第30話 始まりの場所
2/10分はあと2話投稿します。
平日18時 土日祝12時投稿
その場所は、どこにあるのか、よくわからなかった。
真っ暗な空間で、僕は平衡感覚を忘れ、倒れていく。
倒れた先に、地面があるかと錯覚していたが、倒れた身体は、倒れる勢いをいつの間にか失い、どこにも衝突することなく、上下が回転したような感覚に陥る。僕はそこに、どこまでも、絶えることなく立ち続けていた。
ああ、僕は、外界から遮断されている。
触れるもの、見るもの、香るもの、聞こえるもの、味わうもの、すべてが無に見える。
僕はいったい何をしているのだろう。
「ユキ、大丈夫?」
声が聞こえた。瞬間、雑音がよみがえる。木々のこすれる音、風が揺らめき微かに奏でる騒ぎ、そして、声と吐息と心拍などの彼女の生体音。
「どうかした? めまい?」
彼女は僕の肩をつかんで揺さぶった。
そうして、僕は触覚と彼女のにおいを覚え、世界に彩が戻ってくることを直観した。
彼女はいまどのような表情をしているのだろう。
僕は唐突に、ルートビアを飲みたくなる。味覚が、僕にこの世界で唯一なじみのあるものを身体に受け入れさせろと、訴えかけているようだった。
僕はがむしゃらに、手に集中する。気づけば、そこには生ぬるい外気との寒暖差で白い煙がたってしまいそうなほどよく冷えたアルミ缶が手に収められているとわかった。僕は目が見えないなりに、導かれるようにプルタブを引き、カシュッ、と子気味のいい音をさせながら、一気に呷った。
「……」
言葉が出ない。鼻に抜けるバニラの香りとどこか合成物的な糖分が味覚を襲う。この真っ暗な空間に入る前までありふれていた感覚が、とてつもなくいとおしい。
「ああ……」
僕は、ついに、見えるようになった。
涙を流している気がした。おもわず頬に手を添えるけれど、濡れるものは流れていない。
「大丈夫? どうしたのよ」
「うん……」
よくわからない。
僕は何を感じ取り、何を経験したのか。
ただそこに、自分、という何か不安定な輪郭の主体があり、僕はその主体を一度手放し、ふたたびこの手につかんだようだった。
つまり、死んで生まれ変わり、またもや死ぬ前の意識をこの身体に宿した。
なんとおかしなことだろうか。普通に受け入れていたこの事実を、僕はどうしていぶかしがらなかったのだろう。でも、その疑念というのは、すぐに霧散する。僕の中で感情が弾け、ある種のカタルシスが、懐疑的感情の澱を押し流してしまったようだった。
「僕は、なんだか生まれ変わった気分だよ」
「へえ、ここに来る人でそんな感想を言った人ははじめてね」
「え、そうなの。平衡感覚がなくなって、暗闇の中どこにいるかわからないっていう感じだったんだけど。あれ、みんな受けるものじゃないの」
そうでなかったら、僕だけ何か神秘主義者みたいな感じだなあ。
「……へえ。そんな感じ。それっていうのは、人によっては生まれてすぐこの場所に来た子供が言う感想とそっくりね」
「そんなすぐの記憶あるの?」
「民によりけり」
「そっか。でも生まれてすぐ……」
僕はその言葉を聞いて、ピンとくる。
ぼくって、生まれてすぐだ。この世界で生後一週間じゃなかったっけ?
