第二十一話「騒がしい夜」
ネコチャンの画像と合わせて、さくらにメッセージを送った。
『ネコチャンの尻尾、五本になりました』
しばらくして返信が来た。
『え』
間があって。
『え!!!!』
『ほんとに!?』
『今から行きます!!』
『車で行くので一時間くらいかかります』
怒涛の返信だった。諒は少し笑った。
『どうぞ』
諒はスマートフォンを置いて、台所に立った。
米を研ぎながら、窓の外を見た。
梅雨の合間の朝だった。空が高かった。山が緑だった。
足元で気配がした。
ネコチャンが台所に入ってきていた。
「おはようございます」
尻尾が五本、ぐったり伸びていた。
昨夜は縁側で遅くまで山を見ていた。今朝はまだ眠そうだった。
「さくらさんが来ますよ」
ネコチャンが片目を開けた。
また閉じた。
「へえ、そう」という顔だった。
さくらの車が来たのは、九時前だった。
集落の道に車を止めて、小走りで来た。
「ネコチャン、どこですか」
「縁側にいます」
さくらが縁側に回った。
ネコチャンが縁側の端に座っていた。
山の方を向いていた。
さくらが近づいた。
しゃがんで、尻尾を数えた。
一本、二本、三本、四本、五本。
「……ほんとに五本だ」
しばらく動かなかった。
「ほんとに」
「そうなんですよ」
さくらがネコチャンに向かった。
「おめでとうございます、でいいのかな? ネコチャン」
ネコチャンが、さくらを見た。
まばたきをした。
尻尾が一本、パタン。
さくらが顔を上げた。
「返事してくれた」
「たまにそういうこともあります」
さくらがもう一度ネコチャンを見た。
目が、少し赤かった。
「……なんか、うれしい」
小さく言った。
「これって、力がついたってことでしょう? 大変だったと思うから。祠が傷んで、ずっと弱ったまま、一人でいたこと」
ネコチャンは、さくらを見た。
しばらく見ていた。
それから、さくらの方に少し体を傾けた。
頭を、さくらの膝に押し付けた。
さくらが、静かに撫でた。
諒はそれを見ていた。
何も言わなかった。
お茶を飲んでから、三人で裏山に上がった。
ネコチャンが先を歩いた。
今日も斥候の位置だった。
石段を上がって、祠の前に着いた。
さくらが立ち止まって、祠を見た。
「きれいですね。修繕してからずっと」
「雨の後は確認するようにしてます」
「社守の仕事ですね」
「まあ、そういうことですかね」
祠を軽く清掃し、供物を並べていく。
「今日は、ちょっと良い物持ってきちゃいました」
「お、良さげですね。昨日、カツオのたたきを供えたら、すごく反応が良かったので」
「観ました観ました! それでピンときて」
さくらが持ち込んだものは海苔だった。塩気のない、焼き海苔タイプの商品である。
「新海苔には遅いですし、市販の安いやつですけど」
そう言いながら、さくらが袋のまま海苔を置いた。
そんなことは気にしないと思うが。そう考えながら、ネコチャンの反応を伺った。
ネコチャンはぴょんと祠に飛び乗り、昨日のカツオ以上のリクションで、すぴすぴと鼻を鳴らしていた。
猫の中には海苔を好む子がいると聞いたことがあったが、猫ちゃんもその例に当てはまるようだった。
さくらにその全身を擦り付けて甘えていた。
「わあ〜〜〜」
さくらが悶えていた。
ネコチャンの中で、さくらの株価が大いに上昇したことだろう。
祠の奥に向かった。
平場に出ると、要石が立っていた。
さくらが、立ち止まった。
「本当にすごい…」
さくらが囁くような声で言った。
「そうですかね」
「そうですよ。ちゃんと整っていて、バランスもいいし、威厳というか、雰囲気も崩れていない。何より文字がしっかり読めます」
さくらが石碑の正面に回った。
「鎮龍脈永」
「社守 七代 坂口諒」
刻まれた文字を見ながら言った。
「ここを刻んだとき、どんな気持ちでしたか」
諒は少し考えた。
「やるべきことだと思ったので、やった、それだけです」
「理屈より先に手が動く感じですか」
「さくらさんも前にそう言ってましたよね」
「諒さんを見てると、そういう人だと思うので。印象ですけど」
しばらく二人で要石を見た。
ネコチャンが要石の脇に来て、座った。
五本の尻尾が、ゆっくり揺れていた。
観測するような、見守るような、静かな目をしていた。
さくらが小声で言った。
「ネコチャン、今日はなんか、いつもと少し違う気がします」
「どういう意味ですか」
「集中してる感じがする。なんか山の奥の方…」
諒は山の奥を見た。
何もなかった。
木立が続いて、暗かった。
「以前より、嫌な感じは増してます。でも圧が弱まっているような」
「…5本に増えたから、でしょうか」
「きっとそうです!一目見て、ネコチャンの存在感が前と全然違いましたから」
やはり力が増しているのだろうか。諒にはさっぱり感じ取ることができなかったが。
