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2.鉄が風邪を引く――火竜の血と絶対死の鍛錬

を築く。それはもはや、鉄をかすための器ではない。神威を宿した石を屈服せしめるための、地獄の釜の雛形だった。


サクヤは狂ったように工房の隙間を粘土と呪理じゅりで封じ、空気の逃げ道を断った。


通常の石炭では、霊鉱石は赤らむことさえ拒む。それはあたかも、下界の熱などという卑俗な干渉を、高潔なる沈黙を以てね除けているかのようであった。


石の冷徹さを呪い、天の火をここに引きずり下ろすほかあるまいと吠えながら、サクヤは大気をひたすらに押し固める。


ふいごを引く腕は、既に人の骨節が許す限度を逸脱していた。かつて彼は、極北の万年雪を素手で溶かし、その蒸気で茶を淹れるという、世人の失笑を買うに足る無益な荒行を十年に渡り続けていた。

その空疎な蓄積が、今、万物の理を粉砕せんとする熱威ねついを産み始める。


工房内の熱気は逃げ場を失い、大気そのものが悲鳴を上げ、微塵みじんの擦れ合いが空間を焼き切らんとしていた。熱の多寡を測るすべなどうの昔に溶け落ち、その熱威はついに、天上に座する星々の核をさえ凌駕する深淵へと突入した。


工房を包囲していた騎士たちは、突如として隙間から漏れ出した異様な白光に目を焼かれ、阿鼻叫喚の地獄へ叩き落とされた。天地開闢かいびゃくの瞬間に立ち会ったかのような光に絶叫し、王室御用達の頑強な石壁が陽炎の如くとろけゆく様に腰を抜かす。


石造りの牢獄は内部からの熱圧に耐えかね、岩盤は飴細工の如く粘り、硝子がらす状に透き通って流れ出した。


熱風は数里のほかの草木を一瞬で炭化させ、夜空は昼よりも禍々しい白銀の輝きに支配されたのである。


その灼熱のただ中にあって、サクヤは全裸であった。毛髪は縮れ、皮膚は赤銅色に焼け付いているが、その瞳だけは氷山のごとく冷ややかに澄んでいる。


かつて真夏の火口で冬服をまとい一月を過ごすという、痴者しれものと蔑まれた精神鍛錬が、この絶対死の境地で彼を辛うじて繋ぎ止めていた。


死線を超えた場所で、彼はなお、職人としての常軌を逸した不満を漏らす。


「――これでは、鉄が風邪を引いてしまう」


極限の熱にさらされた霊鉱石は、ようやく微かに深紅の拒絶を浮かべた。しかし、それは未だ服従ではない。


サクヤは自らの狂気をさらに一段、深みへと進める。彼はかつて挫折の旅路で、高値で売り払う機会を逃し、呪いのように持ち続けていた「火竜の返り血」を取り出した。


それは常温にて物質を霧散むさんせしめる、忌むべき超高温の霊液である。


男は、その毒々しい液体を躊躇ちゅうちょなく己の全身に浴びせた。

 

肉の焼ける異臭と、魂が軋む音が工房に満ちる。


常人ならば一瞬で灰燼かいじんと化すその苦悶を、彼は職人の悦楽として咀嚼そしゃくした。


火竜の血を依代よりしろに、サクヤ自身の生命力が炉の焔と一体化し、火柱は天を衝く勢いで吹き上がる。


「竜も天の星も、我があぶらで燃えておる」


サクヤは白熱の極致で乾いた哄笑こうしょうを上げた。


視界の全てが白一色に塗り潰されたその刹那せつな、ついに霊鉱石がその硬質な意志を屈服させ、どろりとした黄金の涙を流し始めたのである。


嘘を真に変えるには、世界を焼き尽くす熱が必要なのだ。


石の屈服を愛でるように、彼は呟いた。太陽を喰らい、竜の血を纏い、もはや生物としての尊厳を完全に捨て去った男は、滴り落ちる汗さえも火花に変えながら、未だかつて地上に存在しなかった「熱い沈黙」を打ち鳴らす準備を整えたのである。


