9、カミルの帰還
イサベルとは、いつもより遅くまで話をした。ミルクを温めて、ソファに並んで座りながら。
「お母さんもね、ユリアを一人きりにはしたくないの。それは、分かってくれるかしら」
「うん」
「私にも、ユリアやエイレムの家の人達がいてくれたでしょう。それがユリアにとっての、素敵な恋人でもいいし、親切な隣人でも、仕事先からちゃんと信用されている事でも、きっとなんだって良いのよ」
母親の方が歳を重ねている以上、ユリアより先に老いて行く身であると。その時に安心できるように、とりあえず今のエイレム一家をはじめとする人間関係を維持していく事は大切だと思う、と言った。今までお世話になった分も返さなければならないので、また一緒に会いに行こうと二人で決めた。美味しいリンゴのお礼も、何か考えなければならない。
「……それにしても、ユリアったら一途なのね」
「お母さんだって」
「そうね、親子だからそういうところも似たりするのかしらね」
ユリアはイサベルから初めて父親の事を聞く事ができた。家に残っている小さな絵姿の雰囲気そのままの、実直な男性だったらしい。子供の頃から知り合いだったそうで、初めてもらった贈り物は美味しいバタークッキーだった、と他愛のない話を懐かしそうに教えてくれた。
あくる朝、ユリアはいつもと同じように夜が明けかけた時間には起き出した。一階から忙しそうな物音と、商品をせっせと焼いている匂いもいつもと変わりない。部屋を暖めながら髪を梳かし、買ってもらったばかりの髪留めを、鏡の中を覗きながら試行錯誤して嵌めた。
紫の淡いガラスに、ユリアは子供の頃のおまじないを思い出した。教えてくれたのはカミル本人だったから、選んでくれた時にはその事をきっと考えてくれたのだろう、と暖かい気持ちになる。
今日は午後から仕事なので午前中は掃除でも、と思ったのだが、イサベルが昨日の日中に色々と手をつけてくれたらしく、綺麗になっていた。それなら久しぶりに刺繍でも手を出そうかと考えつつ、ユリアは外の鉢植えに水をあげるために外へ出た。
風の冷たさに目を細めながらパン屋の表へ回ると、開店待ちなのか、扉付近の壁にもたれて佇んでいる人影と目があった。
「……カミル、さん?」
「……本当にこんな時間から起きているんだね」
おはよう、とカミルはまだ朝早い時間帯にも関わらず、昨日と同じ、黒で統一された飾り気のない防寒着姿だった。ユリアは早起きだと、一昨日夕食に招いた時にそんな話もした事を思い出した。カミルも学校の習慣が抜けずに、随分と早起きのままであると言っていた。
これから暖かくなると良いね、とカミルは平然とした様子で声を掛けて来るのだが、ユリアは昨夜のやり取りが思い出されて、どう返事をしたらいいのかわからなかった。カミルの後ろの家並みの上に、雲一つない空が見える。
何かしらの話をしに来たのだろうとは思いつつ、しかし今はあまり寒いので中へ入らないかと提案すると、カミルは頷いてユリアに従った。二階へ行くと、イサベルも交えて三人で楽しく食事をしたのが、随分と前の出来事のように感じられる。ユリアはソファを勧めたが、彼は入ってすぐの場所に立ったままである。
「もう読み終わったから、わざわざありがとう」
差し出されたのは袋の中身は昨夜、一時的にカミルに貸し出され、そしてユリアへと渡された。それは昨日の返答の代わりだとでもいうような気がして、わかっていたがユリアは目を伏せた。
「はい、……何か知ったような口を聞いてしまったかもしれません、ごめんなさい」
ユリアは、ずっと誰かが傍にいたから、おそらくカミルの感じていた疎外感をいくらもわかりはしない。本来ならユリアのいる場所に彼もいて、家族の楽しい時間を過ごしたかったのだ。それでも、モニカの事を一緒に考えてくれたり、単純に短い休暇を惜しみなく割いて、遊んでくれたりした。それが何か特別な事のように、勝手に思っていただけの話だ。
「わざわざ、お手数を……」
「いや、違うんだ。そんな事を言いに来たんではなくて、その……」
