第5章 レモンパイと身の上話 3
「エデイラ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
「もし嫌だったら話さなくてもいいのだけど」
「はい」
「あなたはなぜ、あの砂漠の学園に?」
「──旦那様の最後のご命令でしたから」
今のはわたくしの聞き方が悪かったわと思いながら、ディクテは言いなおした。
「……あなたがタルヴィスの関係者だということは、あなたがあそこに来た時から予想がついていたわ。貴族階級ではないことは立ち居振る舞いを見ればわかるし、平民がおいそれと入れる場所ではない。となれば自然と選択肢は絞られてくるから」
「──はい」
「ただものではないということも、あの、毎日の訓練を見ていればわかる。なにか目的があってやっているというのも、それが復讐のためだということも」
「はい」
「でも、わからないこともたくさんあって……そうね、きっとわたくし、あなたのことがもっと知りたいんだわ」
「私のこと、ですか」
エデイラは軽く首をかしげてから、奴隷だったんですと言った。
「え?」
「私、生まれは奴隷なんです」
淡々というその口調に、卑屈な印象はない。
「ですから本当なら、こうやってあなたと差し向かいでお茶をいただくような身分ではないんですけど」
「そんなの……わたくし、気にしないわ」
「ここに傷があるでしょう」
言って、エデイラは自分の左頬を指さした。
近づいてみないと目立たないが、目の下から頬骨にかけて二本、流れ星の尻尾のように走っている傷がある。
「これは、奴隷の時に鞭でつけられたんです」
私の母も奴隷だったので自分も当然のように奴隷として生まれて、そして母が折檻の傷がもとで死んだとき、私の顔にはもうこの傷があったので、奴隷市で売りに出されたんですよと、エデイラは感情を込めることなく語った。
「売りに……」
ショックを受けたようにディクテの眉がひそめられる。
ひどいとか、かわいそうだとか安易に言わないところにむしろエデイラは好感を持った。
同情されても対応に困る。だって自分にとってはそれが当たり前の日々だったのだから。
自分が奴隷の生まれだということは、もう今更変えられない。この先も変えられないことに感情をこめても無駄なことだ。
エデイラは他人事のように肩をすくめる。
「まあ、この傷がなければ娼館に売られていたでしょうから、どちらがよかったのかと言われると、旦那様に出会えたぶん、売られてよかったと思っていますけど」
「あ、あなたの口から娼館なんて言葉が出るとは思わなかったわ……」
「下賤な生まれですからね。野蛮な言葉や下衆な言葉を使おうと思えば、見聞きしてきたぶん、いくらでも」
私が奴隷市でつけられた値段を今も覚えていますけど、これひとつぶんよりも絶対に安い自信がありますよ、と言いながら、金箔で縁取られた紅茶カップを指さしてみせる。
「──その奴隷市場に、偶然、旦那様がいらして、私のことを買ってくださったんです」
◇◇◇
殴られたり蹴られたりは当たり前のことだった。時には棒や鞭でぶたれることもあった。
生まれてからそれ以外の暮らしをしたことがなかったので、はじめは人間らしい暮らしになじめなかったエデイラに、その人は言ったのだった。
「まずは体の傷を治すことからだね。ゆっくり休んで、食べて、それから考えるといい」
なにを言われているのかよくわからなくてきょとんとしたエデイラに、その人は続けた。
「元気になったら、いろいろ学ぶといい。手に職をつけることもできる。──刺繍、洋裁、機織り。手に職をつければここを出ていって働くこともできる。好きに選んでいいんだよ」
あわてて首を横に振った。
出ていくだなんて。とんでもない。
旦那様に付き従っているメイドたちは、どの人も揃いの制服を着て、背筋が伸びていて、目線はりりしく隙がなく、時には旦那様と対等に話してすらいた。これまでの主のもとでは、そんな奴隷は見たこともない。
「──あの」
その様子に勇気をもらって、エデイラは尋ねた。
「どうして、私を、買ってくださったのですか」
するとその人は、目元のしわをいっそう深くして、エデイラと目線を同じにしてから口をひらいた。
「豊かに暮せているものの、当然の義務だと思っているからだよ。富の再分配をしない人間が繁栄を続けることは決してない」
