなった。
「森で保護した迷子です。侯爵家で身元を調べていただいております」
「宴へ連れ込むな。どこの子とも知れないだろう」
レイア嬢が、小首をかしげて微笑んだ。
「クラウディア様は、お優しいのね。でも、少し常識が足りないのかしら」
「レイア様」
わたしは、フィーの肩を抱いた。
「この子を使って、わたくしを侮辱なさるのはおやめください」
「そんなつもりでは――」
「では、フィーに謝ってください」
レイア嬢の笑みが固まった。
「クラウディア」
ジェイドが苛立った声で遮る。
「レイアに対して、その言い方はなんだ。お前が謝れ」
「謝りません」
「何?」
「フィーは何もしておりません」
フィーをそばの椅子へ座らせ、立ち上がる。
鞍袋から、署名した手紙を取り出した。
「ジェイド様。婚約の解消を、両家へ申し入れます」
ジェイドの顔から、表情が消えた。
「な……何を言い出すんだ、急に」
「急ではありません」
三週間前の日付を見せる。
「今日、あなたが一度でもわたくしの希望を聞いてくださったなら、破るつもりでした」
「狩りへ一緒に行けなかったくらいで――」
「狩りのことだけではありません」
わたしは手紙を握りしめた。
「わたくしが嫌だと申し上げるたび、あなたは理由を聞かず、心が狭いと決めつけました。今日も同じでした」
「レイアに嫉妬しているだけだろう」
「それも、あなたが決めたことです」
ジェイドが口を閉じる。
「なぜ、わたくしが嫌だと伝えたことを、お続けになったのですか」
答えは返ってこなかった。
「その子供に、何か吹き込まれたんだろう」
「この子に会う前から、手紙は書いてありました」
署名した自分の名前を、ジェイドへ見せた。
「決めたのは、わたくしです」
レイア嬢が、二人のあいだへ割って入るように声を上げた。
「もう、そのお話はよろしいでしょう?」
彼女は青いリボンの小箱を取り出した。
集合場所で、鞍袋からのぞいていた箱だ。
「ジェイド。今日のお礼を、まだ渡していなかったわ」
周りへ聞かせるような声だった。
「みなさまの前で渡したいの。わたしたち、隠すような仲ではないもの」
いくつもの視線が、わたしへ向く。
婚約者の目の前で、特別な贈り物を渡してみせる。
いつものやり方だった。
ジェイドは止めなかった。
むしろ、わたしの反応を確かめるように見ている。
わたしは、もう目をそらさなかった。
レイア嬢が小箱を低い卓へ置く。
青いリボンが、フィーのすぐ近くで揺れた。
「きれい」
フィーの小さな指が、リボンへ触れた。
その顔から、ふっと表情が抜ける。
小さな口から、レイア嬢の声が流れた。
『蓋の裏の言葉は、これでよかった?』
続いて、ジェイドの声。
『「Jへ。二人だけの秘密に。Rより」だろう。好きにしろ』
天幕のざわめきが、すっと引いた。
『これをクラウディア様の前で渡せば、きっと傷つくわ』
『かまわん。少しくらい不安にさせたほうが、あいつは黙る』
『噂のほうも、よく効いているみたいね。臆病で、社交も狩りも苦手なご令嬢だって』
『助かっている。おかげで連れて歩く手間が省けた』
『でも、嫌がっていたでしょう』
『だからいいんだ。自分のほうが悪いと思わせれば、最後には謝ってくる』
フィーの口が、次の言葉を読み上げようとする。
「もう、いいわ」
その手をリボンから離し、胸へ抱き寄せた。
フィーは、ぼんやりと目を開いた。
「クラウディア?」
「大丈夫よ。もう聞かなくていいわ」
「つめたいの、あった」
「そうね」
レイア嬢の顔から、血の気が引いていた。
「で、でたらめよ!」
小箱を胸へ抱き寄せる。
「子供の作り話だわ。そんな言葉、どこにも――」
「では、箱を開けてください」
レイア嬢の声が止まった。
「今の言葉が作り話なら、蓋の裏に同じ文字はないはずです」
「どうして、わたしが」
「見せられない物なのですか」
周囲の視線が、小箱へ集まる。
レイア嬢は唇をかみ、リボンをほどいた。
中には、銀の懐中時計が入っていた。
蓋の裏に、小さな文字が彫られている。
――Jへ。二人だけの秘密に。Rより。
誰かが、小さく息を呑んだ。
「ジェイド様」
わたしは懐中時計ではなく、ジェイドを見た。
「この刻印を、ご存じでしたか」
「俺は、好きにしろと言っただけだ」
ジェイドは答えたあと、自分の失言に気づいた。
「箱の存在も、刻印も、ご存じだったのですね」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味ですか」
「少しくらい妬かせようとしただけだ!」
