表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

五歳児の口から、婚約者の声がした

作者: 中身無男
掲載日:2026/07/19

 五歳の迷子が、婚約者の声で、わたしの黙らせ方をしゃべった。


『少しくらい不安にさせたほうが、あいつは黙る』

 

 けれど、わたしが婚約を終わらせたいと書いたのは、その声を聞く三週間前だった。

 ――ジェイド様との婚約を、解消していただきたいのです。

 

 父へ宛てた手紙にそこまで書いた。

 

 けれど、最後の署名だけができなかった。

 

 寂しい。

 大切にされていない。

 

 そんな気持ちだけで家同士の約束を壊してよいのか、分からなかったからだ。

 

 ジェイドの言うとおり、わたしの心が狭いだけかもしれない。

 

 だから今日、もう一度だけ自分の希望を伝える。

 

 聞いてもらえたなら、手紙は破る。

 

 また同じ言葉で終わるのなら、今度こそ父へ渡す。


「ねえ、ジェイド。今日も一緒に回ってくださるでしょう?」


「もちろんだ」


 ハーヴィル侯爵家が主催する、秋の狩猟会。


 集合場所の広場には、着飾った貴族と馬がひしめいていた。


 その中央で、わたしの婚約者は青い乗馬服のレイア嬢と馬を並べ、顔を寄せて笑っている。


 レイア嬢の鞍袋からは、青いリボンをかけた小箱がのぞいていた。


 わたしはジェイドの婚約者だ。


 けれど、この場でいちばん余計なのは、わたしのように思えた。


「あの、ジェイド様」


「なんだ」


「今日の狩りは、わたくしもご一緒したいのです」


「クラウディアは、こういう場が苦手だろう。無理をしなくていい」


「苦手だと申し上げたことはございません」


 ジェイドの眉が、わずかに動いた。


「わたくしは、ご一緒したいと申し上げました」


「レイアがいるから、気にしているのか」


「今は、わたくしの希望についてお話ししています」


「同じことだろう」


 ジェイドは面倒そうに息を吐いた。


「彼女とは、ただの友達だ。気にするお前の心が狭いだけだろう」


 レイア嬢が、手袋を口元へ寄せて笑った。


「クラウディア様、ごめんなさいね。わたしとジェイドは、子供の頃からの仲ですもの」


 わたしは、鞍の上からそっと鞍袋の底を押さえた。


 水筒と焼き菓子の下、内袋の中に、二つのものを隠している。


 一つは、ジェイドの頭文字を刺しかけたハンカチ。


 もう一つは、署名のないあの手紙だった。


 そして、たった今。


 同じ言葉は、もう告げられてしまった。


 やがて角笛が鳴った。


 ジェイドはレイア嬢と並んで、森の奥へ駆けていった。


 一度も、こちらを振り返らなかった。


     ◇


 わたしは一行の最後尾を進んでいた。


 獣を追う声も、犬の鳴き声も、すでに遠い。


 追いついたところで、あの二人のあいだにわたしの居場所はない。


 そう思う自分が情けなくて、手綱を握る指へ力が入った。


「……おなか、すいた」


 かすかな声が聞こえた。


 馬を止め、周囲を見回す。


 道を外れた大木の陰から、小さな女の子がこちらをのぞいていた。


 五歳くらいだろうか。


 薄いドレスの裾は泥で汚れ、髪には枯れ葉が絡んでいる。


 片方の靴には紐がなく、歩くたびに踵が浮いていた。


 狩りの最中の森に、子供が一人でいる。


 わたしは腰の呼び笛を三度鳴らした。


 異常を知らせる合図だ。


 しばらくして、遠くから同じ音が返ってきた。


 馬を降り、女の子の前に膝をつく。


「あなた、どうしたの」


「ここ、どこ?」


「ハーヴィル侯爵様の狩り場よ」


「はーゔぃる」


 うまく言えなかったらしく、女の子は口をむにむにと動かした。


「お名前は?」


「フィー」


「おうちは?」


「わかんない。きづいたら、ここにいたの」


