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溢れる想い

 着信は二回くらい鳴っていたと思う。風岡さんは神妙な顔でスマホを見つめたまま、指を動かす気配はない。話したいけどそれはできない。そんな感じで小さく息をついた。

「美凪さんって、ケーキの人ですよね」

「うん、ケーキの人」

「もしあれなら、家ついたら少し席外しましょうか?」

 風岡さんをこの場で一人にするのは心配だ。いったんマンションに帰って風岡さんを部屋に残し、俺は外に出ていようか。

「ううん、大丈夫」

 風岡さんの顔はこわばっている。

「そうですか。分かりました」

 風岡さんにとって美凪さんはとても深い関係性の友達なはずだ。それこそ親友と言えるほどの。あまり俺が口出しすることではないのかもしれないけど、やっぱり気になる。

「もしまた何か話したくなったら聞きますので、いつでも言って下さいね」

「うん。心強いよ。ありがとう」

 風岡さんはスマホを伏せて、しばらく外の景色を見ていた。何を考えているのだろう。

 こんな時にこんな事を思うのは本当に独りよがりだと思うけど、美凪さんが羨ましいと思ってしまった。美凪さんは俺の知らない風岡さんを知っている。子供の頃からの付き合いで、今はいろいろあって疎遠になっているとはいえ、それでも前触れなく電話してしまえる気安さがある。風岡さんは突然の着信にためらっていたようだけど、少なくとも美凪さんの方は電話に抵抗がない間柄ということだ。それがとてもとても羨ましい。できることなら、俺も風岡さんとそんな関係になりたい。安易に羨ましがるのは違うのかもしれない。風岡さんと美凪さんにはそれなりの歴史があって今の関係を構築させてきた。それを、頭では分かっているけど。

「そういえば、可愛さんこそ電話とかしなくて良かったの?」

「えっ?」

「結婚式の三次会行けなかったっていう友達に」

「あ、それもそうですよね」

 ごめん春海。式の日の夜に電話を受けて雑な受け答えをし、それから風岡さんのことで頭がいっぱいで、再度の連絡をすっかり忘れていた。

「すっかり忘れてたって顔だね」

 イタズラな眼差しで、風岡さんは笑う。

「はい。すっかり忘れてました。絶対心配かけてますよね」

「私がいろいろ面倒かけたから。ごめんね。その友達にもよろしく伝えてね」

「いえ、風岡さんは全然悪くないですから、気にしないで下さい」

 完全に俺の怠慢だ。風岡さんの言っているであろう〝面倒事〟も、俺にとっては心地よく、全部好きで引き受けたこと。でも、それだけではいけないのかもしれない。風岡さんのように友達を大切に思える人間に、俺もなりたい。

「風岡さんが美凪さんを大切にしているように、俺も友達を大切にできるようになりたいです」

「もうできてるんじゃない? 少なくとも私よりは確実に」

「それが、そんなことなくて。よかれと思ってしてくれてるアドバイスとかを雑に聞き流してしまったり。連絡するって言っておいてしないままだったり。それでたまに注意されたりするんですけど直らなくて、また同じようなこと繰り返してしまったり。あっちからしたらひどいことしてるのかもって」

 風岡さんと再会して、よけいにそう思う。

「その点、風岡さんは友達一人一人に誠実に向き合おうとしてますよね。そういうところ、本当に見習いたいです」

「誠実かどうか分からないけど、数少ない貴重な友達だからね……。なのに自分から距離おくっていう勝手さを働いてるわけだけど」

「それも、風岡さんなりの思いやりからくる行動に見えます。不快に思った時点でそう伝えることもできたはずなのに、あえてそうせず無言を貫いた。そうすることで、相手とのつながりを無意識に守っていたのかも」

「結果論だけど、そういうことなのかもしれないね。単に衝突がこわかったのもあるし、自分の気持ちなんて誰も理解してくれないって頭から決めつけてたのかもしれない。それは私の弱さだよ」

「弱さ、それは強さ。強さ、それは弱さ」

「名言か何か?」

「これ、父さんが昔よくつぶやいてた言葉なんです。その時は意味が分からなかったんですけど、あまりに言うから言葉だけインプットされちゃってて。何言ってんでしょうね」

 俺の事を引き取ってからというもの、父さんは毎日のように俺を抱っこしてあちこち連れ歩いていたらしい。近所のスーパーまで散歩がてらちょっとした買い出しに行く時も赤ちゃんの俺に抱っこ紐をして歩いたり、家の中でも俺を抱えながら歌を歌ったり何かの小説の感動的な場面の読み上げをしたり、一緒に積み木をしたり絵を描いたり。そのおかげで、母さんの方は想定していたほど育児に体力を使わずにすんだと笑っていたけど。生後すぐの記憶はさすがにないけど、三歳か四歳になる頃には、父さんが大家をしているアパートなどに一緒に行っては住人さんに会ったりしていた記憶がある。そんな風だったので、俺はいつの間にか父親っ子になり、幼い時はいつも父さんのそばについて回っていた。なので、父さんが口にする面白いセリフも真面目な声も、耳コピしてしまった。