熔融ようゆうした霊鉱石が、金床の上で禍々(まがまが)しい光を放つ。

それは流動する星の欠片のごとく、不定形な意志を孕んでのたうっていた。


サクヤは、王の騎士団に命じて用意させた特注の重鎚じゅうついを手に取る。それは、城門を打ち破る破城槌はじょうついを凝縮したかのような、人知を超えた質量の塊であった。


常人には持ち上げることさえ叶わぬその重みを、サクヤは火竜の血で焼け付いた両腕を以て、天高く掲げた。


かつて彼は、一昼夜にわたり、飛来する羽虫を百匁もんめの鉄球で一匹残らず叩き落とすという、万象ばんしょうの生息を慈しむ心を完全に欠いた、不条理な荒行を完遂していた。


その時に培われた、流星が静止して見えるほどの神速の眼力と、寸分の狂いなき打撃が、今、天地のことわりの首を絞める。


鉄を叩くのではない。鉄の中にある「斬れぬという迷い」――その概念の脊髄を、今ここで殴り殺してやるのだと、彼は己の魂に吼えた。


一撃。


振り下ろされた鎚が霊鉱石を打った瞬間、工房を包む大気が悲鳴を上げ、天地の繋ぎ目が断絶した。


その震えは石壁を透過し、大地の均衡を歪ませる。牢獄の石畳は耐えかねて砕け、建屋全体が数寸すうすん、地中へと沈み込んだ。


だが、それは序奏に過ぎなかった。サクヤの打撃は、既に数の概念を嘲笑あざわらう境界に達していた。


瞬き一つの間に、千の打撃。その速さは音の伝播でんぱを置き去りにし、光の残像さえも追い抜く。

もはや工房から「音」は消失した。あまりに苛烈な打撃の連鎖は、もはや人の耳が拾える響きを越え、周囲の騎士たちの三半さんぱんを無慈悲に破壊し始めた。


熱い、いや、骨の髄が、内側から掻き毟られる。


騎士たちは悶絶した。槌音一つ聞こえぬというのに、あぎとの骨は砕け、歯は震え、彼らは泡を吹いてその場に崩れ落ちた。


千の打撃は重なり合い、一つの連続した「存在の圧壊あっかい」となって、霊鉱石を万物の微塵みじんに至るまで再構築していく。


サクヤの肉体は限界をうに超え、振り下ろすたびに骨は粉砕され、肉は裂け、血が飛散した。

しかし、その飛沫しぶきは炉の熱で即座に掻き消え、彼の執念をさらに赤く染め上げるのみであった。


己の軟弱な芯を折り、絶望だけを残して硬化せよと、彼は鉄に命じた。


鎚が当たるたびに、鉄の中に潜む不純物――物質的なかすのみならず、この世のことわりという名の「甘え」が、火花となって弾き飛ばされる。サクヤの目は血走ると同時に、ある一点のみを凝視していた。


あまりの連打に重鎚そのものが白熱化し、ついには金床との間で、万物の根源が融け合うが如き烈光が放たれ始める。


工房の壁は、激しすぎる震えの連鎖に耐えられず、塵となって粉砕され、四散した。


屋根は吹き飛び、夜空に剥き出しになった鍛冶場には、ただ千の腕を持つ異形の神のごときサクヤの残像と、大地を陥没させ続ける重圧のみが支配していた。


もはや、それは鍛錬ではない。神が世界を創造する際に用いたとされる、根源的な暴力の再演であった。


鉄の中にある「斬れぬ」という迷いは、一瞬千回の地響きの中で完全に圧殺され、その残骸ざんがいの上に、ただ冷酷な殺意の骨格が形成されていく。サクヤの背後では、崩落する牢獄の影が、巨大な墓標のように彼を飲み込もうとしていた。


