眠れる妃
初雪の日だった。
目を覚ますと、夫婦の寝室が青く染まっていた。
とうに日が昇っていてもおかしくない時間帯だというのに、空はどんよりと重たい。ほんの少し窓を開けると、ちらちらと白いものが吹き込んできた。
「……はつ雪だ」
僕は思わずそう漏らした。風に乗って落ちてきた雪は、僕のてのひらに乗り、じゅわりと溶けて消えた。この国では降り積もることはないので、どうせすぐに消えてしまうのだろうと思いながらも、わくわくした。
「ツェリシア」
声が弾む。振り向いて、気がつく。まだねむっている。
彼女は昨夜眠りについたときと寸分たがわぬ姿勢のままだった。
白い肌が氷のように冷たく見えるのは気のせいだろうか。組んだ手の下で、かすかに胸が上下しているのが見えなければ、まるで人形のようだ。
不安になって彼女の頬に触れる。──やわらかい。でも、冷たかった。
ふるふると銀色のまつ毛が揺れる。
「すまない、起こしてしまったな」
瞬きをくり返した、ツェリシアとしばし視線が絡む。けれども彼女はいつものような笑みを見せず、身体を起こすこともなく「キース様」と、弱々しく言った。
「ごめんなさい。なんだか調子が悪くて……」
言い終わる前に、まぶたが閉じて、寝息が聞こえてきた。
ツェリシアと結婚して1年ほど経った。
ここのところ、ずっと顔色が悪い。
日に日に起きている時間が短くなっているような気がして、僕はひどく不安を覚えるようになった。
本人は問題ないというが、何人もの医師に見せていた。しかし彼らはみな一様に首を振る。特に変わったことはないという。
「ね、大丈夫でしょう」
ツェリシアはそう言うが、やはり顔色が悪い。
「……いってらっしゃいませ」
ツェリシアが目を冷ましたのは、僕が執務に出る直前だった。彼女もまた慰問の予定があったが、僕が止めた。明け方の雪みたいな青白い不健康さがあったからだ。
「──ああ」
(早くよくなるといいのだが……。少しでも身体にいいものを取り寄せよう)
名残惜しい気持ちで彼女を見た。目が合うと、ツェリシアはにっこり笑って「お慕いしています」と言う。
顔に熱が集まるのを感じながら「ああ」と答えた。
(うれしい。君とこうして夫婦になれたことが幸せだ)
ツェリシアがほほ笑む。彼女にはたぶん、僕の心の声が聞こえてしまったのだ。
朝方は重たく曇っていた空はすっかり晴れていた。朝の光が、ツェリシアを後ろから照らしている。銀髪は日に透けてきらきらと輝いているのだが、顔には影が落ちてさらに具合が悪そうに見える。
(ツェリシア、好きだ。僕は今日も、君のことが好きだ。これからもずっと、ずっと気持ちは変わらない)
名残惜しく思いながらも、片手を上げて、扉をゆっくりと閉めた。ふと彼女が消えてしまいそうな不安に駆られた。
そして、それは現実になった。
その日、部屋に戻っても彼女はまだ眠っていた。夕飯時になっても起きないので、不審に思った侍女と僕とで声をかけたのだが、いくら呼びかけても、身体を揺すっても、目を覚まさなかった──。
ツェリシアはもう何日もこんこんと眠り続けていた。
身体は今までと同じようにふわりと柔らかい。ただ眠っているだけ。だが、触れるのをためらうほど、冷たい。呼びかけにも反応しない。
僕や、妻の侍女・ドロシーは、不安になって、日に何度も彼女の呼吸を、鼓動を確認していた。何度医師を呼んでも、やはり異常はないという。
「──いま、異常はありません。ですが、このままの状態が続きますと、その、お体のほうが……」
医師は口を濁した。ツェリシアが日に日にやせ細っているのはわかっていた。食事をとれないからだ。ふっくらとつやのあった肌が、ほんの数日でかさついているのがわかった。くちびるも毛羽立った布のように乾燥しており、色がなく真っ白だった。
僕は苛立ち、思わず机を叩いた。
医師が怯えの色を見せる。ドロシーがこちらを睨み、医師を外へ連れ出していった。
「あーにき」
軽い調子の声に振り返る。見上げるほど大きく、立派な体躯をした美丈夫が立っている。
異母弟のグレイソンである。
「チェリーさん、やっぱ目覚めないの?」
