第52話 ☆
1/20分はこれまで。
マクドナルドの、三人掛け。僕は二人掛けの方の一人。もう一人は誰だろう? それは随分見覚えのない、褐色で掘りの深い女性。肩までの銀のボブカットだ。
目の前には、一年前の夏に付き合った彼女。あれ? 怒っている。目が充血している。どうしたのだろう。
「別れようか」
彼女はまるで本音をすべてぶつけ終わった表情で、覚悟と共に僕に通告した。
え? どうして?
「他人なのよ、どこまで行っても」
ああ、でも、そっか。僕は別の人を好きになったんだっけ?
「で、結局その女、なんなのよ」
指を指された隣の女性は、顔を傾げて言葉が理解できないようなそぶりを見せる。
誰だこいつ。
僕は、答えようにも、口が空かない。思った通りに体が動かない。どうしてだろう。
とそこで隣の女性は口を開く。
「あたしはユージェよ。あんたはユキね」
「いや、違うわよ。祐樹はこいつ」
「長いわ。ユキでいいでしょ」
「話が長いって? それに人の彼氏を奪い取っておいて、責められたら開き直るって……いい神経しているよあんた」
二人はよくわからない言い合いをしている。
僕はいったい何に巻き込まれているんだろう。
「ユキ聞いたわよ。メルセスさんと喧嘩したんですって」
「喧嘩してんのはこっちでしょ。ってかメルセスって誰よ。外国人? なに、三股? さいってー」
彼女はもう我慢ならないほどに、顔を赤くして、地団太でも踏みそうな勢いである。
僕は、はて、メルセスという人と喧嘩をしたんだったろうか。そもそもその人と僕は面識があるのだろうか。
「メルセスさんの敵はあたしの敵よ。早く仲直りなさい」
「ちょっとまて、そのメルセスってのは誰……だ? あれ?」
僕は隣に座るユージェという女性の方を向いた。そうしたら、彼女の姿を一端視界から見えなくした。その一瞬で彼女の姿を見失う。そうして、声が変わった。
「こんなちんちくりんに何をおそれているのかしら」
「え、誰?」
僕が呆けた声を向けた先に彼女の姿はなく、褐色の肌をした長髪の女性だった。豊かな銀髪がゴージャスな雰囲気を纏っている。
「混乱のオレンジ」
彼女はつまらなそうに髪の毛をかき上げる。ポテトを摘まんだ。いつの間に頼んでいたのだろう。
「あ、メルセスさん」とジュースを飲みながらユージェは興奮した声を上げる。
ユージェとメルセスという二人が打ち解けている……あれ? 僕はこの二人が会って話しているところを見たところが無かったのではないだろうか。
あれ? そもそも二人のことを知らないはずだけどさ。
うーん。テーブル席に対面した二人は姦しいほどだ。笑顔が絶えない。ただ、僕は彼女らのことを知らないはずなのに、この場にいることに違和感を持たない。僕自身がこの場にいることに遠慮を覚えていないことに驚きつつ、彼女らの話を聞いている。
僕は二人の声を聴きながら、何と楽しいことだろうと、この風景がずっと続けばいいな、と思っている。そうして、僕は涙をこぼす。
あれ、ジュースをこぼしたのかな、と手の甲の濡れた後を見て、僕は顎ががくがくと定まらないことを知る。うまくしゃべれない。うまく……しゃべれな……い。
僕は手の甲から視線を挙げると、二人はきょとんとした様子で僕の顔を見つめている。
「そんな見てきてどうしたの? 二人さ。話の続きを聞かせてよ」
震えた声でかろうじて彼女らにメッセージを届けた僕に、二人は顔を見合わせて、首を傾げた。
気づけば、僕は僕であることを知り、ユキと呼ばれている現実の記憶を幾分か取り戻している。そんな僕に対して二人は何かを訴えようとする。
ユージェは言う。
「お前は、私を生かしたかったんじゃないのか」
メルセスさんは言う。
「テスェドを助けてっていったよね」
場面が暗転した。マクドナルドの風景は消え、赤土の広がる川辺の、流木に三人で座っていた。