 風岡さんはそんな俺の背景を読んだように、少し切なげに笑った。

「そのセリフ、今の私にとても刺さった。弱さ、それは強さ。自分でそう変換できるようになったら最強だよねきっと」

「意味わかんないこと言っちゃってすみません」

「ううん。なんかスッとした」

「ほんとですか?」

 風岡さんの心が軽くなったのなら、本当に嬉しい。

「というよりも……。気持ちをただ吐き出せるだけでも充分救われるというか、ありがたいというか。こうやって思ったことを言える場所ってなかなか見つからなかったから」

「いつでも聞きますよ。俺でよければ」

「可愛さんがいいな。私にとって」

 そこでマンションに到着し、屋内駐車場へのゲートが開く音に阻まれた。意図せず風岡さんの言葉を遮る形になってしまい、とても申し訳なくなる。

「ごめんなさい、タイミング悪かったですよね。続き、何でしたか?」

「ううん。なんでもない」

 風岡さんは無理やり笑う感じで話題を濁した。「私にとって」……その続きは何と言うつもりだったのだろう。ああ! 気になる! なんて間の悪い運転してるんだ俺はっ。

 車を降りてエントランスに入り、風岡さんはそわそわした様子で俺の隣を歩いた。

「やっぱり別世界」

 カウンターに控えるマンションコンシェルジュの目を気にしてか、風岡さんは小声でつぶやいた。

「これからは風岡さんの家でもありますから、気になることがあれば何でも言って下さいね」

「ありがとう。よろしくお願いします」

「お願いされました」

 風岡さんから預かったボストンバッグを持って、彼女と共にエレベーターに乗る。エレベーターホールでキーをかざすので、登録された居住階で止まる仕様になっている。アパートでの件が気がかりだけど、これならたとえ風岡さんが単独行動をすることがあっても安心していいかもしれない。

「この後どうしたいですか? もしお腹空いていたら軽いもの何か作りますよ」

「大丈夫。今日はもう休みたいな」

「了解です。すぐお風呂入れますね」

 再会直後からしたら、風岡さんとの距離はじょじょに縮まっている気がする。そう思う一方で、どこかまだ薄く見えない壁が一枚あるような感じもする。父さんの話をした辺りから何となくバリアを張られているような。考えすぎだろうか。話の流れだったとはいえ、両親と絶縁状態にある風岡さんの前で親の話をしてしまったのは無神経だっただろうか。

 部屋に帰るとすぐ湯船を張り、先に風岡さんにお風呂に行ってもらった。そうして初めて、この状況にビックリしてしまう。

 目の前のことを処理するのに精一杯で突き進んできたけど、とんでもないことを提案した気がする!

「風岡さん、非常時とはいえ一緒に住んでくれるんだ……!」

 嬉しすぎて戸惑い、つい独り言をやってしまう。もしこんなことになったら。何度妄想したか分からないが、どこか現実離れしていたそれは遠い夢のような気がしていて、だけど諦められなくて。いつか念願叶って風岡さんと親しくなれる日がきたら。そんな時のためにスマホのメモ帳にリストを作っておいた(当時は名字が変わっていると知らなかったので『山本さん』のままだけど)。

《今より仲良くなったらしたいこと

・山本さんのしたいこと一緒に

・旅行

・散歩

・カフェめぐり

・山本さんの好物をふるまう

・山本さんの希望を聞いて決める。何か出たら俺も都度提案してみる。


もしもっと仲良くなれて、同棲や結婚が視野に入ってきた場合にしたいこと

・もし不満があれば溜め込まずその日に話し合う

・その日が無理なら近日中に

・その日の嬉しかったことを、お互いにひとつずつ発表しあう》

 なんか内容かぶってるとこあるな。でも、これ打ち込んでた時は心の底からワクワクして、もう叶ったつもりでいたな。

 自分のメモ書きにツッコミつつ、楽しかった気分までも鮮明に蘇ってくる。

 あれ、待てよ? 仲良くなったらしたいことというか、そういうのすっ飛ばして同居(同棲!?)することになっている! その場合、どっちの項目を優先させればいいんだ?