声の調子とはうらはらに、グレイソンはまじめな顔で訊いた。僕はぐっと息が詰まるような苦しさを覚えたが、頷いた。
「あのさ、俺気になってたことがあって」
「なんだ?」
「チェリーさんのギフトって、対価とかなかったのかなって」
「対価?」
「そう。兄貴がチェリーさんを閉じ込めてたときさ、あの人自分で料理してたでしょ? 異界の道具だとか、技術だとか、食べものだとか。そういったものを呼び出してたわけで……」
グレイソンは、間延びした感じで言った。
「何が言いたいんだ」
「んー……。俺、簡潔に話すの苦手なんだよね。えーっと、俺は結構他国で過ごした期間が長くて。魔導大国のハルカンシェルでは結構魔術もかじったんだ。そのときにわかったことがあって。過ぎた力には、なんらかの代償がいるんだよ」
「代償……」
ふと、偶然覗き見ることになったツェリシアの記憶を思い出した。あのとき、具現化したギフトが、能力の使いすぎを心配しているような場面があった。
そのとき彼女はなんと言っていたのか。
「そういえば、ツェリシア様って、とてもおとなしくなったよね」
そう言ったのは、妻の侍女であり乳姉妹でもあるドロシーだ。いつの間にか戻ってきたらしい。
「気持ちはわかるけど、殿下、あの態度はないですって。暴君です、暴君」
ドロシーは口を尖らせる。
にんじん色の髪の毛を二つにわけてざっくりと編み込み、初夏の木々に茂る葉のような瞳をぱちぱちと瞬かせている。いつも溌剌とした印象だったが、目の下に深いクマができていた。
「んー? チェリーさんもともとおとなしくね?」
異母弟が答えると、ドロシーはにやけた目をして、ちっちっと声に出しながら、立てた人差し指を左右に振った。
「もちろん、ツェリシア様は優雅で上品な方ですとも! でも、なんというのか……」
彼女は視線を落とし、口元に手を当てて考え込んだ。
「以前と比べてだけど、感情の起伏が少ないような気がして気になってたんだよね」
「起伏……」
「だって、そうでしょ? バカ殿下が……あっ」
ドロシーが口元を手で抑える。そうして、恐る恐る僕に視線を向けた。
「良い。……事実だ」
「不敬罪で処罰しないでください不敬罪で処罰しないでください不敬罪で処罰しないでください」
「──っ。ドロシー! 話を進めてくれ」
「は、はい。……あの、殿下に閉じ込められていたときも、なにかショックを受けているという感じではありませんでした」
「そ、それは……」
顔に熱が集まる。
ツェリシアは、僕の心の声を拾うギフトを使っていた。超読心と言っていたか。
だから、僕の内心を読み取り、これから起こることなどを知っていたからでは? と考えていた。ちなみに、僕の心以外は読み取れないように”制御”されていると話していた。それは一体誰に?
僕は愚かだった。このときも、まだ、理解していなかったのだ。
「もしあたしが同じ立場だったとしたら、長年慕ってきた婚約者にあんな態度を取られて、しかも相手が妹で、耐えがたいショックだったと思うんですよ。無実の罪を捏造されて牢屋にまで入れられちゃって。でも、ツェリシア様は、なにひとつ焦っていなかったじゃないですか」
「たしかに」
元牢屋番が口をはさむ。
「むしろふつうに生活を楽しんでましたよね」
「ね。鼻歌うたいながらごはんつくってた」
「聖女飯たべたいなー」
ドロシーが義弟をにらみつける。
「どの口がそんなことを言うんだか。いつでも虫を見るような目を向けてきてたじゃない」
「あれは演技だ」
「演技!?」
ドロシーと僕の声が揃った。義弟はぽりぽりと頭をかく。
「えええ、そんなに驚くことっすか? 聖女食材、食べたことありますよ。平民のときにね。きらいじゃないっつうか、むしろ好きっす。でも、貴族の中でそんなの目立つじゃないですか」
「たしかに……」
「母親の言いつけだったんですよ。これはおいしいけど、貴族の前に出るときは、きらいなふりをしなさいって。そうじゃないと、暴かれる」
「暴かれる……?」
なるほど、と納得した。そうか、僕が彼らを”同じもの”だと判断したようなことか。
「あー!」