四つの瞳は、深く、底なしで、僕を捉えて離さない。
「弟をなぜ守れなかったの」
「いや、弟は守ろうとした」
「でも、お前は何もしていない」
「巫女の力を使って……」
「お前は頼んだだけだ」
「決断したよ……」
「お前以外を浪費してか」
「……」
ユージェは口をつぐむ。目を閉じると、影が薄くなって彼女は消えた。
「テスェドを助けなかったのか」
今度はメルセスさんがたずねてきた。
「いや、裏切られたのは僕の方だ」
「そうだね。君は裏切られたんだ。テスェドは君のことなんて見ていなかった」
メルセスさんは、僕の首に手をかけた。僕は息が出来なくなる。彼女は僕に伸し掛かり、馬乗りで制圧する。
「やめ……」
僕はもがくけれど一生逃げ出せない。彼女は鋼のような体幹で僕を抑えつけたまま、首をさらに絞めつける。身体にサンを結集することもままならい。
そうして、僕の首は折れるに至る。
激痛が走った。なぜだかわからないけれど、思考がクリアになっていく。
思い出す。エロデが人の首を手折ったこと。砂糖より繊維質。
僕の首は折れてしまった。なぜこれほど冷静なのだろう。
ああ、僕が出来なかったことを責められるより心地いい。僕は死んでしまいたい。
首が折れて死んでしまいたい。
死んで、一体どうしようか。
どうもしたくないから死にたいのだろうけれど。
僕は、メルセスさんへ満足に協力できなかったな、と思う。テスェドさんへの彼女の気持ちを透かして見ながら、それでも僕は彼の前で何もできず無力だった。
僕は僕の中のユージェへの拘りで、村全体の民を戦地へ追いやった。本当はメルセスさんをテスェドさんの下から引き離し死地へ追いやりたくはなかった。ユージェも見殺しにしたいわけじゃなかった。
でも、でも、僕にはどうしようもなかった。
このどうしようもなかったんだ、と言い訳の言葉を胸中に浮かべるときいつも、胸を重く苦しい漬物石のようなもので押し付けられるような不快感に襲われる。もっとできることがあっただろうという責めの声が僕自身から発せられている。
決断をする立場ではなく、洗脳されて戦地に赴いて消費される立場だったらよかったのに、と嘆く。
それかまた、そもそも僕がルートビアという能力ではなく、もっと実用的な物を願っていたら戦いに参加できて、何かが変わったのかもと思う。
実用的って何だろう。植物を出す能力だろうか。でもテスェドさんが本気で戦ったところを知らない。
心を読む能力だろうか。でも人の心が読めたとて、殴られたら痛いし、反撃できる気がしない。
音を消す能力だろうか。でも彼よりうまく使いこなせる気がしない。
手元を遠くとつなげる能力だろうか。でも僕が殴っても岩は砕けそうにない。
射撃する力だろうか。でも擬態が出来なければただの的だ。
……結局僕は、今の状況では何も戦いに加勢できそうもなかったのだ。
おそらく強い人はルートビアを使っても強い。僕だって思わず缶を投げて人の頭を潰してしまったけれど、そういうことが当然にできる人は能力如何にかかわらず戦いで活躍できるだろう。僕はそれを見て吐いた。戦闘力などお察しだ。
そもそも能力を与えるという話でもなかった気がする。最初に言われたのは……願いを叶えるということだった。ところてんだ。
あいつはチートだの、ハーレムだのを要求するよう言ってきたけれど、どちらの僕には夢のまた夢の代物だった。あの時はイラっとしてそんなものは嫌いだと却下した。よく考えると、なぜイラっとしていたのだったか。今考えるとよくわかる。チートにおいては、僕は自分の無力を痛感して、その上でこの無力から目を背けることを無力以下の愚行だと恐れたのだ。つまり、自分にないものをもらってはしゃいでいるなんて、ガキっぽいし、それで人に威張ろうだなんて、聖樹の中で怯えてアルファリオに当たり散らした自分から考えると、恥ずかしすぎて、あの時よく断った、と褒めたいくらいだ。
