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第十五話「拓本、二枚目」

さくらが来たのは、土曜日の昼前だった。

リュックに越前和紙の予備と道具一式を入れてきた。前回の残りに加えて、新しく買い足してきたらしかった。


「また買ってきてくれたんですか」

「せっかくなので。今回は少し薄めのやつも持ってきました。細かい部分の拓本に向いてるかもしれないので」

「ありがとうございます」


諒はライブのカメラを向けた。


「今日は石碑の左下部分、前回取れなかったところの拓本を取りに行きます。さくらさんにまた手伝ってもらいます」


コメントが流れた。


『待ってた』

『左下に何かヒントとかあるといいけど』

『石碑?要石?ってどうやって機能してるんだ?』

『さくらさんまた来てくれた』

『↑↑傾いてる石を元に戻して綺麗にしてやれば、ネコチャンが何とかしてくれんもんか』

『ネコチャンは万能だなあ』


さくらがカメラの端で少し笑った。


裏山に上がる前に、諒は祠に寄った。

供物を置いて、手を合わせた。


「今日、石碑の左下の拓本を取りに行きます。ご報告まで」


さくらも隣で手を合わせた。

下りながら振り返ると、ネコチャンがいた。

いつも通り、祠の前に来ていた。

でも今日は、祠の前に座らずに、二人の方を見ていた。

しばらく見てから、踵を返して、先に奥へ向かった。


「……先に行くんですか」


さくらが小声で言った。


「案内してくれてるんですかね」

「護衛、じゃないかな」


さくらの言い方が少し真剣だった。

諒は頷いた。


「かもしれないですね」


平場に出ると、ネコチャンが石碑の脇に座っていた。

奥の方を向いていた。

二人が来ても、振り返らなかった。

諒はカメラを向けながら、石碑の状態を確認した。


「気のせいかもしれないけど、先週より、少し傾きが増してる気がします。根元の土が緩んでるのかな」


さくらがしゃがんで根元を確認した。


「雪解けの水が入り込んでるのかなあ」

「修復、急いだ方がいいですね」


コメントが流れた。


『早めにやった方がいい』

『倒れる前に』


石碑の根元を確認していたさくらが、立ち上がって言った。


「これ、このまま拓本取って帰るのは、ちょっとまずくないですか」

「ですね。次来たときに倒れてたら困る」


諒はリュックを下ろした。今日は道具を多めに持ってきていた。

拓本の道具だけでなく、石碑の状態を見てから何かできることはないかと思って、いくつか入れてきた。リュックから出したのは、ラチェット式の荷締めベルトが二本と、単管パイプを短く切ったもの一本だった。


