第一話:提案
――走っている。ただひたすら走っている。
今、自分がどこを走っているのかわからない。息が苦しくなって、足はもつれそうになる。
それでも走らなければいけなかった。じゃないと、置いていかれてしまうから。
――待って。
私の走る先には姉さんがいる。姉さんは私に振り返って微笑むと、そのまま光の方へと進んで行ってしまう。
その光の先にはガレット、ダグリアスさん、ミルーニが姉さんを待っているようだった。皆、歩いているだけなのに私だけ距離が離れていく。
――待ってよ。
走る、走る、走る。走っているのに距離は縮まらない。私はどんどん暗い方へと引き摺り込まれていく。
姉さんたちがもう手の届かない所まで先へ行ってしまう。それでも手を伸ばす。前へと進むために足を踏み出す。
――その足を、闇に掴まれた。
ずるりと、闇の中へと引き摺り込まれていく。足が、腰が、胸が、手が、どんどん闇に同化して消えていく。
そして、闇が喉にまで伸びて、息が、出来なくなって――
「――嫌ッ!!」
そこで、目が覚めた。
大きく胸を上下させながら、見慣れぬ天井を見上げる。
寝間着が汗でぐっしょりとなっていて、肌に張り付いている。その感触が気持ち悪い。
それでも、安堵の気持ちでいっぱいだった。視界を覆うように手を乗せて、大きく息を吐く。
「……最悪だ」
ニューデールの古代遺跡から人目に触れないように離れて、数日が経過していた。
私は脇目も振らず、ただ遠くに行こうと休まず歩き続け、流石に限界だと言うところで見つけた村で宿を取った。
とにかく離れたかったんだ。まだ私を売り飛ばそうとしていた人たちが私を探していたかもしれないし、ギルドの人に見つかっても面倒だ。
ないとは思うけど、万が一ガレットたちが戻ってきていて鉢合わせになるのも嫌だった。
正直、目的もないまま離れようとしていたから、現在地が定かでなかったりする。それだけ追い詰められていたんだと思い、深く溜息を吐いた。
「おはよう、アーネ」
「……出て来ないで、ルクスリア」
ふわりと、空中にふわりと浮かびながら姿を見せたルクスリアを思わず睨み付けてしまう。
ルクスリアの存在は特異だ。普通に聞いたら信じられないような存在、神すらも災厄として封じた悪魔なる存在。
彼女の存在を知られる訳にはいかない。そして、彼女の力を契約によって使えるようになった私のことも。だから気軽に行動されても困る。
「ノリが悪いわねぇ。じゃあ、霊体化しておくわ」
ルクスリアがそう言うと半透明になり、私の傍で浮いたまま顔を覗き込んでいる。
精霊や魔獣と契約すると、その分霊が契約者につくとは聞いてはいたけど、こんな感じなんだろうか?
霊体化しながらも私の頬をつつくように伸ばしてくるルクスリアに、少しだけ苛ついてしまう。
すると、お腹が空腹を訴える音が鳴った。……ここ数日、まともな食事なんてしてなかったから、空腹感もいつもより強い。
『まずは食事ね。食べてきたら?』
「……わかってる」
ルクスリアに言われて、服を着替える。未だに慣れない着心地に落ち着かないけれど、この服は私を守る為に必要なものでもある。少しずつでもいいから慣れていかないと。
この村の宿は食堂を兼任しているようで、朝から人が賑わっていた。小さな村なので、朝の農作業などを終えた人たちも食事に訪れているようだった。
逆に私のような旅人の姿は少ない。昨日見た限り、村の規模はそこまで大きくもないようだから、旅人が来るのも珍しいのかもしれない。
「頂きます」
朝食はパンと鶏肉と野菜が入ったスープ、それから牛乳だ。この村では乳牛の育成が盛んで、ミルクが余るだけあるのだとか。
そこで村の特産品とも言えるミルクを宿で提供して宣伝しているのだと食堂のオバさんが言っていた。ただ、旅人も少ないので売れてるとは言いがたいみたいだけど。だからおかわり自由なのかな。
『食べながらで良いのだけど、これからどうするの? アーネ』
『どうするって、このまま遠くに向かうつもりだけど』
万が一にでも『黄金の鷹』と擦れ違ったり、探せる範囲にいる訳にはいかない。
『それは良いのだけど、その次の目的とかも考えておいて良いんじゃないの?』
『……次の目的?』
『アーネが過去を全部捨ててやり直すのは良いとして、どこでどうやり直すつもりなのかって話よ』
ルクスリアに問われて、確かにこの先どうするかまではあまり考えていなかった。
『……どうしようかな』
今までは明確な目的があった。ガレットたちの足を引っ張らず、『黄金の鷹』の一員として認められるだけの実力をつけたい、と。
『黄金の鷹』を抜けた後は、そこまで明確な目標はなくても、新しい生活基盤を作っていかなきゃと思っていた。
けれど、全てを捨てて遠い地に向かって、そこで何をしたいのかと問われると全然何も思い浮かばない。
死にたくない、とは思った。でも、生きていたいという積極的な理由もない。ただ嫌だから逃げてきた私には、これからどうするかという考えも願いも足りてない。
『アーネに何も望みが思い付かないなら、私から提案できることが一つあるのだけど』
『提案?』
『――ねぇ、アーネ。他の〝悪魔〟も探してみないかしら?』
「ごふっ、げほっ……! げほっ、げほっ!」
思わず食事を喉に詰まらせてしまった。どんどん、と胸を叩いて慌ててミルクで押し流す。
『……大丈夫?』
『……突然、変なことを言わないで』
『えぇ? 〝悪魔〟を探さない? って言っただけじゃない』
『貴方、自分がどれだけ危険な存在か理解してる!?』
思わず思考するだけで出来る会話だけど、眉を顰めて怒鳴ってしまう。口の方から声が出ないように歯を噛みしめる。
〝色欲の悪魔〟であるルクスリア、それと同じような存在があと他に六体もいるらしい話は聞いている。
ルクスリアは他人の愛情や好意を増幅して、感情を狂わせる能力を持っている。私も体感したけれど、もうそれ以外に何もいらないと思ってしまう程だ。
それだけで息を呑むぐらい危険なのに、他の悪魔も探そうって何を考えているんだろう?
