愚者の棘**
かなーり前に投稿していたものです。
†††
あたしの部屋は伯爵様の部屋の隣に僅か2日で引っ越した。
「これなら安全でしょ?」と伯爵様に微笑まれたけど、別の意味で危ない気がするのは気のせいだろうか。
悪夢を見ないためにする、寝る前の“おまじない”―――といっても、ただ髪の毛を二束の三つ編みにするだけだけども。
これは小さい頃、悪夢を見て泣く度に姉さんがしてくれたおまじないだ。
それをしてもらうと、不思議とぐっすり眠れた。
あたしは自慢じゃないけど不器用だから、自分の髪を可愛く結えない。
けれどこれだけは必死で覚えて、今では鏡を見ながらならなんとかできるようになった髪型だ。
しかし、さっきから眠れない。
三つ編みはあくまで悪夢を見ないためのおまじないで、寝付きの良さに関してはあまり意味をなさないようだ。
というか、あたしの寝付きは大概良いから眠れないってことが今までなかったんだけど、流石に今回の侵入事件は気になってしょうがない。
「それでも明日は殿下へ謁見する日なんだから寝ないと!」と思ったが、余計に目が覚めた。
そういえば明日は謁見か。今度は緊張でお腹がきりきりしてきた。
それでもモソモソと寝返りを何度もうって、あたしはようやっと浅い眠りについた。
†††
───────追われている。
黒く、暗く、怖い影に。ひたひたと嬲るような速度で、追われている。
何の変哲もない、見慣れたはずの街並みを抜ける。街路灯に照らされている道をひたすら走る。
誰か、誰かいないか。
誰でもいいから、知ってる人でなくてもいいから、’’人”に会いたい。
しかし私の願いとは裏腹に、何処へ行っても誰にも出くわさない。
目の前に広がるのは、知り尽くした街並みなのに、人がいないだけで強烈な違和感と無機質な印象がある。
心臓は狂ったように鼓動を打ち、喉の奥は干上がった。
逸る心のまま足を動かすが、思ったようには走れない。
地面がグニャリと歪んで、何度も足がもつれそうになる。
きっと、今の私は強張った顔をしているのだろう。
涙が目の端に浮かんで、口からは嗚咽が漏れる。
ふっと自分の手のひらへ目を向けると、想像していたよりも小さい。
───────私、子供なんだ。
通りで違和感が強いわけだ。
視界が低く、足を動かしているはずなのに前に進めない。
自分が4、5歳の子供であるというあり得ない状況を理解する同時に、これが夢であるという認識もなされた。
そして、「何か」に追われる切迫感も一層強くなった。
見られている。追われている。嬲るようにつけられている。
「アレ」に捕まったらオワリだ。
オワリ?この悪夢が?
それなら捕まってしまったほうが、楽に───────。
そう思って気が緩んだ瞬間、足が縺れて転んだ。
痛さは無いのに、衝撃はあった。
夢は覚めない。救いも、無い。
我に返ってやっと、ひたひたと恐怖と後悔が近付いて来た。
止まるべきじゃなかった。
諦めるべきじゃなかった。
背後から、ゆっくりと影が差した。
恐い。どうしよう。お母さん。
振り返れない。
嗚呼、
───────喰われる。
†††
「─────……っ!」
声を上げたはずが、まったく音が出てこなかった。
見開いた瞳に映るのは、深夜の闇色だ。
からからに渇いた喉が、荒く息を吐く度にひゅーひゅーと耳障りな音を立てる。
身体は小さな震えが止まらず、闇に絡め取られたように、身じろぎすら出来なかった。
しばらくジッと身を固めたままでいた。
そうしていないと、暗がりに潜む何かに知覚されてしまうという訳の分からない恐怖が、胸の底にこびり付いて離れないのだ。
ろくに眠れないまま朝の気配がし始めた。
窓の外の光に、あたしはようやく瞬きをすると、夢の名残で眦に溜まっていた冷えた涙が、耳朶へとゆっくり落ちていった。
†††
最悪だ。
寝不足の上に、頭痛がひどい。
ガンガンと頭に響く。
その上、圧死させる気なのかと思うぐらいキツく巻かれるコルセットと、これからの行事を思う不安感で吐き気さえしている。
それでもなんとか気丈に振舞ったのはひとえに意地だ。こんな敵陣のような場所でへばっていたくない。
しかし、絶不調のあたしはまったく顔色が隠せていないらしく、マリーさんにもゾフさんにもクラサス様にも心配されてしまった。
