Episode1 転生…?
花の甘い香り。
石鹸の清らかな匂い。
肌を撫でる冷たい風。
そして、まばゆい光。
でも、光は滲んでいく。燃える炎のような赤色と風の感触だけが最後に残った。
一斉に私の閉ざされた意識を強引にこじ開ける。
目を開けると、最初に目に入ったのは薄いレースの垂れ下がる天蓋だった。
繊細な刺繍。柔らかい布。光を反射する銀糸の装飾。
病室⋯にしては綺麗すぎる。
明らかに違和感を感じて周囲を見ようとして体を動かした途端、全身に激痛が走った。
「いっ……た……」
手足が特に痛い。動かすたびに、じんじんと痺れるような感覚が走る。
苦しげに声を出して、そこで気づいた。
声が、違う。
「あ⋯⋯、あ、れ⋯?」
聞こえたのは、明らかに私のものではない高く幼い声。
のどが焼けるように渇いていて、言葉もおぼつかない。
水、水を飲まなければ。
ふらつきながら体を起こし、寝台を降りる。
小さな素足がふかふかのカーペットに沈む。
──え。
……目線が低い?体が……小さい?
かがみ、鏡で確認しよう。どこだったかな。
ツタ模様の装飾が施されたいかにも高級そうな姿見の前まで、ふらふらと歩く。
その中に映った少女の姿を見て──私は息を呑んだ。
光に反射して輝く長い白銀の髪、青紫色に銀色のグラデーションの虹彩で、きらきらと反射する瞳。
知らない顔。けれど、どこか馴染んでいるし、見たことがある。
「ぎん、いろ」
そして、明らかに六歳前後と思われる幼い身体。
これ、本当に私、なの?
試しに手を振ってみても、鏡に映る少女は同じ動きをする。
「え、ゆめ…だ、よね?」
たちの悪い夢じゃないか。
いや、夢にしては五感が鋭すぎる。
肌の温度、鏡の冷たさ、風の感触、香り──あまりにも現実的。
……あの後?地下鉄の階段の階段を降りてたら、誰かに話しかけられて振り向いたら急に空が見えて……眼の前が真っ赤に染まって、それで……
その先の記憶がない。
私は、死んだのだろうか。
それともまだ生きていて、いかにも五感を感じているような夢を見ているのか。
右手に伝わるのは、自分の頬の柔らかな感触。
左手に伝わるのは、鏡の冷たい硬さ。
いかにもこれが現実だと認めざるを得ない現状に、私はただぼんやりと立ち尽くしていた。
ここが現実ということにしても、まわりの様子が違う。
アンティーク調の、落ち着いた雰囲気の家具。
壁を覆い尽くすように置かれた本棚。
机に積まれた妙な幾何学模様が書かれた本や、書類。
私の記憶の限り、こんな部屋は知らない。
―――知らない、のかな。
そんなことを思っていると、突然、後方からカチャッという音が聞こえた。
振り向くと十代後半の少女が銀色のワゴンを押しながら、ひどく憔悴しきった顔で入ってきた。
ワゴンのカラカラと回るタイヤの軽い音が部屋の壁に反響する。
少女のほうは、寝台の方を一瞥してから、首だけが動いて、立っている私を見つけた少女の方はヒュッと息を飲んだ。ピタッと静止して、ワゴンを押していた手だけが震える。
「⋯⋯あ、の」
「⋯⋯⋯⋯!!」
それから彼女はワゴンを放ったらかしにして走り出した。
もしかして、私は不審者の扱いなのだろうか。
「 ―――公爵様! 奥様! セフィリアお嬢様が、お目覚めになりました!」
「???」
公爵様…?奥様…?……セフィリアお嬢様?
急に声を張り上げたのにも驚いたが、なによりその声に心がざわついた。
私のことを見て走り出されたことは一旦置いておいて、この単語たちを反芻する。
思わず、言葉が口をついた。
「……ルー……?」
ルー。って何だっけ…。
大切なもの…だった気がする。
忘れてはいけない、何かを、取りこぼしたような気がして。
記憶の中から「ルー」という名詞を探す。
シチューやカレーに使うルーだっけ。
それとも何かの神話に登場する神様?
映画のタイトルにもあった…。
いや、違う。
知っている。知っているはず。
頭の中に残る全ての記憶を探る。
ふと、脳裏に刻まれた記録が駆け巡る。
[―――誰?]