「ああ、そうね。あなた、生まれ変わったものね」
「じゃあ、その子供たちと僕は似た境遇なのかもね」
「随分でかいガキだこと」
彼女はくすくすと笑う。
僕はその笑い声をどこかで聞いたことがあるような気がしていた。
僕たちは暗がりを歩いていた。通路がある。階段を下っている。その先は、地下に繋がっている。
どこの地下か。
それは聖樹の根っこの、さらに下の空間だった。
聖樹の地下に、養育施設はあるということだった。
子供たちは、ある時期に聖樹の枝に実る果実から生まれ、その後、地面に吸収されるように、地下空間に収まる。
そこでは、外界と同様に日が変わり、月は東に日は西に、世界は星が自転している証拠を見せているそうだ。
今は夕暮れ時を過ぎて、暗い。
僕たちは踏み外さないように気を付けながら、階段を下っていった。
降り立ったのは、狭苦しい通路からは一転してかなり広い空間だった。薄暗い部屋で、わずかな灯りが部屋の奥行を示していた。
僕は聖樹の内部空間で生活しているから、外界と比べて空間の広さの感覚がおかしなことは想像していたけれど、ここは異常だった。僕の住んでいる階層の二倍以上の面積があると思う。広間を横断して100m走ができそうだと思った。
だが、手狭に感じる。それというのも、無数の子供たち、見た目の年齢もバラバラな子供らが、雑魚寝していたからだった。みな静かな吐息を漏らして気持ちよさそうに寝ている。彼らは白い布に身体を包み、男女一様に髪の毛を伸ばしている。髪の長さでここに入った年数を推測できるようだった。
僕たちが足を踏み入れたことで、とある髪がかなり長い子供が、のっそりと立ち上がった。
「せんせい……?」
先生という声が聞こえた。ここを管理する人物の呼称なのだろうか。
ユージェは音を立てずに、子供らの隙間を縫うように歩き、寝ぼけて立ち上がった子供のもとまでたどり着く。伊達に僕の指導係を頼まれていない。歩き方は、素人が見てだけれど、きれいだった。音を消すことにこだわったぎこちない歩きではない。自然と、音が消えていた。
そこで、彼女は子供に何事か、耳打ちした。
すると、その子は、ぼそっと返事をして、寝入ってしまった。
彼女はまた僕のところまできれいな歩みで戻ってきた。
「なにを言ったの」
小声で僕が問うと、
「ごめんね、先生じゃないの。おやすみなさい、ってね」
「先生みたいだね」
「どこがよ。年寄扱い?」
「立ち振る舞いは僕の先生でしょ」
「単に指導しているだけよ。あたしはまだ死にたくないわ」
「?? でも、そう見えたからなあ。僕の常識と違うか」
彼女はよくわからなさそうな顔をして、部屋の中心に振り返った。僕も彼女の視線の先を見る。
「いまごろ何の夢を見ているんだろう」
「さあね。この場所を出て、遊ぶ夢とかじゃない?」
「ユージェもここにいたの?」
「ええ、まあ。あの時は外のことなんかわからないから、なんとなく先生の言うことを聞いて、食べて寝て過ごしていたわね」
「弟君と一緒に過ごしていたんじゃないの」
「弟は一緒の時期に生まれていないからね。あたしが外で活動している時に出会ったのよ」
「そういえば年齢差が結構離れているんだっけ」
「まあね。ここの子供たちは、遅くて20年もすれば外に出るから」
「弟君は20歳だっけ」
「そう。数年前にここを出たばかり。だからまだ全然ガキんちょよ。」
「どうして一緒に暮らすようになったの?」
「うーん。そうね。ここを出た子供たちは、誰かに保護してもらったり、奥に所属していたりする人に師事して身の振り方を学んだり。誰かに頼るか一人で生活するか、どちらかの生活をするんだ」
「一人では大変そうだ」
「でも、この村では食料は支給される。だから、後は居場所を自分で探すだけだ」
「居場所を探すのが大変なんじゃないか。もちろん食べることに悩まないのはありがたいけれど」
前世の記憶がある僕だって今迷子だのに。