伯爵様に至っては、
「やぁ、仔羊ちゃん。怯えてプルプルしてる君もとてもキュートだ。守ってあげたくなるね」
と爽やかな笑顔で言い切った。
伯爵様、頭沸いてるんじゃないだろうか。
素で思った。
ただでさえ側にいるだけで体力消耗するのだ。こんなフラフラの時に関わりたくない。
とりあえず昨日習った貴族風の挨拶を返せば、面倒くさくスネられた。
「そんな他人行儀な…いつもの可愛らしい挨拶の方が嬉しいなぁ」
それからは伯爵様のうざ絡みに苛々しっぱなしで、時間まで謁見への不安感を忘れられたのは内緒だ。
†††
お城の中は、凄いの一言に尽きた。
何もかもがキラキラしている。
とにかく伯爵様と一緒に案内してくれるメイドさんについて行く間、きょろきょろと物珍らしげに見てしまったら、伯爵様から馬鹿にした微笑みを頂戴した。
庶民で悪うござんしたね。けっ
なんやかんや水面下での意地の張り合い(?)が功を奏して、謁見の間まであたしは比較的冷静にいれたと思う。
けれど、通常運転もそこまでだった。
だって、扉の向こうには天下のルビウス殿下がいますとか言われて平静でいられるほどあたしは図太くない。
しかも謁見の間の前には他の人達も順番待ちをしていたのに、伯爵様の爵位が一番上だったらしくて、なんと待たずに通された。
うう。申し訳ない。
でもあたしだってこんな割り込みしたくない。どころか、謁見だってしたくない。
ずっと待っていたと知れる様子の人達からの視線が居た堪れなくて、あたしはそっと目を伏せた。
向けられる視線は軽蔑5割、値踏み3割、好奇1割、他1割ぐらいだと思う。チクチクするのは、どの視線も変わらないけど。
…庶民のウリである雑草根性だって、踏みつけられれば萎れるのだ。容赦してください。
あまり心の準備もできないまま、謁見の間の重厚な扉は開かれた。
教えられた通りに、型通りに、ということだけを頭に思い浮かべて、伯爵様の隣をゆっくり歩く。
殿下のいる壇上までの道のりで、一度深く臣下の礼を取るために腰を曲げ、膝を折る。
そして伯爵様と呼吸を合わせて立ち上がり、また静々と進んで行く。
因みにこの間はずっと伏目である。
許可もなく顔を上げてはならないそうだ。
許可があっても上げたくないが。
そんなあたしの怠惰で臆病な心を裏切るように、ルビウス殿下の隣に控えている従人の方が口を開いた。
「許す。面を上げ、要件を申せ」
うう。いらん許可きた。
平民風情が顔を上げるな。ペッ、とかって言ってくれた方が気が楽だ。
そしたら即座に街へ帰ってやる。
しかし許可が下りたのに逆らうわけにもいかず、伯爵様に続いてあたしもそろそろと顔を上げる。
我が国の王族の証である金髪碧眼を持ち、武人然としたルビウス殿下は、遠目で見るのと変わらず厳しいお顔をされていた。
21歳の若さで軍部の総司令官を任されてから約6年間武勲を挙げつづけた偉丈夫だそうだから、そんな力強さが滲み出ているのかもしれない。
じっとこちらを値踏みするように、それでいてつまらなそうに見てくる。
「この度は...」
隣にいる伯爵様が、美辞麗句を尽くしてルビウス殿下並びに王族の方を褒め称えつつ、「この者が『血の祝福』で、これから自分の屋敷に住まわせますのでよろしくお願いします」的なことを言う。
緊張でほとんど耳に入ってこないが、練習した時とだいたい同じことを言っているのは分かっていた。
とりあえず伯爵様が結ぶ最後の一節だけ復唱し、追随して頭を下げる。
たったそれだけのことで緊張に喉が干上がったが、これで「許す」と一言もらえれば後は伯爵様ともに一言二言言って終わりだ。
ええと、形式通りならあたしの次のセリフは確か「光栄至極に存じます」だったはず…。
そんなことを頭の中でさらっていると、ダンッと重い音が響いた。
思わずびくりとして、その音のほうへ目を向けると剣の柄を床に打ち据えたルビウス殿下の姿が見えた。
な、何事…っ!?
急にピーンと張りつめた空気に、あたしは硬直するしかない。
そうこうしている間にも、ズンズンと檀上から下りてきたルビウス殿下はすぐ目の前にきていた。
隣にいる伯爵様もピクリと動いた気がするけど、助けてはくれなかった。この薄情者!!
