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『毎朝、駅の公衆トイレで愚痴を吐いてたら、隣の個室に社長がいた件〜顔も知らない四人のデトックス・ダイアログ〜』  作者: beens


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第21話:一ノ瀬の卒業。一番個室が空く朝

木曜日、午前八時四十二分。

昨日の大逆転劇の余韻で、会社全体の空気が一変していた。廊下ですれ違う社員たちの目が、「万年平社員の佐藤」を見る目から「何かを成し遂げた男」を見る目へと変わっている。

けれど、俺が向かう場所は変わらない。

白い仮囲いの隙間を通り、埃の舞う「聖域」へと足を踏み入れた。

「ガチャン」

三番個室。

この狭い空間だけが、俺の重心を元に戻してくれる。

けれど今朝、一番個室からは、いつものような「冷徹なペンの音」ではなく、何かを整理するような、静かな衣擦れの音が聞こえていた。

「……おはようございます、皆さん。……昨日の一ノ瀬さんのデータ、役員たちもぐうの音も出ませんでしたね」

俺が声をかけると、一番個室から少しの沈黙のあと、落ち着いた声が返ってきた。

「……私の仕事は、再現性のある結果を出すことだ。驚くには値しない。……ただ、佐藤君。君の『情緒的なプレゼン』が、私の計算に最後の1%の説得力を加えたことは、記憶に残しておこう」

一ノ瀬の声には、いつもの刺々しさがなかった。

「……一ノ瀬君。君のその口ぶり……。どうやら、この場所での『仕事』は完了したようだな」

左隣、二番個室から、師匠(社長)が穏やかに問いかける。

「……ええ。私のコンサルティング契約は、今回の修正案採択をもって終了です。今日が、この会社での最終日となります。……当然、この『非効率な個室』に来るのも、これが最後です」

一ノ瀬の言葉に、俺の心臓がちくりと痛んだ。

あんなに嫌味で、冷酷だった男が去る。それだけなのに、まるで戦友を失うような寂しさが込み上げてくる。

「ええっ!? 一ノ瀬さん、辞めちゃうんすか!? せっかく、僕が『一ノ瀬流・タイパ術』をマスターしようと思ってたのに!」

右隣、四番個室から若(山崎)が叫ぶ。

「……山崎君。君に必要なのはタイパではなく、まずその語彙力をマスターすることだ。……それから、二階堂課長」

一ノ瀬が、壁の向こう側へと呼びかける。

「……なによ」

「……貴方の管理能力は、私の評価基準では『B+』でした。けれど、部下を信じて涙を流すその『ノイズ』は、計算不能な価値がありました。……せいぜい、壊れない程度にそのままでいてください」

「……ふん。余計なお世話よ、理屈屋」

女王の声は、鼻を少しすすっているように聞こえた。

「……一ノ瀬さん。俺……あなたに会えてよかったです」

俺の言葉に、一番個室の扉がゆっくりと開く音がした。

「……佐藤君。無駄を音楽に変えられるのは、君の才能だ。……だが、明日からは私のフォローはない。しっかりやるんだな」

一ノ瀬はそう言い残し、個室の外へと出た。

だが、彼は立ち去らなかった。扉の外で、彼が俺たちの返事を待っているのがわかった。

「……さて。……一ノ瀬君の新しい旅立ちだ。諸君、彼に最高の『エール』を送ろうじゃないか」

師匠の号令が響く。

「「「「「せーの……」」」」」

ゴォォォォォォォォッ!!

五つの洗浄音が、暗い地下に轟いた。

一ノ瀬の個室からも、迷いのない、力強い音がした。

それは別れの挨拶であり、彼を俺たちの「仲間」として送り出す、祝福の咆哮だった。

午前十時。

エレベーターホールで、大きな鞄を持った一ノ瀬と出くわした。

彼は一度だけ立ち止まり、俺に向かって、あの冷徹なエリートとは思えないほど、柔らかい笑みを浮かべた。

「……佐藤君。……そのハンカチ、大切に」

俺の胸ポケットを指差し、彼は一礼してエレベーターに乗り込んだ。

扉が閉まる直前、彼はポケットから何かを取り出した。それは、あのトイレの入り口に落ちていた「工事の破片」のようだった。

彼もまた、この場所の記憶を「ノイズ」として持ち帰るらしい。

一番個室が、空いた。

解体まで、あと二十日。

俺の隣が一つ分、軽くなったような、ひどく重くなったような……不思議な木曜日の朝だった。

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