 言っていることは、よく分からなかった。


 けれど、痩せた手足と泥で固くなった裾は嘘ではない。


「お腹が空いているのね」


「うん。ぺこぺこ」


 わたしは鞍袋から焼き菓子と水筒を取り出した。


「お食べなさい。ゆっくりね」


 フィーの目が、まんまるになる。


「たべていいの?」


「ええ」


「ぜんぶ?」


「ぜんぶ、いいわ」


 フィーは焼き菓子へ飛びついた。


 両手でつかみ、頬をいっぱいにふくらませる。


「慌てると、喉に詰まらせてしまうわ」


 水筒を差し出すと、フィーはこくこくとうなずいた。


「……ありがと」


 口いっぱいに頬張ったまま言う。


 その姿がおかしくて、わたしは久しぶりに少し笑った。


「わたくしは、クラウディアよ」


「くらうでぃあ。……やさしいね」


「そうかしら」


「おかし、くれた。おみずも、くれた」


 食べ終えたフィーが、わたしの鞍袋をのぞきこんだ。


 内袋を奥へしまおうとしたとき、隣に入れていた白い布が滑り落ちた。


 ジェイドの頭文字を刺しかけた、あのハンカチだった。


「それ、なあに?」


「刺繍のハンカチよ」


「ししゅう?」


「糸で、布に文字を作るの」


「さわっていい?」


「ええ」


 フィーの小さな指が、ハンカチの端に触れた。


 その瞬間、フィーの顔から表情が消えた。


 まばたきもせず、どこか遠くを見つめる。


 小さな口から、聞き覚えのある声がこぼれた。


『こんな子供じみたものを、俺に渡すつもりだったのか』


 ジェイドの声だった。


 低い声も、鼻で笑う癖もそっくりだった。


『レイアも言っていたぞ。あれの刺繍は子供の手習いのようだと。少しは彼女を見習え』


 息が止まった。


 あの夜、部屋にはジェイドとわたししかいなかった。


 この刺繍を見た者は、ほかにいないはずだった。


 それなのに、レイア嬢が知っている。


 つまり、ジェイドが見せて、二人で笑ったのだ。


 フィーの口が、また動いた。


 今度は、わたし自身の声が流れた。


『もう、終わりにしたい』


『次も、わたしの言葉を聞いてもらえなかったら、お父様に婚約を解いてほしいとお願いしたい』


『でも、心が狭いのが、わたしのほうなら』


『名前を、書いてはいけない』


「もう、いいの」


 フィーの指をハンカチから離し、小さな体を抱き寄せた。


 フィーは、ゆっくりとまばたきをした。


「フィー、なにいった?」


「覚えていないの?」


 フィーは首を横に振り、胸へ手を当てた。


「でも、かなしいの、まだここにある」


「……そう」


「クラウディア、かなしかった?」


 答えられずにいると、細い腕がわたしの腰へ回った。


「フィーには、なんでも聞こえるの?」


「ううん」


 フィーは、ハンカチを指さした。


「つよいきもちが、くっついたものだけ。いちばんいたいところだけ、きこえるの」


 いちばん痛いところ。


 あの布に残っていたのは、ジェイドの嘲りと、署名できずにいたわたしの声だった。


 わたしは鞍袋から、父への手紙を取り出した。


 三週間前の日付の下には、空白が残っている。


 携帯していた鉛筆を持つ。


 指先が震えた。


 それでも、最後の一行へ自分の名前を書いた。


 クラウディア・グレンウッド。


「それ、なあに?」


「父へ渡す手紙よ」


「クラウディアが、かいたの?」


「ええ」


 折り畳んだ手紙を、内袋へ戻す。


 今度は、底へ隠さなかった。


     ◇


 ほどなく、呼び笛の合図をたどって侯爵家の係が来た。


 森で子供を見つけたことを伝えると、宴の天幕へ戻って身元を確認することになった。


「フィー。一緒に、人のいるところへ戻りましょう」


「クラウディアも、いっしょ?」


「ええ」


 フィーを鞍の前へ乗せ、係とともに森を出る。