ジェイドの声が、天幕に響いた。
誰も動かなかった。
「わたくしが苦しむと知って、続けたのですね」
「婚約を壊すほどのことではない」
「なぜですか」
「お前が、自分の立場を忘れないようにしただけだ」
「わたくしの立場とは?」
「俺の婚約者だろう!」
「婚約者であれば、何をされても黙っていなければならないのですか」
「そうは言っていない」
「では、嫌だと申し上げたわたくしに、なぜ心が狭いとおっしゃったのですか」
ジェイドは答えなかった。
「もう一つ、伺います」
わたしは一歩、前へ出た。
「今朝、あなたはわたくしに、こういう場が苦手だろうと言いました。その噂を流したのはどなたですか」
ジェイドの視線が、レイア嬢へ泳いだ。
それが、答えだった。
「わたくしも、その噂を伺いましたわ」
近くにいた年配の伯爵夫人が、扇の陰で声を上げた。
「グレンウッド家のご令嬢は臆病で、人前に出たがらないと。……レイア様、あなたからでしたわね」
レイア嬢は、何も言い返せなかった。
「今の声は、この場の全員が聞いた」
低い声とともに、ハーヴィル侯爵が歩み出た。
「わたしの狩り場で、客人の令嬢を貶める算段とは、ずいぶんな余興だ。両家には、ハーヴィル家から正式に問い合わせをする」
ジェイドの顔が、初めて青ざめた。
「あなたは、わたくしの傷を、心の狭さと呼びました」
わたしは、署名した手紙を胸の前に持った。
「この箱が何も語らなくても、わたくしは婚約を解消していました」
「クラウディア、待て。誤解だ」
「お二人を疑うたび、狭いのは自分の心だと、思いこもうとしてまいりました」
小箱の刻印を、最後に一度だけ見る。
「――ただの友達では、ございませんでしたのね」
ジェイドは、何も言えなかった。
わたしは鞍袋から、刺しかけのハンカチを取り出した。
隅には「J」の文字が、途中まで残っている。
「これを完成させられず、ずっと自分を責めておりました」
ジェイドの視線が、ハンカチへ落ちる。
「渡せなくて、ようございました」
ハンカチをしまい、フィーを抱き上げた。
「正式な申し入れは、父を通して行います。秘密の贈り物は、お二人だけでお納めください」
ジェイドが手を伸ばした。
わたしは一歩下がる。
「触れないでください」
その手が、宙で止まった。
「クラウディア!」
呼び止める声に、振り返らなかった。
◇
狩猟会が終わるまでに、フィーの身元は分からなかった。
侯爵家から教会と役所へ、迷子を保護したという届けが出された。
帰りの馬車で、フィーはわたしの隣へぴったりと座った。
「クラウディア、いっしょ?」
「ええ。一緒よ」
「おうちのひと、みつかるまで?」
「見つかったあとも、会いに来ていいわ」
フィーは安心したように、わたしの腕へ寄りかかった。
「クラウディアは、だいじょうぶ?」
すぐには答えられなかった。
二年、大切にしてきた人だった。
悲しくないはずがない。
「今は、少しだけ悲しいわ」
「かなしいの、わるい?」
「いいえ」
フィーの手を握る。
「悲しいときは、悲しいと言っていいの」
「そっか」
フィーは目を閉じた。
◇
実家へ戻ると、わたしは父へ署名した手紙を渡した。
父は日付を見た。
「三週間前から、解消を望んでいたのか」
「はい」
「ジェイド殿には、嫌だと伝えたのか」
「何度も」
「彼は?」
「心が狭いと」
父は、しばらく黙っていた。
「お前は、もう決めたのだろう」
「はい。お願いいたします」
「分かった。私が届ける」
それから、父は廊下で待つフィーへ視線を向けた。
「あの子を、この家で預かりたいと聞いたが」
「はい」
「身元の知れない子供だ。分かっているのか」
「分かっております」
「なぜ、お前がそこまでする」
わたしは、まっすぐに父を見た。
「わたくしが、そう決めましたから」
父は少しのあいだ、わたしの顔を眺めていた。
それから、ふっと口元を緩めた。
「……言うようになったな。記録を残したうえで、身元が分かるまでだ」
「ありがとうございます」
婚約解消は、ほどなく受理された。
宴には多くの客がおり、ジェイドが自ら口にした言葉を、否定することはできなかった。
ジェイドからは何通か手紙が届いた。
一通も開かなかった。
◇
婚約解消からひと月ほどたった朝、父が一通の封書を持ってきた。
「ジェイド殿の父上からだ」
封を切ることなく、父が内容を教えてくれる。
「解消に伴う責任は、すべてあちらが負うそうだ。ハーヴィル侯爵の問い合わせを受けて、先日の件についても正式な謝罪が届いている」
「そうですか」