「っていうことは、ユージェは一人で生き抜いた方なんだ」
「まあね。って言っても危ないことは全然しなかったし。今の何でも屋のきっかけになるような、雑用係をしながら、村の民たちの多くに毎日かわるがわる世話になって、気づいたら、何でも屋として生活の基盤を得ていたというだけの話さ」
「ふむ。でもそんな綱渡りな話なら、生活の基盤ができない子供たちが村で多くあぶれていると思うんだけど、あんまりそういうのは見かけないよね。それはどうしてなの」
僕の質問に彼女は少し答えづらそうだった。
「この養育施設では、生まれてすぐの子供が聖樹の根元から落ちて入り、衣食住を安定させられる代わりに、外の世界を知らないまま十数年暮らす」
ユージェは少し目線を下げてから、ぼそぼそ語りだした。
「ここではね、暇なんだよ。生まれてすぐの子供たちが、興味を示すものの総量に限りがあって、多くの子供たちが、暇で暇でしょうがなくなる」
「でも、子供たち同士で会話とかして過ごすうちに遊びが生まれそうなものだけど」
「うん。そうやって退屈しのぎを見つけられれば、長くここで過ごせるだろうね。でも、いつか暇になるんだ。あるいは、一緒に遊んでいた子供たちが外の世界があることを知り、そこに想いを馳せる時、確実に退屈への種が仕込まれる。そうして、その退屈の種は外への渇望に変わり、子供たちは一人また一人と、外界へ出て行く。一度出たものはこの空間で衣食住を安定してもらうことは再びかなわないことは知らされているんだけどね」
「子供たちの自主性に任せられるんだ。でも外に出られないこの空間でどうやって外の世界があることを知るの?」
「それは、先生の存在だよ」
「ああ、さっきから名前が出ている」
「先生っていうのは、この聖樹の中にしかいない、霊みたいなもので、子供たちのお目付け役なんだよ」
「霊? 生きていないの?」
「よくわからないんだけどね。生きていない。村のうわさで、その時期に亡くなった方の姿を取って、子供たちの前に現れる、みたいなことを聞いたことがある。だから、子供たちは、一人の先生に教わるんじゃなくて複数の先生に教わるという認識を持っている。しかし、どの先生に話をしても、話した内容はつながっているんだ。だから新しい先生から、その先生に話したことのないことを話しかけられることがある」
「それは怖いね」
「ね。でも、その時は他人と会話するなんて知らないから、それが普通だと思っているんだ。先生は特別だってね」
「外に出てから気づくの?」
「ああ、外に出てから、ここでのことを振り返って、あの時先生と何話した? みたいなことを聞き合っていくうちにここでの事情がわかってくる」
「事情?」
「どうやら、ここでの先生の役回りは、あたしたちが村でどうやって生きていくか、意識させることにあるらしい」
――『こんにちは。初めて見る顔ですね』
ユージェの話を聞いていたら、別の方向から、声を掛けられた。
妙に頭に響く声だった。
僕は何気なく振り向くと、若い男の顔があった。
僕は声が出ないまま、後ろに尻もちを突く。
「おい、どうしたのよ」
ユージェが心配の声をあげるけれど、その音は遠くで響いているように思える。それほど意識に入ってきていなかった。
僕の視線はこの若い男に釘付けだった。
彼は、僕にクレームをつけてきたあの老人にひどく似ている。強いて言えば、初めて難癖付けてきたときのまだ初老になりかかったときの方が似ている。もしかすると、これはあの男の若いころ……いや、病にかかっていない頃の姿なのかもしれない。
「初めて見る顔、ですかね。僕はあなたに会って話をしたことがあると思うのですが」
――『はて、なんのことでしょう。私はあなたとお会いしたことなどございませんよ。私はここで、高いところから降ってくる子供たちを見守る先生をやらせてもらっています。どうぞ、先生、とお呼びください』
