紫雲 三
騒ぎの中に突然「おやめなさい」と言う声が降ってきた。その声は決して激しいものではなかったが、ほかのどんな声よりも鋭かった。門番ばかりが、雷韋も足を止めてしまう。
見上げると、そこには紫雲の姿があった。三階の一番端の部屋だ。そこから少し身を乗り出している姿がある。紫雲の鋭い声が響いて、場は一瞬にして静かになった。門番二人はぴたりと動きを止め、窓から顔を出していた数人の僧侶達も声を収めている。そんな中で、雷韋だけが紫雲に手を振る。「紫雲! 俺だよ、雷韋」と声を大きくして。
それを見遣り、
「そこの少年が何かしたのですか?」
紫雲のそう問う声はさっきとは一転、優しいものに変わっていた。
それに対して、おずおずと門番は答える。
「そこの小僧は異種族です、紫雲様。異種族が入り込んだので、追い出そうと」
「その言いようは好ましいものではありませんね。彼らは異種族ではなく、獣の眷属です。それに何故、獣の眷属だからと言って追い出すのです。教会は万民に開かれてあるべき筈でしょう」
その声音には、僅かばかり硬いものが潜んでいた。
「その、この異種……、少年が、紫雲様に会わせろと図々しくも無断で入ってきましたので、それで騒ぎに」
「私に面会ならば、通してあげればよかったでしょう。何も問題はないのですから」
「はぁ」
四角い顔の門番は、萎縮したように返答した。
それを傍目に、紫雲は雷韋に目を向けた。
「雷韋君、昨日ぶりですね。よく訪ねてきてくれました。上がってきてください」
優しい声に、雷韋は手を振るのをようやくやめて返す。
「いいのか?」
「構いません。どうぞ」
そう言うと、紫雲は中へ消えていった。それを見て、雷韋は宿舎へと続く回廊の方へ足を向けたが、門番達の前を通る際、「あの人も、所詮は下僧だ」と言う言葉を耳にした。気になる言葉ではあったが、頭からその言葉を追い出して宿舎の中へと入った。
回廊から宿舎の中へ入ると、廊下を挟んで両側に狭い間隔で扉がずらりと並んでいた。扉の上は部屋の方から光を取り込むように、硝子張りの壁になっている。その廊下の突き当たりには窓があり、建物の中心部分に階段があってそれを雷韋は三階まで上がっていった。
二階の踊り場まで上がると、三階の階段脇に紫雲が立っているのが見える。
「紫雲!」
「よく来ましたね。ですが、来てくれたのは嬉しいんですが、どうしたんです?」
その言葉に励まされるように階段を一気に駆け上がり、紫雲のもとまで行く。
三階は一階、二階とは違って、扉の間隔が広く取られていた。ぎゅうぎゅう詰めではないのだ。つまり、一部屋一部屋が広いという事だろう。
雷韋は紫雲のもとまで行くと、
「いやぁ、あんたのことが心配でさ」
と、頭を掻きながら言った。
「心配、と言うと?」
「部屋、ちゃんと借りられたかなって、昨日から気になってたんだ」
「さっき見たと思いますが、ちゃんと借りられましたよ」
言いながら、紫雲は雷韋の背中に手を当てて、廊下の奥へと自然に促した。
廊下の突き当たりには窓があるが、その手前の部屋まで案内される。おそらくそこは、さっき紫雲が顔を覗かせていた部屋だ。
「どうぞ、入ってください」
扉を開けつつ言って、中へと促す。
部屋の中は思った以上に広かった。それに、僧侶の宿舎と言うにはあまりにも豪華だった。
天蓋付きの寝台があり、書き物に使う机も凝った作りになっているし、花を生けた花瓶も置いてある。二つの窓がある広々とした部屋の中心には刺繍が施されたソファが対で置かれ、真ん中に卓があった。大きな箪笥や本棚も設えられている。そこは、ちょっとした貴族の邸の一室といった風情だった。
「すっげー豪華な部屋。半分、厩かと思ってたからなぁ」
「厩?」
「陸王が言ってたんだ。修行僧は教会の坊主から嫌われてるから、宿舎じゃなくて厩舎を宛がわれてるかもって」
それを聞いて、紫雲は苦笑した。