 途中で、フィーが小さく言った。


「クラウディア、フィーのこと、こわくない?」


「どうして?」


「みんな、こわがるの。きこえないこえ、きこえるから。うそつきって、いわれる」


 わたしは、フィーの頭を撫でた。


「あなたに聞こえたものを、わたしは信じるわ」


 フィーはしばらく黙っていた。


 やがて、鞍の前の体が、ほんの少しこちらへ寄りかかった。


     ◇


 宴の天幕へ戻ると、侯爵家の者たちがフィーの身元を調べ始めた。


 迷子の報せを受けたハーヴィル侯爵も、天幕の奥で執事から報告を聞いている。


 確認が終わるまで、フィーはわたしのそばで待つことになった。


 天幕には、狩りを終えた貴族たちが集まっていた。


 料理と酒が並び、あちこちから笑い声が上がる。


 その中央に、ジェイドがいた。


 隣には、レイア嬢がいる。


 わたしがフィーを連れて近づくと、ジェイドは露骨に眉をひそめた。


「クラウディア。その汚い子供は、なんだ」


 フィーの体が、小さく固くなった。


「森で保護した迷子です。侯爵家で身元を調べていただいております」


「宴へ連れ込むな。どこの子とも知れないだろう」


 レイア嬢が、小首をかしげて微笑んだ。


「クラウディア様は、お優しいのね。でも、少し常識が足りないのかしら」


「レイア様」


 わたしは、フィーの肩を抱いた。


「この子を使って、わたくしを侮辱なさるのはおやめください」


「そんなつもりでは――」


「では、フィーに謝ってください」


 レイア嬢の笑みが固まった。


「クラウディア」


 ジェイドが苛立った声で遮る。


「レイアに対して、その言い方はなんだ。お前が謝れ」


「謝りません」


「何?」


「フィーは何もしておりません」


 フィーをそばの椅子へ座らせ、立ち上がる。


 鞍袋から、署名した手紙を取り出した。


「ジェイド様。婚約の解消を、両家へ申し入れます」


 ジェイドの顔から、表情が消えた。


「な……何を言い出すんだ、急に」


「急ではありません」


 三週間前の日付を見せる。


「今日、あなたが一度でもわたくしの希望を聞いてくださったなら、破るつもりでした」


「狩りへ一緒に行けなかったくらいで――」


「狩りのことだけではありません」


 わたしは手紙を握りしめた。


「わたくしが嫌だと申し上げるたび、あなたは理由を聞かず、心が狭いと決めつけました。今日も同じでした」


「レイアに嫉妬しているだけだろう」


「それも、あなたが決めたことです」


 ジェイドが口を閉じる。


「なぜ、わたくしが嫌だと伝えたことを、お続けになったのですか」


 答えは返ってこなかった。


「その子供に、何か吹き込まれたんだろう」


「この子に会う前から、手紙は書いてありました」


 署名した自分の名前を、ジェイドへ見せた。


「決めたのは、わたくしです」


 レイア嬢が、二人のあいだへ割って入るように声を上げた。


「もう、そのお話はよろしいでしょう?」


 彼女は青いリボンの小箱を取り出した。


 集合場所で、鞍袋からのぞいていた箱だ。


「ジェイド。今日のお礼を、まだ渡していなかったわ」


 周りへ聞かせるような声だった。


「みなさまの前で渡したいの。わたしたち、隠すような仲ではないもの」


 いくつもの視線が、わたしへ向く。


 婚約者の目の前で、特別な贈り物を渡してみせる。


 いつものやり方だった。


 ジェイドは止めなかった。


 むしろ、わたしの反応を確かめるように見ている。


 わたしは、もう目をそらさなかった。


 レイア嬢が小箱を低い卓へ置く。


 青いリボンが、フィーのすぐ近くで揺れた。


「きれい」


 フィーの小さな指が、リボンへ触れた。


 その顔から、ふっと表情が抜ける。


 小さな口から、レイア嬢の声が流れた。


『蓋の裏の言葉は、これでよかった?』