ユージェがそばで騒いでいるようだが、僕は彼女のことよりも目の前の男のことでいっぱいいっぱいだった。後で彼女には無視していることを謝らないと、とは思う。
僕はこの男が本当に、先生とここで呼ばれているものなのかどうか、気になっていた。ユージェが先生について話していたことから判断するしかなさそうだった。
「……先生は、子供たちに外で何をしたいかを教えて導いているらしいですね」
――『導いてはいませんよ。私が言うことは、子供たちがやりたいことの確認にすぎません。最初から何をやりたいか、皆はわかっていますから』
「生まれて、何の経験もない子供たちは何をやりたいかわからないとおもうんですけど。外に行ってからやりたいことがわかってくると思うんですが」
――『そうですね。外に行って体験することは、非常にわかりやすい手掛かりを与えてくれます』
そういって男は指を差した。
――『先ほどあなたの連れの女性が耳打ちしたあの子。あの子は現在ここの子供たちのリーダー的な立ち位置になっておりまして、もうすぐここを出て行けるだろうと思っているのですよ。その子は、まだ外のことを知らないのではありますが、子供たちとの触れ合いで、他者に教えることに興味を持っていることを自覚しています』
「だから、あなたのような先生になるって?」
――『そういってくれることもありますね。うれしい話です。ただ、先生、いやアコンの村での指導者になるという目標に狭めることも、私は望んでおりません。私という存在があの子の憧れの形になりつつあるのは、否定できませんが、指導者になるということだけが選択肢として、あの子を盲目的にさせるのもよろしくないですから』
すらすらと淀みない説明を聞いて、僕はこの男が少なからずこの聖樹の地下にある養育施設の関係者で間違いないことを認めた。
「だから、普通は、外の世界を経験させて、いろいろなことを知ってから決めるんじゃないのか」
――『あなたの、前世の話ではそういうことでしょうね』
「なぜ……?それを」
前世ね。どこまで僕のことを見透かしているのだろうか。この先生という人物が僕の情報を本当に読み取ったか、あるいは誰かから情報を仕入れていることになる。
漏れたとしたら、情報はどこから漏れたのだろう。
僕の質問に微かに笑ったようなあしらいをして、言葉は続けられる。
――『ですが、ここはビレアの森という、小さな森林の一部、アコンの村です。隣国のような発展した国ならまだしも、この村だけでは、現実なれる職業、必要とされる仕事は限られます。そして、その限られた仕事で、聖樹を中心とした村を発展させていくのには十分なのです』
「生徒たちの自主性に任せる、といいながら、村と聖樹がやはり第一か」
――『あなたの思想の中にある、人権意識はすばらしいものですけれど、この村に生きる人は、現実問題として、一人では生きていけない。現に村の民たちは生まれてすぐに、名前を与えられる。聖樹からです。聖樹によって名前を与えられ、村の一員となり聖樹とのパスを開くことを許可される。そうして皆村の一部として聖樹とつながれることに誇りを持つのです」
「名前とパス……」
「そうです。だから、一員となった私たちは、村で一人で生きていくことは出来ないし、おかしなことなのです。一人の力で困難を切り抜けることはできても、一人だけで生きることはできない……村と、村の原動力ともいえる聖樹を活かすことが、生活の基盤を整えることなのです。でも皆が同じことばかりをしても意味がない。だから、その民それぞれにあった欲求に即して村での活動に専念し、村全体を活かしてもらう。つまり、個人として満足に生活する方法は個人に託されています。個人の満足が村の満足につながる。自然のことでしょう?』
「……自然だね。うん。すごく」
否定はできない。その通りだと思う。一人一人が聖樹の力と、村という共同体に生かされている。だからこそ、それを大切にすべきだということはわかる。