「これで応急処置できると思います」


さくらが少し目を丸くした。


「担いで上がってきたんですか」

「軽いので。単管は少し重かったですが」


コメントが流れた。


『準備がいい』

『DIYerだ』

『こんなこともあろうかと!キリッ』


まず石碑の傾きを確認した。

南東方向に、約十五度ほど傾いていた。さくらの懸念通り、根元の土が雪解け水で緩んで、その方向に少しずつ沈んでいた。


「単管を支柱にして、傾きの反対側から当てます。ベルトで固定して、これ以上傾かないようにする」


単管パイプを石碑の北西側の地面に斜めに打ち込んだ。斜面の土は柔らかかったが、深く入れれば支えになった。


「ベルトを石碑の上部に回して」


さくらが言われた通りにベルトを持って石碑の背後に回った。


「そこで一回巻いて。俺が単管の方に引っ張って固定します」


ラチェットを締めた。カチ、カチ、カチ。ベルトが張っていくにつれ、石碑が少しずつ起き上がった。


「もう少し」


カチ、カチ。


「そこで止めて」


垂直に近い角度まで戻った。完全な垂直ではなかったが、これ以上傾くことはなくなった。

もう一本のベルトを反対側からも当てて、交差させて固定した。


「これで当面は大丈夫なはずです」


諒は石碑を手で押してみた。びくともしなかった。さくらが感心した顔をした。


「すごい。十分くらいで終わった」

「道具があれば、こういうのは早いです」


コメントが流れた。


『DIYの真骨頂』

『すっげえええ』

『準備してきたのが偉いぞ!!』

『単管とベルトの組み合わせかあ、なるほど』


諒は石碑全体を見回した。傾きが戻ったことで、表面の彫り物が正面から確認しやすくなった。


「これで拓本も取りやすくなりましたね」

「全然違います。ありがとうございます」


カメラを石碑に向けた。


「応急処置ができました。ただこれはあくまで仮止めです。根元の土台から作り直さないと、また傾いてきます。本格的な修復は別途やります」


コメントが流れた。


『次が本番か』

『何でもできるね』

『楽しみにしてます』


ネコチャンが石碑の傍に来た。応急処置の間、少し離れた場所で見ていたのだ。

荷締めベルトで固定された石碑を、鼻先でくんくん嗅いだ。それから一歩下がって、全体を見た。

尻尾が四本、ゆっくり揺れた。


「合格ですか」


尻尾が一本、パタン。

さくらが小声で言った。


「ネコチャンに採点されてる…」

「毎回されてる気がします」


今日の作業は、石碑の左下に集中した。

前回は上部から中央にかけて拓本を取ったが、左下の欠けが多い部分は後回しにしていた。欠けが多いぶん、表面の清掃に時間がかかった。

さくらが柔らかいブラシで丁寧に作業した。


「ここ、欠けてるように見えるけど、石が残ってる部分があります。彫り物の輪郭が少し残ってる」

「読めそうですか」

「拓本取ってみないとわからないですが、やってみます」


薄めの越前和紙を当てた。

細かい部分には薄い紙が向いていた。さくらの判断は正しかった。

墨を含ませたブラシを、軽く当てた。

白い部分が、ゆっくり浮かんできた。


「あ」


さくらの声が変わった。

諒はカメラを向けた。


「読めますか」

「……少し。ここ、名前っぽい。人名か地名か」

「どっちですか」

「字の形が……人名の可能性が高い。上の字が姓で、下が名、みたいな並びに見える」


コメントが流れた。


『施工者の名前か』

『誰が建てたのかわかるかも』

『字、読める人いますか』


さくらが和紙を丁寧に外した。

広げて、二人で眺めた。

欠けた部分が多かった。でも輪郭は出ていた。


「上の字、これは……『社』か『杜』に見える。下は……『守』かな」

「社守、ですか」

「役職名の可能性もありますね。神社の管理をする人間を指す言葉に近い」


コメントが動いた。


『社守なら役職か称号では』

『人名じゃなくて肩書きかも』

『でもその下に何か続いてない?』


さくらが拓本を傾けた。


「続いてる……これは数字かな。年号か、数量か」

「読めます?」

「ここが……四、かな。あとは欠けてて見えない」


諒はカメラを拓本に向けた。


「社守、四、何か。建立した年代か、代数か」


コメントが流れた。


『四代目の社守が建てた、とか』

『江戸時代くらいの話かもしれない』

『この山、ずっと誰かが守ってきたんだな』


諒はその言葉を読んで、少し止まった。

ずっと、誰かが守ってきた。

要石が建てられたのは、この山の龍脈を誰かが認識していたからだ。認識して、抑えようとした。

それが江戸以前のことだとすれば、何百年も前の話だ。

そして今、その要石が傾いている。


「……ちゃんと直さないといけないですね」


カメラに向かって言った。独り言みたいな言い方だった。

コメントが流れた。


『頼むぞおおお』

『諒さんがやるべき仕事だと思う』

『ネコチャンが待ってる』


山を下りながら、諒はネコチャンの様子を確認した。

ネコチャンは二人の後ろについてきた。

いつもは前を歩くか、あるいは勝手に先に消えるかのどちらかだった。後ろについてくるのは、珍しかった。


「今日は後ろから来るんですね」


尻尾が一本、パタン。

さくらが小声で言った。


「前じゃなくて後ろ、って、護衛の位置ですよ」

「そうなんですか」

「前は斥候。後ろは殿です」

「さくらさん、詳しいですね」

「おばあちゃんの本棚に古い武家の礼法の本があって、なんとなく読んでたので」


諒は後ろを振り返った。

ネコチャンが三段下にいた。

金色の目が、上を向いていた。二人を見ていた。


「……ありがとうございます」


尻尾が一本、パタン。


縁側でお茶を飲みながら、さくらが拓本を広げた。


「社守、四、何か。これが手がかりになるかどうか、少し調べてみます」

