第二七話 凪の中の暗い影
「この世界を混沌から隔離している空の精霊の唄も無理か」
「そんなん、風の精霊の唄より無理だってば。空の精霊は天高くに集まってる。声なんか拾えないよ」
この世界は混沌の中に浮かんでいる。混沌には全てがあり、全てがない。その混沌から世界を隔絶しているのが空の精霊だ。空の精霊は天上高く、世界の果てまで広がっている。人の世界を護りながら、人からは最も遠い存在でもあった。故に、その声を聞くことは至難の業だった。
雷韋も全ての精霊と契約していると言っているが、空の精霊とは契約を果たしていない。あまりに遠くにありすぎて声を拾うことが出来ないのだから、それはどうしようもないことだった。
「俺が普段歌ってるのは植物の精霊の唄だって言ったろ? どこにでもいるからな。植物は大地とも繋がってる。だから、植物の精霊が穏やかなら、その場所も健やかってことになる」
「いちいち面倒だな、精霊ってのは」
「面倒なんかじゃないよ。ちゃんと理に従ってるだけだ。精霊の流れを読めば、大体のことが分かる。逆に便利だよ。例えば、風の精霊が荒れ始めたなら、天候が崩れる前触れだし。でも今は大丈夫だ。風の精霊も穏やかに流れてる。あっという間に通り過ぎてっちゃうけどな。風の精霊は世界を駆けずり回ってるから」
「だが、無風って時もあるだろう」
陸王のその言葉に、雷韋は「とんでもない」と言う風に、大きく首を振った。その拍子に、赤い耳飾りが揺れる。
「無風の時なんてない。地上では風を感じなくても、上空じゃちゃんと巡ってるんだ。風が動かない時なんてない。忙しなく、行ったり来たりしてるよ」
言って、雷韋は拳を腰に当てる。その様子は、「なんにも知らないんだな」と言っている風でもあった。
実際、精霊使いではない陸王は、精霊のことについて知らないことの方が多い。だから、ただ鼻をふぅんと鳴らすだけだった。
そんな道中を過ごして、夕方前には二人は町に辿り着いていた。晩課(午後六時の鐘)が鳴れば、城門が閉じるが、店も閉まってしまう。市が立っていても同じだ。皆、店じまいを始める。斡旋所も晩課が鳴れば閉まってしまう。
晩課が鳴っても閉まらないのは食堂や酒場、宿くらいのものだ。娼館は晩課が鳴ると開いて、一時課(午前六時)の鐘が鳴ると閉まる。
二人が町に辿り着いたのは晩課が鳴るよりももっと前だった。だから町に入って、その足ですぐに斡旋所に向かうことにした。さっさと証書を換金したかったからだ。
明日は一日休んで、翌日にはまた護衛の仕事が待っている。だから、換金したらすぐに宿を探すつもりだった。
たった一日、一晩いなかっただけで戻ってくると、やけに懐かしさを感じた。斡旋所までの道のりも、どこかほっとする気持ちが湧いてくる。
斡旋所で換金を済ませ、二人は今夜からの宿を探すことにした。けれども、宿はどこを当たっても満室か、一人部屋が一つ空いているといった態だった。こうなったら、せめて個室のある木賃宿を当たってみようかとまで思いながらも五軒目の宿に入ってみると、幸いなことに二人部屋が空いていた。ほかにも一人部屋が二部屋空いていたが、雷韋のことがある。昨夜は何事もなくすんだが、今夜はまたどうなるか分からない。陸王は迷わず二人部屋を選んだ。
部屋に入って旅装を解いていると、晩課が鳴り出したのが聞こえてくる。陸王が窓の外を見ると、残照だけが残った窓外が窺えた。
その様子を雷韋が見ている。窓から入ってくる残照に照らされた陸王の瞳は、常と変わらずに黒い。雷韋はなんとなく思い出していたのだ。一度だけ綺麗な紅に染まっていた陸王の瞳を。あれから一度も陸王の瞳が紅く見えたことはない。今のように残照に照らされたとしても。もう一度だけでいい。あの紅い瞳を見てみたいと思った。
あの瞳はとても綺麗だったから。
その視線を感じて陸王は雷韋をふと見た。
「どうした」
「別に。腹減ったな、と思ってただけ」
「なら、飯を食いに行くか」
「うん」
そう言葉を交わして、暗くなった部屋をあとにした。
その夜、雷韋は寝台に腰掛けて足をばたつかせていた。雷韋曰く、まだ眠くないのだそうだ。いつもなら夕食後、さほど時間をおかずに眠ってしまうが、そろそろ晩堂課(午後九時の鐘)も鳴る頃だというのに、眠くないと言ってさっきから足を暇そうにばたつかせている。しかも裸足で。