 続いて、ジェイドの声。


『「Jへ。二人だけの秘密に。Rより」だろう。好きにしろ』


 天幕のざわめきが、すっと引いた。


『これをクラウディア様の前で渡せば、きっと傷つくわ』


『かまわん。少しくらい不安にさせたほうが、あいつは黙る』


『噂のほうも、よく効いているみたいね。臆病で、社交も狩りも苦手なご令嬢だって』


『助かっている。おかげで連れて歩く手間が省けた』


『でも、嫌がっていたでしょう』


『だからいいんだ。自分のほうが悪いと思わせれば、最後には謝ってくる』


 フィーの口が、次の言葉を読み上げようとする。


「もう、いいわ」


 その手をリボンから離し、胸へ抱き寄せた。


 フィーは、ぼんやりと目を開いた。


「クラウディア?」


「大丈夫よ。もう聞かなくていいわ」


「つめたいの、あった」


「そうね」


 レイア嬢の顔から、血の気が引いていた。


「で、でたらめよ!」


 小箱を胸へ抱き寄せる。


「子供の作り話だわ。そんな言葉、どこにも――」


「では、箱を開けてください」


 レイア嬢の声が止まった。


「今の言葉が作り話なら、蓋の裏に同じ文字はないはずです」


「どうして、わたしが」


「見せられない物なのですか」


 周囲の視線が、小箱へ集まる。


 レイア嬢は唇をかみ、リボンをほどいた。


 中には、銀の懐中時計が入っていた。


 蓋の裏に、小さな文字が彫られている。


 ――Jへ。二人だけの秘密に。Rより。


 誰かが、小さく息を呑んだ。


「ジェイド様」


 わたしは懐中時計ではなく、ジェイドを見た。


「この刻印を、ご存じでしたか」


「俺は、好きにしろと言っただけだ」


 ジェイドは答えたあと、自分の失言に気づいた。


「箱の存在も、刻印も、ご存じだったのですね」


「そういう意味ではない」


「では、どういう意味ですか」


「少しくらい妬かせようとしただけだ!」


 ジェイドの声が、天幕に響いた。


 誰も動かなかった。


「わたくしが苦しむと知って、続けたのですね」


「婚約を壊すほどのことではない」


「なぜですか」


「お前が、自分の立場を忘れないようにしただけだ」


「わたくしの立場とは?」


「俺の婚約者だろう!」


「婚約者であれば、何をされても黙っていなければならないのですか」


「そうは言っていない」


「では、嫌だと申し上げたわたくしに、なぜ心が狭いとおっしゃったのですか」


 ジェイドは答えなかった。


「もう一つ、伺います」


 わたしは一歩、前へ出た。


「今朝、あなたはわたくしに、こういう場が苦手だろうと言いました。その噂を流したのはどなたですか」


 ジェイドの視線が、レイア嬢へ泳いだ。


 それが、答えだった。


「わたくしも、その噂を伺いましたわ」


 近くにいた年配の伯爵夫人が、扇の陰で声を上げた。


「グレンウッド家のご令嬢は臆病で、人前に出たがらないと。……レイア様、あなたからでしたわね」


 レイア嬢は、何も言い返せなかった。


「今の声は、この場の全員が聞いた」


 低い声とともに、ハーヴィル侯爵が歩み出た。


「わたしの狩り場で、客人の令嬢を貶める算段とは、ずいぶんな余興だ。両家には、ハーヴィル家から正式に問い合わせをする」


 ジェイドの顔が、初めて青ざめた。


「あなたは、わたくしの傷を、心の狭さと呼びました」


 わたしは、署名した手紙を胸の前に持った。


「この箱が何も語らなくても、わたくしは婚約を解消していました」


「クラウディア、待て。誤解だ」


「お二人を疑うたび、狭いのは自分の心だと、思いこもうとしてまいりました」


 小箱の刻印を、最後に一度だけ見る。


「――ただの友達では、ございませんでしたのね」


 ジェイドは、何も言えなかった。


 わたしは鞍袋から、刺しかけのハンカチを取り出した。


 隅には「J」の文字が、途中まで残っている。