[私は、ルー・シキアです。本日から、セフィリアお嬢様付きのメイドになりました]
[ルー、ね。これからよろしく]
ああ、そうか。ルーは……この家の使用人。私に付いている専属メイド。
それにしても、あっさりした出会いだった。
理解した直後、突然視界が揺らぐ。
「ぁあぁっ―――」
頭が痛くなった。
目の奥がチカチカする。息が苦しい。手が震える。
息が詰まって呼吸が上手くできない。
体全体が熱くなって心臓が暴れ出して、鼓動が耳の奥で響いて煩い。
耐えきれなくなって床に崩れ落ちた。
────
「もう起きてもいいのかセフィリア……って、大丈夫か!? 」
慌てた足音と声。
―――そっか、私のことセフィリアって言うんだ。
二つの影が、部屋に飛び込んできた。
──男性と女性。その姿を見た瞬間、どうしようもなく精神が落ち着いた。
男性に軽々と抱えられて寝台に寝かせられる。
そばに置かれたワゴンを見て、無意識に口が動く。
「……父様……すい、ぶん⋯」
「っ、ああ、水だな。ゆっくり飲みなさい」
差し出されたグラスを受け取り、言う通りゆっくり嚥下していく。
ひんやりとした水が喉を潤していくけれど、またそれが遠のいていく。
「リアちゃん?痛いところは?」
もう一人、女性⋯そうだ、母様。優しく私の額に手を当てて尋ねてくる。
やっぱり、変わらない。
「母様……あ、ぇ…」
その瞬間、視界が歪んだ。
世界がぐにゃりと捻れるような感覚。
私の記憶がぶつかり合う。前の記憶と今の記憶がぐちゃぐちゃになって。
ここで意識を手放したくない。
だって、迷惑を掛けるから。
心の中でそう願ったときにはもう遅かった。
掴みたかったものは水のようにすり抜けて、私の意識はフェードアウトした。
/―――――――――/
目を覚ましたときには母様がどこからか持ってきた椅子に座って寝ていた。
寝ているところを起こしたくはないので、とりあえず外の景色を見ようと音を立てないように体勢を変える。
窓から見えるのは、灰色の雲としんしんと降る雪。 今は冬なのかもしれない。
「雪…」
その瞬間、頭がズキッと痛む。
黒い手袋に降り立った透明な結晶。
[―――⋯⋯あ、雪⋯⋯⋯―――]
前世の私の呟きが脳裏に響く。
もう、認めざるを得ない。
私は転生したんだ。
異世界に。
私の前世は日系人。
社会人になって給与もいい職場に勤められて人生これからだって時に。
漫画かアニメでしか見ないなんとも不思議な現象に笑えてくる。
実際は笑える状況ではない。
異世界に転生した、ということは前世の私は死んだということが確定した。
そう、私の死は、確定した。
「――――――」
みんな、どうしているだろう。
別に仏教信者じゃないんだけど。転生なんてありえない。
魂という抽象的な存在が輪廻する。
何故かわからないけれど、思考に空白感が残る。
前世の人たちはもうここにいないし会えない。
それがわかっていてもまだここが夢だと思いたい。また会えると信じたい。
でも、それは叶わない。
胸の奥がきゅうっと縮む。
「…………………」
どういう原理かは知らないけれど、瞼に涙が溜まる。頬に冷たい感触が一筋残る。
唇を噛んでも、目頭が熱くなり視界が滲んでいく。視界から入る景色が何もない虚無な空間に見えてくる。
今にも零れ落ちそうなほど溜まっていく水分を引っ込めようと、目を瞬いたり鼻の付け根を摘んだりするけれど、指先が震えてうまくいかない。
嗚咽が漏れそうになるのを必死に押し殺し、ただ、呼吸だけが荒くなる。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、空気の冷たさと鼓動の速さだけが残って、ようやく涙は引いていった。
「会えない⋯」
「んん………えっ、リアちゃん起きてたの!?」
「―――いえ。さっき起きました」
そういうことにしないと小言が飛んできそうだから。
「そうなのね。…魔力の流れは正常だけど、結構増えたわね」
まりょく⋯⋯?魔力?