ドロシーがとつぜん大声をあげた。義弟と揃ってそちらを向くと、きょろきょろと挙動不審な動きをしている。声だけ上げてみたものの、話すことを決めていなかったという感じだった。
ややあって「そういえば」とひらめいたように切り出した。
「あたしは、ごくごく幼いころにツェリシア様と過ごしました。母がツェリシア様の乳母だったからです。でも、公爵夫人にくびにされて、母の実家に身を寄せていました」
僕は思わず顔をしかめる。
すべての元凶があの公爵夫人だったからだ。思い出すだけで腸が煮えくり返る気分だった。
「ずっと母の実家にいましたが、ツェリシア様と殿下の婚約が決まり、身の回りのお世話をする人間が必要になり、……それで王城付きの侍女としてふたたび呼び出されたのです」
「都合良すぎてむかつきますよね!」とドロシーが言う。
「だから、私とツェリシア様には、長い空白期間があります。再会したときは驚きました。幼いころのツェリシア様は、どちらかというと癇癪持ちで、寂しがりやで、甘えん坊で……。私の母のことが大好きで、実の娘である私が甘えているのをいつも羨ましそうにしていました」
「癇癪持ち……?」
「そうですよ? 愛情深くて寂しがりやなお方なんです。行動力もあります。お転婆でした」
「えええ、チェリーさんが? 想像つかねえー」
「今の慈愛に満ちたツェリシア様も素敵だけれど、あたしは、子どものときみたいにわがままを言ってほしいです……」
そうして思い出した。
覗き見たあの記憶の中で、彼女が言っていたこと。それは……。
『わたしの心にちょいたしするの。はじめてのときは偶然だったけれど、いいアイディアでしょう? こころが削られる? いいのよ。わたし、あの子を守りたいの。……ううん、一緒にいたいのよ』
ツェリシアが眠っている今、彼女のギフトを呼び出すことはできない。
もし来てもらえたとしても、あの鳥のような、板のようななにかの発する言葉を、僕たちが理解できるとも思えない。
だから、推測に過ぎないのだが、こころが削られるというのは、感情、生命力、生きる気力のようなものが奪われるということだったのではないか……。
僕たちにできることは、ツェリシアの身体を生かすことだけだった。不思議なことに、呼吸には問題がない。ただ、日に日に、魂とでもいえばいいのだろうか、彼女のこころ、彼女の核になるものが、少しずつ身体から抜け出しているような、いやな予感があった。
きっと身体が弱ったとき、それはすべて消えてしまうのだという確信があった。
料理長に頼み、消化に良いものを作ってもらう。たくさんの野菜をとろとろに煮込んで、撹拌したスープだ。
手ずから彼女の口元に運ぶが、口の中に入れても飲み込むことができなかった。
隣国から癒やしの聖女を派遣してもらったり、医師とともに彼女の状態をずっと見守り続けたりもした。魔道具にも薬草にも呪いにも頼った。
しかし、目を覚ますことはなく、どんどんやせ細っていくばかり。
すっかり冬が深まり、城の外は身体が埋もれるくらいの雪で囲まれていた。窓の外を見下ろすと、ほかの兵たちに混じって、グレイソンも雪かきをしている。まるでこの城に閉じ込められてしまいそうな、嫌な感じがあった。
いつでもからりと明るかったドロシーは、もう何日も笑っていない。
なにを考えているのかわかりにくい義弟が、いたわるような視線を僕たちに向けているのもわかった。
僕は途方に暮れて、城の中を歩き回っていた。立ち止まってはいけない。そういう焦燥感があった。それから庭園に出たはずなのだが、いつ、外に出てしまったのだろう。
気がつくと護衛を撒いて、城下町のはずれまで来ていたらしい。
やや規模の小さな森が目の前に広がっていた。雪に埋もれた真っ白な木々の間を抜けるようにして、小さな鳥が、森の中に進んでいく。
引き寄せられるようにぼんやりと歩みを進めた。雪は次第に深まっていき、気づくと僕の胸のあたりまで埋まっていたが、泳ぐようになんとかかき分けて進んでいく。
森の中央に、少しだけ開けた場所があった。不思議なことに、そこだけが冬ではなかった。
