第三四話 間一髪の救い
一人でも魔族をなんとか倒せたことに安堵しきって、その場で溜息をつく。同時に、戻らなければとも思った。ここにいる人間達を全員、植物の精霊魔法で癒して、皆で戻るのだ。どこをどう戻ればいいのか分からないが、森は一方に向かって開けている。だったら、そっちを選ばない法はない。
その時ふと、何かが煮え立っているような音が聞こえてきた。その音にはっとして音の方へ顔を向けると、そこには顔も身体もぐずぐずに溶け始めている魔族の姿があった。
それを見て、瞬間的に雷韋の息が止まる。
このまま分解されるのだろうかという思いと、何かよからぬことがありそうな気持ちが半々だった。前者ならいい。だが、後者であれば何が起こるか分からないのだ。
雷韋はよろけながらも立ち上がり、様子を窺った。
首を断った魔族の頭と身体は完全に崩れ落ちて、最早、原形をとどめていない。なのに、地面に吸収される様子もなかった。
ただ赤いヘドロ状のものが出来上がっていく。首と身体、二つに分断したものが既に一塊のヘドロになっているのだ。
ふつふつと煮えたぎる音を立てながら。
あまりの光景に、雷韋は言葉を失った。
これから一体、何が起こるのか想像もつかない。
雷韋が言葉を失ったままでいると、どこからか声が聞こえてきた。
「おでを斬ったなぁ……」
斬った? 今の口調から、魔族だと理解する。
本体はどこに?
半ば混乱していると、ヘドロの中に顔が浮かんだ。狭い額に団子鼻、そして紅い瞳に牙の見える口。
まさかこれが? いや、疑っても仕方がない。斬ったのは確かに魔族の首根だ。
しかし疑問が残る。どんなであれ、人と同じように首や胴体がある魔族なら、そこが急所のはずなのだ。雷韋の知識ではそうなっている。だから、首を切ったのにヘドロに魔族の顔が浮かぶとは、これは一体どうしたことなのだろうか。あり得ない、こんなことは。
「おでを斬っても無駄だぞぉ。首も胴体もないぃ。あんなのは見せかけだぁ」
言う顔はにたにた笑っている。この顔も偽物なのか? いや、そうではないと雷韋は思った。
顔そのものはある。紅い瞳がそれを証明している。だとしたら、あの泡立つヘドロが本体なのだ。けれど、あんなものを一体どうしろと?
否。雷韋には何も出来はしない。さっきは咄嗟に首を斬り落としたが、次はどこを斬れと。しかも意識的に。
さっきまでの不均衡な姿も不気味で、充分すぎるほど恐ろしかったが、ヘドロ状になって泡立っている姿も恐ろしい。
「なぁ、おめぇよぉ、なんでおめぇの血は黒いんだぁ? そういう種族なのかぁ?」
最後に咳き込むような笑い声を発した。
その笑い声さえ、雷韋には恐怖だった。
不気味で薄気味悪く、心の芯を強い恐怖で満たしてくる。
「黒い血なんてよぉ、見た目は悪いが、味は最高だなぁ」
口の中でぶつぶつと呟くように言っている。
「おめぇはよぉ、旨いからあとに残してやろうと思ったけどよぉ、でも駄目だなぁ。大人しくしてねぇから、先に喰らってやるぅ。あちこち怪我だらけの人間の方が逃げねぇで、そのまま大人しくしてるもんなぁ。旨いもんはあとに取っておこうと思ったけど、駄目だなぁ。おめぇの恐怖心ももっと味わいたかったけどよぉ、残念だなぁ」
残念という折りには、心底から言っているように聞こえた。実際、心底残念だったのだろう。声に滲み出ていたから分かる。
しかし雷韋も黙ったままではいなかった。震えそうになる舌を宥めて問うた。
「な、なんでこんなに沢山の人がここにいるんだ。それも、みんな怪我してる」
魔族はそれを聞いて、ふふんと鼻で笑った。
「腹が減った。だから攫ってきただけだぁ。竜巻を起こしてなぁ」
「そんな……、あの風はお前が起こしたのか! 何回も風が巻いてた」
「んん? 何回もぉ? 知らない。おでが根源魔法で竜巻を起こしたのは、一度きりだよぅ」
魔族はヘドロ状で首はないというのに、首を傾げたように雷韋には見えた。それは瞬間、魔族が雷韋から視線を外したせいかもしれない。だが、逸らされた目は再び雷韋の上に落ちてきた。
短い会話を重ねただけだというのに、雷韋の口の中はからからに乾いていた。唾を飲み込んではみたが、ちっとも喉が潤った気がしない。
「それにしても、こんないい獲物が中に紛れ込んでたのは、おでは本当についてるなぁ。そろそろ喰っちまうかぁ」
その一言に戦慄する。背筋の産毛がぞっと逆立った。
ずる、と赤いヘドロが動いた。瞳をきらきらさせて。これから味わう肉の味を想像しているのだろう。爪一枚、髪の毛一筋も残さず喰らうつもりだ。そういう気配がひしひしと感じられる。
ヘドロ相手にどう戦えというのか。
いや、そもそも雷韋には自分が戦えるかどうかさえ分からない。
また、ずる、と近寄ってくる。それとは逆に、雷韋は後退った。辛うじて火影を構えてはいるが、攻撃されたところで役に立つかどうかすら分からない。火影を形作っている火の精霊に命を下すことすら出来ないのだから。
