05 : 蘇芳 永久子 … ヒロインを虐げる残虐非道な悪役令嬢
「命令に従うしか能がないくせに、その命令すら届かぬ場所へ左遷されたか! 粗相でもやらかしたんだろう? この駄犬!」
「てめぇ様と一緒になさらないでいただけますか。永久子様のお顔に足で泥をかけるような真似をしておいて、よくもまぁぬけぬけと―― 一条家ご嫡男の友康様ともあろうお方が、近ごろの迷走ぶりは目に余るのではありませんか?」
殴り合いと言っていたが、友康と清十郎は育ちのいい坊ちゃんである。胸ぐらを掴み合い怒鳴り散らしているが、実際にまだお互いに手を上げていないようであった。
女生徒の前に飛び出した永久子は、急いで場所まで案内させた。後ろから同じく駆け足でついてくる花純の姿も見えた。
校内でも目立つ場所であるエントランスで起こした騒動は、すぐに教師の知るところになるだろう。生徒会長である一条にとって、それは汚点にしかならないに違いない。また、永久子の傍仕えを離れている間に清十郎が騒ぎを起こすのは、彼にとって最も忌諱すべきことであった。
「余程あの狐の股具合がよかったのでしょうな」
「志田を愚弄する気か!!」
「永久子様をあれ程こけにし、散々傷つけておいて――どの口がそんな戯言を……」
「貴様――殺してやる!」
「かかって来いや! 返り討ちにしてくれるわ!」
荒々しい怒鳴り合いに、案内をしてくれた女生徒と花純は顔を蒼白させて、その場で足を止める。
友康が清十郎の胸ぐらを掴んだまま、殴りかかろうと拳を上げた。永久子は地面を蹴って、二人の前に躍り出る。友康の手を掴み上げると、二人の間に体を滑り込ませた。唖然とした二人が体の力を抜いたせいで、自然に隙間が生まれる。永久子は友康を背に庇い、清十郎を睨み上げた。
「友康様、お下がりください」
「――永久子」
友康と、清十郎が正気を取り戻した。そして、血の気を引かせる。
清十郎は、永久子が咄嗟に庇った友康への愛を見せつけられて。
友康は、永久子からの愛に、罪悪感を得て。
「清十郎からの非礼は、改めてお詫びに伺います。この場は一旦、お預けいただけますか?」
「……あぁ、もちろんだ」
女の背に庇われた友康は、力なく拳を下げた。永久子はそれに従い、そっと手を外す。友康に体を向きなおすと、深く頭を下げた。
「ご寛容に感謝いたします――ですが、友康様」
背筋を伸ばした永久子から突如迸る威圧感と怒気に、清十郎と友康は知らず生唾を飲み込んだ。
「清十郎を殺すのは、私です」
「――は?」
てっきり清十郎の弁護が来るのだと思っていた友康は、気の抜けた声を吐きだした。友康に向き合っている形となっているため、背後に位置する清十郎もまた、呆気にとられている。
「志田様」
突然その場に引き出された花純は、ハッとして永久子を見た。永久子は底のない沼のように静かな瞳で、花純をじっと見つめている。
「友康様でも、生徒会の席でも、清十郎の愛でも。好きなものをくれてやりましょう――ですが。彼を殺すその役目だけは。誰にも譲ることなどできません」
どうぞご甘受を。今度は友康に向かって頭を下げる永久子を見て、全員がその場で固まった。清十郎だけが、永久子の後ろ姿を見て、林檎のように頬染めている。
永久子は固まっている花純の元へ歩いた。花純はびくりと肩を震わせる。そのあまりの怯え様に友康が反応する。しかし、花純を刺激しないようにゆっくりと近づく永久子を見て、ぐっと足を踏みしめた。友康と永久子の間に愛は芽生えなかったが、長年の交流により信頼は育まれていたのだ。
「友康様の元へ行ってはいかが。彼は、貴方の誇りのために拳を突き出したのですよ」
花純は永久子の言葉に、蒼白させた顔のまま首を横に振った。
「無理よ、だって、あんな……嘘でしょ。生徒会長は、冷酷だけど、本当は優しくて、誰よりもヒロインを溺愛するキャラで……だって、こんなイベント、知らない……」
「目を覚ませ! 志田花純!」
永久子は声を張り上げた。
「今はお前が、志田花純だ」
崩れ落ちる花純を、友康が支えようと慌てて駆け寄る。友康が花純の肩を抱く。
「嘘よ、だって、こんなの……」
顔を覆う花純を宥めようと、友康は何度も彼女の肩を撫でた。
対峙する永久子。寄り添い合う友康と花純。
その様子を見て、友康の心が何処にあるのか、わからぬ者はいなかった。