ユリアを遮って、カミルが慌てて何か言いかけて、しばらく逡巡していた。彼の困り果てている顔、というのは珍しいので、ユリアは顔を上げてついついじっと観察してしまう。自分が知っているこの人はずっと、優秀で優しい兄という態度を取り続けていたのだとよくわかる。
「……次の巻を借りに来たんだ」
カミルの申し出を理解するのにユリアはしばらくかかった。
「あ、……そうですね、続きを匂わせる終わり方ですよね、毎回毎回」
いつも良い所で続きは次巻、がお決まりである。最終巻までずっとその調子だ。ユリアは全巻発売完結して本棚に並んでいる状態で読み始めたが、そうではなく続きを待っていた読者は気が気ではなかっただろう。
ユリアも微妙な気まずさに歯切れの悪い返事をした。受け取った布の包みを抱えて、次の巻を取りに家の中へ戻るためにドアノブを引いたのだがしかし、後ろからカミルが手で扉が開かないように押さえつけたため、足止めをくらう。それ違う、とカミルは意を決したように、深く息を吐いた。
「目が覚めた。一人で何をいじけていたんだろうって。それですっきりしたら、ユリアにもう一回会いたくなって」
ユリア、と後ろから名前を呼ぶ声とそれから、距離の近さとしては昨日、髪飾りをつけてくれた時と同じくらいの場所にいる。金のきらきらとした髪と、青い目がユリアだけを見ていた。その事に寝起きの頭はすっかり支配されてしまって、振り向いた変な姿勢のまま、動けなくなる。
「本ではなく、いや、本も借りに来るけど。それより、急に寂しくなったとか、唐突に顔が見たくなったとか、あんまり重大に思えないような理由で、ユリアに会いに来てもいい?」
昨日、わざわざ追いかけて来てくれて、それが嬉しかった、とカミルは言う。部屋に戻った後は本を読んで、子供の頃に熱心に途中までは読み進めた事を思い出したそうだ。カミルの言わんとしているが、どうやら口説いているという認識を得るのに時間を要したのを、相手は申し出を吟味しているのだと思ったらしい。
「信用できないかもしれないけど、これからは仕事も早く終わらせて時間作って、寂しい思いはさせないようにするから。ユリアの事を幸せにできるように、それから……」
「わ、私もカミルさんに会いたいです」
半分遮るようにしてやっと言えたのは、子供の頃と同じ願いだった。ユリアの返事に、それなら良かった、とカミルもほっとしたように頷いてくれた。これからはもう少しこの手の事を勉強して、気の利いた文句を言えるようになりたいと思う。それから、暖炉が仕事をし過ぎているのか、冬の早朝なのに暑いとすら感じた。
その後は、ユリアは午後から、カミルは明日から仕事なのであまりゆっくりできたわけではなかった。イサベルが起きて来る前までに、買い置きの野菜を二人で切ったり洗ったり煮込んだりしてスープを完成させた。連絡先を教えてもらって、普通の恋人みたいに、月の初めには必ず手紙のやり取りをする取り決めをする。
食事を終え、そろそろと行かないと、とカミルが言うので、ユリアは玄関先まで見送りに出た。昔はまたね、と少年だったカミルは手を振りながらエイレムの家を後にしていた光景を思い出す。
「また来るよ」
大人になった今は少し違って名残惜しそうに、ユリアの額と髪飾りに口付けを落としてから、ユリアが固まっている様子を見て満足したらしい。ようやく、悪戯っぽい笑みを浮かべて出て行った。
「……手伝うよ」
「あら、ありがとうございます」
暖かくなった頃、カミルはユリアと、それからイサベルも連れてエイレムの家へと帰って来た。家の前に新たに整備された花壇の前で、兄夫婦が仲良く世話をしているところである。三人がやって来るのに気が付いて、向こうもこちらを振り返った。
「……ああ、おかえり」
「……あんまり驚いてくれないんだね」
「手紙の消印を見たら一発だろう」
実家に対し、大事な話がある、といつもとは違うかしこまった形式の手紙を先に送ってあった。そう言えばモニカとユリアはずっと友人として付き合っていて、連絡を取り合っているのだと教えてもらっていた。カミルもユリアの家で手紙を書いて、そのまま街の郵便局から出したのだった。