ハーレムについてはずっと僕が考えていることが、あの時からうっすら意識されていたのかもしれない。つまり僕が誰かを愛する時、僕は憑かれたようにそれに首ったけになるはずだと思っている。その感情を引き起こす正体を僕は求めていて、それが突き止められれば、僕は今まで他人に無関心で自分大好き人間だった状況から、少し前に進めると思っていた。かつて恋愛した時もその正体に気づくことは出来ず、うやむやになって別れてしまった。その当時は、自分のことをどうしようもない奴だと呪ってもう恋愛はいいや、と逃げていたけれど、今考えるとやはり自分を引き付けるものの正体を探していた。
一人すら満足に、気持ちを向け続けることが出来ないのに、なぜ何人もという発想ができるのだろう。
『自分にないものを与えること』が愛することだとエロデは誰かの言葉を教えてくれた。愛することは、他者が自分にとってなくてはならない存在だと知り、その相手に対して、自分の欠落を埋めてくれ、と対等に呼びかける行動そのものだったのだろう。
愛することをヒントにして考えると、僕が探し求める何らかの感情を引き付けるものの正体は、自己の欠点や穴を自覚して埋めようということなのではないだろうか。そして他者に対して、他者の存在が自己の穴を埋めてくれる……そう実感することだったんじゃないかと気づかされた。
ジャコポの復讐と、彼の知り合いの悔恨の感情はどうなの、と思うかもしれない。復讐も悔恨も、それら悲しみに似たマイナスの感情は、自分の過去の事実が自分の欠落そのものであり、それを否定することで、穴を埋めてしまいたくてたまらないことから起こっているのだと考えた。今の自分にとって過去の自分の在り方はあり得なかったが、今の自分になるためには過去の自分を通るほかないと薄々理解しているからこそ、過去の自分の痕跡をどうにかして消し去り、自身の欠点を埋めたいと願うことから二つの感情が生まれるのだろう。つまり、今の自分を完璧にしたいと願うから、恥ずかしい過去の自分を責め続けたり誰かに許しを乞うたりする悔恨の情が生まれ、あるいは過去陥れられた事実をもつ自分の弱さを慰めようとするために、それを引き起こした他者を今の自分が打ち滅ぼして復讐しよう、ということだ。
話を愛することに戻そう。
僕が他者に気持ちを向け続けていられないのは、その他者が僕の人生に必要ないと本能で思っているからだろうと考えている。
愛するとは滑稽なことだ、とも聞いた。つまり、僕が他者を、自分の人生にとってなくてはならないものだ、と思うには、その他者に対して、自分の弱みを曝け出す余裕を持たなくてはならないし、さらには、その他者が僕の穴をふさいでくれる、僕にたいして穴をふさいでもいいよ、と思ってくれている、裏切るということをしない、という全幅の信頼を向けなければならなかった。
裏切り……。僕はテスェドさんに裏切られた。この世界に来て、僕は自分の弱さを知った。他者の存在をいやおうなく求めなければならない立場に置かれ、僕は他者への不信感だとか言っている間もなく、他者を求めなければ生きていけなかったのだ。
その対象が、テスェドさんの存在だった。
彼は僕に村に入るきっかけを与えてくれたし、村の居場所を確保してくれた。僕は、あれだけ人に対して距離をとってきたんだと述懐していたのに、彼に対しては嘘のようになついた。それで、最後には突き放された。
愛する。僕はメルセスさんのように彼を愛していたわけではないけれど、彼を親のように愛していた。ほんのわずかな期間だったけれど、彼のやさしさは僕の不慣れな異世界生活において大きな安らぎだった。
