第29話:一ノ瀬の休日と、届かなかった「ノイズ」
土曜日、午後三時。
都心の超高層ビルにある、ミニマリズムを体現したようなコワーキングスペース。
一ノ瀬は、寸分の狂いもなくタイピングを続けていた。彼のデスクには、完璧な温度で淹れられたエスプレッソと、無駄な装飾を一切排除したノートPCがあるだけだ。
「……ふむ」
一ノ瀬は手を止めた。
現在のタスクは完了。予定より十二分早い。以前の彼なら、ここで次のタスクを前倒しして「最適化」を加速させていたはずだ。
だが、彼はふと、周囲を見渡した。
静寂。キーボードを叩く乾いた音だけが響く、完璧に管理された空間。
……物足りない。
あの、耳を劈くような重機の咆哮。壁越しに聞こえる、若の的外れな叫びや、女王の鋭い叱咤。そして、師匠の深い笑い声。
「……脳が、あの非効率な刺激を『必要情報』と誤認しているのか」
一ノ瀬は自嘲気味に呟き、スマートフォンの画面を開いた。
連絡先の一番上。昨日、佐藤から届いていた「サード・プレイス」という名前の付いたプロジェクト案。
彼は、迷うことなくキーボードを叩き始めた。
同日、午後八時。
自宅で明後日の資料を見直していた佐藤のスマホが、短く震えた。
送り主は、一ノ瀬。
件名:プロジェクト案における致命的な欠陥について
佐藤君。
君の送ってきた『サード・プレイス』計画だが、ロジックが甘い。特に、防音設計に関するコスト計算が現場の『声の反響』を考慮していない。
私が在籍中に収集した、君たちの『洗浄音の周波数データ』を添付する。この周波数は、人間の脳をリラックスさせる1/fゆらぎに近い特性を持っていることが分かった。
これを『環境音』として正式にロジックに組み込め。そうすれば、役員会も認めざるを得ないはずだ。
追伸:
そろそろ、一番個室の汚れも目立ち始めている頃だろう。……無駄のない週末を。
「……一ノ瀬さん」
佐藤は、思わず吹き出した。
あんなに「無駄だ」と切り捨てていた洗浄音を、いつの間にか分析し、味方につけていたなんて。
添付されたファイルを開くと、そこには一ノ瀬らしい緻密なグラフと、一番最後の一行にだけ、小さくこう書かれていた。
『ノイズのない世界は、死んでいるのと同じだ』
「……よし。月曜日、見せてやるよ。俺たちの音楽を」
佐藤はスマホを閉じ、大きく伸びをした。
解体完了まで、あと十四日。
いよいよ、物語は運命の「最終週」へと突入する。
更新通知を受け取りたい方は、ぜひブックマークをお願いします!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!