僕が立っているところは雪に埋まっている。それなのに、そこには青々とした草が見えていた。夕方の光が、株立ち状になった、僕の肩ほどまでの高さの木を照らしている。
「これは……」
かつて、刺客に追われ、ツェリシアに助けられて過ごしたあのほんのわずかな日々が蘇った。彼女のギフトを使って食事を用意することが多かったが、外にも出たほうがいいと連れ出された先で見つけたのと、たぶん、同じ。
彼女の瞳の色をした、小さな赤い木の実がなる木だ。水晶のような質感の赤い実が、ふたつぶ茎で連なり、つやつやと輝いている。
「失敬する」
誰にともなく言って、その実を無心で摘んだ。
『この実は万能なんですよ! チョイさんに教えてもらったのではなくて、私の乳母から聞いたのですが……。そのまま潰してジュースにしても、シロップ漬けにしても。肉料理のソースにしても良いんですって』
そんな彼女の言葉を思い出し、少しでも気休めになればと思った。
急ぎ城に戻った僕は、驚く料理長に頼み込んで厨房に入り、幼かったツェリシアがしていたようにつぶして絞って濾して、ジュースを作った。
「ツェリシア。懐かしいものを見つけたんだ。飲んでみてくれ」
僕はそう言うと、普段より体温の低い彼女の身体を抱き起こした。ドロシーが涙をいっぱいに溜めて、ジュースを差し出す。
そのドロシーに義弟が布を手渡す。飲めずにこぼれたときのために、ドロシーはツェリシアの首元に布をあてた。こちらを向いて、準備ができたとばかりに、こくりと頷いている。
これは最後の賭けだ。そう思えてならなかった。
「──あのとき、君が居てくれてよかった」
僕はそう言い、彼女の、色を失ったくちびるにグラスを当て、傾けた。
「……っ! 殿下!!!」
ドロシーが慌ててタオルを落とす。
彼女の喉がこくりこくりと上下した。相変わらず目覚めることはなかったけれど、このジュースは飲んでくれた。
僕もまたグラスを落としてしまいそうだったが、なんとか気を強く持った。グラスは空っぽになり、木の実の赤い雫だけがかすかに残っている。義弟がぎゅうと強く握りしめる僕の指を一本一本外し、グラスを離した。
僕は、ツェリシアを抱きしめた。力加減には気をつけた。彼女は前よりもずっと華奢になっていて、まるでガラス細工のような危うさがあった。
「殿下、殿下も少しお休みになってください。希望が見えましたし。明日の朝は、あたしがツェリシア様に飲ませますよ」
ドロシーが言った。
僕は本当はずっと彼女についていたかったけれど、たしかにもう何日もまともに寝ていなかったし、そもそもドロシー自身がそばに居たいのだろうと思い、自室に戻ることにした。
ところが翌朝、ドロシーに泣きつかれた。
「どうしても飲んでくれません……」
僕、ドロシー、義弟の三人で森に入り、ふたたびベリーを摘んだ。
「うーん。人工的というか、魔術の気配がありますね」
義弟があたりを注意深く観察して言った。
「もう魔法でもなんでもいいんですよ。ツェリシア様が目覚めるなら」
「良いものならいいんすけどねえ……」
「あんたは黙ってな!」
ドロシーがやると言ったのだが、昨日と同じ要領で僕が実をつぶして濾し、手ずから飲ませた。
「あああ、飲んでますね!」
ドロシーが涙を押さえる。部屋のすみでしばらく考え込んでいたらしい義弟が、こちらにジュースを差し出した。
「兄貴、これも飲ませてみてくれません?」
「なぜだ……?」
「ちょっと試したいことがあって。まあ、飲まなくて全然いいから、試すだけ頼みます」
僕は怪訝に思いながらも、彼女がまだ飲みかけだったジュースを一旦枕元のトレイに置き、義弟に差し出されたジュースを口元へ運んだ。
「……飲まない、ですね」
ドロシーが言う。
「んじゃあ、もい1回兄貴のをよろしくっす。ちなみに今飲ませたのは料理長作」
僕は苛立ちを覚えたものの、最初に飲ませていたものを手に取る。
「……え? ツェリシア様、飲んでますよ?」
それを数回くり返してわかったのは、僕が作ったものならば飲むということだった。
「これ、ほかの料理でもそうなのか試したいっすよねえ」