――『でしょう。だからあなたも、巫女としての責務を果たし、村に身を捧げるべきだとは思いませんか』
思いませんか……。思いませんか……。おもいませんか……。
その言葉が頭の中で反芻されていった。
ふと気づくと、この男の言うことが正しいと思っている自分がいる。もちろん論理としても正しいし、村を発展させることにおいて、効率的だとは思う。もし仮に、聖樹と村を重要視するのと同じくらい一人一人の権利を大切にしていたら、それを一人ずついちいち確認しているのでは、全体の行動が遅くなってしまい、決定に支障をきたしてしまうだろう。
……だが、僕はまだ、一生この村に巫女としていたいわけではなかった。
「悪いけど、僕は流行り病の騒動が沈静化したら、一度村を出て行こうと思う。すまないが、まだ聖樹信仰を民たちほど飲み込めていないんだ」
――『そうでしたか。それは仕方ありませんね。私は導くのではなく、子供たちの意志を確認し、それを伸ばす役目です。意志が固いのであれば言うことはありません』
そういって男は、薄くぼんやりと消えていった。
またお会いしましょう――。
最後の言葉がそれだった。
印象として幽霊のような存在だと思った。
「――ユキ!」
「うえあっ」急に声を掛けられて変な声を出す僕。なんだか今日はユージェに意識を確認されっぱなしの日だな。
「さっきまで何ぼそぼそ言ってたのよ。無視してくれちゃって」
「え、っとごめん。先生っていうのと話していた」
「誰もいなかったじゃない」
「え、先生ってみんなに見えるものじゃないの? さっきユージェが僕に説明してくれていたじゃない。子供たちを導く先生がここにはいるって」
「先生は、子供たちみんなに見えるものよ。それなら私に見えなきゃおかしいじゃない」
「ここを出た人はもう見えないとか? 僕はここに入ってくるときに五感を奪われて、子供たちと同じ状況になったって言ったじゃん。それの延長線上でさ」
「ふうん。そうかもしれないわね。でも、もしあたしのことを単に無視していたなら、明日ミネさんに厳しくしてもらうよう告げ口するわよ」
「それは勘弁」
初日の柔軟とウォーキング、そして振る舞いの指導が、ミネさんはユージェの数倍きつかったからなあ。あれをもっときつくされるのはごめんだ。
「じゃあ、まあ、先生にあったというのが本当だったとして、何話していたの」
「うーん。ちょっとしたあいさつ程度だったんだけど。子供たちと先生の関係性について僕が質問して、それに対して先生が応えて、僕にも聖樹信仰のために巫女として頑張ってほしい、みたいな?」
「適当ねえ」
「なんでも、先生は子供たちの意志を確認するだけで、導くことはしないとか」
「ふうん。やはり子供たちに意識させる、っていう推測は大体当たっていたわね」
「ユージェの時も似たようなものだったの」
「当たらずも遠からず。あたしの時はほとんど覚えていないけど、やりたいこととか好きなものというより、何が嫌かを先生と愚痴り合っていた記憶しかないわね」
「愚痴り合っていたって……」
まだ子供だったろうに。
「誰それが、なまいきだとか。○○ちゃんの八方美人さが嫌だとか」
「ああ、そういう。子供同士の悪口」
「先生も特に悪口を叱ってきた記憶もなかったわね。むしろ先生も何か不満を言っていたような」
前世の小学校などの先生はそういうのを止めていた気がする。昔のことだから記憶が薄いけれど。
「へえ。そういえば、聖樹に名前を貰うんだって?」
その時に聖樹とのつながりを獲得するとか。
「それも、先生が?」
「うん。なんでも名前に思い入れがある風に話していたけれど」
「まあ、そうね。民たちは自分の名前に誇りを持っている。尊んでいる。だから、自分の名前を捨てるとか偽名を使う、みたいなことは、すごいとがめられる事だから、ユキも気を付けておいてね」
「なるほどね」
ユキがそもそも違うんですけど、それはいいんですかね?
