小野寺陸 8
『陸?久しぶり。調子悪くなってない?』
「大丈夫、元気。隆一は?」
『まあまあかな、忙しくってさ。どいつもこいつも人のことこき使うから』
「隆一に任せとけば安心だからでしょ。そういえば最近大石さんにも会ってないなあ。隆一、知ってるっけ?見かけることある?」
『……いや、見てないなあ。でも噂も聞かないってことは元気なんじゃないかな?入院したとかそういう話だけはすぐ聞こえるからね』
少し歯切れが悪い。 大石さんとなにかあったのか。 そんな話は村上からも聞いていない。
「……そっか。ところで今日はなあに?誘ってくれるの」
『ああ、そうそう。今日、飯一緒にどうかなって。その後、この間陸も気に入ってたバーにでも行こうかと思って』
「あー……ごめん今日は先約があって……明日はどう?金曜だし」
『……明日ね……ちょっと待って。うん、大丈夫。じゃあ、時間はまた連絡するから』
「うん、ほんとにごめん」
『いいよ。陸にだって付き合いがあるんだし。楽しんできて?』
「ありがとう」
少し様子がおかしかったような気がする。電話を切った陸は暮れかけた夕方の空を見た。元気がなかったというか、具合が悪かったというか。なにか、本心を隠した歯切れの悪い物言い。
「……明日、話してくれるかな」
一人の部屋に落ちた呟きは、コロコロと部屋のすみに転がって行った。
仕事は引きも切らず、陸にとって飲みに誘える友人は大石たちくらいしかいなかったので久しぶりの夜の街だ。 週末を前にしてまだあまり賑わってはいない。 それでも人を避けながらでないと歩けない。 陸の前には遼太郎がいる。 慣れた様子で人並みをかきわけ進んでいく。
スーツ姿はここしばらくでずいぶん見慣れたが、それでもまだ違和感がある。 とくに、今日みたいに背中を向けられると、やはり時が流れたことを突きつけられる。 陸にとって記憶の中の遼太郎はジャージか、ユニフォームか、制服。 きちんと着ていたのは覚えている限り卒業式の時だけだったが。
伯父や伯母に迷惑がかからないように、問題を起こさず息をひそめて生活していた陸に、ほどけそうにかろうじて首にくっついているネクタイ、指定のシャツの下に見えるどこかのサッカーチームのTシャツの遼太郎は憧れだった。 その頃の自分を不幸だとは思っていない。 愛されて幸せだったと思う。 その幸せの間からこちらを見ている閉塞感が厄介だったのだ。
家族で囲む夕食、恥ずかしいからいいと言っても行われた誕生日、正月に写真館にまで行ってとった写真。 子供がいなくて寂しかったんだからやらせてよ、といって聞かなかった。 こんなに早く別れてしまうのなら写真だってなんだって、喜んで撮ったのに。
そんなうっ屈した学生時代、あの背中は陸を淡く照らす月のようだった。 手を伸ばしても届くはずがない。 伯母が倒れてからはそれすらも雨雲の向こうに隠れてしまい、前が見えない暗闇の中、手探りで歩いているような。
「大丈夫か?」
遼太郎が振り返る。 幼い子供を気遣うような顔をする。 こんな人混みで迷子になっても今ならボタンひとつですぐに居所がわかる、それなのに。
「だいじょうぶ。お前こそ、前見て歩けよ」
「おう。さっきの店旨かったな。また来ような」
「うん。食い過ぎて苦しいくらいだ」
「陸は相変わらず食細せえよな。ビュッフェ行ったら、元は取れねえ……」
「ああいうところは元を取ろうってところじゃ……どうした?」
急に立ち止まった遼太郎に危うくぶつかりそうになった。 遼太郎の前には人垣ができていてどうやらそれを見ているらしい。 輪の中心には男女がいて、ああ、往来で痴話喧嘩かと面倒な気分になった。
「行こう。後ろもつかえてる……って、遼太郎?!」
「……っ」
遼太郎が急に人垣の真ん中に向かってかきわけ始めた。 一瞬呆気にとられた陸も、慌てて後をついてくる。 ぽっかり空いた真ん中では陸より少し年下かと思われる男が女に対して大声で怒鳴っている。 知り合いか?大股で近づいた遼太郎は、女を背にして二人の間に立ちはだかった。
「なにしてんだよ、こんなところで」
「こ、ぐれ先輩……」
「……遼太郎?」
ふたりは遼太郎の登場に一気に顔色をなくした。 陸はなすすべもなくことの成り行きを見守るしかない。
「何してんだって聞いてんだよ!」
地面まで揺るがすような声に回りを囲んでいた野次馬も散りだした。 3人とも口をきかず遼太郎だけが相手の男を睨み付けている。
「……言えばいいじゃん。いい機会だし」
「何、言って……」
男が口火を切ると女がそれに答えた。 遼太郎がイライラと片足で地面を蹴った。
「だからなんだっつうんだよっ!」
「先輩の彼女オレとも付き合ってたんすよ。もう半年も前から」
「や、やめて……」
「それで、子供できちゃってどうしようとか言い出すから、オレの子なわけないだろって言ってたところです」
彼女の方がついに泣き出した。 遼太郎に隠れるように小さく震えて。
あの子が、遼太郎の彼女。
華やかさはないが優しそうで、遼太郎によく似合っている。 それなのに、浮気?こんな彼女のピンチも救ってくれないような男と?