それから僕たちは、急ぎ私室を改造することにした。折よく、魔導具開発担当の転生者たちが“折りたたみ厨房”なるものを開発したばかりだった。
ツェリシアから離れずにすぐに料理を提供するため、私室に厨房を出現させ、市井で腕のいい料理人を連れてきて教えを乞うた。
とにかく今できるのは、彼女に栄養を与えること。そのために僕は、執務を驚くべき速さで終わらせ、夜は料理修行に明け暮れたのだった。
日に日に指に包帯が増えていくのに比例して、大きさがバラバラだった人参も均一な大きさに切れるようになっていった。塩と砂糖を間違えることもなくなった。
少しずつ、本当に少しずつだけれど、僕の料理の腕が上がると同時に、ツェリシアが食べる量も増えていったのだった。
すっかり痩せ細っていたツェリシアは、以前ほどとは言えぬものの、かなり健康的な見た目になってきた。
顔色も悪くはないし、頬もふっくらとしてきた。くちびるもつやつやとしている。
けれども、もうひと月以上も経つというのに、彼女が目覚めることはなかった。
ある日、父に呼び出された。
「──妃が目覚めぬままだと聞いた」
「はい……」
僕はうなだれた。
父は気の毒そうな顔をした。けれども、それを振り切るように、あるいはかちりとスイッチを入れるように、”王の顔”になった。
「──覚悟を決めねばならぬぞ」
殴られたような衝撃だった。けれども、それが僕の立ち位置だった。
目の前にいる父も、憎くて仕方がない悪女を、国益のためにと妻でいさせ続けたのだ。僕もまた……。
でも、ツェリシア以外の妃を迎えるだなんて考えたこともなかった。
「期限はひと月だ。──妃が目覚めることを祈っている」
最後は父親としての声色で、王は言った。
「俺はね、王って向いてないんすよ。こんなんだし」
その夜、義弟が言った。
「なんだ、突然」
「やりたくないし、能力不足だとも思う。でも、……どうしても必要ならって、最近考えを変えました」
「グレイソン……」
僕とドロシーの声が重なった。
「期限までにチェリーさんが目覚めなかったら、王やるっす」
義弟の目はいつになく真剣で、思わず目が潤む。
「ちなみに、その場合王妃はドロシーに頼むっす。ドロシーも令嬢なわけだし身分はなんとかなるっしょ」
「はあ?」
突然自分の名が出てきて、ドロシーが素っ頓狂な声を上げた。
「もし俺が王になったら結婚してください。」
グレイソンは跪き、ドロシーの手を取って口づけをした。
ドロシーは顔を真っ赤にして「むだに!顔が!いい!!!!!」と叫んだ。
「やめてくださいグレイ。あなたはむだに顔がいいんですよ? むだに。本気になったら困るからそういう冗談はマジでやめてください!」
ドロシーは真っ赤な顔でぷりぷり怒りながら走り去っていった。
「うーん。本気なんだけどなあ」
グレイソンはぽりぽり頭をかいている。
僕は驚いて持っていたカップを取り落とした。がちゃりと嫌な音を立てて、赤いカップが粉々に壊れた。
「本気……? ドロシーに?」
「? そうっすよー」
「今ので伝わるわけがないだろう!」
僕は思わず声を荒らげた。
「見ていた僕だって冗談にしか思えなかったぞ。大体、おまえは彼女に気持ちを伝えたのか?」
「あー言葉にし忘れたかも?」
グレイソンは間延びした感じで言う。
けれども、次の瞬間、こちらをまっすぐに見て言った。
「兄貴は、ツェリシアさんに気持ちを伝えたんすか?」
僕の表情が抜け落ちたのに気づいたのだろうか。グレイソンはひらひらと手を振りながら出て行った。
僕は、ずっと彼女だけを信じ、恋い焦がれてきた。
彼女にひどい態度を取るのは辛かったし、離れなければいけないのは心が千切れそうなくらい痛かった。
幸い、僕が口にしていない、できなかった本心を彼女が読んでくれていて。
でも、だからこそ、伝えたことがなかったのではないか。言葉に、声に乗せて、自分のこころを彼女に。わかってくれるからいいと、そう思い込んでしまっていたのではないか。
その夜、夢を見た。
そこは、あの木の実を採取した森だった。木の枝に白い小鳥が止まっている。鳥には顔がない。