「当てが外れましたね」
「そんな当て、外れてよかったよ」
ほっとして言う。
「雷韋君、時間はありますか?」
「ん? あるけど」
「では、折角来てくれたのだからゆっくりしていってください。今、お茶を用意しますから」
「え? いいのか?」
「いいですよ。少し待っていてくださいね」
雷韋の背後から両肩をぽんぽんと叩いてから、紫雲は部屋を出て行った。
紫雲が出ていき、部屋で一人っきりになった雷韋は物珍しそうに部屋中を歩き回った。部屋中央のソファの座面は綿がたっぷり使われていてふわふわしているし、施されている刺繍も見事なものだった。
本棚には何冊も本が並べられている。書籍自体は中身を見てみると、教義に関することが書かれていて、雷韋にはつまらないものだったが、しかし、書籍自体が珍しいのだ。一般庶民は読み書きが出来ないのが普通だから。けれど、使われている言語は共通語だった。読み書きが出来るのであれば、どんな種族にでも読める文字。人間族は神代の頃から共通語を使っているから、書物に共通語が使われているのは、当たり前と言えば当たり前だ。別に驚くことでもない。それでも書物が沢山あるという事実が、ここが教会なのだという事を如実に示していた。世の中で一番書物がある場所と言えば、教会か修道院だからだ。
そのほかに気を取られたのは書き物机。精緻な彫刻が施された猫足の机が、見た目にも珍しい。その机の上にはやや大きめの手帳が閉じておいてあった。インク壺の蓋が開いていることから、騒ぎが起こる前まで、紫雲が何かを書いていたのだろう事が分かる。だからと言って、手帳を覗き見するほど雷韋は無礼ではない。だが、椅子は気になった。座面はソファと一緒で、刺繍が施された布地の下に綿がふんだんに使われている。楕円形の背凭れにもだ。ただ、背凭れに使われている綿は多すぎるのか、柔らかいが、やや硬い。多分、わざとそう作ってあるのだろう。
半分だけ開かれた窓から外を眺めると、流石に三階からの望みはいい。町が遠くまで望めるのだ。教会の方を見てみると、丁度、薔薇窓と同じくらいの高さになっていた。それに気付いて思い出す。ここの教会は町に比してそれほど大きくなかったことを。それでも建物全体を見れば、思っていたとおり、奥行きはかなりある。ほかから見て、高さが足りないだけなのだ。だから尖塔も低かった。ほかはもっと天井が高く、尖塔ももっと高い。その尖塔をよく見ると、片方は鐘楼だった。ここで町に時を知らせるのだ。鐘楼を眺めやってから眼下に目を馳せると、さっき雷韋が走ってきた庭が見える。さっきはさほど気にもしなかったが、庭は一面、花壇になっていた。色々な花が咲いているのが小さく見える。
それから室内に目を戻した。室内を見渡して、存在感があるものと言えば、やはり寝台か。まさかの天蓋付きだからだ。
それにしても、やはり豪華だ。僧侶の使う部屋とは思えない。しかも紫雲は部屋を借りているとは言え、修行僧なのだ。教会では嫌われているという。だから、何故? と言う問いがどうしてもある。巡礼者の使う宿舎に余分な部屋がなかったのか? それとも、紫雲に何かあるのか?
何しろ『紫雲様』と様付けで門番は紫雲を呼んでいた。
雷韋は窓際からソファへ移って考え込んだ。教会で紫雲が好かれているのか嫌われているのか? それを問えば、嫌われているうちに入ると思う。門番達は確かに言ったのだ。『下僧』と。表面では従順に従っていながら、小さなところで彼らは本音を零した。門番ですら、紫雲を蔑んでいるのに、僧侶達はどうなのだろうか。こんな部屋を貸し与えつつも、やはり嫌っているのだろうか。もし本当に嫌っているのなら、何故こんな部屋を?
紫雲とは一体何者なのだろうか?
疑問は出つつも、答えは出ない。紫雲に問えば答えてくれるだろうかと、雷韋は柔らかいソファに深く沈み込みながら思った。