 風岡さんがお風呂をすませるまでにどれを提案するか決めたかったのに、結局決められなかった。風岡さんは思っていたより早めに入浴をすませると、眠そうな顔で別室にこもった。そうとう疲れていたらしい。再会した日に使ってもらった部屋を、急きょ風岡さん専用にした。

 なので翌日、目を覚ました風岡さんに、そのメモを見せて相談することにした。急須で玄米茶を淹れ、お茶を出した。風岡さんはまだ眠気まなこで俺のスマホ画面をぼんやり見る。

「風岡さん。共同生活するに当たって、何かルールを決めませんか? これはひとまずおおまかに考えたものなので、風岡さんの希望があれば付け足していければなーと」

 というのも、こういう曖昧な関係で、またいつ終わりがくるかも分からない立場。それはまあ仕方ないとしても、せっかく再会できて、こうして話せる関係にまでなれた。今後、共に暮らしていく中で、ささいなつまずきや誤解、行き違いなどが起きても、関係を悪くすることなく乗り越えられる方法みたいなものを共有しておきたかった。風岡さんの弱みにつけこんで関係を迫るなんてのは言語道断。それは絶対にしないと強く決めているけど、人間である以上どうなるか分からない。そんな時に、ルールがあれば自分を律することができる。

「ルール、か……」

 風岡さんはお茶をひとくち飲んだ後、ゆっくりとスマホに視線を滑らせた。じっくり読み込んでくれている。

「人の縁は口約束などでどうこうできるものではないと、分かってはいるんですが……。風岡さんとは良い関係を築いていきたくて。ルールとか堅苦しいですよね、めんどくさいこと言ってごめんなさい」

「ううん。……ふふっ」

 何やらメモ帳を見て笑っている。何かまずいことでも書いていただろうかと、少し焦る。

「最初のこれ、私のしたいこと優先って、上と下に同じこと書いてる」

「あっ、はい、そうなんですよね。無意識に」

「しかもこれ、四年前に作った? そんな前にこんなこと考えてくれてたんだね」

 急に恥ずかしくなる。そうだった! スマホの機能上、最後に編集した日付が上に載る。結局昨夜は追記しなかったので、最後の編集日になったままだ。

「気持ち悪いですよね、俺。その頃はもう会社も辞めてて風岡さんとも一切関わり無くなってたのに」

 このメモ帳を書いたのは、出会いの場に行かなくなってすぐくらいだった。出会った人達に罪は全くないけど、出会いそのものに疲弊して神経を削られていたので、知らず知らず癒されようとしてこれを書いた。そんな側面もあったのかもしれない。

 風岡さんは、そんな俺に引くどころか、心底嬉しそうに安堵の表情をした。

「この頃の私はどん底で、先が見えない真っ暗な生活をしてたんだけど、自分の知らないところでこんな風に思っててもらえたことが嬉しいよ。自分が徳を積んだなんて微塵も思わないけど、本当にそういうのってあるんだなって、今改めて思った」

 メモ帳を大切そうに見つめ、風岡さんはお茶を飲んだ。

「玄米茶おいしい。もう一杯もらっていい?」

「どうぞどうぞ。たくさん飲んで下さい」

 ノドが渇いたと言って、風岡さんは一気に二杯目のお茶を飲み干した。

「これがいいな。とりあえず、今日からのルールとして」

 風岡さんが示したのは〝その日の嬉しかったことをお互いにひとつずつ発表しあう〟だった。

「いいですね! 風岡さんはこれが一番気になった感じですか?」

「前に何かで読んだんだけどね。人間同士って一緒にいればいるほど相手の存在が当たり前になって、いつの間にか相手の変化にも気付かなくなるんだって。出会った当時の相手のまま変わらないって信じ込み続けてしまう。実際はそんなことなくて、友達同士だろうと彼氏彼女だろうと夫婦だろうと、長く関係が続く中でお互いに少しずつ変化していく。それに気が付かないまま以前のように接してると、すれ違ったり誤解が起きたり、最悪縁が切れることもあるって。絶縁は極端にしても、お互いの変化に気が付かないとかそういうのは私にも身に覚えがあるし、いつか私達の間にも起こりうることかもしれないから。お互いに嬉しかったことを報告しあうって、変化していくお互いの価値観を知るいいきっかけになるかなーって」