僕たちは、子供たちが眠りについているのを、十分に眺めた後、その場を後にすることにした。
「本当は子供たちと話せればよかったんだけど」
とユージェは呟く。
「外の世界は見せられないけど、外の民が入ってくるのは良かったんだ。いまさらだけど」
「ええ。この場所は、基本的には解放されているわ。ただ子供たちは時期が来て、外出することを先生に認定してもらわないと、自力では出ることができない、というか出る気がしないようになっているだけなのよ」
「なんだか催眠がかけられているみたいだ」
「先生は催眠術師だって?」
くすくす笑いを漏らす。
ユージェは、僕の想像をおかしな冗談だと受け取ったみたいだった。
僕たちは階段を上る。来た道を戻っていった。
暗がりの中、一歩一歩が自然と慎重になっていた。
僕はボーっと考える。死んだクレーマーの男の顔と、先生として現れた男の顔の類似性について。
彼らは同一人物だろうか。
今朝、病に侵された男は老人として死に、埋葬され聖樹と一体になった。
彼は、枯れた葉として生を散らし、聖樹の養分となったのだろうか。
そして、地下の養育施設で、僕の前に先生として、若返った姿で現れた。
もし聖樹の養分として、死んだ者が昇華されるならば、死者の痕跡は聖樹の中に堆積することになる。
そうして、聖樹の内面を覗き込むと、過去に聖樹の養分となった者たちの痕跡を見ることができるようになる。今の僕が、クレーマーの痕跡を先生としての要素で見たように。
ユージェは、複数いる先生は、子供たちが彼らの誰に話しかけても、会話は等しく連続して記憶されるといっていた。
つまり、子供たちに接する先生というものはただ一つだけであり、それの現れ方、外見が異なるだけなんだ。その異なる外見というのが、聖樹に蓄積された今まで亡くなった民たちの養分のかけらなのではないだろうか。
枯れ葉の養分が、聖樹を媒介に、新たな果実に意志を伝える。
そうやって、聖樹は、村の代謝の起点となっているのではないだろうか。
……随分荒唐無稽な妄想が広がった。
僕はこのアコンの村が循環する一つの生物に見えてくる。そしてその生き物を構成する器官は、本体を生かすべく身を粉にして働く。
ああ、僕はその構成する一つの器官やさらにその器官を構成する要素として生きていく覚悟が、一生できる気がしないのだ。
前世の記憶がなければ、生まれてすぐに先生に導かれていれば、この村を当然のごとく受け入れ、そして自分がそこに埋め込まれることに抵抗を覚えることはなかっただろう。
だが、前世という比較する対象をもつ僕は、それに違和感を覚えてしまう。
やはり、全体のために部分を使いつぶす気にはなれない。その部分というのが僕自身や身内ならばなおさら。
僕は、巫女としての立場があるが、テスェドさんの言う所では、この村から出ても咎めはないらしい。だからこそ、この体制を受け入れるか、巫女の権利を返上する方法を見つけるまで、旅をしたい。自分で衣食住を確保して、この異世界で生きる覚悟を身につけたいのである。
それが僕のいま思う方針だ。
そこまで考えて、思考が一転した。
はて、ここの先生は生徒を皆ドロップアウトさせずに、村を生物として生かす歯車に仕立て上げられるのだろうか。
僕の記憶では、中学校のころに皆と一緒に進学できなくて学校を止めたやつが学年で数人おり、高飛車な先生が彼らのことをドロップアウト組と陰で揶揄していたことを思い出した。まあ、先生らが言うのは、学歴社会において、最終的に大企業のサラリーマンになって世間体を素晴らしくする、といった社会の歯車になる道からドロップアウトしたことをさしていたのだろうが。
アコンの村の歯車という点で言ったら、テスェドさんはアウトだろう。またジャコポも言っていた通り村の聖樹信仰に対して思うところを持つものはいるみたいだが、村の様子を見る限り、テスェドさんだけが明確に聖樹信仰の要素を否定していた。この考え方に至ることは、なかなかむずかしいだろうな、とここ数日のユージェに同行したことで思い知らされた。それは村の環境や雰囲気がそうさせるのか、ここの催眠術師のような先生がうまいこと進路指導しているのか。とはいえ、この村では文句を言っても、聖樹なしで生きられる民はなかなかいないだろうというのが僕の感想である。サンの供給を止められて喚く女性の姿を思い出すが、あれは、彼女が特別不甲斐ないというわけではないのだろうと思う。だからこそ、もしテスェドさんが特別なのか、それとも、もっと他に歯車の役割からドロップアウトする可能性の有る子供たちが多くいるのかな……と考えると、その子たちはどこに消えたのか。これ以上するには面白くない想像だった。