陸王はそれを傍目にして、吉宗の刀身に見入っていた。手入れはとうにすんでいるが、今夜に限って卓についてランプの明かりに当てていたのだ。
「眠くねぇと思うから、眠くならねぇんじゃねぇのか? 床についたら、案外さっさと眠っちまえるかも知れんぞ」
陸王は自分でもかなりいい加減なことを言っているなと思ったが、なんだかんだ言っても雷韋の寝付きはいい。横になったら、本当に眠ってしまうかも知れなかった。だからこその言葉でもあった。
「そうかな? 眠れなくって、ただ横になってるのって結構辛いぜ」
「そんな経験がお前にあるのか」
「そりゃ、俺にだってそんくらいのことあるよ~」
その雷韋に、陸王はちらと視線をやった。
「そろそろ晩堂課が鳴る。そうしたら、俺は灯りを消して床に入るからな。そのあとは知らんぞ」
「灯りくらい消えたって平気だもんね~」
雷韋は舌を突き出して陸王に言う。灯りがあろうがなかろうが、雷韋の目は猫目だ。星明かりさえあれば、闇の中でもものを見ることくらい出来る。
だが、陸王はそれを否定した。
「灯りのあるなしの問題じゃねぇ。どうせお前には闇の中でもものが見えるんだろうからな。だが、静かにしていろってことだ。煩くされちゃ、俺が眠れん」
それに対して、雷韋は面白くなさそうに呻き声を上げる。
「なんだ」
雷韋の呻きに何かあるかと思って声をかけた。
「眠くならないのって、今日、ゆっくり寝たからかなぁ? 陸王、ゆっくり寝かせてくれただろ?」
「さて、それはどうだかな。一仕事終えて、興奮でもしてるんじゃねぇのか」
「そっちかなぁ? う~ん」
そのまま暫く雷韋は考え込んだ。考え込んで、言うのだ。
「それとも、また変な夢見るかもって無意識に思ってるのかな?」
陸王はそれを聞いて、小さく頷く。
「そいつはあるかも知れんな。昨夜は疲れていたから、たまたま見なかっただけかも知れん」
「でも、普通の夢は見たぜ」
「あの支離滅裂な夢な」
雷韋はその言葉に少しむっとした顔を向けた。
「夢なんてそんなもんだろ? それとも、理路整然とした夢見んのかよ、あんたは」
「俺はほとんど夢なんざ見ねぇからよく分からん」
「だったら人の夢に文句付けんな」
「文句じゃねぇ。事実だ」
陸王の淡々とした返答に、雷韋は拗ねた風な声音で文句を返した。
「なんだよなぁ、もう。いいよ、寝てみっから」
言って髪の結い紐を解いて横になると、上掛けを頭まで被る。
陸王はその雷韋に声をかけた。
「今夜も支離滅裂な方の夢を見ろよ」
「知るか!」
くぐもった声が返る。
陸王はそれを聞いて、小さく笑んだ。刃を目の前に、このまま少し雷韋の様子を見ていようと思う。いきなりうなされることはないとは思うが、やはり気にかかったからだ。
部屋の中がしんと静まりかえると、階下から賑やかしい物音や声が聞こえてくる。それに耳を傾けていると、やがて晩堂課がなり始めた。
それを潮に階下が一斉にざわつき、すぐに静かになっていく。食堂が閉まる時間だからだ。さっきざわめいたのは、帰宅する者、二階へ上がる者に分かれたためだ。その証拠に、今は廊下がざわついている。二階へ上がってきた泊まり客の声や足音だ。それがそれぞれに部屋に入っていくと、そのあとは完全に音が止む。
廊下の方から雷韋の方へちらと視線をやったが、もう眠ってしまっているらしく、被った上掛けが規則正しく上下しているばかりだった。
そのことに一安心する。喧しく騒がれても、雷韋は目も醒まさない。身じろぎ一つしなかったように思った。
陸王はそのことに長嘆息をついて、吉宗の刃を鞘に収めた。そうして、ランプの灯りを消すと吉宗を寝台の枕辺に立てかけ、靴を脱いで上着を脱いでから寝台に横になった。引っ張り上げるようにして上掛けを掛けると、そのまま目を閉じる。
雷韋よ、安らかであれ、と願いつつ。
そのあと、どのくらい眠っただろうか。長くも短くも感じた。その中で、雷韋の苦しそうな息づかいが聞こえて、陸王は飛び起きた。
雷韋の寝台に目を遣ると、上掛けから覗く雷韋の表情が、青い月明かりに照らされて歪んでいるのが目に入る。すぐに雷韋の元へ行き、その頬を張った。
「雷韋、目を醒ませ」
二度三度と頬を張ると、急に雷韋は大きく息を吸い込んで目を醒ました。息は完全に上がっている。