荒ぶるほのおが消え、地響きが止んだ後の工房には、ただ氷のような静寂が降り積もっていた。


金床の上に横たわるのは、未だ形を成さぬ「鉄のむくろ」である。しかし、サクヤの眼は、もはや凡庸な肉眼のそれではない。


かつて彼は、降りしきる五月雨の、一粒と一粒の隙間を縫って歩き、一滴も濡れずに帰還するという、傘に頼れば済むものを、その利便をなげうって空間の理を掴まんとする狂気的な修行に三年の歳月を費やしていた。


その結果、彼の双眸そうぼうは、万物を構成する深淵なる空隙くうげきを捉える「心眼」へと変貌を遂げていたのである。


これより始まるは、研ぎの工程である。だが、それは砥石といしで表面を削るという、生ぬるい作業ではなかった。


万物がみつであるというのは凡愚ぼんぐの抱く幻想に過ぎず、真理とはこの果てなき隙間の連なりにあるのだと、彼は虚空を凝視した。


サクヤは、まず名だたる名石を揃えた砥石を手に取ったが、数瞬すうしゅんの後、それを無造作に投げ捨てた。


石の粒ですら、今の彼には粗すぎる岩塊にしか見えなかったのである。


彼は、火竜の血に焼かれ、いまや自身の体から剥落はくらくせんとする死んだ皮膚の欠片――かつての修行で得た、あらゆる感覚を拒絶する「不感の角質」を指先でむしり取った。


さらには、工房を渦巻く熱気そのものを指先でり合わせ、実体化した「産まれたての気流の筋」を研磨けんまの具とし、世界の綻びを一本ずつ、丹念に整え始めた。


彼の手が鉄に触れるたび、そこには摩擦の熱ではなく、万象が凍てつく絶対の冷気が生まれた。研ぎ進めるに従い、鉄は光を反射することを止め、周囲の風景を吸い込み始める。


あまりに鋭利になりすぎた刃の周辺では、空気が触れる端から細断され、大気の粒が悲鳴を上げて分解されていく。


その時であった。無音の工房に、硝子がらすを爪で立てたような音が響き渡る。


それは今ここに存在する音ではない。数瞬後の自分が、この刃によって不注意に指を切る響きであった。

因果を断つべく研ぎ澄まされた刃は、ついに時の障壁さえも透過し、未来の切断を現在へと引き寄せ始めたのである。


外で見守っていた騎士たちは、戦慄に声を失った。


工房の周囲だけ、時の運行が狂い始めている。 日時計の目盛りは、刃から放たれる気に当てられて内より裂け、まだ食しておらぬはずの昼餉ひるげの味が、舌の上で寸断されて消えてゆく。


これ以上近寄れば存在の前後を断ち切られると確信し、彼らは這々のほうほうのていで数里の外へと退いた。


「未来の俺を斬るというのか」


サクヤは血の気の失せた唇を吊り上げた。


ならばその未来ごと切り裂いてやる、己のごうが時という曖昧な理に屈すると思うなと、彼は冷たく言い放った。


彼はもはや手を用いてはいない。


かつて、視線だけで飛翔する羽虫のはねむしり取るという、峻烈な凝視の圧力をもって、刃を研ぎ澄ましていく。


彼の視界では、万物の隙間が底なしの深淵となって広がり、その一点一点を、己の魂という名の超微細なやすりで削り落としていくのである。


あまりの鋭さに、サクヤの指先からはいつの間にか指紋が消え失せ、おおやけの記録さえも彼を証明し得ぬほどに、その存在は世界から剥離はくりしていった。


色彩は失われ、この世の全てが、研ぎ澄まされた冷徹な「一線」へと収束していく。彼は未来の自分が斬られる音を子守唄のように聞きながら、存在そのものを鋭利なる線へと削り込む、狂気の作業に没頭した。