周囲の従人の方たちが小さく諌めるような声がするのを振り切って、ルビウス殿下はあたしの顎をぐいっと強引に持ち上げ、そのまま珍しいペットを検分するかのように顔を横に倒されたり、瞳を覗き込まれたりした。その手つきには、人に、ましてや女にするような気遣いはない。
極度の緊張と、ほんのりと沸き立つ屈辱と苛立ち。
あたしの人権は、バンパイアと関わってからほとんど無視されている気がする。
ルビウス殿下の精悍な顔立ちは下町でも大いに騒がれていた通りに整っているのだが、正直欠片もときめかなかった。
そしてすぐにルビウス殿下の興味は無くなったようで、彼の視線は伯爵様へと移行した。
「…コンスタンティン伯。こんな平凡な者が本当にお前たち(バンパイア)の至高の宝になるのか?」
乱暴に放されて、少しふらつくあたしを心底不思議そうに見やって、ルビウス殿下はここにきて初めて口を開いた。何となくだが、ルビウス殿下にはあたしを蔑んでやろうとか、見下してやろうとか、そういう悪意のようなものがあって言っているわけでもないのが分かった。
そこにあるのは、ただ疑問に思ったから問いを口にしたという、王族の傲慢だけなのだ。
確かに正直すぎるその評価はあたしも異論がないのだが、だからといって「こんなもの」呼ばわりされて気分のいいものではない。
図星だからこそ心に刺さる。
(そう言うなら、さっさとこんな状況から解放してくれればいいのに)
内心で毒吐くあたしを置いて、金髪で綺羅綺羅しい殿下と夜の帳のように漆黒を纏う伯爵様の話は続いた。
さりげなくあたしを支えながら、伯爵様は綺麗な微笑みを浮かべる。
「間違いなく、『血の祝福』でございます。私の名にかけて保証致しましょう」
正直、そんな保証はいらんです。
悠然とほほ笑む伯爵様をチラリと眺めてから、またルビウス殿下はあたしを見て鼻で嗤った。
「小娘。せいぜい心まで食われんよう用心しろよ」
言われなくとも、分かってます。
間髪いれずにそう思ったが、あたしは慎ましく伏し目に戻り、臣下の礼をもって傅いた。
†††
下がって良い、とのことだったのですたこらサッサと退出した。
一応、助けてもらった?ようなので伯爵様にお礼をする…ほうがいいかもしれない。
まぁ、ただあたしが『血の祝福』だって証言しただけなんだけれども。
「…あの……助けていただきありがとうございました」
「ああ、いや…今回のは君が悪いんじゃないよ。むしろ殿下のあの発言は僕に原因があるんだ」
「え?」
なんの話だろう。疑問のまま隣に視線を向けると、伯爵様は食えない笑みを浮かべつつ飄々とした態度のまま言い放った。
「今のルビウス殿下の奥方と、昔々お付き合いしてた時期があったからねー。殿下にはちょっとした敵愾心を向けられているのさ」
…そんな痴情の縺れに、部外者のあたしを巻き込まないで欲しかった。
非難めいた視線を送ると、コンスタンティン伯爵はにっこり笑いかけてきた。
「もちろん婚約前の"遊び"の相手だよ?彼女が人妻になってからは手を出していないしね。今の僕が夢中なのは、子羊ちゃんただ一人なんだから焼きもち妬かないで」
ほら、眉間に皺が寄ってるよと、と言いつつ伸びてきた優美な手を全力で避ける。
その様を面白げに見やって、思い出したように伯爵はますます笑みを深くした。
「いやぁ、でも上出来なアドリブだったよ。子羊ちゃん。殿下相手にああも言える子は生粋の貴族でも少ない」
上機嫌に笑う伯爵様を見上げて、あたしは顔を顰めた。
「…からかわないでください」
自分でも、やらかした自覚はあるのだ。
つい先ほどの、謁見の間を思い出す。
私怨とはいえ「心を食われるな」と忠告してくださったルビウス殿下に、臣下の礼を取りながら、あたしは生意気にもこう答えていたのだ。
─────「ご忠告痛み入ります。ですが私はこの国のため心を砕くと定められし者にございます。例え欠片を奪われようとも、ただ一人にすべてを攫われることはございません。ご安心を」
一応、国、ひいては王族の方に忠義を尽くす旨を述べてはいるが、口答えするとは生意気だと言われるような、不敬とも取れる返しでもあった。今思い返すだけでも冷や汗が出てくる。
しかし、要は「伯爵を好きになるなよー」というからかいとも取れる発言をされて、言わずにはいられなかったのだ。
だーれがこんな、軟派で胡散臭いバンパイアを好きになるかっての。
そんな話をしながらお城の中を歩いているんだけど、さっきからちょっと気になっていたことがある。
「…あのー…コンスタンティン伯爵、こっちはエントランスの方向ではないですよね…?何処かに寄るんですか?」
謁見の間へ行く途中では見なかったような絵画の飾られた廊下を見回す。
行きとは違い、先導する人がいないから迷っているわけではない…よね?
「ん?ああ、よく気づいたね。そうだよ。僕らの愛の巣へ帰る前に、一つ用事がある」
…誰の愛の巣だ。誰の。
それはさておき。
冗談を言いながらも伯爵は頷いて、迷わず足を動かしている。本当に目的地があるようだ。
「……なら、私はお邪魔ですよね。別の場所へ帰ります」
どうせこの色ボケバンパイアのことだ。
絶対、女の人の所に訪れるのだろうと思った。
「いや、仔羊ちゃんに関係があるんだ」
「あたしに?」
意外な展開にキョトンとして、咄嗟に素で返事をしてしまった。
何が面白いのか、やっぱり伯爵はニヤニヤと笑いを浮かべている。絶対、楽しくないことだ。あたしにとっては。
「そう。これから行くのは、“愚者”と呼ばれる者…要するに変わり者の所さ」
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