ネコチャンが、奥の方を向いた。
一本も、尻尾が揺れなかった。
山を下りてから、さくらは夕方まで家にいた。
拓本の資料を見直したり、ドローンの試作品を見たり、特に何をするでもなく、縁側でお茶を飲んだりしていた。
ネコチャンは、珍しく膝に乗らなかった。
縁側の端に座って、山の方を向いていた。
夕方になってさくらが帰り際に言った。
「ネコチャン、今日ずっと外を見てましたね」
「ですね」
「何かあるのかな」
「もしかしたら、ですが。他の猫たちもいつもと様子が違いますし」
さくらが車に乗り込む前に、振り返った。
「諒さん、今夜、何かあったらすぐ連絡してください!」
「なんだか、逆のような気もしますけど」
諒は、苦笑いしながら告げた。
こちらにはネコチャンがついているのだ。
自分に危険なことは起こるまい、なぜかそういう確信があった。
ネコチャンがついていないぶん、さくらの方が余程心配であった。
「さくらさんの方こそ、心配ですし、何かあったらすぐ教えてください」
「ぇ!? そんな、今日はすぐそこ、実家に帰るだけですし、危ないことなんて別に」
しどろもどろになりながら、さくらが答えた。
「すぐにネコチャンに相談するので。海苔の件もあるし、すぐ解決してくれそうですよ」
「あ、そうです、ね…」
そう言い残し、さくらの車が出て行った。
諒は縁側に戻った。
ネコチャンが、山を見ていた。
「ネコチャン、何かありますか」
返事はなかった。
尻尾が五本、静かに、揺れた。
夜になった。
梅雨の夜らしく、湿った空気だった。
曇っていて、月がなかった。
諒は縁側でドローンの設計図を書いていた。
ライブは繋いでいなかった。
なんとなく、今夜はそういう気分ではなかった。
ネコチャンが縁側の端にいた。眷属たちは、全員、それぞれの定位置にいた。
ゴマが庭の真ん中にいた。白いのが縁側の反対の端にいた。耳の欠けた灰色の大きいのが門の脇にいた。
全員、山の方を向いていた。
「みんな今日は、揃ってますね」
誰も動かなかった。
設計図を書きながら、諒はそれを見ていた。
綺麗な月が出ていた。
深夜になった。
時計は日付が変わった直後だった。
諒はそろそろ寝ようかと思って、設計図を片付けていた。
そのとき。
山が、鳴った。
音ではなかった。
振動だった。
地面を伝う、低い、重い、振動だった。
諒は手を止めた。
縁側の木が、わずかに揺れた。
ネコチャンが立ち上がった。
五本の尻尾が、一本も揺れずに、上がった。
「……ネコチャン」
ネコチャンが振り返らなかった。
山を見ていた。
奥の方を、じっと見ていた。
金色の目が、いつもの三倍は光っていた。
ゴマが庭の真ん中で立ち上がった。
白いのが縁側の端から立った。
灰色の大きいのが門の脇から前に出た。
全員が、山の方を向いていた。
毛が、立っていた。
全員の毛が、逆立っていた。
諒には見えなかった。
でも感じた。
奥の山に、何かが、いた。
いつもそこにあった気配とは、全然違った。
いつもの気配は、重たく澱んだものだった。根を張って、じっとしているものだった。
今夜の気配は、動いていた。
膨れていた。
溢れ出そうとしていた。
「……でかい」
声に出ていた。
自分でも驚くくらい、率直に出ていた。
諒には霊感がなかった。実に鈍感な男であった。
でも今夜は、何かが違った。
皮膚が、ざわついていた。
空気が、違う質になっていた。
息を吸うと、なんとなく、重かった。
「ネコチャン、これは」
ネコチャンが振り返った。
金色の目が、諒を見た。
一瞬だけ。
まばたきをした。
それから山に向き直った。
その目の光が、一段、強くなった。
ネコチャンが、鳴いた。
「ニャアァン」
短く、小さかった。
でも、縁側の木が震えた。
家の中の食器が、かちりと鳴った。
庭の眷属たちが、一斉に反応した。
ゴマが前に出た。白いのが左に散った。ぶちが右に展開した。灰色の大きいのが中央後方に構えた。
他の眷属たちも、それぞれの位置についた。。
包囲するような形だった。
「……部隊だ」
思わず言った。
映画で見る、特殊部隊のような。戦術的な動きだった。
奥の山で、何かが動いた。
光ではなかった。
光の逆だった。
暗がりが、凝った。
濃くなった。
形を持とうとしていた。
諒の目には、何かが盛り上がっているような、煙のような、でも煙よりずっと重いような、そういうものが奥の暗がりにある気がした。
気がした、程度だった。
でも眷属たちは、はっきりと見ていた。
ゴマが低く体を沈めた。白いのが毛を逆立てたまま、一歩前に出た。
山の奥で、何かが膨れ上がった。
空気が変わった。重くなった。
温度が下がった気がした。
六月の夜だったのに、縁側にいた諒の腕に、鳥肌が立った。
「でかい。これ、でかいぞ」