そこにはもはや、剣を打つ己と、研がれる鉄との境界すら存在しなかった。ただ、世界の皮膜ひまくを剥ぎ取らんとする、不可視の刃だけがそこに結実しようとしていた。


研ぎ澄まされた刃は、もはや物としての理を超え、現世うつしよの器が許容する存在の強度を逸脱しつつあった。


あまりに鋭利なるがゆえ、世界の空気や光と反発し、自壊の兆しを見せ始める。

鉄の表面に微細な亀裂が走り、虚空へと霧散せんとするその様は、あたかも現実というとばりに無理やり穿うがたれた「裂け目」であった。


「足りぬ」


この刃には、現実を繋ぎ止めるための「重み」が欠けている。

サクヤの声は、もはや掠れた風の音に過ぎなかった。


かつて彼は、三ヶ月の間、一度も瞬きをせずに太陽を見つめ続け、天地の真理を網膜に焼き付けるという、医家いかが聞けばその蛮勇ばんゆうに絶叫せん無謀な荒行を完遂していた。その時に培われた、自らの肉身を資材として使い潰すという異常な思考が、今、最悪の形で発動する。


まず、視覚を。

この醜悪な世界を見るに足る光など、もはや必要ない。往時の記憶を反芻すれば足りることだと、彼は心の中で断じた。


そう念じた瞬間、サクヤの瞳から光彩が消え、底知れぬ闇が落ちた。代償として、剣はその身に夜の深淵の如き深みを宿し、ことわりを無視した揺るぎなき輪郭を獲得する。


次に、聴覚を。

未来を斬る音も、騎士たちの的外れな喧噪けんそうも、もはや雑音に過ぎぬと言い捨て、耳を打つ風の音を永遠の沈黙へと沈めた。


代わりに剣は、振るわずとも空気を震わせる「存在の咆哮」を帯び始める。


サクヤの聴覚が鉄へ転写された結果、彼は絶界の静寂へと堕ちたが、その一方で剣の刀身は、微かな羽音から神の嘆きに至るまで、あらゆる響きの筋を捉える器となった。


五感を、一つ、また一つと引き剥がし、鉄の冷たさへと注ぎ込んでいく。


かつて、一万種の毒草を舐め分け、舌だけで植物の理を編纂へんさんせんとした、正気を疑う修行で鍛え上げた彼の鋭敏な味覚も、今や剣を「概念さえも味わい尽くす刃」へと変えるための生贄となった。


嗅覚も、触覚も。どうせ酒に溺れていた身、感覚などあればあるほど酔いの苦しみが増すだけだ。


最後には、人間を人間たらしめる「言葉」さえもが、彼の内側から削ぎ落とされた。


語彙が、文法が、そして「昨日の糧は何であったか」という卑近ひきんな記憶までもが、一口ひとふりの剣を現世に繋ぎ止めるためのくさびとして消費されていった。


そこにはもう、サクヤという名の人間は存在しなかった。


五感の代わりに鉄と意志を交わす「剥き出しのごう」が、暗闇の中で蹲っている。


外で見守る騎士たちは、工房から漏れ出す、一人の男の尊厳が文字通り削り取られていく気配に戦慄した。


中の男は今、己の名すら忘却したのではないか。彼の存在は背景の闇に溶け込み、そこにはただ、濃密なる「殺意の塊」が鎮座しているかの如くであった。


仕上げは、もはや技術ではない。一人の職人が己を完全に消滅させることで、神殺しの道具に無理矢理「現実」を植え付ける、凄絶なる自らへの供儀きょうぎであった。


サクヤは最後に残った、名工を気取る一抹の虚栄心さえも剣に注ぎ込み、ついに人間であることを辞めた。


工房の空気は極限まで凝縮され、重き質量を伴った殺意が、漆黒の刃となって、ついにこの世へと定着した。


そこには、神理を穿うがつのではない。打った主の全存在を飲み込んで成立した、究極の「嘘」が鎮座ちんざしていた。

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