第八章 講和会議
赤砂平原と帝都ヴェルグを血で染め上げた、イレント帝国と三国同盟軍による未曾有の大戦は、同盟軍総司令官ヴォルデン(大将軍)の死をもって劇的な終結を迎えた。
十五万の同盟軍は完全に瓦解し、各国の国境線まで敗走。残されたのは、見渡す限りの屍と、破壊された大地、そして硝煙の臭いだけだった。
戦いの直後から、イレント帝国軍は休む間もなく「戦後処理」というもう一つの過酷な戦いに直面していた。
「負傷者を急ぎ野戦病院へ運べ! 軽傷の者は瓦礫の撤去と、戦死者の回収に回れ!」
大隊長ロイドの嗄れた声が、朝陽に照らされた平原に響く。
生き残った兵士たちは、泥と血に塗れた顔のまま、無言で作業を続けていた。
「ハンス(曹長)……カール(軍曹)の班が、向こうの塹壕で……」
第一歩兵部隊のルーク(一等兵)が、血濡れた認識票を数枚握りしめ、力なく歩み寄ってきた。彼の真新しい一等兵の階級章は、すでに真っ黒に汚れていた。
ハンス(曹長)は無言でその認識票を受け取り、泥を拭ってから自身の胸ポケットに深くしまった。
「……ああ。よくやってくれた、ルーク(一等兵)。彼らの勇敢な最期は、俺が必ず遺族に伝える。今はただ、一人でも多くの仲間を帝国の土に還してやろう」
ジャン(一曹)やレン(二曹)といった下士官たちも、敵味方の区別なく遺体を収容し、大地に弔いの祈りを捧げていた。かつては神の加護を叫びながら襲いかかってきたルミナ神国の神殿騎士たちも、物言わぬ骸となれば、ただの哀れな人間でしかない。
帝国は勝った。しかし、その代償はあまりにも大きかった。七将天の一角、ガザ(大将軍)をはじめとする多くの将兵が、この土の下で永遠の眠りについたのだ。
帝都ヴェルグ、皇城の裏手に位置する近衛兵団専用の厩舎。
喧騒から隔離されたその静かな空間に、松葉杖をつきながらゆっくりと歩みを進める一つの影があった。
大将軍、エイダ・ケンドルである。
彼女の左肩には分厚い包帯が巻かれ、全身の至る所に治療の痕が痛々しく残っていた。ヴォルデン(大将軍)の聖剣による一撃は、彼女の左肩の骨と筋を深く破壊しており、軍医からは「二度と剣を振るえなくなるかもしれない」とまで宣告されるほどの重傷だった。
「閣下、まだお歩きになっては……! 馬の世話なら、我々下働きが全て行いますゆえ!」
慌てて駆け寄ってきた厩務員を、エイダ(大将軍)は優しく手で制した。
「構わないわ。あの子の世話は、私自身の手でやらせてちょうだい。それが、私とあの子の『約束』だから」
厩舎の最も奥まった広々とした馬房。そこに、一頭の巨大な漆黒の軍馬が繋がれていた。
名を『シュヴァルツ』。
一般的な軍馬よりも一回り以上大きく、艶やかな黒曜石のような毛並みを持つ牡馬である。彼もまた、先の激戦で幾つかの矢傷や切り傷を負い、馬衣を羽織って静かに休んでいた。
エイダの足音に気づくと、シュヴァルツは小さくいななき、その大きな頭を馬房の柵からすり寄せてきた。
「ただいま、シュヴァルツ。痛むところはない?」
エイダ(大将軍)は松葉杖を壁に立てかけ、不自由な右腕一本で、シュヴァルツの鼻筋をゆっくりと撫でた。シュヴァルツは彼女の怪我を労わるように、温かい鼻息をエイダの頬に吹きかける。
エイダは壁掛けから獣毛のブラシを手に取ると、シュヴァルツの首筋から背中にかけて、丹念にブラッシングを始めた。
「あなたがいなければ、私は東部の嘆きの谷でバルガスの斧に叩き潰されていたわ。南部の平原でも、あなたの脚がなければザカリーの魔術を躱しきれなかった。……そして、この帝都でも」