ネコチャンが、山に向かって、踏み出した。
縁側から庭に下りた。
庭の真ん中を、歩いた。
歩き方が、いつもと全然違った。
いつもはのんびりしていた。トコトコ歩いていた。
今夜は、滑らかだった。
音がなかった。
地面を踏んでいるはずなのに、足音がしなかった。
五本の尻尾が、束になって後ろに流れていた。
金色の目が、奥の山を見ていた。
光が強かった。
二つの光点が、闇の中に浮かんでいた。
ゴマが、ネコチャンの右斜め後方についた。白いのが左斜め後方についた。他の眷属たちが、周囲を固めた。
集落の境界に向かって、散開しながら進んでいった。
あっという間に、庭が静かになった。
諒は縁側に一人で残された。
山を見た。
何も見えなかった。
でも、何かが起きていた。
皮膚で、感じた。
遠くで、何かが、ぶつかった。
衝撃のようなものが、地面を伝って来た気がした。
諒は立ち上がった。
山の方に一歩踏み出しかけて、止まった。
行っても何もできなかった。
霊感がなかった。
戦う力もなかった。
ただ邪魔になるだけだった。
諒は、縁側に腰を下ろし直した。
「……無事でいてくれ」
膝の上に手を置いた。
山を見た。とにかく見守る覚悟だった。
それから、一時間ほどが経った。
諒には何も見えなかった。
でも山は、何度か「動いた」。
音ではなく、感触で。
空気の質が変わるような、重さが増すような、そういう動きが何度かあった。
一度だけ、光が見えた。
奥の山の、さらに奥の方で。
金色だった。
一瞬だけ、広がった。
諒は目を凝らしたが、もう何もなかった。
木立が暗かった。
静かだった。
しばらくして、声が聞こえた。
「ニャアアアァァン」
山から、聞こえた。
可愛い声だった。
でも、山全体が揺れた。
本当に、ビリビリと山全体が揺れた。
物理的な振動だった。
縁側の柱が震えた。
家の中で何かが倒れた音がした。
諒は咄嗟に柱を掴んだ。
揺れは一瞬だった。
でも、確かにあった。
可愛らしい一声で、凄まじい影響があった。
その後、静かになった。
静寂が、続いた。耳が痛くなるほどの、静寂。
諒は柱を掴んだまま、山を見ていた。
何も見えなかった。音もなかった。
空気の質が、少し変わった。重さが、明らかに減った。
詰まっていたものが、抜けたような感じがした。
しばらくして、庭に気配が戻ってきた。
ゴマが先だった。
庭の真ん中に、ぺたりと座った。
毛が逆立ったままだった。
白いのが縁側の端に来た。ぶちが納屋の前に。灰色の大きいのが門の脇に。
全員、定位置に戻ってきた。
全員、地面にへたりこんでいた。
足に力が入っていない感じだった。
最後に、ネコチャンが戻ってきた。
庭を横切って、縁側に上がってきた。
歩き方が、少し重かった。
いつものネコチャンの歩き方だったが、足が少し沈んでいた。
消耗していた。
諒の隣に来て、座った。
山の方を向いた。
「……終わりましたか」
尻尾が一本、ゆっくり、パタン。
「お疲れ様でした。無事でよかった」
返事はなかった。
でもネコチャンが、いつも通り。
でも足取り重く、膝の上に乗ってきた。
ゴマが、倒れるように横になった。白いのが、その場で丸まった。灰色の大きいのが、のびをしてから、寝た。
一人ずつ、眠っていった。
いつもの縁側ゴロゴロとは違った。
ゴロゴロする力も残っていない、という感じで、ただ倒れた。
「みんな、お疲れ様でした」
誰も答えなかった。
全員、すでに寝ていた。
ネコチャンだけが、起きていた。
でもその目が、少しずつ細くなっていた。
「ネコチャンも寝ていいですよ」
尻尾が一本、パタン。
諒は山を見た。
何もなかった。暗い山と、湿った夜空だけがあった。
「倒しましたか」
しばらく間があった。
ネコチャンが諒を見た。まばたきをした。
尻尾が五本、ゆっくり揺れた。
「そうですか。さすがです」
今にも寝てしまいそうなネコチャンを連れ、布団へと向かった。
諒の隣、枕元で、小さく丸まった。
五本の尻尾が、力なく、地面に広がった。
諒はしばらくそれを見ていた。
「お疲れ様でした、本当に」
声に出した。
返事はなかった。
寝息が、聞こえ始めた。
朝になってから、さくらにメッセージを送った。
『昨夜、山で何かありました。みんな無事ですが、全員寝てます。時間があれば来てください』
しばらくして返信が来た。
『今から行きます。やっぱり何かあったんですね、昨夜。こっちも少し揺れみたいなのを感じて、気になってて』
諒は縁側を見た。
ネコチャンが寝ていた。
ゴマが寝ていた。全員、まだ寝ていた。
日が上がってきた。縁側に光が差してきた。
ネコチャンの黒い毛並みが、朝の光の中で少し赤みを帯びた。
五本の尻尾が、力なく広がっていた。
でも、五本あった。
ちゃんと、五本あった。
ここまでチュートリアルでした