「たしかに! その通りかもしれないですね!」

 実はこれ、うちの親が夫婦の間で昔からやっていた習慣らしく、その時の二人の会話を耳にすることが何度かあったので、メモ帳にもついこんなことを書いてしまった。風岡さんの着眼点通りの意図が、父さんと母さんにはあったのかもしれない。だからなのか、うちの親は自分で言うのもなんだがとても仲の良い夫婦だと思う。

「では、まずはそのルールをこなしていきましょう!」

「これ、一日の終わりにこれするってことで、いい?」

「そうしましょう! 一日を通して、良かったことを報告しあって共有しましょう!」

 風岡さんの価値観を知れるし、逆に俺の価値観を伝えられる場にもなる。とてもいいことずくめだ。

「あ……」

 風岡さんは自分のスマホを見て固まった。サイレントモードにしているらしく音は鳴らなかったが、何かの通知が来たようだ。

「美凪からラインきた……」

「昨日も電話来てましたもんね。そのことかな?」

「うーん。どうなんだろうね。何だろ。どうしよう……。見るのこわいな……」

 風岡さんは悩み、俺の反応を伺った。

「もし今、突然島君から連絡がきたら、可愛さんならどうする?」

「それは……。うーん……。嬉しいけど複雑というか。今の風岡さんと同じ反応になりますね、きっと」

「だよね」

 苦笑し、風岡さんはスマホをテーブルに伏せた。

「もうちょっと心の準備してから見ることにするよ」

「それがいいです。無理に返さなきゃいけないものでもないですしね」

 とは言ったものの、風岡さんは本当は、美凪さんのことをかなり気にしていそうだ。俺なんかが立ち入っていい話なのか分からないけど。

「どうでもいいとか嫌いとか、そういう気持ちだったら連絡してこないんじゃないでしょうか」

「だったらいいなと思うけど、もし逆のこと自分がされたらって思うと。考えるだけでうつになりそう」

「大丈夫! 大丈夫です! 風岡さんは美凪さんに好かれてます!」

「分かるの?」

「はい!」

「根拠は?」

「すみません、何の根拠もないです。ただ、何となくそう感じたというか。直感です!」

 風岡さんはくすくすと笑った。

「ありがとう。ちょっと勇気出た。可愛さんの直感なら信じてもいいかもしれない。後で、落ち着いたらライン見てみるよ」

「それがいいです。既読ついたら美凪さんもきっと嬉しいと思います」

「そうだといいな」

 風岡さんはまるで気持ちを整えるかのように、三杯目の玄米茶を飲み始めた。

「けっこう飲めてますね。お腹の調子、どうですか?」

「昨日よりだいぶ楽になったよ。お風呂で温まったのがよかったのかも?」

「よかったです。ずっと調子良くなさそうだったので心配してましたが、今日はとても顔色がいいし、安心しました。軽い朝ご飯作りますね」

「ありがとう。手伝う」

「まだ万全じゃないと思うので、無理しないでください」

「分かった。座って待ってる。ありがとう」

「楽しみにしててくださいね」

 やっぱり無意識に気を遣うクセが出てしまったらしい。それに気付いて、少しずつ素を出してくれる。いきなりワガママ放題するのは無理があるにしても、これから、そうやって甘えてくれる時間が増えたらいいな。

 なんて、俺はさっきから自分でも自覚できるほどに激しく浮かれてしまっている! まだ彼氏でも何でもないのに。なぜこんな気持ちなのかというと。朝からそこに風岡さんがいる。そのことがもう、ただただ幸せだった。風岡さんの手前必死に冷静さを保っているけど、心の中は色めきたって仕方ない。

 「目が幸せ」って、こういう感覚のことを言うんだなぁ。

 起きたら、まるでずっと家族であったかのようにそばに居てくれる。それだけで、もう充分すぎる気がした。そして、どうしてだろう。幸せなのに、この強く眩しい幸福感は、次の瞬間には儚く壊れてしまうのではないか。そんな不安が押し寄せてくる。

 世の中の人がよくなると噂されるマリッジブルーというものはこんな感じか? いや、マリッジしてないけども。フレンドブルー? いや、そんな言葉はない。とにかく落ち着こう。

 料理はいい。変な雑念も這い上がってくる正体不明の不安も、紛らわしてくれる。

『こんなことのために出逢ったんじゃない……!』

 ……!! 今の声は一体?

 そんな記憶はないのに、まるで自分のもののようにつぶやくその声は、忘れたかったいろんなものを引き連れて身体の中に溢れてくるようだった。


 誉が書いたメモ帳についてのくだりを加筆修正しました。2026.03.06 7:32

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