シュヴァルツは、エイダが二等兵から一等兵へ昇進したばかりの駆け出しの頃、戦場で主を失い暴れ狂っていた野生の馬だった。誰も手がつけられない荒馬だった彼を、エイダは三日三晩かけて宥め、心を通わせた。それ以来、シュヴァルツは彼女の階級が三曹、小隊長、中隊長と上がっていく過程のすべてを共に駆け抜け、最も信頼できる「戦友」となったのだ。
「フンッ……」
シュヴァルツが気持ちよさそうに目を細める。
エイダ(大将軍)は乾草と、特別に用意させた甘い林檎を飼葉桶に入れた。シュヴァルツが力強い音を立てて林檎を噛み砕くのを聞きながら、エイダは怪我をしていない方の頬を、馬の温かい首筋にピタリと押し当てた。
戦場の血と泥の臭いではない。干し草と、獣の温かく安心する匂い。
「……終わったのよ、シュヴァルツ。私たちは生き残った」
張り詰めていた心の糸が僅かに緩み、大将軍の瞳から、誰にも見せたことのない一筋の涙がこぼれ落ちた。シュヴァルツはただ静かに、主の涙を受け止めるように首をすり寄せていた。
大戦終結から一ヶ月後。
傷ついた帝都ヴェルグは、驚異的な速度で復興の道を歩み始めていた。しかし、真の意味での戦争終結を迎えるためには、避けては通れない重大な儀式が残されていた。
敗戦国である三国との「講和会議」である。
帝都の皇宮、大謁見の間。
荘厳なステンドグラスから差し込む光の下、最奥の玉座にはイレント帝国の最高権力者である皇帝が威風堂々と鎮座していた。その傍らには、軍師ゼノン(大将軍)やリリス(大将軍)ら七将天の面々、そして左腕を吊りながらも軍服をパリッと着こなしたエイダ(大将軍)が控えている。
そして皇帝の眼前に広がる大理石の床には、かつての威光を完全に失った三国同盟の代表者たちが、重苦しい沈黙の中で立ち尽くしていた。
ガルドリア王国の代表は、開戦に最後まで反対していた穏健派の貴族、アーランド公爵。
セイル共和国の代表は、軍部ではなく文官トップである外務長官クレオ。
ルミナ神国の代表は、ザカリーら狂信派の暴走を止められなかったことを悔いる若き改革派の司教、エララ。
皇帝は、冷徹な視線で三人の代表を見下ろした。
「……さて、此度の愚行、貴国らはどのような代償をもって贖うつもりか。我が帝国の領土を蹂躙し、無辜の民を焼き、帝都を包囲した罪は、決して軽いものではないぞ」
皇帝の地鳴りのような声に、三国の代表は身をすくませた。
最初に一歩前に出たのは、ガルドリアのアーランド公爵だった。
「皇帝陛下……。我が国の好戦的な将軍たちが引き起こした暴挙、弁解の余地もございません。我がガルドリアは、ヴォルデン(大将軍)をはじめとする軍上層部を全て解体いたしました。賠償金として王国国家予算の十年分、および東部国境沿いの鉄鉱山三つの採掘権を、イレント帝国へ無期限で譲渡いたします。どうか、我が国の民の命だけは……!」
誇り高き大国の公爵が、床に膝をつき、深く頭を下げた。
続いてセイル共和国のクレオ長官が、震える声で書類を提示する。
「我が共和国は、今回の戦争に投入した『魔導機甲』および『軌道魔導砲』の全設計図と製造技術を帝国に引き渡します。また、西部の非武装地帯化を受け入れ、帝国の査察団の常駐を許可いたします。……我が国の技術が、二度と牙を剥くことのないよう、徹底した軍縮をお誓いします」
最後にルミナ神国のエララ司教が、涙を浮かべながら祈るように両手を組んだ。
「神の教えを歪め、異端審問と称して虐殺を行ったザカリーたち旧指導部は、すでに異端として教会から永久追放いたしました。我がルミナ神国は、被害に遭われた帝国の村々の復興費用を全額負担し、今後一切の他国への宗教的軍事介入を放棄いたします。……我々は、真の祈りの形を取り戻さねばなりません」
三国の提示した降伏条件は、事実上の属国化にも等しい、屈辱的かつ徹底的な武装解除を意味していた。
皇帝は沈黙した。
謁見の間に、張り詰めた空気が漂う。ゼノン(大将軍)が静かに進み出て、皇帝に耳打ちをした。