「……本当なのか?苑子」
「あ、あの、違うの、ちが……」
「本当なのかって聞いてんだよ!」
「ごめんなさ……ごめん……」
彼女が座り込んでしまった。 陸は思わず駆け寄り、肩を抱いて立ち上がらせた。
「こんなところで大声で話すことでもないだろ!彼女の……体にさわる。遼太郎、帰るぞ。落ち着いてから話せ!」
「っ……」
遼太郎も相手の男も悔しそうに睨み合っていたが、構わず陸はタクシーを止めた。 女を先に乗せると後に乗り込んだ。
「あんたも帰りな。ちゃんと後日話し合いの場を持てよ?」
「……はい、すんません」
タクシーの中では、誰もしゃべらなかった。 ただ一回、タクシーが動き出すとき、遼太郎がどこかの住所を告げた、それだけだった。
「ここで少し待っていてください」
陸は彼女に手を貸し、タクシーを降りた。 彼女は実家住まいのようで、ここだと言われた家には立派な門があった。
「おれ、木暮の友人で小野寺です……あの、さっきの彼が言ったこと……」
「本当です……ごめんなさい」
「おれに謝んなくていいんだけど。いや……あいつ、遼太郎いいやつだからさ、よく考えて。これからのこと」
たちまち顔が歪んでボロボロボロッと両の目から涙がこぼれていく。 ギョッとする陸を気にもせずにおいおいと彼女は泣き続ける。
「す、好きだって、言われて、う、れしくって……モテたことなんて、無かったからっ……どうしよ……」
言いたいことはたくさんある。
好きだって言われれば恋人の存在も無視して浮気すんのか、子供まで作るってどういう了見だ、遼太郎よりいい男なんてそうそういないぞ……贅沢な女。 異性だっていうだけで恋愛の対象として視界に入れてもらえるくせに。 子供ができるなんて固い鎖で好きな男を縛り付けておけるくせに。
でも。
「おれにそれを言われても困る。今はおれもショックで、君に優しくしてあげられない。とにかく、体に悪い。落ち着いてよく休んで」
「はい……」
「必ず話し合って。一人で決断したりしないで?」
「はい……」
肩を落として家に入っていった彼女は、結婚を控えた幸せな時期の涙の帰宅を親になんて説明するのだろう。 大きなお世話だな。 陸はもうひとつの問題の待つタクシーへと駆け足で帰っていった。
「あ、れ、連れは?」
「あそこ」
車まで戻ると遼太郎は乗っておらず、運転手が面倒くさそうにガードレールの方へ顎をしゃくる。 見ると遼太郎が体を折って戻していた。 あまり飲んでいなかったように思うが、大声を出したり頭に血が昇ったりで具合が悪くなったのかもしれない。
「お客さん、まだ乗るの?車汚されるのは勘弁してほしいんだけど」
「あー……ここでいいです。おいくらですか?」
運転手に金を払うと、陸は目についた自動販売機に走り水を何本も買った。 両手に抱えると遼太郎のところに戻った。 コンクリートの側溝に向かって胃の中のものをもどしている遼太郎の背中をさする。 落ち着いたのか、ふらふらと立ち上がり反対側の民家の壁にもたれ掛かった。
「どうだ、具合」
「んーー……」
「ほら、水飲めよ」
ふたを開けたペットボトルを渡すと他のボトルを開け道路の汚れを流した。 ここはさっきの彼女の家の目と鼻の先だ。娘の彼氏がよその家の玄関先を汚していたでは体裁が悪い。
「なあ陸ー。男好きになるってどんな感じ?友達と何が違うの?」
……なんだ急に。 聞いたところで何かの参考になるとも思えないが。それでもなにか話したい気分なんだろうな。 しばらく考えて陸は話し出す。
「……友達なら思わない感情を持ったら、それが恋だと思う。例えば、その人の全部がほしい、すべてに触れたい、触れてほしいって。そういうの、男と女でも一緒だろ?」
「俺のこともそーゆー風に好きだったのー?高校ん時」
「酔ってんな。そんなこと聞いてどうすんだよ」
「いいじゃん、聞きたかったんだもん」
酔っぱらいの相手は慣れている。 明日になればきっと覚えていないのだろう。 言われたところで気持ちが悪いだけだと思うが、まあ、忘れてしまうのなら構わないか。
「そうだよ。そういう風に好きだった。お前が触ってくれるなら死んでもいいって、あの頃は思ってたよ」
「まじかー、そっかー。あのとき陸のこと好きになってたら、こんな風に振られることはなかったんだよなー……」