「これを完成させられず、ずっと自分を責めておりました」


 ジェイドの視線が、ハンカチへ落ちる。


「渡せなくて、ようございました」


 ハンカチをしまい、フィーを抱き上げた。


「正式な申し入れは、父を通して行います。秘密の贈り物は、お二人だけでお納めください」


 ジェイドが手を伸ばした。


 わたしは一歩下がる。


「触れないでください」


 その手が、宙で止まった。


「クラウディア!」


 呼び止める声に、振り返らなかった。


     ◇


 狩猟会が終わるまでに、フィーの身元は分からなかった。


 侯爵家から教会と役所へ、迷子を保護したという届けが出された。


 帰りの馬車で、フィーはわたしの隣へぴったりと座った。


「クラウディア、いっしょ?」


「ええ。一緒よ」


「おうちのひと、みつかるまで?」


「見つかったあとも、会いに来ていいわ」


 フィーは安心したように、わたしの腕へ寄りかかった。


「クラウディアは、だいじょうぶ?」


 すぐには答えられなかった。


 二年、大切にしてきた人だった。


 悲しくないはずがない。


「今は、少しだけ悲しいわ」


「かなしいの、わるい?」


「いいえ」


 フィーの手を握る。


「悲しいときは、悲しいと言っていいの」


「そっか」


 フィーは目を閉じた。


     ◇


 実家へ戻ると、わたしは父へ署名した手紙を渡した。


 父は日付を見た。


「三週間前から、解消を望んでいたのか」


「はい」


「ジェイド殿には、嫌だと伝えたのか」


「何度も」


「彼は?」


「心が狭いと」


 父は、しばらく黙っていた。


「お前は、もう決めたのだろう」


「はい。お願いいたします」


「分かった。私が届ける」


 それから、父は廊下で待つフィーへ視線を向けた。


「あの子を、この家で預かりたいと聞いたが」


「はい」


「身元の知れない子供だ。分かっているのか」


「分かっております」


「なぜ、お前がそこまでする」


 わたしは、まっすぐに父を見た。


「わたくしが、そう決めましたから」


 父は少しのあいだ、わたしの顔を眺めていた。


 それから、ふっと口元を緩めた。


「……言うようになったな。記録を残したうえで、身元が分かるまでだ」


「ありがとうございます」


 婚約解消は、ほどなく受理された。


 宴には多くの客がおり、ジェイドが自ら口にした言葉を、否定することはできなかった。


 ジェイドからは何通か手紙が届いた。


 一通も開かなかった。


     ◇


 婚約解消からひと月ほどたった朝、父が一通の封書を持ってきた。


「ジェイド殿の父上からだ」


 封を切ることなく、父が内容を教えてくれる。


「解消に伴う責任は、すべてあちらが負うそうだ。ハーヴィル侯爵の問い合わせを受けて、先日の件についても正式な謝罪が届いている」


「そうですか」


「ジェイド殿は、任されていた領地の仕事をすべて外された。当分は社交の場にも出さず、別邸で謹慎させるらしい」


 胸は痛まなかった。


 遠い場所の出来事を聞いているようだった。


「レイア様は?」


「あちらの家は、二人を婚約させることで騒ぎを収めようとしたそうだ」


 わたしは、思わず父を見た。


「お二人は、望んでいたのではないのですか」


「どちらも拒んだ」


 父は苦い顔をした。


「ジェイド殿は、贈り物はレイア嬢が勝手に用意したものだと主張した。レイア嬢は、言われたから刻印を入れたのだと泣いたそうだ」


 わたしの前では、あれほど親しげに笑っていた二人だった。


「互いに相手が悪いと言い続けている。だが、天幕にいた者たちは、二人の言葉を直接聞いている。今さら、どちらか一人のせいにはできない」


 父は封書を机へ置いた。


「昨日、ジェイド殿が屋敷を訪ねてきた」


「ここへ?」