「ありがとうございます。俺はそっち方面、全くわからなくて」

「大丈夫、図書館に行けば、古い記録が残ってるかもしれない。福井県の郷土史とか、神社の記録とか。大学の教授にも当たってみます。当博物館の皆さんにも」


コメントが流れた。


『さくらさんも超有能』

『郷土史には色々ありそうだよね』

『地元の人間じゃないと辿り着けない情報がありそう。口伝とか?』

『まさにそういう研究してるのが大学教授とか博物館関係だろ』

『さくらさん来てもらって大勝利ってことか』


さくらがコメントを横目で見て、少し笑った。


「役に立てて光栄です」

「本当に助かってます」


少し間があった。

さくらがお茶を一口飲んで、それから言った。


「諒さん、今日、石碑の近くで気分悪くなりませんでしたか」

「なりませんでしたが、なんかそういう感じはありましたね。重たいというか」

「私も少し。私の場合、前回よりきつかった気がして」


諒は少し考えた。


「あそこ、何かが変わってきてるのかもしれないですね」


さくらが頷いた。


「ネコチャンがずっと奥を見てたのも」

「気になりますよね」


二人でネコチャンを見た。

ネコチャンは縁側の端に座って、山の方を向いている。

後ろ足で首を掻いている姿からは想像もできないが、今日はしっかり護衛の任を果たしてくれたのだろうと思った。


さくらが帰ってから、諒はライブを続けた。

拓本の画像をカメラに向けながら、コメント欄と話した。

民俗学クラスタ、神道クラスタ、歴史クラスタが入り乱れて考察が続いた。


『社守という言葉は、特定の神社に仕えた世襲の管理者を指すことが多い』

『その場合、特定の家系が代々この要石を守ってきた可能性がある』

『四代目なら、一代三十年として百年以上前の話』

『あるいは「四」は年号の一部かもしれない』


諒はコメントを読みながら、また一件に目が止まった。

「yashiro_k」だった。

今回は動画ではなく、ライブのコメント欄に直接流れてきた。


『拓本、二枚目が取れたようですね。社守の名、解読できましたか』


諒は読んで、少し考えた。

社守という読みは、さくらが今日の作業で出した解釈だった。

ライブで話したのは、この一時間以内のことだった。

リアルタイムで見ている。


『社守の名を明らかにすることは、この件において重要ではありません。時間をかけるべき部分ではない』


続けてもう一件来た。


『石碑の修復を急ぐ前に、施工者の意図を理解することの方が先決では』


諒はコメントを読んで、しばらく止まった。

「時間をかけるべき部分ではない」。

でもその言葉を書いたのは、今まで何度も「解読するな」「掘り起こすな」と言ってきた相手だった。

今度は「解読する時間を使うな」と言っている。

微妙に、ずれていた。

「施工者の意図を理解することが先決」と言いながら、今まで解読を止めようとしてきた。

前後で、言っていることが変わっていた。

諒はコメントを読み上げてから、カメラに向かって言った。


「このyashiro_kってアカウント、今まで何度か来てるんですが。みなさんはどう読みますか」


コメントが流れた。


『前は解読するなって言ってたのに、今は意図を理解しろって言ってる』

『矛盾してるんだよね』

『何かを遅らせようとしてる?』

『時間稼ぎに見える』


時間稼ぎ。

その言葉が、諒の中で少し引っかかった。


「時間稼ぎ、か」


ネコチャンを見た。

ネコチャンが、珍しく諒の方を向いた。

まばたきをした。

それから山に向き直った。

尻尾が四本、少し速く揺れた。

コメントが流れた。


『ネコチャンが反応した』

『正解だったんじゃないか』

『時間稼ぎ、正解』


諒はしばらく考えてから、カメラに向かった。


「要石の修復、来週から材料を揃えて着工します。時間がかかってる場合じゃないかもしれないので」


コメントが流れた。


『いいぞ』

『早めに動く判断は正しいと思う』

『ネコチャン頼んだぞ』


ネコチャンが、縁側の端から立ち上がった。

山の方に、一歩踏み出した。

立って、奥を見た。

尻尾が四本、上がっていた。

揺れていなかった。

その後ろ姿を、諒はカメラで映した。

コメントが静かになった。


その夜遅く、ライブを終えてから。

諒は縁側に座って、スマートフォンを閉じた。

山は暗かった。

月がなかった。

曇っているのか、ただ暗いのか、わからなかった。


「ネコチャン」


隣に来て、座った。


「あのコメント、時間稼ぎだと思いますか」


尻尾が一本、パタン。


「ですかあ」


少し間があった。


「あいつら、俺たちに石碑のところに行かせることで、あなたの力を削ごうとしてるんですかね。護衛の方に意識を割かせて」


ネコチャンは答えなかった。

でも尻尾が、ゆっくり四本、揺れた。

肯定とも、それだけじゃないとも取れる揺れ方だった。


「それでも、要石は直した方がいい」


尻尾が一本、パタン。


「あなたにとって、賭けみたいなものですか」


長い沈黙だった。

山が静かだった。

やがてネコチャンが諒の方を向いた。

金色の目が、暗がりの中で光っていた。

まばたきをした。

一度だけ。

それから山に向き直った。

尻尾が四本、静かに、揺れた。

諒はその横顔を見た。

答えは出なかった。

でも、賭けに乗る気でいるのだということは、わかった。


「……俺も、一緒に賭けます」


返事はなかった。

でも四本の尻尾のうち一本が、他より少し大きく、パタン、と揺れた。

諒はそれを見て、手帳を開いた。

要石修復の材料リストを、続きから書き始めた。


山の夜は、静かだった。

嵐の前の、静けさのように。

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