「ジェイド殿は、任されていた領地の仕事をすべて外された。当分は社交の場にも出さず、別邸で謹慎させるらしい」
胸は痛まなかった。
遠い場所の出来事を聞いているようだった。
「レイア様は?」
「あちらの家は、二人を婚約させることで騒ぎを収めようとしたそうだ」
わたしは、思わず父を見た。
「お二人は、望んでいたのではないのですか」
「どちらも拒んだ」
父は苦い顔をした。
「ジェイド殿は、贈り物はレイア嬢が勝手に用意したものだと主張した。レイア嬢は、言われたから刻印を入れたのだと泣いたそうだ」
わたしの前では、あれほど親しげに笑っていた二人だった。
「互いに相手が悪いと言い続けている。だが、天幕にいた者たちは、二人の言葉を直接聞いている。今さら、どちらか一人のせいにはできない」
父は封書を机へ置いた。
「昨日、ジェイド殿が屋敷を訪ねてきた」
「ここへ?」
「ああ。レイア嬢にそそのかされただけだと、お前に説明したいと言っていた」
わたしは、しばらく黙った。
「お会いになったのですか」
「門前で帰した。お前の意思を聞くまでもないと思ったが、間違っていたか?」
「いいえ」
首を横に振る。
「婚約がなくなっても、まだわたくしが言い分を聞き、最後には許すとお思いなのですね」
「そのようだ」
「では、これから覚えていただきましょう」
わたしは封書を手に取り、暖炉の火へ落とした。
赤い封蝋が溶け、紙の端から黒く縮れていく。
あの二人の関係が、この先どうなるのか。
もう、わたしが案じることではなかった。
誰かを傷つけるための秘密を、二人だけで抱えていけばいい。
わたしは暖炉に背を向けた。
廊下の向こうから、軽い足音が近づいてくる。
「クラウディア、おはよう!」
扉が開き、フィーが笑顔で駆けてきた。
わたしは、今度こそ迷わず、その子へ両腕を広げた。
◇
フィーの身元は、なかなか分からなかった。
それでも、ご飯を食べ、湯を使い、清潔な寝台で眠るうちに、頬は少しずつふっくらしていった。
ある午後。
窓辺の椅子に、斜めの光が差していた。
わたしは膝の上にハンカチを広げ、小さな鋏の先を糸へ入れた。
Jの縦の一画から、糸が浮く。
二年前、いちばん丁寧に刺した画だった。
指先でつまみ、ゆっくりと引く。
糸は音もなく抜けて、布には針の穴だけが点々と残った。
穴は、洗えば閉じる。
布は、また新しい文字を待てる。
フィーが隣へ座り、手元をのぞきこんだ。
「なにしてるの?」
「間違えて刺した文字を、ほどいているの」
「まちがえたの?」
「ええ。渡す相手を、間違えていたわ」
最後の糸が、布からするりと抜けた。
「ジェイドと、ばいばいしたの、フィーがしゃべったから?」
「いいえ。でも、フィーがいてくれたから、あの手紙に名前を書けたの」
「フィー、いたから?」
「ええ」
フィーは、少し考えてから笑った。
「それ、こんどは、だれにあげるの?」
「あなたよ」
フィーの目がみひらかれる。
「フィーに?」
「ええ。わたしが、あなたに渡したいと思ったから」
白い布の隅へ、新しい一針を入れる。
Fの文字を、ゆっくりと刺し始めた。
「これがあったら、フィー、ここにかえってきていいの?」
「持っていなくても、帰ってきていいわ」
「ずっと?」
「あなたが帰りたいと思うかぎりは」
「クラウディアも、いる?」
「ええ」
「じゃあ、かえる」
フィーは、わたしの腕へ抱きついた。
「フィー、ここにかえる」
そのとき、フィーの視線が、わたしの胸元で止まった。
「それ、ひかってる」
「母の形見のブローチよ」
「さわっていい?」
「ええ」
小さな指が、銀の縁に触れる。
フィーの顔から、すうっと表情が抜けた。
『――どうかこの子が、悲しいときに悲しいと言える子に、育ちますように』
若い女の声だった。
聞いた覚えはないのに、なぜか知っている気がする声。
フィーがまばたきをして、わたしを見上げた。
「あったかいの、きこえた」
「……ええ」
わたしは針を置き、フィーごとブローチを抱きしめた。
悲しいときは、悲しいと言っていい。
それを最初に願ってくれたのは、母だったらしい。
ハンカチの隅には、Fの最初の一針が、小さく光っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
傷ついた気持ちを「心が狭い」と否定されてきたクラウディアと、物に残った声を拾うフィーの物語でした。
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