「そんなもしもはないから」
たわごとに付き合いながら足元をジャアジャア流す。大方きれいになって振り向くとヤンキー座りで壁に持たれて居眠りをしていた。体が痛くなりそうだ。
「おい、起きられるか?お前んちどこだ?」
「ん?トウキョウ」
「奇遇だなおれもだよ、じゃなくて。もっとピンポイントで」
「忘れたー」
「忘れんなよ、大事なとこだろ」
「陸んち行くー」
「バカなこと言うなよ」
「だって、俺んちは何度も来たのに陸んちは行ったことないもん」
ないもんじゃねーよ。 毒づきたい気持ちをグッと押さえた、相手は前後不覚の酔っぱらいだ。
陸の部屋もここからは少し距離がある。 携帯でタクシーを呼ぶと自分のハンカチを濡らして遼太郎の顔を拭ってやった。
「わあー、陸んちだー」
「静かに!何時だと思ってんだ……」
車の中で酔いも冷めたのか、遼太郎はまだ飲み足りないと言い出した。 普段なら、明日も仕事だやめておけと言うはずの陸だったが、さっきの悶着を見たあとではそう冷たくもできない。 どんなに飲んだって問題が解決するわけではない。 でも、思いきり飲みたい夜があることも知っている。
二人は部屋の少し前で車を降りコンビニに寄って酒を買い込んだ。 そんなに買ってどうするんだという量をかごに放り込む遼太郎に、金を払うこともストレス発散になるって聞いたな、と黙って見過ごした陸だったが。
「……りーくー、俺どこで寝たらいいー?」
「はいはい、今準備しますよー」
気のすむまで、がどのくらいだかわからないが帰宅後たっぷり二時間は飲み続けた。 最後は寝てるのか飲んでるのかわからないくらいだった。
遼太郎の彼女は苑子といって、四つ年下の25歳。 彼女が最初、どんなに地味ななりだったかを切々と語りそれがどんなにかわいかったかを様々なエピソードで聞かせた。
一緒にいた男は、遼太郎の後輩で普段から目をかけていた仕事のできるやつだったという。 こんな仕事を一緒にやった、あんな失敗をした、にこにこと話ながら恐ろしいペースで酒を飲む。
陸は、気づいていた。 遼太郎は、二人を決して悪く言わない。 原因が自分にもあると思っているのか、心当たりがあるのか、それはわからない。 今夜くらいは吐き出して、楽になればいいのに。
陸はソファの上にタオルケットを重ねて敷いて即席の寝床を作る。 恋人すら泊まりに来ないから客用布団なんて代物もない。 冬だったら凍死してもらうところだった。 遼太郎と同じ布団をわけあうことはできない。
「おい、準備出来たぞ。ソファで悪いけどこっちで……」
1LDKの間仕切りをはずして使っている部屋はベッドルームまで丸見えだ。 枕元になる部分においたチェストの影から足が見えた。 陸のベッドで横になっている。
「……おい、何やってんだよ。寝るならこっち……」
肩を揺すった陸の腕を熱い手のひらが握る。 あっと思ったときには遼太郎に組み敷かれていた。
「……冗談はよせ」
「……」
「おい……」
遼太郎の頬でリビングからの照明の灯りに照らされ何か光った。 陸の腕と肩を握った手が力を増しながらブルブル震えている。
「……ずっと、おかしいと思ってた……でも、あいつに限ってそれはないって……俺、裏切られてた……二人に」
「りょ……」
顎を引いた顔は見えなくて、でも、嗚咽をこらえる乱れた呼吸から遼太郎の憤りはわかる。 泣いた彼を、始めて見た。 こんな風に泣くんだ。 それでは悲しみも怒りも洗い流せないだろう。 泣けばいいのに。 それで何も解決しないことくらいわかってはいるけど、今夜ゆっくり眠れるのなら。
「遼太郎……」
「なあ、男同士でもセックスってできんだろ?俺としてよ。慰めてよ……」
「は?」
「……もうずっとしてないんだよ……俺とはしたくなかったんだろ。結婚の約束までしてたのに……くそっ」
くそ、はこっちだ。 こいつ、飲みすぎて頭がおかしくなったんじゃなかろうか。 ギリギリと込められる指先の力に、恐怖すら感じる
「なあ、やらせろよ……」
「……っ」
ヤバい、今のはキタ。 酒の入った色気のある低音。 接近したことで感じる遼太郎のにおい。押さえつけられる重みに、このままどうにでもして欲しくなる…………いやいやいや、ダメに決まってんだろ!