『だってアーネなら私たちと契約しても平気そうなんだもの』
『平気って……何を根拠に?』
『悪魔と契約するには波長が合ってないとダメなのよ。本当に波長の相性が良くないと契約出来ないし、契約してもどんどん自我が侵食されていくの』
『……初耳ですが』
『ここ数日観察してたけど、アーネにはその傾向がないもの。先祖返りって言うのもあながち嘘じゃないのかもね。私と契約して影響がなかったの、生みの親のマスターぐらいだもの』
悪気もなくルクスリアはあっさりと言い放った。本当に大丈夫なのか、と思いつつ私は気になっていたことを問いかける。
『……でも、神は悪魔である貴方たちを封印したのですよね?』
『自分以外には扱えなかったからね。当時は私たちを我が物にしようとしていた動きもあって、私が利用されて世界が混乱しないようにって封じられたの』
『何故扱えなかったんでしょう?』
『んー……そこまではわからないわねぇ? 私たち、そこまで詳しくは説明されなかったもの』
『それじゃあ私が大丈夫って保証もないんじゃないですか?』
思わず空中でふわふわと浮いているルクスリアを睨み付けてしまう。けれど、ルクスリアは私に睨まれても気にした様子も見せない。それどころか微笑む始末だ。
『アーネは似てるから』
『……誰に?』
『マスターに。あと、最初のエルフに』
『……最初のエルフ?』
『そうだよ。マスターの妻の一人』
『……妻の一人? その、妻が複数いるように聞こえましたが』
『そうだよ? マスター、女の子が好きだって言ってたでしょ? ヒューマンを除いた人類種の血統を遡れば、必ずマスターに行き着くと言っても過言じゃないよ』
……まぁ、神様なのですし。それだけ大きな規模な話があっても当然ですか。
『マスターはハーレムを作るんだー! って色んな種族の始祖を生み出したのよ』
『…………反応に困るんですが』
『私たちが生み出された頃には女遊びも控えてたというか、奥さん同士の包囲網が形成されていたっていうか……』
『知りたくなかったんですが、そんな神話の裏事情……』
壮大な神話として語り継がれている神の偉業が、一気に俗っぽい印象に塗り替えられてしまっている。頭が痛くなりそう……。
『それで、話を戻すのだけど。他の悪魔も探しに行きたいのよ』
『……私と契約させるためにですか?』
『それは他の悪魔次第だけど。私たち、姉妹のような間柄だけど封印されてから一度も会ってないから。話だけでも出来たらな、って思っただけよ』
ルクスリアの言葉に私は息を呑んでしまった。姉妹のような間柄で、もう長い時会う事が出来てない。
それは姉さんとの関係に色々あった私にとっては、どうにも無視し難い話だった。
『……他の悪魔とは仲が良かったんですか?』
『仲良しだったわ。離れるまでずっと、喧嘩したり、手を組んだりして、マスターや奥さん、他の精霊や魔獣に悪戯をしかけたり』
『……それだけ聞くと、なんだか人とそう変わらないように聞こえますね』
『私たち、悪魔は特に人に近いと思うわよ。私たちの由来は人の感情だもの。姉妹の皆はだから良くも悪くも個性が強くて、本当に似てるんだか似てないんだか……』
クスクスと笑いんがらルクスリアは言う。けれど、ふっと笑うのを止めて遠くを見つめる。
『でも、だからこそ私たちは生まれるのが早すぎた。だから時が来るまで、私たちは眠り続けてる』
『……ルクスリア』
『たまに起きて悪さしてたけどね? でも契約主がどんどん狂っちゃったから仕方ないし……』
『台無しです』
最後の最後でオチをつけないで欲しい。でも、ルクスリアが他の悪魔を探しにいきたいという気持ちはわかった。
別に探すのも話がしたい、というだけなら問題ないかもしれない。目的もないのだし、丁度良いかも。
『……良いですよ。探しに行っても』
『良いの?』
『ただ、手がかりはあるんですか?』
『手がかりは――』
「――巫山戯るな、この野郎ッ!!」
私の問いかけにルクスリアが答えようとした時だった。なんだか、宿の入り口の方から何かを叩き付けるような大きな音と振動、それから怒鳴り声が聞こえてくるのだった。