「ああ。レイア嬢にそそのかされただけだと、お前に説明したいと言っていた」


 わたしは、しばらく黙った。


「お会いになったのですか」


「門前で帰した。お前の意思を聞くまでもないと思ったが、間違っていたか?」


「いいえ」


 首を横に振る。


「婚約がなくなっても、まだわたくしが言い分を聞き、最後には許すとお思いなのですね」


「そのようだ」


「では、これから覚えていただきましょう」


 わたしは封書を手に取り、暖炉の火へ落とした。


 赤い封蝋が溶け、紙の端から黒く縮れていく。


 あの二人の関係が、この先どうなるのか。


 もう、わたしが案じることではなかった。


 誰かを傷つけるための秘密を、二人だけで抱えていけばいい。


 わたしは暖炉に背を向けた。


 廊下の向こうから、軽い足音が近づいてくる。


「クラウディア、おはよう!」


 扉が開き、フィーが笑顔で駆けてきた。


 わたしは、今度こそ迷わず、その子へ両腕を広げた。


     ◇


 フィーの身元は、なかなか分からなかった。


 それでも、ご飯を食べ、湯を使い、清潔な寝台で眠るうちに、頬は少しずつふっくらしていった。


 ある午後。


 窓辺の椅子に、斜めの光が差していた。


 わたしは膝の上にハンカチを広げ、小さな鋏の先を糸へ入れた。


 Jの縦の一画から、糸が浮く。


 二年前、いちばん丁寧に刺した画だった。


 指先でつまみ、ゆっくりと引く。


 糸は音もなく抜けて、布には針の穴だけが点々と残った。


 穴は、洗えば閉じる。


 布は、また新しい文字を待てる。


 フィーが隣へ座り、手元をのぞきこんだ。


「なにしてるの?」


「間違えて刺した文字を、ほどいているの」


「まちがえたの?」


「ええ。渡す相手を、間違えていたわ」


 最後の糸が、布からするりと抜けた。


「ジェイドと、ばいばいしたの、フィーがしゃべったから?」


「いいえ。でも、フィーがいてくれたから、あの手紙に名前を書けたの」


「フィー、いたから?」


「ええ」


 フィーは、少し考えてから笑った。


「それ、こんどは、だれにあげるの?」


「あなたよ」


 フィーの目がみひらかれる。


「フィーに?」


「ええ。わたしが、あなたに渡したいと思ったから」


 白い布の隅へ、新しい一針を入れる。


 Fの文字を、ゆっくりと刺し始めた。


「これがあったら、フィー、ここにかえってきていいの?」


「持っていなくても、帰ってきていいわ」


「ずっと?」


「あなたが帰りたいと思うかぎりは」


「クラウディアも、いる?」


「ええ」


「じゃあ、かえる」


 フィーは、わたしの腕へ抱きついた。


「フィー、ここにかえる」


 そのとき、フィーの視線が、わたしの胸元で止まった。


「それ、ひかってる」


「母の形見のブローチよ」


「さわっていい?」


「ええ」


 小さな指が、銀の縁に触れる。


 フィーの顔から、すうっと表情が抜けた。


『――どうかこの子が、悲しいときに悲しいと言える子に、育ちますように』


 若い女の声だった。


 聞いた覚えはないのに、なぜか知っている気がする声。


 フィーがまばたきをして、わたしを見上げた。


「あったかいの、きこえた」


「……ええ」


 わたしは針を置き、フィーごとブローチを抱きしめた。


 悲しいときは、悲しいと言っていい。


 それを最初に願ってくれたのは、母だったらしい。


 ハンカチの隅には、Fの最初の一針が、小さく光っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


傷ついた気持ちを「心が狭い」と否定されてきたクラウディアと、物に残った声を拾うフィーの物語でした。


二人の選択を見届けていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