「どうしたんだ、志田」
「私、どうしたら。どうしたら――」
「すまない。驚かせたんだな。恐ろしい思いをさせて、すまなかった」
「どうしたら……これから……だってそんな……」
混乱する花純の肩を、友康がおろおろとしながら擦る。花純はそれを見て、更に困惑した。友康は、こんなキャラじゃない。人前でこんな風に戸惑ったりしない。いつも完璧で、クールで――。
「怖かったんだな、すまない。すまない」
けれど、撫でてくれる手がこんなにあたたかいことを。
花純は、知らなかった。気づいてなかった。当然のように受け取っていた贈り物に、彼がどんな気持ちを込めていたのか。スチルと立ち絵の世界しか見ていなかった花純は、こんなに身近にいた人の心にも触れようとしなかった。
「……一条様……」
「どうした、志田。何でも言ってくれ」
ようやく自分を見た花純に安堵した友康は、これ以上ないほど甘い声で花純に言った。花純はその声に、涙が浮かびそうになる。
「私、これから。貴方の理想の人では、ないかもしれない。この先のルートを、知らないの――けど、私。……私で、貴方の隣に、いたい」
「もちろんだ。君は君のままで、俺の小さな太陽だ」
友康様っ……! とロマンス映画さながらに抱き合った二人に、感極まった観衆が拍手を送りたくなった手をワキワキとさせていた。
これから先の未来は、二人が紡いでいくだろう。その場を離れようとした永久子とは逆に、清十郎が花純へと近づいて行った。
永久子の心臓が、ドキリと跳ねる。
清十郎の想い人が花純であれば、彼は今どんな思いで彼女に近づいたのだろうかと。永久子の心がしくしくと痛み始めた。
「志田様」
「はっ、はいっ!」
清十郎が花純に声をかけた。友康は先ほどの清十郎の暴言を忘れていない。厳しい視線で清十郎を制す。
「先ほどの数々の暴言、大変失礼いたしました」
「あ、いえ、私は、別に……」
暴言の内容を思い出した花純が、顔を真っ赤にさせた。
真っ赤になった花純を隙あらば甘やかそうとする友康を無視して、清十郎は「それはありがとうございます。ところで――」と簡単に話題を転換させた。
「以前、私がお尋ねしたことを覚えてらっしゃいますか?」
――男子にはちょっと言いにくい、恋の話などをしているだけですから。
「は、はいっ」
話の内容を瞬時に思い出した花純は、ブンブンと首を縦に振った。その花純の喉元を狙う猛獣のような真剣な目で、清十郎が言葉を零した。
「あれは、一体――誰と、誰の?」
花純は、これがゲームではなく、現実であると先ほど受け入れた。未だ現実味には程遠くはあるが、これからしっかりと意識を変えていくことだろう。
なのに今、花純の目の前にはポップアップが浮かんでいるように感じた。全部で三択の、決死をかけた一大イベント。
間違えればバッドエンド――即死ルート確定だ。
花純は、慎重に口を開いた。
「蘇芳さんと――高遠さんの、お話、です」
間違ったことは言ってない。永久子と、清十郎の話で盛り上がったことも数知れない。
だから、だから許せ。生贄に捧げたことを、どうぞ許してくれ。
花純は心の中で盟友に謝った。その盟友と言えば、花純と清十郎の訳が分からない会話に、きょとんと首を傾げている。
「どうしたのです、清十郎」
両手で顔を覆い、天を仰いでいる清十郎の不審な行動に永久子が声をかけた。
友康も若干引いているが、あまり驚いてはいない。彼は、清十郎が永久子のことで逸脱した行動を取ることに対して慣れていたからだ。
「……永久子様。今日、私は初めて、授業をさぼりたいと思いました」
「そうですか。どのみち、この騒ぎはもう教師にも知られたことでしょう。拳骨が一つも二つも、そう変わりありません――帰りますよ」
では、皆さん御機嫌よう。
永久子は白鳥の女王に相応しい笑みを浮かべると、呆然とする皆を置いて立ち去った。後ろに、いつものように清十郎を連れて。
「永久子様」
「なんだ」
「永久子様」
「なんだ」
呼んだ車を待っているのも面倒だと、永久子は足を進めていた。その後ろを、清十郎がついていく。
新しく永久子のお付きになった女生徒は、清十郎が言いくるめて学園に残している。それを、永久子も止めなかった。
