決意
「…………宵杜さん」
黄昏の光が仄かに照らすお部屋にて、ポツリと名前を口にする。かれこれ20年も寄り添った、少し気弱で心優しき男性の名を。だけど、返事はない。そして、それもそのはず。だって……ついさっき、目の前で静かに息を引き取ったのだから。
――不思議な、夢を見た。
小さな薄暗い部屋の中で、書いては直し、書いては直しを一心に繰り返している一人の男性。美男子と言って差し支えないほど顔立ちは整っているものの、その美貌が台無しになっているほどにすっかり窶れてしまっていて。それでも、決して書くのを止めないその姿には心を打たれるものがあって。
それから、しばし経過して――彼は、そっと筆を置いた。まあ、あれだけ書いていたんだから疲れるのは当たり前……という理由ではないようで――
『……もう、いいや。僕なんかが……こんなゴミみたいな僕なんかがいくら頑張ったって、何の意味もない。だから……もう、いいや』
そう、悲痛な表情で呟く男性。その表情はあまりにも痛ましく、見ているこっちが辛くなるくらいで。……そんなこと、言わないでよ。ゴミだなんて、何の意味もないだなんて……そんな悲しいこと、言わないでよ。
そっと、彼の隣へと視線を移す。そこには、思わず息を呑むほどに積み重なった原稿用紙。さっきまで書いていたものと、きっとそれまでに書いていたものの全てだろう。……いや、あるいはこれ以上に――
そっと、近づいてみる。だけど、夢だからか彼が私に気づく様子はない。そして、聞こえないであろう謝罪を口にし原稿を拝借。そして――
気がつくと、霞んだ視界には私の部屋の天井が。どうやら、夢から覚めたみたいで。
……それでも、覚えてる。夢の中で読んだお話を、信じられないほど鮮明に。気がつくと、私の頬にすぅっと雫が伝っていて。そして――私は、一つの決意をした。
その日から、とにかく探し回った。手掛かりなんてあまりにも少なく、あの部屋の外に見えた景色――それから、一枚目の原稿の隅に控え目に記された『宵杜』という名前だけ。そもそも、あくまで夢の中のこと――実在するかどうかも定かでなくて。それでも、一心不乱に彼のことを探し回った。
すると、しばらく経ったある日、不意に一縷の光が降りてきて。幸いだったのは、宵杜というのがペンネームではなく本名だったこと。小説家としての宵杜さんは知られていなくても、彼自身のことを知っている人まで一人もいないはずはなく。……まあ、小説で収入を得られなかったので厳密に言えば小説家、ではないのかもしれないけど、それはともあれ……うん、よかった。実在しててくれて。
そういうわけで、町の人達からの情報を頼りにようやく辿り着いたのが随分と古びたお部屋の前。その外観までは知らなかったけど……それでも、どうしてか夢で見た場所がここだと確信を覚えて。そして――
『――こんにちは、宵杜さん』
それから、宵杜さんとの日々が始まった。いきなり押しけてきた、どこも誰かも知らない私に最初は大いに困惑していたものの、それでも暖かな笑顔で受け入れてくれた。私が家事を一手に引き受けていたので、彼は申し訳なく思っていたみたいだけど……でも、そんな必要ないのにね。そもそも、私がそのつもりで勝手に押しかけてきたんだし。
……でも、嬉しかったよ? だって、貴方のために私がすること一つ一つに、それこそどんな些細なことにまで、いつも『ありがとう』って言ってくれたから。それまでは、同じようなことをしていても一度もそんな言葉を言われたことがなかったから。――そう、貴方に会うまでは、一度も。
そんな貴方との日々は、それまでにないほど幸せだった。以前に比べて裕福だとはお世辞にも言い難かったけど、そんなことは本当にどうでもよかった。貴方がくれる笑顔や言葉、そして全てが私の心を優しく包み満たしてくれた。貴方は、陽だまりのような人だった。……そして、そんな貴方のことを、いつしか――
「……ほんと、お人好しなんだから」
柔らかな微笑を見つめながら、ポツリとそんな呟きを零す。まだ暖かさの残る、白く華奢な手をぎゅっと握りしめたまま。
この人は、私のために書いてくれた。いきなり押しかけたどこの誰かも知らない私のために、全身全霊を込めて書いてくれた。最後に、何を言おうとしたか……それは、結局聞けずじまい。その言葉が紡がれる前に、静かに息を引き取ってしまったからで。
……でも、ちゃんと伝わってるよ? 言葉では伝えられていなくても……ちゃんと、込めてくれてたから。貴方の紡いだお話に、きっと言葉では伝えきれないくらいの私への想いを。
そっと、視線を隣に移す。そこには、いくつかに分かれて積み重なった原稿用紙――これまでずっと紡いできた、宵杜さんの物語で。その一枚を徐に手に取り、心の中で決意を口にする。
――必ず、繋ぐから。いつか、私もこの世からいなくなる。それでも……貴方の遺したお話は、これから未来も必ず繋いでもらうから。100年でも、200年でも、例え1000年でも――いつか、満開に咲くその日まで。