渾身の力で起き上がり、遼太郎の肩を押さえつけた。
「お前バカか?一時のうっぷんばらしでそんなことしてみろ、一生後悔するぞ?まあ、おれはゲイだし一晩だけのお付き合いもあったから、好みのタイプのお前と寝れたらラッキーくらいだけどさ」
「り……」
「でも、お前は違うよ。彼女とのこと解決してないのにこんなことしたら、ずっと嫌な記憶として残るよ」
遼太郎が陸を見つめる。 奥歯を噛み締めて、声も出せずに。 傷ついているんだよな、わかるよ。 男のおれにすがらずにいられなかったほどに。
「もう寝な。今日はここ貸してやるから。シーツとかそのままでいいか?気になるなら変えるけど」
遼太郎は首を振ることで答えた。 シーツは変えないでいいらしい。 陸はゆっくり起き上がり、遼太郎の頭を撫でてやった。 子供じゃなし、そんなことで安らかに眠れるもんかとは思うが、せずにはいられなかった。
おやすみ、ゆっくり休んで明日に備えろ。 それで、みんな間違いで、勘違いで、遼太郎は変わらず幸せな明日が来る夢が見られるといい。 夢の中くらいは許されるだろう?
自分で作った即席ベッドは案外寝心地がよかったが、陸は寝付けなかった。 結局ほとんど睡眠もとらないまま、外は明るくなってしまった。 仕方なく起き出して風呂を掃除する。
ここから遼太郎の家までどのくらいかかるか知らないが23区内なら2時間もあれば帰って着替えくらいできるだろう。
自分の身支度をするために寝室に入る。 奥に備え付けの
クローゼットに着替えはしまってある。
遼太郎の顔をのぞきこむ。 うっすらと口を開けてまだ眠っている。 よかった、眠れなかったら今日一日キツいだろう。
「……ここでいいか」
遼太が寝ているのをいいことに、いつもの通りクローゼットの前で着替える。 パジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、とりあえずジーパンとシャツを着る。 そしてキッチンに戻って朝食を作った。
しばらくすると遼太郎も起きてきて、風呂をすすめるとボーッとしたまま入っていく。
朝から人の気配のある部屋、というのも久しぶりで落ち着かない。 ドアの音、スリッパが鳴らす音、シャワーの音。
「何年ぶりだ……」
「何が?」
「わああっ」
「何驚いてんだよ。お、いいにおい」
髪をタオルでわしわしと拭きながら、遼太郎がすぐ後ろにいた。 まだぼんやりしているし、目の下も少し黒い。 やはりあまり眠れなかったようだ。
「うるさかったか、少しは眠れた?」
「あー……少しは」
「飯は食ってく?」
「ごちそうになります」
「大したもんはないけどな」
あんなことがあったあとだからか、遼太郎はほとんどしゃべらず黙々と食事をして帰っていった。 家はここから電車で20分くらいのところだと言っていた。 ただこの部屋は駅からは少し離れているから、遼太郎が家にたどり着くまでには1時間はかかるだろう。
陸は、遼太郎を送り出した玄関でその場にへたり込んでしまった。 両手も床に付けぐったりとうなだれた。
「あんなこと言うんじゃなかった……」
食事が終わった遼太郎がさっさと身支度を整え会話もなく帰ったのは恐らく夕べの陸の発言があったからだろう。
『まあ、おれはゲイだし一晩だけのお付き合いもあったから、好みのタイプのお前と寝れたらラッキーくらいだけどさ』
普通に考えて『タイプの男だ』『お前と寝れたらラッキーだ』などと男に言われて喜ぶ奴もそうはいないだろう。
陸にしてもそのくらいのことを言って突き放さなければ夕べは危なかったのだ。 それでも
「おれってバカー……」
せっかく昔のように話せるようになったのに、たぶんもう、おしまいだ。 イベントの仕事も一区切りついた。
このあとは下刷りが出てチェックして、見本が出てチェックして、出版されて打ち上げかなんかがあって解散だろう。 そうすればもう会うこともなくなる。
「彼女と、結婚するのかな……」
そのまま玄関に仰向けに転がった陸は出勤時間が迫るまで動くこともできなかった。
今日もありがとうございます。
ここ最近のお天気みたいにずっしり重たくなって申し訳ありませんが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
また明日22頃お目にかかりますー。
うえの