家から車が来るには、まだ時間がかかるだろう。清十郎は決して振り返らない永久子の背に向けて、もう一度名前を呼んだ。
「永久子様」
「だから、なんだと申しているっ」
振り返った永久子の顔は、真っ赤だった。
その顔を見て、清十郎は噴き出しそうになる。
「うるさい、見るな! 何故かお前を見ると、顔が赤くなる!」
見るな! と首を横に振る永久子は、それでも逃げはしなかった。
そうだ、永久子が清十郎から逃げた事など、ただの一度もなかった。
逃げ出したのは自分だった。清十郎は己を恥じた。永久子は目を逸らしながらも、決して清十郎から離れようとはしなかったのに。
追い縋るべきだった。額をこすりつけてでも、懇願するべきだった。任を外してくれるなと、永久子の傍にいさせてくれと。
「永久子様」
「なんだ!」
悲鳴のようなその声を、清十郎はずっと聞いていたかった。
「私を殺すのですか?」
「――他の誰かにその役目をやるのなら、わらわはお前を今ここで、殺してもいいと思ってる」
それは、永久子にとって禁忌だった。永久子に人間の心を灯したあの時から。永久子は絶対に、虫や他の生き物に対しても「殺す」という言葉を使うことは無かった。
「私の愛を、志田様へ下賜なさるのに?」
「わらわに愛はわからない」
痛みは知っていた。悲しみも知っている。
ただ、愛だけは、永久子にとって明確に言葉にできない感情だった。
「だが、わからなくても、知っていることはある」
永久子は清十郎をしっかりと見据えた。
「――お前は嘘だと思うだろうが、わらわには前世の記憶がある。それも、ただの人ではない。人を蹂躙し、動物を嬲り殺し、それに快楽を得るような――どうしようもない、屑であった」
唐突に始まった永久子の吐露を、清十郎は微動出せずに聞いている。
「……わらわの前世は、魔王。この世界に蘇芳永久子として生まれ落ち、目も明かぬ赤子であった時から、わらわはそれを把握していた」
――これほど、親不孝なことがあるだろうか。
永久子は語尾を震わせた。
「わらわは……お前に志田花純に近づくなと言われても、彼女の持っている知識に縋りたい。元々の蘇芳永久子の姿を知っているという彼女なら、本来生まれてくるはずだった蘇芳永久子にしてくれると、そう思った。それが、わらわを生み落し、愛し、育ててくれた父母への、愛というものだと……人は、そう言うのだろう?」
潤んだ瞳で見詰められ、清十郎は口を開いた。
「知っておりますよ。永久子様の前世が、魔王であることを」
「な、なぜだ!」
永久子は目を見開いた。永久子にとって、トップシークレットであった事柄を清十郎が知っていたことが信じられなかったのだ。
「貴方が言っていたではありませんか。幼い頃に。わらわは魔王だったのだぞ、と」
子供のころの戯言だと。誰も真剣に耳を貸さなかった。じいやでさえ、その部分は永久子の虚言だと思っていただろう。なのに、清十郎は幼い頃から、ずっと。永久子のそんな言葉を信じていたというのか。
「な、なぜ」
「なぜとは」
「そんな馬鹿な話を、信じたのか」
「もちろんです」
「なぜだ」
「――貴方が、私に一度も嘘をついたことがないからです」
真摯な目でそう言われ、永久子は息をつめた。
清十郎が何度も永久子に撒かれる理由。それも、永久子の言葉を全て信じたからに過ぎない。
「私は、貴方が魔王であることを知っておりました。その上で、私は蘇芳永久子様である貴方に長年お仕えしてきました」
清十郎が、一歩踏み出してきた。永久子は怯えて、一歩後ずさる。
「私たちが幼い頃から共にあり、守り、育んできたのは。ちょっとしたことですぐ怒り、使用人の話もろくに聞かず、何の目的かダンボールいっぱいの林檎を抱えて登校するような、はちゃめちゃなお嬢様です。これが人でなければ、何を人と呼ぶのでしょう」
「なんだそれは! いいところが一個もないではないか!」
「欠点だらけですが、少なくとも、私はこれ程魅力的な女性を知らない」
「どこがだ!」
「では、こういえばご満足ですか。想定外のことばかりをして人を振り回し、故意か無自覚か、人を乱すのが大変得意な可愛いお方だと」
永久子はピシリと固まった。
ようやく出てきた勢いが、急速にしぼんでいく。収まっていた頬の熱がぶり返す。