魔族は更に踏み込んでくる。今度はヘドロの身体を膨らませて。赤い表面にいくつも気泡が現れては次々割れて消えていく。消えてもまた気泡は現れた。その中心に紅い瞳がある。団子っ鼻は鼻の穴を大きく膨らませて、口は涎を垂れ流している。
まじまじと見たくないと思うのに、どうしても雷韋の黄色に変色した瞳は魔族の顔を見つめてしまう。
雷韋が恐ろしさのままに魔族を見つめていると、魔族の口が開かれ、涎と一緒に舌までが這い出してきた。その舌で空気を舐め取る。血臭で一杯の空気を。
空気を舐め取って、魔族が鼻息荒く言った。
「なんだぁ、こりゃあ。空気まで甘いじゃねぇかぁ」
言ったそのあと、耳障りな声を立てて笑った。更に身体が大きくなる。まるで、既に雷韋を喰らいでもしたかのように。
いや、空気に混じる血の匂いを喰ったのだ。魔族はどこまでも貪欲だ。本体を喰らわずとも、感情だけを喰らうことだって出来るのだ。今だって、雷韋の恐怖と不安を喰らっている。
魔族の目はにたにたと笑って、より近くへと近づく。
お前の血を啜らせろ。
肉を喰らわせろ、と。
と、魔族の身体が爆発的に大きくなり、無数の触手が襲いかかってきた。
雷韋の頭の隅で声がした。
逃げないと。
でも逃げられない、と。
ほんの一瞬、脳裏でそんな思考が弾けた。
現実には触手が襲いかかってきている。
逃げろ、まだ間に合う。
逃げても無駄だ、もう間に合わない。
触手に襲われている刹那の刻に、肯定と否定が弾け合う。自分でも、もうどうしていいのか分からない。思考は完全に混乱していた。
次の瞬間、何故か触手が魔族の方へと戻っていった。
それなのに、弾けるようにヘドロの赤い触手の帯が雷韋の周辺を舞った。
舞っている触手は雷韋を掴みきれずに、後方へとそのまま突っ込んで視界から消えていくのだ。
雷韋には何が起こったか分からなかった。理解が追いつかない。逃げ出すことに対してさえ、頭は正常に働かなかったのだ。今、この瞬間、何が起こったかなど分かるはずもなかった。
「雷韋!」
次の瞬間、いやに懐かしいと思える声が飛んできた。
この声は陸王だ。
頭がそう認識した途端、両膝から力が抜けた。そのままその場にへたり込んでしまう。
魔族の目が雷韋から陸王へと移る。
それに合わせて、雷韋の視線も陸王の声がした方に向いた。
そこには、身体中血塗れの陸王が吉宗を構えて立っていた。夢の中に見た陸王の姿そのものだった。
助けに来てくれた。
そう思った。
だが陸王は、肩で大きく息をしている。
ここまで走ってきたのだろうと頭の隅で思った。
雷韋には町からここまでの距離は分からないが、随分あることは陸王の苦しげな呼吸からなんとなく分かった気がした。
今さっき雷韋を捉えようとしていた触手は、陸王の斬撃が起こした鎌鼬によって断ち切られて、雷韋を捕らえることなく吹っ飛んでいったのだ。
陸王が現れたことで、魔族の身体が収縮していく。下から睨め付けるような目線を陸王に遣って。まるでその様は、妬んでいるかのようだった。
それに気付かず、雷韋は陸王の名を小さく口にした。
救われたとの思いと共に。
陸王の名を耳にした途端、魔族が雷韋を見、そして陸王にもう一度目を遣った。
「陸王、だとぅ?」
「それがなんだ、化け物」
面白くなげに呟いた魔族に対して、陸王は正面切って『化け物』と言い切った。
それが逆に面白かったのか、いきなり魔族は笑い出した。笑い尽くしてからしゃべり出す。
「『化け物』! そうだ、おでは『化け物』だ。人族を喰らう怪物だぁ。でもなぁ、おでは知ってるぞ。『陸王』って名前を」
陸王は言われて、注意深く魔族を見た。気泡沸き立つ身体が再び大きくなり始めている。
「雷韋」
陸王はこっちへ来いという風に手を差し伸べたが、雷韋はへたり込んだまま動けなかった。緊張の糸が切れて、全身から力という力が抜け落ちていたのだ。だから陸王に向かって、緩く首を振る。
陸王は仕方なげに、魔族の様子を窺いながら近づいてきた。
その間にも、魔族の身体は徐々に膨らんでいく。そして言う。
「『陸王』を殺せば天使族が喰えるらしいんだぁ。旨いそうだぞぉ。きっとそこの小僧ほどじゃないと思うけどなぁ」
陸王は眉間にしわを寄せた。不可解だという風に。
「何故、俺を殺すと天使族が喰えるってんだ。そもそも、天使族と魔族は同族だろうが」
「違う! 違う! 違う!」
魔族は突然、癇でも起こしかねない様子で激昂した。
「天使族は呪われてない。天から堕とされた堕天使が天慧の呪いを受けたから、その末裔が魔族だから、だからおで達は呪われてるんだ。天使族は呪われてない。おで達とは違う生き物だ」
激昂して金切り声を上げる魔族に注意を払いつつ、陸王は雷韋を庇って立つことが出来た。
「で? 何故、俺なんだ」
と、そこで魔族の態度が急に変わった。
「そんなの知るかぁ。でも有名だぁ、『陸王』って名前は。魔族で『陸王』を知らない奴なんていないんじゃねぇかなぁ」
事実を事実として、魔族は淡々と言う。ぼそぼそと聞き取りにくい声音ではあったが。
「わけが分からん」
言ったのは陸王。本当にわけが分からないからそう言ったのだ。魔族に狙われる理由も意味も、見当がつかない。