彼無くして僕は生きられなかったといっていい。僕の穴を埋めてくれたのだ。最初に少しだけ空いていた穴を埋めるとき、僕が彼に気を許して彼の気持ちと心を通わせるたびに、僕の心は彼の存在と癒着し、浸食がすすんだ。
でも彼は僕の穴を、一旦埋めてから、埋める前より大きく抉ったのだ。
彼が僕を裏切ったことは、僕にとって、信頼して寄りかかっていた杖を奪われてつんのめって転んで大怪我をしたようなものだ。その大怪我は、僕の心をひび割れさせて大穴をあけた。彼の存在と癒着した僕の心は、彼が僕のそばを離れていったことにより、彼と出会う前に空いていた小さな穴よりも、はるかに大きな穴があいた。彼の裏切りは、まるで地に根付いた大木を大型重機によって根こそぎにするように、土壌そのものを削り取り、豊かな大地は大きな生命の消失によって生命の密度を失い、大地が裏返ってしまったかのようだった。
それなのに、未だに僕は彼のことを想っている。
……やめよう。
思い返せば、彼以外に僕はこの世界で執着する対象がいた。
ユージェだ。彼女にもまた、僕は大きな借りを作った。社会見学や巫女の指導。そういった直接的なこと以上に、僕は彼女の生活に影響されたのだと思う。
ユージェの生活とは、弟との日常のことだ。僕は彼女に村の、恋愛の無いありようと、パートナーというふれあいについて聞いて、僕がいかに偏った恋愛に染まっているかを自覚させられた。僕の改心は彼女あってのものだった。彼女と弟の生活は、どこか僕のあこがれになっていったのだと思う。だから、僕は彼女を、僕の憧れのために救って、生き永らえて日常を続けてほしかったし、その彼女が望む弟の命を大切にしたかった。
でも、ダメだ。僕には何の力もなかった。
チートなんてばからしい、と腐っておきながら、この時ばかりは頼ればよかったと思うよ。
ああ、本当に。
無力はつらい。無力というのは、僕が無力じゃない理想を抱いているからだ。
テスェドさんが僕を甘やかし、僕はユージェとその弟と村ではしゃいで遊んでいる日常。
もちろんメルセスさんとも修行するし、ジャコポとはルートビアを分け合う。そんな日常が続いてほしかった。
せめて、せめてさ、生きていたのがユージェで、僕が死んでいたらよかったのに。
そうして、首を折られて死んでしまうという出来事のなか、思考だけが回転している。
ついには、首が折れて死ぬということが、僕の理想への償いをしたいという欲求の顕わ
れではないかと解釈した。単なる自己満足じゃないか、と愕然としたとき、場面は川辺から、マクドナルドのテーブルに引き戻された。
「混乱のオレンジ」
メルセスさんは、髪をかきあげてポテトを食べる。
「どうしたの、ユージェ? 急に呆けてさ。早く何でも屋で経験した苦労話聞かせなさいよ。夭折の天才エロデ様の生き写しって子供たちに持ちっきりなんだから」
「そんな止めてくださいよ。あたしなんて、かつての英雄を押しのけて戦士団長の座に収まったメルセスさんの足下に及ばないですって」
そう声を出したのが、僕自身の口と喉であることに僕は疑問を覚えた。
僕が、ユージェの声音を発している。身振り手振りも彼女自身だ。ユージェはポテトを摘まんだ。
僕の視界の下から彼女の右手が伸びて、芋を摘まみ、それが僕の口元に引き寄せられる。気づけば芋の味と共に、咀嚼している自分がいた。
「メルセスさん……こうやってずっと話せていたらよかったんですけどね」
「そうだな。私ももっとのどかに生きていたかったかもしれない。まだ戦士団でやり残したこともあるし」
僕は……いったいどうなってしまったんだろう。
あたしはいったいどうなってしまったんだろう。
二つの声が重なり、独白していたような気がした。
……。場面が更に暗転した。
気づけば、三人いたはずのテーブルは、メルセスさんとあたししかいなかった。
あれ、もうひとり誰かいたような気がするけど。