清十郎は花純の返答を、全て信じたわけではなかった。それでも、もう永久子から逃げたくなかった。彼女に恥じる自分でありたくなかったし、彼女の頬の赤みを、自分のものにしてしまいたかった。
しかし今、自分の気持ちを優先させるよりもするべきことがある。清十郎は永久子を見つめた。
「目をお開きになってください。貴方の周りは今、悲哀に満ちておりますか? 幸福が溢れているのではありませんか? 象らねばならぬ愛しか、貴方の周りにはありませんか?」
清十郎の言葉を永久子は戸惑う気持ちのまま反芻した。そして、家の様子を一つ一つ思い返す。
仲のいい両親。いつもにこにこと優しいじいや。嫌な顔一つせず永久子の願いを聞いてくれるお女中たち。永久子様、永久子様、と慕ってくれる学園の生徒たち。そして、傍でずっと見守ってくれていた清十郎。
「――わらわが、ここにおっても。よいのか」
「当たり前です。貴方だけが、私にとって唯一の、蘇芳永久子様です」
ポロポロと涙を零し、鼻を啜りあげた永久子が清十郎に手を伸ばした。清十郎は永久子の肩を抱き、優しく抱き留める。
「お前は、お前だけは。わらわの生きた証なのだ。お前が認めてくれるなら、わらわはきっと、蘇芳永久子になれる」
永久子は清十郎の胸に顔を隠しながら泣き続けた。
車が来て、家に帰っても、永久子の涙が枯れることは無かった。何事かと集まってきた家人を追い払い、永久子はいつものソファに清十郎を座らせると、その上に跨って再び身を埋めた。
清十郎はそれを、満ち足りた顔で受け入れている。
清十郎の体温に安心した永久子は、うとうととし始めた。
「お眠りに?」
「いや、もう少し起きている」
「ご無理をなさらずに」
「あとしばらくこうしていたい。ここは一等、気持ちがいい」
ぐりぐりと額を押し付けて来る永久子の背中を撫でながら、清十郎が「ところで」と先ほど流した本題を切り出した。
清十郎の「ところで」はろくなことがない。永久子は狸寝入りを決め込んだ。
「志田花純と永久子様の付き合いはあとで話し合うとして。先ほどのお話が、私の愛を志田花純に下げ渡す理由でしょうか?」
「下げ渡すとは……人聞きが悪いぞ」
狸は一瞬で剥がれた。唇を尖らせる永久子に、清十郎は飄々と言ってのける。
「おや、人聞きが悪いどころか。私は大いに傷つきました」
きょとん? と首を傾げそうになった永久子が固まった。先ほど言われた言葉を思い出したのだ。
――お前、好いた者がおるのか。
――ええ、おります。想定外のことばかりをして人を振り回し、故意か無自覚か、人を乱すのが大変得意なお方です。
では、こういえばご満足ですか。
――想定外のことばかりをして人を振り回し、故意か無自覚か、人を乱すのが大変得意な可愛いお方だと。
「……お、お。お?」
未知の出来事に永久子が固まった。永久子の240年あまりの人生で、初めての感情がふつふつと胸から沸き上がる。
意味の分からない、このふわふわしたものが気持ち悪くて、永久子は何度も息を吐きだした。そんな永久子の心境を知ってか知らずか、清十郎が永久子の頬を両手で包み、瞳を覗き込む。
「私の全ては永久子様のものだと思うておりました。それこそ、生を手放すその瞬間でさえ。なのに――愛を他人にくれてやると言われた、俺の気持ちがわかりますか」
凄むような清十郎の声に、永久子は思いっきり両手を叩いた。そうか、なるほど、そういうことか! 混乱する頭が少しずつクリアになってきた。
「なんだ! 清十郎、わらわに愛を受け取ってほしかったのか! ならさっさとそう言えばいいものを。よし、なら今まで通りだな。わらわに殺されたいと願っているのなら後ろめたく感じる必要はないし、お前は全てわらわのもの。よし、これまでと、何も変わらない!」
永久子はわけのわからない持論をもって清十郎に満面の笑みを向けた。
「な。清十郎、お前はわらわのものだな?」
清十郎は苦笑を返した。何もわかっていないのに、全てをわかっている永久子に向けて。
「ええ、その通りです」
「なんだ。ここ最近色々考えすぎた。はぁ、ようやくつっかえが取れたぞ。わらわはとりあえず寝る。清十郎、枕になれ」
「ご随意に」
清十郎の胸枕で眠っていた永久子が、じいやの冷ややかな怒りで起こされるのは――あと少し。
今ここから、ようやく永久子の物語が始まる。
――こうして魔王は、女子高生へと転生したのだった。