思考はふらふらとめぐり、まとまり切らずに、こぼれていく。
僕の集中は再び、暗がりの階段を慎重に上ることに舞い戻った。
出口がすぐそこまで迫っていた。星空の薄明かりが見えた。
そうして、僕らは地上に出た。
聖樹の下に立つ。顔を見合わせる。彼女がそこで口を開いた。
「ユキに見せたかったものはこれですべてだ。ここに生まれたあたしたちの始まりと、終わり。本当は見せるつもりじゃなかったんだけど、今朝のトラブルもあったからね。民の死だけでは後味が悪かろう。でも、あたしたちは、ユージェが思っているほどに不幸じゃない。ユージェは、民たち一人一人の命に感情移入しすぎているようだったから」
とユージェは自然な笑みを浮かべて言う。目じりが垂れていて、彼女の笑みは嘘でないように見えた。本心からそう言っているのがわかる。
一つ訂正するならば、僕は、一人一人の民に感情移入しすぎている、というほど、僕は高尚な人間ではなかった。
ただ、僕が生きる上での理想と、ユージェたちの生きる現実の食い違いがあっただけだ。
その食い違いを僕は、実感として納得は出来ない。ただ、そうあるということを、理解したのみだ。
僕は、理解はしたのだ。
彼女らは、聖樹のもとで、安寧を享受している。そして、おそらく、その見返りに聖樹に身を尽くしている。
安寧とは、サンの供給であり、村社会の仕組みであり、衣食住の安定という思い込みである。身を尽くすということは、文字通り聖樹のためなら死んでも良いという考え。
その、安寧というベースが僕は魅力に思えないから(今現在恩恵を受けているけれども)、見返りを聖樹に尽くしたいと思えない。
そこが僕の実感が伴わないと思う点である。
「そっか」
でも僕は何も言えない。彼女には彼女の生き方があり、好みを持っている。僕が聖樹の恩恵に魅力を感じない一方で、彼女はその恩恵を頼りにし、それに不満を覚えないのである。
だから、そこに否定を唱える余地はない。
その権利はないのである。
ただ、一つ言えるのは……
「でも、僕はユージェが聖樹のために死のうとしていたら、止めたいと思う」
その気持ちだけだ。
彼女の命が彼女の意志で、崇拝の対象にささげられるように、僕は彼女の友人として、彼女を失うことを拒むアクションを取る権利があるのではないか。
暴論だろうか。
いや、文句を言われてもいい。これは極論、彼女のためではなく、僕自身のためだ。僕が寂しさという悲しみを受けることを回避しようとする、自己保存の本能である。
「そう」
彼女は夜の昏さに目を惹かれていた。彼女の黒い眼は、夜に溶け出してしまいそうなほど儚い。僕の言葉は聞いていなかったのかもしれない。生返事という響きがその相槌にはあった。
彼女は僕の訴えに少しも価値を見出さなかったのかもしれない。
言葉は継がれない。そこには風がゆらりゆらりと流れる場の静けさのみが際立っていた。
僕は彼女の様子を眺めていた。そういえば、彼女のことをじっくり見つめるのは、初めて会った石切りの遊びの時以来だなと思う。
肩甲骨の辺りを覆うまで伸びる長い銀髪、僕と同じくらいの背丈、スレンダーな体型。改めてみると、足首など細くて折れてしまわないか心配なほどだった。
そんな彼女は夜空の月明りを眩しそうに眺めていた。長髪は風になびき、衣類と共にはためく。右腕はたれ下げ、腕を曲げた左手で右ひじをつかみ、重心は左足に乗せて、アンニュイに佇む彼女。
僕は何も思いつかないけれど、彼女と何か対話したいという気持ちだけで、口を開き、言葉にならずに息を止めて口を閉じてあきらめる。これを数度繰り返した。
彼女は思い出したように僕を見定めた。そして口を開いて、
「あの弟より先に死なないわよ。それに、頼まれた仕事としての指導と監督係は数日で終わるけど、あんたがそれなりに巫女をやれるようなるまでずっと指導係として付き合ってあげる。だから安心してね」
その口調は淡々としていた。それがどこか頼りないように聞こえたのは僕の感想にすぎないのだろうか。