じゃあ、と言わんばかりにアレックスはカミルを上から下まで眺めて、良いコートを着ている、と褒めてくれた。ユリアが仕事先の服飾店で買ってくれた格好良い灰色のコートは季節柄、今日でしばらくお休みになるはずだ。
「……そういうわけで、ユリアとは冬くらいから正式にお付き合いをさせて頂いていまして」
先に手紙を出しておいたので、エイレム一家の居間には両親と兄夫婦、子供の頃からいる乳母まで勢ぞろいしている。妹のルーチェだけはどうしても決められた休暇期間以外には家に帰って来られないとの事で欠席だった。以前にユリアと選んだ髪飾りと一緒に、今日家族に伝える内容と同じ手紙を既に送ってあった。
「……なんだ、まだ交際中なのか。カミルはてっきり結婚の報告に来たのかと思ったのに」
「一応、報告は必要だと思いまして」
拍子抜けと言わんばかりに苦笑している父親だが、喜んではくれているようである。ユリアはカミルの隣で顔を赤くして俯いていた。
今回はそもそもイサベルが、二人が本気であるならまずエイレム家の皆様に伝えるべき、と主張したのもあっての帰省である。彼女の若かりし頃の事情を鑑みると、一人娘の初恋が成就して嬉しいのと、果たしてそれが受け入れてもらえるだろうかと不安で仕方ないのも、理解はできた。
「それから、今後は仕事の合間で、学生だった頃よりも帰って来られると思う。そうしたら、もう少し家を手伝うから」
今まで留守にしていた悪かった、と本題を口にしたカミルは両親と兄に頭を下げた。今日はそれを言いに行こう、とユリアと約束していたのだ。自分がどういう経緯でその話をしているのか、本当に理解しているのはおそらく、横に座っている一人だけだ。
「……ありがとう、カミル。助かるよ」
兄と父とはしばらく顔を見合わせて、それから笑って受け入れてくれた。それを期にモニカも祝福の言葉を口にして、ついでとばかりに話を振られた乳母のマルチナもハンカチで目の辺りを抑えながら祝ってくれた。
「……で、母さんは何か言わなくていいの?」
「……」
カミル達三人が到着してから、一言も口を開いていない母親のアリサに、ようやく話が向けられた。ちょうど壁の時計が鐘を鳴らし、正午を知らせる。それまで和やかだった居間の雰囲気が、微妙に緊張を帯びた。
「……いや、そんな私に祝う気持ちが少しもないみたいな言い方は止めてちょうだい。可愛いユリアが幸せなら、私はそれで充分。こんなしっかりした子が傍にいてくれるなら、何より安心できる事よ。どうしてかは知らないけど、ユリアにだけは何故かあれこれと気を遣っていたようだし」
アリサの言葉に嘘偽りはないようで、うんうんと楽しそうに一人でしばらく頷いていた。それからカミル、とアリサは打って変わった声と視線を息子へ投げた。何かしらの教訓や文句を言いたかったのかもしれないが、今は別の言葉を選ぶことにしたらしい。
「おめでとう、カミル。それからおかえりなさい。今日はあなたの好物ばっかり作ったから」
どうやら久しぶりに、母親を喜ばせる事に成功したカミルは、安堵の息をついた。さあ食事の時間、とエイレム一家はそれぞれ席を立ち、女性陣が手を掛けた料理を運ぶために動き始める。固唾をのんで見守っていたイサベルもほっとしたようで、アリサへと嬉しそうに話し掛けに行っていた。
「それにしても、十年経っても我が家のほとんど顔ぶれが変わらないとは」
「安定しているのは良い事だよ」
父と兄が笑いながら、そんなやり取りをしているのが聞こえてきた。
「ユリアも、今日はありがとう」
その場に残ったのは二人だけになる。カミルは改めて、ユリアの手をとりながら向き直った。もしあの夕方に彼女が来てくれなかったら、自分は二度とこんな風に家には帰る事はなかったと思う。
ユリアはちらりと、他の家族の様子を窺うように視線を外した。もう少し二人でくっついていても問題ないと判断したようでカミルに向き直り、良かった、と彼女もまた祝福の言葉をくれた。あんなに小さな女の子だったのに、と初めて会った時の事を思うと、何だか不思議な気分になる。
いつまでも幸せでありますように、とカミルもまた声に出さずに、彼女の綺麗な緑の瞳に、静かな祈りを捧げた。