『こころは、こころで埋める』
顔のない小鳥はそれだけ言うと、空高く飛び立っていった。
夜明けよりも早く、寝台を降りる。
離れがたくて、消えてしまいそうで怖くて、自室に戻らずに夫婦の寝室でずっと抱きしめながら眠ったツェリシアは、僕の体温が移っていて、身体の左側だけが温かい。
込み上げてくるなにかを押し戻し、僕は厨房に立った。
彼女の身体に負担をかけないように、スープをつくる。
塩漬けにしておいた骨付鳥に切り込みを入れ、古代聖女の黒海藻(昆布)、ネギの青い部分をぶつぎりにしたもの、ネギの白い部分を薄切りにしたもの、生姜、水を加えて煮込んでいく。ネギが繋がっていたので、途中で取り出して、ほぐした。
とろとろになるまで煮込んで、鶏肉をほぐし、味をみて塩を足した。
「ツェリシア、今日も僕が作ったんだ。き、君のことが心配だ……」
慣れない言葉を口にするのは、なかなか難しかった。
けれども意外と、一度口に出してしまうと、何年も胸の底に沈めていたものが爆発するように溢れてきた。
「僕も多少は料理を覚えたから、君だけに作ってもらうのではなく、一緒に厨房に立とう」
柔らかな夜着に包まれた脚が、いつもよりかさついていないような気がする。
「食材の調達も、ギフトに頼るだけじゃなくて、ふたりでお忍びで行ってみないか。──いや、君と、街を歩きたいのだ」
握ったてのひらが、とくとくと、温かい鼓動を伝えてくる。
「ツェリシア、僕は、君のその、柘榴石みたいな目がまた見たい」
ツェリシアのまぶたが、ぴくりと動いた。
「僕は、子どものころからずっと、君のことが好きだ。──たのむ、目を覚ましてくれ、ツェリシア」
ほんのわずかに動いた指ごと、彼女の華奢な手を握り込む。
みっともなく涙があとから後からこぼれた。僕はぎゅっと目をつむって、彼女に触れたまま寝台に顔を突っ伏した。
「君以外、考えられない。好きなんだ」
『正解』
そんな声が聞こえた気がした。
『超読心、解除。超速習、解除。超回復、解除』
誰かが僕の頭を撫でた。
驚いて顔を上げると、柘榴石のような瞳とかちりと視線がぶつかった。ツェリシアは、身体をこちらに向けて、寝台の端で突っ伏す僕の頭へと手をのばしていた。
「ツェリシア?」
「……はい」
口の端がゆるむ。紅をさしていないのに、ツェリシアのくちびるはうっすらと色づいていた。
「ツェリシア!」
「……キース、様」
ツェリシアはきゅっと目をつむった。喉のあたりを押さえている。長い間声を出していなかったから、違和感があったのだろう。
「いい。いいんだ、声に出さなくても」
僕は言った。彼女は首を振る。そうして、起こしてほしそうに、身動ぎした。
「ツェリシア……」
僕は、寝台に膝をつき、前よりずっと軽くなった彼女の身体を支え、ゆっくりと慎重に抱き起こした。触れ合った胸から、とくとくと、規則正しい鼓動が伝わってくる。喉の奥が熱くなった。幾筋もいくすじも涙が流れていることに気がついた。
袖で涙をぬぐう。
ツェリシアの背中を抱き、支えるかたちで座っているから、彼女にはたぶん見えていないだろう。
彼女はまだ少し具合が悪そうだったけれど、ゆっくりとこちらに顔を向けた。柘榴色の瞳がきらきらと輝いている。それから不思議そうに首をかしげた。耳のあたりを触っている。
「君のギフトは、一部、解除された」
ツェリシアが驚く。
「超速習、超回復、そして超読心……。僕のために無理をさせてすまなかった」
彼女はふるふると首を振った。
「いや、ちがうな。今まで支えてくれてありがとう」
目尻からつ、つ、と涙がこぼれていく。ツェリシアは笑いながら「お慕い、……しています」とかすれた声で言った。
「ああ! ……僕も、僕も君をずっと、好いている」
僕は、ツェリシアを抱きしめた。
長い冬がいつの間にか終わっていた。
寝室の大きな窓からは、暖かい春の空がのぞいている。寝室の外で口元を押さえて泣いている赤毛の侍女と、彼女をぎゅっと抱きしめる義弟がいることなど気がつかず、僕は何度も「好きだ」とくり返した。
ツェリシアはへにゃりと笑った。その顔は、幼い頃に見た表情と似ていた。