3.城塞消滅。因果を断ち、業に殉ず
完結です。
一ヶ月の刻が流れた。かつて牢獄を兼ねた工房であった場所は、今や異界の門の如き静寂に包まれている。
王は、黄金の刺繍を施した法衣を纏う聖女を伴い、再びその地を訪れた。
崩れ落ちた壁の残骸を潜り、王が足を踏み出した先には、一人の男が座していた。
否、それを「男」と呼ぶには、あまりに生気が欠落していた。
サクヤであったものは、五感を、言語を、そして己が何者であったかという、現世に繋ぎ止めるべき一切の証を剣に注ぎ込んだ結果、今や「人の輪郭を借りた静寂」としてそこに置かれていた。
しかし、その膝の上に置かれた「それ」を目にした瞬間、王の鼓動は一拍、停止した。
そこには剣があった。
だが、それは光を反射する鋼の輝きではない。
周囲の音も、光も、さらには見る者の視線さえも吸い込み、眼底に届く前に切り刻む、漆黒の「虚無の穴」であった。
あの一塊の石からこれほどの怪異が生まれたのかと、王は戦慄を覚えた。
この男は生きているのか。脈を測ろうと近づけた指が、触れる前に数瞬先へと逸らされたではないか。
王は畏怖を押し殺しながら呟いた。
王は傍らに聳え立つ堅牢なる城塞を指し示した。
数世紀にわたり不落を誇り、いかなる攻城兵器をも撥ね返してきた王国の象徴である。
「この城塞を以て其方の『神理』を証明してみせよ」
試し斬りを命ずる王の声に応える者はない。
サクヤはもはや、人の声を聞くための「耳」という概念さえ、剣の硬度へと変えてしまったのである。
ただ、内なる「斬」という、呪いに近い意志の残響に従い、枯れ枝のような指をゆっくりと動かした。
彼が、鞘の代わりとして設えられた虚空から、親指でわずかに鍔を押し出した、その刹那であった。
抜いたのではない。振り下ろしたのですらない。ただ、刃がこの世界の空気に、数分だけその真の姿を露呈した。それだけに過ぎない。
轟音さえなかった。
不落の城塞は、断末魔を上げる暇もなく、その巨大な石塊の質量ごと、忽然と消滅した。
崩壊ではない。
それは、城塞が築かれた歴史、積み上げられた歳月、そして「そこに城が在った」という事実そのものが、因果の糸を断ち切られ、世界の記述から抹消されたのである。
王が目にしたのは、崩れる石礫ではない。
そこにあるはずの空間が、鋭利な刃の軌跡に沿って完璧に切り抜かれ、世界の裏側の、何も描かれていない無垢な余白を覗かせている絶景であった。
「城が、昨日まで確かに在った城が、その由来ごと、この世の記憶から消え去ったではないか」
王はあまりの理不尽に、もはや畏怖を通り越した哄笑を上げた。
隣では、聖女がその禍々しい光景に、法悦の表情で膝を突いている。
「これこそは神を超える一刀。理そのものを否定する究極の一振なり」
聖女は恍惚として声を上げた。
捧げる祈りの言葉が神に届く前に空中で千切りにされ、天との繋がりが完全に断たれたことを、彼女はかつてないほど晴れやかな顔で喜んでいた。
王は戦慄した。
彼が手に入れたのは、敵を討つ道具ではない。この世界の調和を根底から覆し、万象の規矩を根源から切り抜く「禁忌の刃」であった。ただ「そこに在る」という事実さえ許さない。
サクヤであった「何か」は、城を消し去ったことにも気づかず、ただ虚空を見つめている。
そこには、職人の執念が、ついには神の領域という名の防壁を穿ち、真理の向こう側を白日の下に晒した――というよりは、あまりに愚直に突き詰めすぎて、世界そのものの理を狂わせてしまった、一人の狂人の到達点があった。
城塞が消滅した虚空には、ただ風だけが吹き抜けていた。
聖女は歓喜に震え、これこそ神をも跪かせる至高の一口なりと、その奇跡を称えてやまない。
しかし王は見た。神域の刃を産み出した代償に、一人の人間がいかに完膚なきまでに崩壊したかを。
サクヤと呼ばれた男の肉体は、もはや人の形を辛うじて留めているだけの、空疎な抜け殻に過ぎなかった。
五感はすべて剣を成す糧として捧げられ、彼の魂は現世との接点を完全に断たれている。王が肩を揺さぶろうとも、聖女が傍らで聖歌を歌い上げようとも、その瞳は虚空を見据えたまま、一点の光も捉えることはない。
だが、その指先だけは、人の理を越えた悍ましき執拗さを以て、休むことなく動き続けていた。
金槌も砥石もない。彼はただ、目前の空気、あるいは空間そのものを、肉眼では捉えられぬ「心眼の鑢」で研ぐかのように、狂気じみた微細な動きで擦り続けているのである。
「次は概念だけでは足りぬ。虚無そのものを研ぎ、その角を立てねばならぬ」
その唇から漏れたのは、言葉というよりは、万象の規矩に対する呪詛に近い低鳴であった。
彼は「嘘」を「神理」へと変じた。しかしその過程で、神理の向こう側にある深淵に取り憑かれてしまったのである。
一度、世界の隙間を覗き見てしまった男にとって、もはやこの現実にある全ての物質は、造作の粗い、触れるに値せぬ「なまくら」に他ならなかった。
彼は一生、何ものにも触れることができない。
彼が触れようとするものは、その指先に宿るあまりに峻烈な「研ぎ」の意志によって、触れる寸前に――触れられたという事実ごと切り裂かれ、霧散してしまうからだ。
誰かを抱こうとすれば、相手は微塵となって崩れ落ち、酒杯を干そうとすれば、液体は万物の根源へと分解される。
ただ大地を踏み締めることさえ、彼にはもう許されない。彼が歩む先々で、地面は切断され、世界の底にある深淵が露呈するからである。
彼は、自らが作り上げた「究極の鋭利」という名の、一辺の曇りもない牢獄に、自分自身を永遠に幽閉してしまったのだ。
王は恐れをなして退いた。
この男は英雄でもなければ、職人でもない。己の「業」という名の怪物に食い尽くされた、歩く怪異そのものである。
聖女はなおもその剣を「救い」と呼んで拝していたが、肝心のサクヤの耳には、彼女の称賛すらも鋭利すぎる静寂によって切り刻まれ、届くことはなかった。
一方、黄金を手に逃げ延びたはずの女は、遠き異郷の地で、突如としてその存在を掻き消した。
彼女が手にした金も、サクヤを売った記憶も、彼女という人間がかつて息をしていたという事実さえも。
サクヤが放った「因果を断つ一撃」は、その嘘の根源であった女の存在そのものを、世界の記述から静かに、しかし徹底的に削ぎ落としたのはまた別の話である。
男は今も、世界の片隅に座し続けている。
目に見えぬ刃を、目に見えぬ砥石で、永遠に。
彼が指を動かすたび、世界の皮膜が微かに剥がれ、存在せぬはずの火花が散る。
一人の男が、「なまくら」と呼ばれた屈辱を晴らすために、ただ「切断」という意志の化身へと成り果てた。
それは、峻烈にして、誉れ高き業の姿であった。




