第22話:空席の余韻と、金曜日の静寂
金曜日、午前八時四十五分。
一ノ瀬という「最高のノイズ」が去った後の聖域は、どこか広く、そしてひどく静まり返っていました。
「ガチャン」
いつもの三番個室。
昨日まで隣の一番個室から聞こえていた、あの無機質で規則正しいペンの音がない。たった数日間の乱入だったはずなのに、その不在が、使い古された壁のシミのように心に染み付いている。
「……おはようございます。……一番個室、本当に空っぽですね」
俺がぽつりと呟くと、左隣から、師匠(社長)の重厚な声が響いた。
「……ああ。だが、あの男が残した『波紋』は、まだこの個室の中に響いている。三番個室さん、寂しがることはない。彼は自分の足で、新しい旅に出たのだからな」
「そうっすね……。でも、一ノ瀬さんがいないと、僕のタイパ(タイムパフォーマンス)を叱ってくれる人がいなくて、なんだか調子狂うっすわ」
右隣、四番個室。若(山崎)の明るい声も、今日はどこか湿り気を帯びている。
「……馬鹿ね」
壁の向こう側、女子トイレ。女王(二階堂)の凛とした声が、沈んでいた空気を切り裂く。
「あいつがいない分、私たちがしっかりしなきゃいけないんでしょ。プロジェクトの修正案が通ったからって、浮かれてる暇はないわよ。……来週からは、現場の調整で地獄を見るんだから」
「女王……。相変わらず厳しいですね。でも、その厳しさが今は心強いです」
俺が苦笑いしながら答えると、師匠が低く笑った。
「……はっはっは! その通りだ。さて、諸君。一ノ瀬君のいない初めての朝だが、我々のルーティンに変わりはない。……今週一週間の汚れと、別れの寂しさを、すべてこの水に託そうじゃないか」
師匠の合図。俺は目を閉じ、レバーに手をかけた。
一番個室は空いている。けれど、そこには確かに一ノ瀬がいたという「気配」が、五人目の戦士としてそこに並んでいるような気がした。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が重なる。
一ノ瀬がいた時のあの鋭い音はない。けれど、四人の音は以前よりも深く、互いの響きを補い合うように重厚な和音を奏でていた。
午後六時。東西電機製作所。
「佐藤さん、お疲れ様です! 飲みに行きませんか?」
「悪い山崎、今日はちょっと寄るところがあってさ」
俺は、誘いを断って駅へと向かった。
あの白い仮囲いの前。作業員たちが引き上げた後の静かな通路。俺は、一ノ瀬が座っていた一番個室の扉を、外からそっと撫でた。
「……一ノ瀬さん。俺、頑張りますよ」
解体まで、あと十九日。
聖域は少しずつその姿を変えていく。けれど、俺たちの「声」が響いたこの空間の記憶は、誰にも解体することはできない。
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