魔力があるなんて完全に元いた世界とは別世界だ。まさか、ファンタジー系の異世界に来たのだろうか。
「魔力?」
「あら?あなたに魔力があること、教えてなかったかしら?いえ、ありえないわ。三歳から特別講義をしていたし…。もしかして、記憶が混濁しているのかしら。大変!お医者さまに診てもらわなければ」
そう言って呼び鈴を鳴らす。
なぜ、そっちの方向に飛ぶのだろうか。
数分後には扉のノック音が聞こえて、メイド服の少女…ルーの声が聞こえてきた。
「奥様、お呼びでしょうか」
ルーの顔色は以前見たときよりは良くなっていたけど、まだ若干青い顔をしている。
「ええ、お医者さまを―――」
―――まずい。
本当に何も調子が悪い場所がないとわかっているのに、わざわざ医者に来てもらうのは非効率。
「母様っ、大丈夫。思い出したから」
「本当?じゃあ、復習しましょうか。さて、魔力とは何でしょうか」
⋯⋯問題を出されるとは思ってなかった。
でも、もちろん私は覚えている。前の記憶もあるし、今の記憶も持ち合わせているから。
深呼吸してからゆっくり口を開く。
「魔力とは生き物が持っているエネルギー。呼吸や鼓動のような存在と結びついていて、魔法や魔術を発動するときに消費する。
使いすぎると、体力も消費する。また、大地、水、火など自然界そのものに宿っているのが魔素。
負の感情である怒り、正の感情である祈りで魔力が増幅することもあれば、精神が折れると魔力も枯渇することもある。
あと、一日で魔力を使い切るとその次の日には何割か増えるという説もある」
「……」
答えても、母様は黙ったまま。
もしかして、間違えてしまったのだろうか。
「――――――セフィリア。私が言ったとおりに回答するのは、ただ覚えてるだけ。自分の言葉で説明しなさい」
「―――ごめんなさい」
そのとき、視界が暗くなったと思ったら、懐かしいような温もりが伝わる。
「―――教えてないこともどうして知ってるの!?リアちゃんは天才だわ!いつも図書室に入り浸っているから、そこで読んだのかしら?しかも論文も引っこ抜いて読んでいるなんて…!」
⋯母様に締め上げられた。
「ぐっ―――。母様。離して…」
かろうじて締め上げられるのを回避した右手を、力の出うる限りで叩く、というよりもつつく。
予習してたら、そんなに嬉しいかな。
「かあさぐはっ…」
更に締め上げられて、気絶寸前の状態。
私はまた寝台に戻ってしまうのだろうか。
「奥様!一旦離してあげてましょうっ。お嬢様が気絶してしまいますっ」
そこで、一部始終を見ていたルーが止めに入った。
「あら、大変!さっき起きたばっかりなのにごめんね。リアちゃん」
「ありがとう、ルー」
「いえ、お嬢様を守ることが私の役目ですから!」
ふん、と鼻息を鳴らし、胸を張って褒めてくれてもいいんですよ、と言いたげな表情を見て、少し心が落ち着く。
「母様、お医者さまはもういいでしょう」
「ええ、そうね。騒いでしまってごめんなさいね。シキアちゃんも」
「いえいえ!また、いつでもお呼びしてください!それでは失礼し…」
「あ、そうだ。シキアちゃん」
「どどどうしましたか?」
「セヴィルアンを呼んできて。あの子、ずっと心配してたし」
「わ、わかりました!」
セヴィルアン?誰だろう。
「じゃあね、リアちゃん。ゆっくり休むのよ。私はこれから用事があるから」
「はい」
母様が退出したのを見計らって、前と今の両方の記憶をたどる。
セヴィルアン。セヴィルアン⋯
前世の自室で、スマートフォンから流れる音声と、表示される画面を眺める。
『セヴィルアン・ノクテリウス=エーデルシュタインです。これからの学院生活で―――』
ずらっと並べられた本棚に囲まれて自習しているとき。一つの気配が近づいてきた。
[ねえ、姉さん。この問題、どういうこと?―――]
[あぁ、ルアン。ここはね―――]
もしかして。
「セフィリア・ノクテリエ=エーデルシュタイン……エーデルシュタイン」
「弟…」
『セヴィルアンを呼んできて』
母様の言葉を反芻する。
セヴィルアン・ノクテリウス=エーデルシュタイン…?
前世の記憶がフラッシュバックする。
―――中学三年生だった。
放課後、仲良くなった隣の女生徒との帰り道の途中。
『ねえ、どう?〈聖約の魔術師〉。やってみない?』
差し出されたスマートフォンの画面を見ると、アプリのインストール画面が表示されている。
『恋愛シミュレーションゲーム?』
正直気乗りはしなかった。
私には、俗に言う好き、という感情がよくわからないから。
『私がその主人公の女の子を操作するの?』
拒否の声色を察してか、彼女はまた言葉を紡いだ。
『普通のRPGみたいなゲーム要素もあるよ。メインは恋愛ストーリーだけどね。なんたって、これは乙女ゲームだから!―――』
そう、セヴィルアン・ノクテリウス=エーデルシュタイン……攻略対象だったはず。
そして私は……悪役令嬢?
この世界、あのゲーム、なの?
しかも、よりによって悪役令嬢に転生?