「陛下。これ以上の要求は、三国の国内で反乱や暴動を引き起こし、かえって大陸の情勢を不安定化させる恐れがあります。ここは、寛大な処置をもって帝国の威信を世界に示すべきかと」
皇帝はゆっくりと頷き、立ち上がった。
「よかろう。貴国らの提示した条件、我がイレント帝国はこれを受諾する」
三国の代表から、安堵の深いため息が漏れた。
「ただし」と、皇帝の声が再び場を支配する。
「我が帝国が望むのは、報復の連鎖ではない。大陸の真の『安寧』である。賠償金や技術は復興のために使わせてもらうが、貴国らの民を不当に虐げることはしない。共に、この焼け野原から新しい時代を築くのだ。それが、我が帝国の将、ガザ(大将軍)をはじめとする散っていった者たちへの、唯一の弔いとなる」
「「「ははっ……!!」」」
三国の代表は、皇帝の威厳と度量の大きさに、今度こそ心の底から平伏した。
こうして、大陸全土を巻き込んだ三国同盟による侵略戦争は、条約という形をもって完全に終結を告げたのである。
講和会議から数日後。
帝都の中央広場にて、戦功を立てた将兵たちへの大規模な叙勲式が執り行われていた。
「第一歩兵部隊、ルーク(一等兵)! 前へ!」
「は、はいッ!」
グレイ(中隊長)に呼ばれ、ルークはガチガチに緊張しながら壇上へと上がった。彼を迎えたのは、美しく仕立て直された軍服に身を包んだエイダ(大将軍)だった。
「ルーク(一等兵)。あなたは東部、西部、そして南部の全戦線において、恐れを知らぬ勇気で仲間を守り抜いた。その功績を讃え、本日付で『上等兵』への昇進を命じます。そして、この『帝国防衛武功章』を授与します」
エイダ(大将軍)が、ルークの胸に輝かしい銀の勲章を取り付ける。
「あ、ありがとうございます! 大将軍閣下!」
ルーク(上等兵)は涙ぐみながら、完璧な敬礼を見せた。広場からは、ハンス(曹長)やトーマス(小隊長)たちの割れんばかりの拍手と指笛が鳴り響く。
「ハンス(曹長)、あなたもよく新兵たちを導いてくれたわ。小隊長への推薦状、私が直々に書いておいたからね」
「もったいないお言葉です、閣下! 俺は現場の曹長でいるのが性に合ってますがね」と、ハンスは照れくさそうに笑った。
式典の最後、皇帝から直々に呼び出されたエイダ(大将軍)は、壇上から広場を埋め尽くす兵士たちを見渡した。
「エイダ・ケンドル(大将軍)よ。此度の国難を救った最大の功労者は間違いなく貴殿だ。望む褒美があれば、何なりと申してみよ」
皇帝の言葉に、エイダは静かに微笑み、首を横に振った。
「もったいないお言葉ですが、私が望むものはすでにここにあります。勇敢に戦い抜いた兵士たちの命と、彼らが笑って暮らせる帝国の平和。……それ以上、望むべくもありません」
広場に集まった数万の兵士たちから、地鳴りのような歓声が上がった。
「エイダ閣下、万歳!」
「イレント帝国、万歳!」
式典が終わり、夕暮れが帝都を赤く染める頃。
皇宮の門から、一騎の馬が静かに歩み出てきた。
完治にはまだ時間がかかる左腕をかばいながらも、見事に漆黒の軍馬シュヴァルツを操るエイダ(大将軍)の姿があった。
「さあ、シュヴァルツ。少しだけ、風を感じに行きましょうか」
エイダが手綱を軽く揺らすと、シュヴァルツは嬉しそうにいななき、帝都の石畳を力強い蹄の音を響かせながら駆け出した。
城壁の外に広がる平原には、すでに新しい緑の芽が吹き始めていた。
激しい戦火の記憶は大地に刻まれているが、それでも世界は再生へ向けて力強く動き出している。
二等兵から這い上がった赤髪の戦乙女と、彼女を乗せた漆黒の戦友は、平和という名の新しい夜明けに向かって、どこまでも続く真っ直ぐな道を駆け抜けていった。