「とみのさいぶんぱい……」
「この先どうしたいか、自然と選べるようになるまでうちにいたらいい。ただ、元気になったらメイドの仕事はしてもらうことになると思うがね」
「喜んで! 喜んでやります!」
夢のようだった。
彼女たちが着ている揃いの制服を自分も着ることになるなんて。この人のもとで暮らせるなら、どんなことだってすると思った。
「あの、ただ」
言いよどむエデイラに、その人は首をかしげる。
「どうしたね?」
「私、顔に、傷があるんです。こんな顔でお仕事ができるでしょうか」
「おばかさんね」
旦那様の返事を待つまでもなく、横にいたメイドのひとりが口をひらく。
「そんなこと、誰も気にしないわ」
突き放すような口調ながら、そこに嘘は感じられなかった。
「さ、あなたは今日からうちの子よ。仲間なのよ。名前はなんていうの?」
「エデイラ……」
なにもかもが、夢みたいだった。
主人の機嫌を気にせずとも毎日決まった時間に食事を与えられることも、おびえながら眠らなくてもいい自分だけのベッドも、けがに対して与えられる薬や休暇も、すべてが嬉しくて、嬉しくてたまらなかったので、メイド仕事の合間に交代で戦闘訓練の時間があることに、エデイラは疑問を持たなかったのだった。
◇◇◇
「どんなに、どれほど、愛していたか、わかりません」
旦那様と、それに付随するすべてのものを愛していたとエデイラは思いながら言った。仲間も、仕事も、村人たちも。
「殴りも怒鳴りも犯しもしない大人の男性に、八歳のあの時初めて会ったんです。恩義だの、忠誠だのという言葉では到底足りません」
「──そのかたが、あなたのすべてだったのね」
ディクテが感じ入ったように言うので、エデイラは打ち消した。
「とんでもない。そんなこと、考えるだけで不敬にあたると思います」
「……というと?」
「旦那様が私のすべてなんじゃなく、旦那様が私に与えて下さったものが、私のすべてなんですよ」
エデイラが言うのを聞いて、ディクテはちょっと真面目な顔になって言った。
「あなたはすごいわね」
「そうでしょうか?」
「心から、すごい人だと思うわ」
「なにを褒められているのか自分ではよくわからないんですが……」
「ところで、それ」
エデイラが先ほどから膝の上でカチャカチャやっているのを指して、ディクテが聞く。
「あなたはいったいなにをやっているの」
「これですか? 鍵あけの練習です」
「鍵あけの、練習……」
「明日必要になると思うんですよね」
エデイラは身の上話をしながらずっと細い棒を複数使って、いくつも鍵をあけたり、しめたり、しめたものをまたあけたり、していたのだった。
「さっきブランケットを持ってきてもらった時に、一緒に頼んだんですよ。使っていない鍵があったらいくつか貸してくださいって」
細い金属棒を何本も同時に扱うその手つきはこなれていて、とても素人には思われない。
「久しぶりにやりましたけど、いいですね、勘を取り戻せました」
「勘……」
いったいどんな勘をこれまで磨いてきたのか、普通メイドはそういう技術はないものだけど、と口のきわまで出かかるのをディクテはかろうじてこらえた。
そんなディクテの表情を読み取って、エデイラは首をかしげる。
「普通ですよ?」
「いえ、違うでしょう……」
「このくらいできないと、隠密業務ができないでしょう。最低限自分のことは自分で守れないと、ひとりで遠方に旅したりできないし」
「ですから、しないんですってば、普通のメイドは……」
「そうですか? 子どもの頃から訓練すれば、できますよ」
どうも話がかみ合わない。そこではっとディクテが気がついた。
「そうか、あなた、強化メイドなのね」
「はい?」
「噂でしか聞いたことがなかった。というか、子供向けのおとぎ話の中にしかいないものだと思っていた。本当にいたのね……」
「なんのことでしょう?」
強化メイド。その言葉は前にも一度聞いたことがあるものだった。
アンダルトン修学園に初めて足を踏み入れた日、ゾラ様がつぶやいたのだ。
──なるほど、強化メイドか。
だがその時の記憶は既に遠くかすかなもので、エデイラは目の前の鍵あけの練習に気をとられていたせいで、聞きなれない言葉を右から左に流してしまったのだった。