第八話
そこは道場、のように見える。
一面障子張り、教室二つ分の広さがあり、柱以外は視界を遮るものが無い。一度に20人は同時に稽古ができそうだ。
外ですずめが鳴くような早朝。そこに八重垣命は一人でいた。道場の人間の誰よりも早く。
「なんだか最近、竹刀を持つ手の感覚が鈍いのよね。こんなこと、今までになかったんだけれど」
彼女は指先を見つめる。痛みやしびれがあるわけではないのだ。それならば病院に行っている。ただ、ほんの違和感がある。もしかしたら指先ではなく、気の迷い。雑念が彼女の感覚を鈍らせているのか。
雑念。
心当たりは、無いわけではなかった。
「……そんなこと、あるわけがない」
一瞬誰かの顔が脳裏をよぎるが、頭を振って竹刀を振る。認めたくない。
「その感情は恋よ。あなたたち人間が、例外なく陥る病。一度それにかかったものは、望を果たすまではあらゆる意味でそれに縛り付けられる。魂のスイッチの 在処を、それに明け渡すことになる」
「誰だあっっ!?!?」
命は反射的に竹刀で、その声の主に対して斬りつける。彼女は後ろに目でもついているのだろうか。
「ああ怖い。この国に手練れの剣士がまだ残っていたとわね。いきなり一刀両断しようとするんじゃないわよ。私は何も血を吸いに来たんじゃないのだから」
トロイア・ルージュ。
認知世界を歪める最悪の吸血鬼。白髪の、赤道をも凍り付かせるような絶対零度のオーラを放つ吸血鬼。
彼女はその瞳でこちらを見つめていた。自分が気配を感じられないなんて。
「あなたは誰? 入門志願者じゃないみたいだけど」
「私に剣は必要ないの。この力があるからね」
「……なんのこ……」
そこには、叶望がいた。
「叶くん?!」
「敵かもしれない相手にそんな顔を見せてはだめよ。あなたの一番大切なものが何なのか、一目でわかってしまうわ」
横から伸びた手が、その長く美しい指先が、私の頬を撫でる。体温が感じられない。
「あなた、は……?」
彼女はその時、生まれて数度目かの、圧倒的なまでの、絶対的なまでの恐怖心をその胸に抱いた。
この女には、私は勝てない。敵わない。敵うはずがない。
「これはあなたの魂に見せている、いわば幻。本人はどこかで寝ているんじゃないのかしら。そっちの方は知らないけど、けれどあなたほどの手練れの想う男、少しだけ興味がわいてきたわ。少しだけ遊んであげようかしら」
「彼にだけは、手を出さないで」
私はいい。でも彼だけは。
「遊ぶだけよ。あなたの綺麗な顔がどう変わっていくのかにも興味があるしね。仲良くしましょうね、八重垣命ちゃん?」




